<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	>
<channel>
	<title>評論　review へのコメント</title>
	<atom:link href="http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.archi-channel.com</link>
	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 17:03:37 +0000</pubDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.7.1</generator>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
		<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-826</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 11 Jul 2010 02:54:39 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-826</guid>
		<description>＊００６／中央公論社から出版された『ウィトゲンシュタイン家の人びと』は面白そうだ！なにせ奇抜な家系だからねえ！
＊００７／日本の選挙の行方の中庸な感覚、自民党がいやなら民主党、それもいやならどこの党なのか？ないないずくしで良い大臣が国民から、強いてはメディアから生まれるはずがないだろ？
＊００８／大相撲中継やってくれないかなあ、NHKさん。決して反対者の比率が多い理由ではないぞや、そうじゃなければ、どんな理由があるというのか、それを説明してくれないとなあ
＊００９／GAギャラリーの展覧会もくそまじめに、よくもあんな企画を続けていられるなあ・・・と感じるが、このご時世で儲かってんだろうなあ、GAって。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>＊００６／中央公論社から出版された『ウィトゲンシュタイン家の人びと』は面白そうだ！なにせ奇抜な家系だからねえ！<br />
＊００７／日本の選挙の行方の中庸な感覚、自民党がいやなら民主党、それもいやならどこの党なのか？ないないずくしで良い大臣が国民から、強いてはメディアから生まれるはずがないだろ？<br />
＊００８／大相撲中継やってくれないかなあ、NHKさん。決して反対者の比率が多い理由ではないぞや、そうじゃなければ、どんな理由があるというのか、それを説明してくれないとなあ<br />
＊００９／GAギャラリーの展覧会もくそまじめに、よくもあんな企画を続けていられるなあ・・・と感じるが、このご時世で儲かってんだろうなあ、GAって。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-825</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 12:48:58 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-825</guid>
		<description>＊００３／森田茂介と早川文夫の書簡集の存在を知らなかった、彼らのの戦前戦後の活動や緒言はかなり重要とみている。
＊００４／建築雑誌の特集、建築写真小史には吉村行雄氏は挙げられてはいない。やはり『THE、建築写真」だからなのであろうか、ホンマタカシののような何気ない日常とか鈴木理策のようなぼやけた詩情を揺さぶる写真にどこが建築写真に迫りくるものを感じれるのだろうか？一種のカラリダネでしかない！でも、畠山には感じるものがある！
＊００５／世の指導者たち、まあ尊敬されるべきものたちのは、倫理の点ですでにデッドラインを突破している、それは「装う」ことの立ち振る舞いでしかないからである。だから恵まれている二世の輩たちには未来を託すものは何もないだろう！それにしがみつくのはそれを利しているものたちだけで世論は生温い湯のなかで時代はただただ過ぎ去るだけで・・・何も変わらないのが指導者の思う壷なのであろう！</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>＊００３／森田茂介と早川文夫の書簡集の存在を知らなかった、彼らのの戦前戦後の活動や緒言はかなり重要とみている。<br />
＊００４／建築雑誌の特集、建築写真小史には吉村行雄氏は挙げられてはいない。やはり『THE、建築写真」だからなのであろうか、ホンマタカシののような何気ない日常とか鈴木理策のようなぼやけた詩情を揺さぶる写真にどこが建築写真に迫りくるものを感じれるのだろうか？一種のカラリダネでしかない！でも、畠山には感じるものがある！<br />
＊００５／世の指導者たち、まあ尊敬されるべきものたちのは、倫理の点ですでにデッドラインを突破している、それは「装う」ことの立ち振る舞いでしかないからである。だから恵まれている二世の輩たちには未来を託すものは何もないだろう！それにしがみつくのはそれを利しているものたちだけで世論は生温い湯のなかで時代はただただ過ぎ去るだけで・・・何も変わらないのが指導者の思う壷なのであろう！</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-824</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 02:12:46 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-824</guid>
		<description>＊００２／マックのボブ・ウェルチって面白い</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>＊００２／マックのボブ・ウェルチって面白い</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-823</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 01:54:31 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-823</guid>
		<description>＊０００／今後はつぶやきメッセージを送ります！
＊００１／建築雑誌7月号の特集、建築写真小史は面白い視点の企画で見事！さすが、中谷だ！</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>＊０００／今後はつぶやきメッセージを送ります！<br />
＊００１／建築雑誌7月号の特集、建築写真小史は面白い視点の企画で見事！さすが、中谷だ！</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-784</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 02:52:04 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-784</guid>
		<description>「ロメオ・カステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄 篇・天国篇」」ですが、昨日、教育テレビで放映されていましたね！
PS
管理者様からのコメントもないし、画像が貼れないので「My Favorite Architecture BBS」の掲示板に移行します。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「ロメオ・カステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄 篇・天国篇」」ですが、昨日、教育テレビで放映されていましたね！<br />
PS<br />
管理者様からのコメントもないし、画像が貼れないので「My Favorite Architecture BBS」の掲示板に移行します。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-757</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 06:54:15 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-757</guid>
		<description>「ロメオ・カステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄 篇・天国篇」」

年末に世田谷パブリックシアターで上演されたカステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄篇・天国篇」の舞台はダンテの古典的詩編を現代調に表現したもので、ローマの詩人ウェルギウスをポップアートの旗手、ウォーホルにメタモルフォーシスし、全編壁画風に視覚化した演出は空間的イルージョンを内包した希有な舞台となっていて感心させられる。最後の天国篇では漆黒の空間に立って高みを凝視すると、かすかに人の姿が見え、「天国の幻影」が浮かび上がる仕掛けである。近頃の3Dやアニメーション画像の高度な技術で見せる仕掛けが若い人達の琴線に触れるのだろうが、人間そのものによる表現、まさしく身体的表現の深みを知った舞台であった。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「ロメオ・カステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄 篇・天国篇」」</p>
<p>年末に世田谷パブリックシアターで上演されたカステルッチの「神曲　地獄篇・煉獄篇・天国篇」の舞台はダンテの古典的詩編を現代調に表現したもので、ローマの詩人ウェルギウスをポップアートの旗手、ウォーホルにメタモルフォーシスし、全編壁画風に視覚化した演出は空間的イルージョンを内包した希有な舞台となっていて感心させられる。最後の天国篇では漆黒の空間に立って高みを凝視すると、かすかに人の姿が見え、「天国の幻影」が浮かび上がる仕掛けである。近頃の3Dやアニメーション画像の高度な技術で見せる仕掛けが若い人達の琴線に触れるのだろうが、人間そのものによる表現、まさしく身体的表現の深みを知った舞台であった。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-756</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 06:51:00 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-756</guid>
		<description>「建築のエディターと書肆の哲学」

書店のことを、古書業界ではとくに「書肆（しょし）」という。辞書では「品物を並べた店」とある。その並べられかた、言わば本を購入しに来るひとたちへの見せ方（プレゼンテーション）とでもいえようか。新刊書店も古書店も千差万別であるが、最近は非常に工夫（ギャラリーを併設したりレクチャーを開催したり・・・と）のあとがどのお店（建築専門で言えば、南洋堂やGAなど）にも見られ、ついそれに同情して買ってしまうこともある。このように書店側の努力は感心するのだが、出版社側の努力となると（大衆側からすると）あまり伺われない・・・というか本の内容（ただ単に売れるということではなく）といい、構造（いわゆる装幀）といい、目利き（いわゆる人選）といい、・・・ポリシー（理念）の軽薄さといい、とくに老舗の出版社には暖簾（歴史）の重さを感じてしまうためなのか痛恨の極みを感じてしまう。・・・ということでとくに昔から名高い建築専門の出版社に就いて紐解いてみよう。今は存在しないが「洪洋社」「城南書院」「国際建築協会」などは、高梨由太郎、中村勝哉、小山正和（建築学会賞を受賞している）という際物の店主（発行人）が存在し建築家と渡り合って優れた本を出版していた。いま残っている「新建築社」「彰国社」「相模書房」「井上書院」「鹿島研究所出版会（旧）」にも戦前戦後を通して吉岡安五郎（建築学会賞授与）、下出源七（建築学会賞授与）、小林美一、井上ハツエ、河相全次郎といった職人肌の創業者が腕を奮ってなんとか今日まで継承してきている。戦後経済成長とともに発行人は単なる社長（経営者）と化して、編集企画が独立して個人に任される時代が到来する。御存じの建築評論家の卵たちもここから巣立っていき、建築評論家として食えるまでになったといえよう。新建築の川添登、宮内嘉久、平良敬一などはその際たるひととなった。そして鹿島出版会では中村敏男が翻訳から著述家として大成したし、こういった出版社の専属カメラマンとして新建築の平山忠治、彰国社の村沢文雄なども出版社を通して活躍した写真家であった。こういった建築書肆史にまで踏み込んだ大学の研究者はいないようであるが、建築出版社仲間の間では酒の席などで語りつがれてきているのだろう。それに反して、いま不況の煽りを受けて出版社は、ひたすら経営重視路線（売れる本に特化）を突き進むしかないのが現状である・・・老舗の出版社と言えども、書肆（経営学ではなく思想として）の理念を放擲（ほうてき）するようであれば、看板は徐々にではあるが褪せてゆくのであろうし、昔のような目利き（建築的センス）をもって建築業界を横断するエディターは生まれ得ないといえよう。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「建築のエディターと書肆の哲学」</p>
<p>書店のことを、古書業界ではとくに「書肆（しょし）」という。辞書では「品物を並べた店」とある。その並べられかた、言わば本を購入しに来るひとたちへの見せ方（プレゼンテーション）とでもいえようか。新刊書店も古書店も千差万別であるが、最近は非常に工夫（ギャラリーを併設したりレクチャーを開催したり・・・と）のあとがどのお店（建築専門で言えば、南洋堂やGAなど）にも見られ、ついそれに同情して買ってしまうこともある。このように書店側の努力は感心するのだが、出版社側の努力となると（大衆側からすると）あまり伺われない・・・というか本の内容（ただ単に売れるということではなく）といい、構造（いわゆる装幀）といい、目利き（いわゆる人選）といい、・・・ポリシー（理念）の軽薄さといい、とくに老舗の出版社には暖簾（歴史）の重さを感じてしまうためなのか痛恨の極みを感じてしまう。・・・ということでとくに昔から名高い建築専門の出版社に就いて紐解いてみよう。今は存在しないが「洪洋社」「城南書院」「国際建築協会」などは、高梨由太郎、中村勝哉、小山正和（建築学会賞を受賞している）という際物の店主（発行人）が存在し建築家と渡り合って優れた本を出版していた。いま残っている「新建築社」「彰国社」「相模書房」「井上書院」「鹿島研究所出版会（旧）」にも戦前戦後を通して吉岡安五郎（建築学会賞授与）、下出源七（建築学会賞授与）、小林美一、井上ハツエ、河相全次郎といった職人肌の創業者が腕を奮ってなんとか今日まで継承してきている。戦後経済成長とともに発行人は単なる社長（経営者）と化して、編集企画が独立して個人に任される時代が到来する。御存じの建築評論家の卵たちもここから巣立っていき、建築評論家として食えるまでになったといえよう。新建築の川添登、宮内嘉久、平良敬一などはその際たるひととなった。そして鹿島出版会では中村敏男が翻訳から著述家として大成したし、こういった出版社の専属カメラマンとして新建築の平山忠治、彰国社の村沢文雄なども出版社を通して活躍した写真家であった。こういった建築書肆史にまで踏み込んだ大学の研究者はいないようであるが、建築出版社仲間の間では酒の席などで語りつがれてきているのだろう。それに反して、いま不況の煽りを受けて出版社は、ひたすら経営重視路線（売れる本に特化）を突き進むしかないのが現状である・・・老舗の出版社と言えども、書肆（経営学ではなく思想として）の理念を放擲（ほうてき）するようであれば、看板は徐々にではあるが褪せてゆくのであろうし、昔のような目利き（建築的センス）をもって建築業界を横断するエディターは生まれ得ないといえよう。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-755</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 06:48:33 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-755</guid>
		<description>「小村雪岱 逍遥」

今年中に行かなきゃと思っていて、なかなか予定がつかなくて、とうとう本年最終日の24日に埼玉県立近代美術館を訪れる羽目になってしまった。勿論、小村雪岱（ロマン派小説家・泉鏡花の命名）の木版ではなく原画（絹地に彩色）を見ること、そして雪岱が装幀した泉鏡花著の『日本橋』初版本その他を・・・また邦枝・小村の「おせん」挿絵原画を・・・・・・。はじめて見たのだが、案の定わたしを惹き付けて已まない繪であった。師匠の鏑木清方や竹久夢二といった巨匠に値する絵師の作品も見事ではあるのだが、小村雪岱には彼らにはないモダンで粋なおんなが描かれている・・・と有り体な評ではあるが、鏑木や夢二の描く美しく、可愛く、といったセンチな女性イメージとは離反していると感じる。とくに彼ら（鏑木、竹久）は主人公である女性の描写の具合を中心に描いているためか背景の描写は雑である（に見える）・・・というか「間（ま）」や「気（き）」が存在しない。雪岱の繪には人のいない気配を描いた「青柳」「落葉」「雪の朝」といったアンフラマンス（デュシャンの造語で、可視的なものの背後にある、ほとんど不可視な部分の表象）な感覚が存在する、あくまで前にあった出来事の余韻を残した侭に表象を描ききっている。・・・実に優れている。また、構図も色彩も表情も背後の描写も抜群である。洋画のような美しく形式的なる構図ではなく、粋な構図といったらよいのであろうか・・・。九鬼周造の『いきの構造』という哲学書では、「いき」ということを直截な形象的価値ではなく生きる糧のなかで紡がれる二元（上品−下品といったような感覚）的な態度から生まれ得るものとしている。つまりは、繪（図または実）にあるのではなく、その裏側に存在するもの（地または虚）が「いき」や「間」といった現象を補填しているということである。ところで、繪に登場する「おせん」という女性は誰に似ているのだろうか・・・と考えたのだが、いまの例えば女優には存在しないのは一目瞭然であり、たとえ整形したところで「おせん」のアウラを醸し出すまでには及ばないのであろう。それだけに小村雪岱は自身の著書『日本橋檜物町』（平凡社ライブラリー）でも述懐しているのだが、おんなのしぐさや表情をいろいろな場で見つけることに執念を燃やし、近視眼的なまでにその描写（発見）に明け暮れていたそうで、そんな「粋」なおんな、言わば「生ける」おんなの美しさが見てとれよう。そして今回は舞台装置のデッサンも展示されており、プロセニアムカットの構成（トリーミング）が雪岱の「間」の描写を倍加していて感心されよう。因に少し前（10月から12月20日まで）までは、あの谷口吉生の設計した掛川の資生堂アートハウスでも、小村雪岱の展覧会があったとかで・・・また芸術新潮の2月号の特集が、この「小村雪岱」だそうで、こちらも楽しみである。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「小村雪岱 逍遥」</p>
<p>今年中に行かなきゃと思っていて、なかなか予定がつかなくて、とうとう本年最終日の24日に埼玉県立近代美術館を訪れる羽目になってしまった。勿論、小村雪岱（ロマン派小説家・泉鏡花の命名）の木版ではなく原画（絹地に彩色）を見ること、そして雪岱が装幀した泉鏡花著の『日本橋』初版本その他を・・・また邦枝・小村の「おせん」挿絵原画を・・・・・・。はじめて見たのだが、案の定わたしを惹き付けて已まない繪であった。師匠の鏑木清方や竹久夢二といった巨匠に値する絵師の作品も見事ではあるのだが、小村雪岱には彼らにはないモダンで粋なおんなが描かれている・・・と有り体な評ではあるが、鏑木や夢二の描く美しく、可愛く、といったセンチな女性イメージとは離反していると感じる。とくに彼ら（鏑木、竹久）は主人公である女性の描写の具合を中心に描いているためか背景の描写は雑である（に見える）・・・というか「間（ま）」や「気（き）」が存在しない。雪岱の繪には人のいない気配を描いた「青柳」「落葉」「雪の朝」といったアンフラマンス（デュシャンの造語で、可視的なものの背後にある、ほとんど不可視な部分の表象）な感覚が存在する、あくまで前にあった出来事の余韻を残した侭に表象を描ききっている。・・・実に優れている。また、構図も色彩も表情も背後の描写も抜群である。洋画のような美しく形式的なる構図ではなく、粋な構図といったらよいのであろうか・・・。九鬼周造の『いきの構造』という哲学書では、「いき」ということを直截な形象的価値ではなく生きる糧のなかで紡がれる二元（上品−下品といったような感覚）的な態度から生まれ得るものとしている。つまりは、繪（図または実）にあるのではなく、その裏側に存在するもの（地または虚）が「いき」や「間」といった現象を補填しているということである。ところで、繪に登場する「おせん」という女性は誰に似ているのだろうか・・・と考えたのだが、いまの例えば女優には存在しないのは一目瞭然であり、たとえ整形したところで「おせん」のアウラを醸し出すまでには及ばないのであろう。それだけに小村雪岱は自身の著書『日本橋檜物町』（平凡社ライブラリー）でも述懐しているのだが、おんなのしぐさや表情をいろいろな場で見つけることに執念を燃やし、近視眼的なまでにその描写（発見）に明け暮れていたそうで、そんな「粋」なおんな、言わば「生ける」おんなの美しさが見てとれよう。そして今回は舞台装置のデッサンも展示されており、プロセニアムカットの構成（トリーミング）が雪岱の「間」の描写を倍加していて感心されよう。因に少し前（10月から12月20日まで）までは、あの谷口吉生の設計した掛川の資生堂アートハウスでも、小村雪岱の展覧会があったとかで・・・また芸術新潮の2月号の特集が、この「小村雪岱」だそうで、こちらも楽しみである。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-754</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 27 Dec 2009 01:57:39 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-754</guid>
		<description>「Twitt er（ツウィッター）というツール」

いま、Twitter（ツウィッター）という言葉をよく耳にする。簡単に言うと「ネット上での会話ツール」らしい。既にオバマや鳩山といった政治家もこれを使用してネクストヴィジョンの糧を得ようとしているとのことで、全くの見ず知らずの他者から貴重な情報源やら参考意見を聞いてバトルしているらしい。そんなんで、これを積極的にビジネスにしようと企てている業界が動き出したのだ。畢竟するに、コミュニケーションツールの垣根が取り払われ、拡げられることのビジネスチャンスらしい。・・・でも、わたしは日本人のビジネスには向かないだろうと思う。それは会話を真正直に受容してしまうか、真意を伝えるべき勝負所に堅く、勘所が自然体ではないからである。それを不座げた口調で話せればよいというものではないので、当然2ch掲示板に登場するもの（一方的なものだから）には他者との会話は無理であろう。就中、このIGM通信を受取って読んでいただいている方もそうなのだが、多くの日本人には、このTwitterを使いこなせるひとは残念ながら少数であろうと思いたくなる、いくら他者のブログやサイトを覗き込んで自己の満足度を得ていてネット通であると憤っても、いま話題のネット業界が売り込む「Twitter」を・・・果たして引き蘢りを謳歌する日本のネッター（ネットを使いこなしているひとたち）はどう受容するのだろうか、さして大きなビジネスチャンス（受容しなければ）にはならないと思うが、寧ろこれを自然体で使いこなせない日本人の消極姿勢の方が、やはり問題であろう。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「Twitt er（ツウィッター）というツール」</p>
<p>いま、Twitter（ツウィッター）という言葉をよく耳にする。簡単に言うと「ネット上での会話ツール」らしい。既にオバマや鳩山といった政治家もこれを使用してネクストヴィジョンの糧を得ようとしているとのことで、全くの見ず知らずの他者から貴重な情報源やら参考意見を聞いてバトルしているらしい。そんなんで、これを積極的にビジネスにしようと企てている業界が動き出したのだ。畢竟するに、コミュニケーションツールの垣根が取り払われ、拡げられることのビジネスチャンスらしい。・・・でも、わたしは日本人のビジネスには向かないだろうと思う。それは会話を真正直に受容してしまうか、真意を伝えるべき勝負所に堅く、勘所が自然体ではないからである。それを不座げた口調で話せればよいというものではないので、当然2ch掲示板に登場するもの（一方的なものだから）には他者との会話は無理であろう。就中、このIGM通信を受取って読んでいただいている方もそうなのだが、多くの日本人には、このTwitterを使いこなせるひとは残念ながら少数であろうと思いたくなる、いくら他者のブログやサイトを覗き込んで自己の満足度を得ていてネット通であると憤っても、いま話題のネット業界が売り込む「Twitter」を・・・果たして引き蘢りを謳歌する日本のネッター（ネットを使いこなしているひとたち）はどう受容するのだろうか、さして大きなビジネスチャンス（受容しなければ）にはならないと思うが、寧ろこれを自然体で使いこなせない日本人の消極姿勢の方が、やはり問題であろう。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%8d%b0%e8%b1%a1%e3%83%bb%e8%a9%95%e8%ab%96%e3%80%80impressionreview/comment-page-1/#comment-753</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 27 Dec 2009 01:56:59 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=804#comment-753</guid>
		<description>「戯言を弄する日本のオピニオンリーダーたち」

流行とは何か？「はやり」であろうが、辞書には一時的なものという言葉が付加されている。これを食いものにしてメディアは半ば強引にまでして流行なるものを丁稚あげ、普遍的なものとして一般大衆を欺いてきた、またそれを利とするものは、其の本意如何に関わらず是としてそれを煽ってきたといえよう。勿論、すべてではないにしてもその頽廃的なる行為を文化人と自負するものはニヒリスティックな物言いに転換し楽観視する。翻って、そこまで問わなくても・・・ということを数多のひとから投げかけられる。所謂、「はやり」というものは人と人を繋ぐ「形式」的なるものであって、「本意」は受取る側に委ねるという、会話論である。こんな難い調子では言いたくはないが、いまの人と人との会話には「本意」的なるもの、いわば自己の流行語ではなく相手に伝えるという自己（自分の考えていること）の説明が不足している。・・・もしもそれが空虚ならば、それは、ある種、誰それの「受売り」的なもの、乃至は「繪すら事」を仄めかしているに過ぎないといえよう。「受売り」を大事にして知識（教養といっているひともいる）を吸収させるのは良いのだが、いまのオピニオンリーダーたる人達（政治、文学、音楽、芸術などなど）には、残念ながら「流行」には呆れかえるほど敏感であるのだが、いざ自己を問うとされたならば「本意」が何なのかが見えない、というか見せない・・・所謂責任逃れである。だから日本のオピニオンなるものの評価も散々である。映画も音楽も論文も文学も政治も・・・云々、殆どが海外評価の後を受けての日本メディア評価であり、うんざりである。・・・それが日本のオピニオンたちの現況ではなかろうか・・・クリエーター以上にオピニオンリーダーたち、況してやそれに感化される側も、自己表現をすること、翻せば責任を自己に背負うということ、皆、多芸多趣味なる教養のお仕着せで終らぬようにしてもらいたいものである。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「戯言を弄する日本のオピニオンリーダーたち」</p>
<p>流行とは何か？「はやり」であろうが、辞書には一時的なものという言葉が付加されている。これを食いものにしてメディアは半ば強引にまでして流行なるものを丁稚あげ、普遍的なものとして一般大衆を欺いてきた、またそれを利とするものは、其の本意如何に関わらず是としてそれを煽ってきたといえよう。勿論、すべてではないにしてもその頽廃的なる行為を文化人と自負するものはニヒリスティックな物言いに転換し楽観視する。翻って、そこまで問わなくても・・・ということを数多のひとから投げかけられる。所謂、「はやり」というものは人と人を繋ぐ「形式」的なるものであって、「本意」は受取る側に委ねるという、会話論である。こんな難い調子では言いたくはないが、いまの人と人との会話には「本意」的なるもの、いわば自己の流行語ではなく相手に伝えるという自己（自分の考えていること）の説明が不足している。・・・もしもそれが空虚ならば、それは、ある種、誰それの「受売り」的なもの、乃至は「繪すら事」を仄めかしているに過ぎないといえよう。「受売り」を大事にして知識（教養といっているひともいる）を吸収させるのは良いのだが、いまのオピニオンリーダーたる人達（政治、文学、音楽、芸術などなど）には、残念ながら「流行」には呆れかえるほど敏感であるのだが、いざ自己を問うとされたならば「本意」が何なのかが見えない、というか見せない・・・所謂責任逃れである。だから日本のオピニオンなるものの評価も散々である。映画も音楽も論文も文学も政治も・・・云々、殆どが海外評価の後を受けての日本メディア評価であり、うんざりである。・・・それが日本のオピニオンたちの現況ではなかろうか・・・クリエーター以上にオピニオンリーダーたち、況してやそれに感化される側も、自己表現をすること、翻せば責任を自己に背負うということ、皆、多芸多趣味なる教養のお仕着せで終らぬようにしてもらいたいものである。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
</channel>
</rss>
