1 月 08 2009
江戸・東京の下町と山の手を分ける境界 九段坂
Ⅰ.改造された九段坂
葛飾北斎 「くだんうしがふち」 九段下から九段坂を望む(1893)
九段坂の濠際を走る外濠線(1907~1926)

ほんの2年前まで小泉元首相の公式参拝で物議を醸していた靖国神社が鎮座する九段坂、靖国通りと目白通りが交わる九段下から市ヶ谷方向に上がる坂です。江戸期の九段坂は現在よりずっと急な勾配の坂で途中には石垣がありその北側に飯田町があったので、飯田坂又は飯田町坂とも呼ばれた。18世紀初頭の宝永年間に、この坂を九段に石階で仕切って沿道に長屋をつくったことが九段坂と名づけられた起源になったという。地形の起伏が激しく、牛が淵や千鳥が淵など江戸城の内濠に接した眺望の良さから九段坂は葛飾北斎の「九段牛が淵」、江戸名所図会の「飯田町中坂 九段坂」などでその風景が描かれている。北斎が西洋画の技法を取り入れて描いた斬新な構図の風景は、急峻で寂しく細い坂道が左側の高く誇張された濃緑色の牛が淵の崖っ縁と右側の石垣、長屋塀に挟まれるように昇っており、現在からは想像できない姿の九段坂であったようだ。荷車を後ろから押す「車押し」という業者がいた程、急な坂道は明治後、通行できるように徐々に改造されていき明治40年には市電が開通するまでになった。ただ、当時の九段坂はまだ電車が上ることが出来ない勾配であったため、南側の濠に市電専用道路(外濠線)をつくり、牛が淵・千鳥が淵沿いを走行していた。そして大正12年(1923)関東大震災後の帝都復興事業で九段坂の頂上を市ヶ谷方向に振って斜面を削るなどの本格的な掘削と拡幅の改造工事が行われ、昭和8年(1933)に区画整理が完成し現在のようななだらかな坂へ変貌した九段坂は中央を市電が上下に走るルートになり、神田・両国方面と市ヶ谷・新宿方面の東西の下町、山の手を結ぶ都心部の重要な交通拠点となった。
震災復興事業 九段坂界隈完成予想模型 震災復興後 緩やかな九段坂の展望(1933)
九段坂より神田方面を望む(1933) 九段坂より神田方面を望む(2008)
Ⅱ.祝祭空間だった東京招魂社(靖国神社)
東京招魂社本殿を望む(1896) 九段坂上の常灯明台(1907)
招魂社馬かけ(九段競馬 1898)
九段坂は眺望のよさから月見の名所でもあった。その坂上の高台に明治2年(1869)、幕末から明治維新後、国のために殉難した英霊を祀るため明治政府により現在の靖国神社の前身「東京招魂社」が創建されました。創建当初の招魂社は東京の庶民にとっては関心のない神社であり、江戸から明治になっても、依然として庶民の信仰は寛永寺のある上野にあった。九段坂上の招魂社は全く人の寄り付かない神社としてその歴史を歩み始めた。招魂社に人を引き寄せ、上野のような名所にして信仰を確立するため、政府は様々な人寄せの施策を実行していきます。まず明治4年(1871)、神田や日本橋・東京湾を一望できる高台にあることから西洋式灯台の常灯明台を境内に築き、東京湾を夜間航行する船舶や漁船の目印としての役割を果たさせます。そして明治12年(1879)明治天皇により、招魂社は国を靖める社「靖国神社」と改称される。やがて招魂社を皇居に近いこの地に定めた陸軍創設者・大村益次郎の銅像を空高く参道の中央に建設し、下町の神田・両国からも見えるようにして名所化していった。更には競馬・サーカス・奉納相撲など諸々のイベント(興行)が境内で催されて大いに賑わったという。日本人による洋式競馬は靖国の境内で始まった。大村益次郎の銅像を中心に今の入り口と青銅鳥居間の参道部分にレーストラックが設けられた招魂社競馬場で、春秋の例大祭の度に競馬が明治31年(1898)まで開催された。現在では想像もできないイベントだが、競馬開催の光景は版画の錦絵に残されており、当時の靖国が西欧風な民衆のイベント広場だった雰囲気を伝えてくれている。明治初頭に誕生した九段の靖国神社は明治政府の肝煎りで人工的に発展し、上野に比肩する信仰と娯楽の名所として、明るく開放的な祝祭の空間に変貌を遂げたのです。明治の日清日露、昭和の日中・太平洋戦争と重なる戦役で膨大な戦没者が出るに及んで、靖国神社は戦死した英霊を祀る場として国民的な支持を得てゆくのだが、その現象は明るく開放的な祝祭空間の靖国を国粋的な閉ざされた空間へと変えていってしまった。明治維新直後の創建から140年を経た21世紀初頭の現在、靖国は毎年8月15日の終戦記念日を迎える度に、A級戦犯合祀の問題などイデオロギー的な対立論争の只中で翻弄されている。しかし、そういうイデオロギーにまみれた喧騒から離れて、もっと広い視野から靖国を眺め、東京の下町と山の手の境界にある九段坂上という場所に誕生した靖国神社という空間が持っていた都市的なポテンシャルに光りをあてて、靖国の未来像は語られるべきではないだろうか。
靖国神社参道(2008) 靖国神社拝殿を望む(2008)
Ⅲ.芸術家の溜り場・白い箱の「野々宮アパートメント」
野々宮アパートメント西南外観(1936) 野々宮アパートメント正面外観(1936)


靖国通りを神保町から九段下に向かい、目白通りとの交差点に立って現在のなだらかな九段坂を見上げると正面に靖国神社の大鳥居(第一鳥居)が目に入る。さらに交差点から左の南側に視線を移すと和風の瓦屋根を乗せた帝冠様式の旧軍人会館(1934)が牛が淵沿いに重厚な姿を見せている。大鳥居の前には今、真新しい東京理科大学の九段校舎があるが、戦前には陸軍将校の親睦団体本部・偕行社の煉瓦造建築が文字通り靖国の門前に建ち、その構内南角には現在靖国通りの反対側に移設された高燈篭こと常燈明台が聳えていた。厳めしい偕行社の並び、九段坂の中央にはかつて「野々宮アパートメント」という集合住宅が建っていた。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトに師事した土浦亀城の設計により昭和11年(1936)に竣工した白い箱のモダンアパートである。地上7層、白とブルーのタイルでストライプ状に外装された端麗な容姿は、帝都東京一モダンな雰囲気に溢れ、外国人や外国生活を経験した当時のエスタブリッシュメントが入居する都市生活の拠点であったという。写真を見ると外観だけでなく内部空間も最先端の住宅設備や洒落たフロント・ロビー、各部屋に備え付けの家具・電話・ラジオなどホテル様式のサービスを誇る近代的なアパートであったことがわかる。アパートの地上階には二層吹き抜けのスタジオを配した野々宮写真館があり、このアパートのクライアントである写真家野島庸三が経営していた。野島は近代写真の先駆者と評価される写真家で、無名の異端アーティスト(画家・写真家)達に活動する場(画廊・ギャラリー)を提供し且つ経済面を支援するパトロン的存在でもあった。芸術家をパトロネージする富裕な写真家野島と彼のスタジオがある野々宮アパートを中心とした人的交流から戦前の伝説的な写真雑誌「光画」(1932~33)や陸軍参謀本部が支援する海外向け国家宣伝誌の「FRONT」といった日本の近代写真を確立するグラフが生まれている。このようにモダニズム建築の野々宮アパートは、坂上に鎮座する靖国神社や隣に並ぶ陸軍施設の偕行社に坂下の牛が淵沿いに聳える帝冠様式の軍人会館という国家のモニュメンタルな建築に取り囲まれながら、その内部は当時の先端をゆく芸術家達が集い創作活動に励む前衛的空気が流れる空間であった。九段坂界隈のモダニズムのシンボルだった野々宮アパートは惜しくも、戦災で2階から上の大部分が焼け落ち喪われてしまった。
野々宮写真館入口 野々宮写真館ホール
野々宮写真館スタジオ アパート室内
戦前までの東京府が東京都となり、戦後の復興と経済成長による東京の郊外都市化、国家イベントの東京オリンピックによる都心の大改造、バブル期の乱開発などで本来の下町は消え去り、また山の手も都市の肥大化からその地域性が曖昧になっていった。21世紀初頭の現在、下町・山の手の意味や境界は東京の人々の意識から完全に喪われてしまっている。九段坂は、歴史・地形的に東京の下町と山の手を分ける境界だった。江戸時代(17世紀半ば)には東京の西北、武蔵野台地の東端の高台に武家屋敷が並び、東南の商工業が集積された低地には多くの町人が住み、支配階級と被支配階級が山の手・下町に住み分けられ明確に地区が分割されていた。この台地(山の手)と低地(下町)が地区分けされた構図は、江戸期に構築され明治大正を経て昭和の30年代半ばくらいまで引き継がれ、それぞれの地区に流れる空気や趣の違いから大都市・東京の多様性を顕わしていた。現靖国通りを東の神田須田町方向から小川町・神保町を抜けて九段下に至り、帝都一勾配がきついといわれた九段坂を上がると背後には下町があり、坂の向こうにはかつての御屋敷街・富士見町や牛込、市ヶ谷、麹町、番町など緑豊かな山の手の町並みが広がっている。坂の途中には戦前のモダン東京を代表するモダニズム建築の野々宮アパートが山の手のハイソな趣を漂わし、坂上には鎮魂の場であり、また近代的な西欧風の祝祭広場であった靖国神社が鎮座し、かつては東京を一望出来た高台から下町を睥睨している。靖国を起点とした山の手から九段の坂を下りるとすぐ神田・日本橋といった下町界隈が広がる。このように九段坂を境界とした山の手と下町の二元的街割りは江戸・帝都東京を形づくる都市の基本構造であった。
参照文献 Reference
「靖国YASUKUNI」/坪内祐三著/新潮社発行/1999
「悲喜劇1930年代の建築と文化」/編集 同時代建築研究所/現代企画室発行/1981
「大東京写真帖」/忠誠堂発行/1930
「国際建築1936年11月号」/国際建築協会発行/1936
















遠州様
岸田日出刀の研究会で「靖国神社神域拡張計画」について言及いたしませんでしたが、岸田は昭和14年(1939)にこの試案を発表しているそうである。(朝日新聞にも掲載された)それによると合祀者の過多で靖国の改善を考慮したものだということである。これは市ヶ谷あたりから飯田橋まで、富士見、番町など現東京逓信病院から法政大学に至るあたり、すべてを国家記念の施設で埋め尽くそうというものである。そこには、神社本殿などの他、大東亜會館、その博物館、図書館、記念館やその空漠たる広場などが計画されていた。その他相撲場や遊就館、武徳殿なども併せて計画されている。(総合配置図より)それ以前に岸田は皇紀2600年を記念して開催される予定であった第12回オリンピック東京大会の会場を、組織委員会が推薦していた明治神宮外苑に反対し、代々木練兵所の敷地(偶然にも昭和39年に開催されたオリンピックで使用されているが、既に岸田が推していたとは思わなかった)を推挙していた。確かに外苑には機能上の問題を多く残していた。動線の分離や交通パニックの問題である。ただ、彼の思惑は常に国家神道を意識していたことがわかる。昭和14年(1939)には、宮城外苑の整備事業の立案を東京市は企画し現在の皇居広場あたりに計画するものであったが、岸田がそれに反対(東京の美観を損ねるという理由)し、有力地をまたしても代々木練兵所に眼を向けていた点である。代々木は明治神宮が鎮座しているところに近接しており、岸田日出刀はこういった計画と建築の美をナショナリズム(ファシズム、ナチズム、スターリニズム)に求めていたことが、公には発表されていないこういった計画など、そして丹下健三の一等当選案となった「大東亜建設記念造営計画」に至って感じられるのである。(『国家記念の場に関する岸田日出刀の構想と見解:佐藤利之』より)
「靖国神社神域拡張計画」の総合配置図を拝見しました。戦前に岸田日出刀は東西は飯田橋から市ヶ谷にかけて、南は番町界隈までを含めた現在の靖国の数倍規模の壮大な神域を構想してたことに驚きました。この計画を眺めていると、靖国の拝殿・本殿が西欧の神殿のように見えてきます。これが実現していれば、戦前の東京に宗教建築を核としたモニュメンタルな民衆的広場が出現していたんですね。確かにナショナリズムに依存した美学でありますが、この計画からは弟子の丹下健三と同質な都市的な優れた構想力が感じられます。