<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	>
<channel>
	<title>江戸・東京の下町と山の手を分ける境界　九段坂 へのコメント</title>
	<atom:link href="http://www.archi-channel.com/%e5%96%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%83%bd%e5%b8%82-%e6%b1%9f%e6%88%b8%e2%86%92%e6%9d%b1%e4%ba%ac-forgone-days-of-the-metropolisedo%e2%86%92tokyo/%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%83%bb%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%81%ae%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%a8%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%89%8b%e3%82%92%e5%88%86%e3%81%91%e3%82%8b%e5%a2%83%e7%95%8c%e3%80%80%e4%b9%9d%e6%ae%b5%e5%9d%82/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.archi-channel.com</link>
	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 16:52:15 +0000</pubDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.7.1</generator>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
		<item>
		<title>遠州 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%96%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%83%bd%e5%b8%82-%e6%b1%9f%e6%88%b8%e2%86%92%e6%9d%b1%e4%ba%ac-forgone-days-of-the-metropolisedo%e2%86%92tokyo/%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%83%bb%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%81%ae%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%a8%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%89%8b%e3%82%92%e5%88%86%e3%81%91%e3%82%8b%e5%a2%83%e7%95%8c%e3%80%80%e4%b9%9d%e6%ae%b5%e5%9d%82/comment-page-1/#comment-52</link>
		<dc:creator>遠州</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 19 Jan 2009 17:27:23 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=467#comment-52</guid>
		<description>「靖国神社神域拡張計画」の総合配置図を拝見しました。戦前に岸田日出刀は東西は飯田橋から市ヶ谷にかけて、南は番町界隈までを含めた現在の靖国の数倍規模の壮大な神域を構想してたことに驚きました。この計画を眺めていると、靖国の拝殿・本殿が西欧の神殿のように見えてきます。これが実現していれば、戦前の東京に宗教建築を核としたモニュメンタルな民衆的広場が出現していたんですね。確かにナショナリズムに依存した美学でありますが、この計画からは弟子の丹下健三と同質な都市的な優れた構想力が感じられます。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「靖国神社神域拡張計画」の総合配置図を拝見しました。戦前に岸田日出刀は東西は飯田橋から市ヶ谷にかけて、南は番町界隈までを含めた現在の靖国の数倍規模の壮大な神域を構想してたことに驚きました。この計画を眺めていると、靖国の拝殿・本殿が西欧の神殿のように見えてきます。これが実現していれば、戦前の東京に宗教建築を核としたモニュメンタルな民衆的広場が出現していたんですね。確かにナショナリズムに依存した美学でありますが、この計画からは弟子の丹下健三と同質な都市的な優れた構想力が感じられます。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>重源 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/%e5%96%aa%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%83%bd%e5%b8%82-%e6%b1%9f%e6%88%b8%e2%86%92%e6%9d%b1%e4%ba%ac-forgone-days-of-the-metropolisedo%e2%86%92tokyo/%e6%b1%9f%e6%88%b8%e3%83%bb%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%81%ae%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%a8%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%89%8b%e3%82%92%e5%88%86%e3%81%91%e3%82%8b%e5%a2%83%e7%95%8c%e3%80%80%e4%b9%9d%e6%ae%b5%e5%9d%82/comment-page-1/#comment-49</link>
		<dc:creator>重源</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 18 Jan 2009 07:00:54 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.archi-channel.com/?page_id=467#comment-49</guid>
		<description>遠州様

岸田日出刀の研究会で「靖国神社神域拡張計画」について言及いたしませんでしたが、岸田は昭和１４年（1939）にこの試案を発表しているそうである。（朝日新聞にも掲載された）それによると合祀者の過多で靖国の改善を考慮したものだということである。これは市ヶ谷あたりから飯田橋まで、富士見、番町など現東京逓信病院から法政大学に至るあたり、すべてを国家記念の施設で埋め尽くそうというものである。そこには、神社本殿などの他、大東亜會館、その博物館、図書館、記念館やその空漠たる広場などが計画されていた。その他相撲場や遊就館、武徳殿なども併せて計画されている。（総合配置図より）それ以前に岸田は皇紀２６００年を記念して開催される予定であった第１２回オリンピック東京大会の会場を、組織委員会が推薦していた明治神宮外苑に反対し、代々木練兵所の敷地（偶然にも昭和39年に開催されたオリンピックで使用されているが、既に岸田が推していたとは思わなかった）を推挙していた。確かに外苑には機能上の問題を多く残していた。動線の分離や交通パニックの問題である。ただ、彼の思惑は常に国家神道を意識していたことがわかる。昭和１４年（1939）には、宮城外苑の整備事業の立案を東京市は企画し現在の皇居広場あたりに計画するものであったが、岸田がそれに反対（東京の美観を損ねるという理由）し、有力地をまたしても代々木練兵所に眼を向けていた点である。代々木は明治神宮が鎮座しているところに近接しており、岸田日出刀はこういった計画と建築の美をナショナリズム（ファシズム、ナチズム、スターリニズム）に求めていたことが、公には発表されていないこういった計画など、そして丹下健三の一等当選案となった「大東亜建設記念造営計画」に至って感じられるのである。（『国家記念の場に関する岸田日出刀の構想と見解：佐藤利之』より）</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>遠州様</p>
<p>岸田日出刀の研究会で「靖国神社神域拡張計画」について言及いたしませんでしたが、岸田は昭和１４年（1939）にこの試案を発表しているそうである。（朝日新聞にも掲載された）それによると合祀者の過多で靖国の改善を考慮したものだということである。これは市ヶ谷あたりから飯田橋まで、富士見、番町など現東京逓信病院から法政大学に至るあたり、すべてを国家記念の施設で埋め尽くそうというものである。そこには、神社本殿などの他、大東亜會館、その博物館、図書館、記念館やその空漠たる広場などが計画されていた。その他相撲場や遊就館、武徳殿なども併せて計画されている。（総合配置図より）それ以前に岸田は皇紀２６００年を記念して開催される予定であった第１２回オリンピック東京大会の会場を、組織委員会が推薦していた明治神宮外苑に反対し、代々木練兵所の敷地（偶然にも昭和39年に開催されたオリンピックで使用されているが、既に岸田が推していたとは思わなかった）を推挙していた。確かに外苑には機能上の問題を多く残していた。動線の分離や交通パニックの問題である。ただ、彼の思惑は常に国家神道を意識していたことがわかる。昭和１４年（1939）には、宮城外苑の整備事業の立案を東京市は企画し現在の皇居広場あたりに計画するものであったが、岸田がそれに反対（東京の美観を損ねるという理由）し、有力地をまたしても代々木練兵所に眼を向けていた点である。代々木は明治神宮が鎮座しているところに近接しており、岸田日出刀はこういった計画と建築の美をナショナリズム（ファシズム、ナチズム、スターリニズム）に求めていたことが、公には発表されていないこういった計画など、そして丹下健三の一等当選案となった「大東亜建設記念造営計画」に至って感じられるのである。（『国家記念の場に関する岸田日出刀の構想と見解：佐藤利之』より）</p>
]]></content:encoded>
	</item>
</channel>
</rss>
