11 月 21 2009

法界寺阿弥陀堂 Amida-do of Hokai-ji Temple

Published by 遠州

総門から見た法界寺阿弥陀堂

敷地:京都府伏見区日野西大道町

建立:鎌倉時代前期(1226~1235)

Location:Hinonishidaido-cho,Fushimi-ku,Kyoto Prefecture

Establishment:The first half of Kamakura era(1226~1235)

「阿弥陀如来が座す四天柱と華麗な壁画が織り成す荘厳な空間」

Ⅰ.親鸞聖人生誕の地 日野薬師法界寺

日野資業像
日野資業像京都の南東、伏見の醍醐寺の南側は古来より「日野」と称され、閑寂な山郷の雰囲気が残っている地域です。南を木幡山、東を山科盆地、西を御蔵山に囲まれ北に眺望が開く風光明媚な景勝の地に、一般に日野薬師と呼ばれる真言宗醍醐寺派の古刹法界寺があります。「日野」は名門藤原北家の傍流である日野家の伝領地であり、平安の頃は皇室や公家の遊猟地とされ、桓武天皇も幾度か猟に興じた記録が残っているという。法界寺は平安時代後期の永承6年(1051)出家した日野資業が関白藤原頼通から所領を譲り受け、薬師如来像を安置する薬師堂を建立し日野家の菩提寺としたのが創建とされ、最初に建てたのが現世の栄華を求める薬師堂であった故に、日野薬師と称されたという。平安時代の創建から鎌倉時代初期にかけて法界寺は、寄進などにより順次堂宇が増やし、薬師堂の他に旧阿弥陀堂、観音堂、五大堂、僧房等多くの堂宇が建ち並ぶ壮観な伽藍を誇る寺院となった。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は法界寺創建者の日野資業から四代後の日野有範を父とし、承安3年(1173)、ここ法界寺で誕生している。すなわち親鸞聖人も日野一族で、仏との初めての縁をこ結んだのが法界寺阿弥陀堂の阿弥陀如来だったという。隆盛を誇った法界寺も、鎌倉時代前期に起きた承久の乱(1221)の兵火によって阿弥陀堂など大半の堂宇が焼失してしまった。しかし不幸中の幸いか、阿弥陀如来像は焼失を免れ、これが転機となり法界寺再興の資が興されることになった。現在、見られる阿弥陀堂は正確な年代は不明だが、壁画の解説にあるように鎌倉時代前期の1226年から1235年に至る間に再建されたものと考えられている。

Ⅱ.薬師堂(現世利益)と阿弥陀堂(来世救済)

                                                      藤原宗忠像
藤原宗忠像創建当初の法界寺の本堂は薬師如来を祀った薬師堂であり阿弥陀堂はなかった。来世に重点が置かれた阿弥陀信仰に対し、前時代的な密教的色彩の濃い薬師信仰は現世の栄華を求めるものである。創建者の日野資業が最初に薬師堂を建立したということは、彼の関心事が来世の救済よりも、日野一門の繁栄と安寧を祈るという現世利益的な密教信仰にあったことを示している。しかし、平安時代後期は、末法思想が広まり極楽浄土を憧憬する阿弥陀信仰が流行し、京都各所で阿弥陀如来を祀り極楽浄土を具象化した阿弥陀堂が建立された時代であった。藤原宗家の長者、藤原頼通が宇治平等院に鳳凰堂(1053)を建立、また浄瑠璃寺本堂(1107)、三千院極楽院(1148)などの阿弥陀堂がこの時代に建立されている。薬師堂を本堂としていた法界寺に、やがて阿弥陀堂が建立されたのも、こうした時代の趨勢に影響されたものといえる。資業の孫娘を母とする右大臣藤原宗忠の尽力によって、法界寺伽藍は整備され壮観なものとなり、12世紀前半には四棟の阿弥陀堂が立っていたという。前述したように承久の兵火による焼失から十数年のうちに再建された新阿弥陀堂は、現在までおよそ800年の風雪に耐えて静かな境内に南面して佇んでいる。一方、乱の兵火を免れた薬師堂はその後、不慮の火災から焼失し再建されるも、応仁から天正年間の戦国の兵火で再び焼き払われ、本尊薬師如来のみが救出される。そして焼失からおよそ400年間、法界寺には薬師堂が不在だったが、明治37年(1904)に奈良法隆寺の塔頭から本堂が移建され、長らく放浪していた薬師如来を納める薬師堂となる。現在、薬師堂は阿弥陀堂の東南に軒を接するように西向き立ち、本瓦葺きの重厚な姿を見せている。かつて薬師堂が不在であった時は、阿弥陀堂を本堂であったが、薬師堂移建後はこちらも本堂となり、現在の境内には二つの本堂が石畳の左右に存在している

Ⅲ.浄土教の仏堂 阿弥陀堂建築

法成寺伽藍配置図                                       平等院鳳凰堂(1053)平面図
法成寺伽藍配置図平等院鳳凰堂平面図11世紀から12世紀の平安時代後期、極楽往生を希求する貴族の間で阿弥陀堂の建立が流行する。阿弥陀堂の歴史は藤原道長が鴨川の西岸に創建した法成寺(987)の無量寿院と称する九体阿弥陀堂(1022)から始まり、以後、貴族の邸宅内に造営される阿弥陀堂の先例となった。そして阿弥陀堂の建立を推進したのが道長の子、関白藤原頼通であり、父の法成寺を範として宇治に創建した平等院鳳凰堂(1053)は、この時代の信仰的象徴といえるものであった。平等院鳳凰堂を契機として、浄瑠璃寺本堂(1107)、三千院極楽院(1148)など畿内各地に阿弥陀堂が建立され、その流行は地方に伝播して奥州平泉の金色堂(1124)、福島の白水阿弥陀堂(1160)など文献に残っているものだけでも150棟あまりの阿弥陀堂が建てられたという。平安時代に建立された阿弥陀堂建築は、以下の三種類の形態をもっているとされています。

平等院鳳凰堂
平等院鳳凰堂東外観①桁行の長い長方形平面の「九体堂型」(法成寺・浄瑠璃寺)
②極楽浄土を彷彿とさせる「宮殿型」(平等院鳳凰堂)
③正方形平面の「方形型」(法界寺・白水阿弥陀堂・中尊寺金色堂)
①の平安後期に建立された九体阿弥陀堂は、法成寺無量寿院をはじめ、記録に残っているものだけで30軒あったとされているが、法成寺は1219年に全焼廃寺となってしまい
現存するのは浄瑠璃寺本堂のみである。また②の極楽宮殿型の阿弥陀堂の遺構もまた平等院鳳凰堂に現存するのみで、きわめて貴重なものである。
現存する唯一の九体阿弥陀堂の遺構、浄瑠璃寺本堂の身舎(もや:本屋)の桁行は9間あり、中央の柱間に阿弥陀如来座像がその両脇の柱間に4体ずつの脇仏が置かれ、合計9体の阿弥陀仏が安置されている。浄瑠璃寺より80年前に建立され、九体阿弥陀堂の先駆である法成寺無量寿院は、伽藍中央の池を挟んで薬師堂対岸の西に東を向いて位置していた。その規模は後世の浄瑠璃寺本堂より大きく、身舎の桁行が11間に及ぶ長堂であったいわれている。こうした桁行の長い長方形平面「九体堂型」は、建築の形式というより浄土教の九品往生思想の基づく九体の阿弥陀像を同格に安置するために、均質な空間を有する長方形平面にせざるを得なかったと思われる。
浄瑠璃寺本堂(1107)平面図              白水阿弥陀堂(1160)平面図   浄土寺浄土堂(1192)平面図
浄瑠璃寺本堂平面図白水阿弥陀堂平面図浄土寺浄土堂平面図
阿弥陀堂建築において、九体阿弥陀堂のような形式は特異な例で、最も遺構が多いのが正方形平面の「方形型」でした。特に地方では奥州平泉の金色堂や福島の白水阿弥陀堂など規模の小さな「一間四面堂」形式が一般的でした。一間四面堂とは堂内中央に一間四方の四天柱で囲んだスペースを阿弥陀如来像を置く内陣とし、その周囲四面に念仏三昧の行道空間としてのスペースを巡らせたものです。今回、取り上げた法界寺阿弥陀堂は、この形式では最大規模の仏堂である。

Ⅳ.荘厳なる空間

阿弥陀堂外観                                        法界寺阿弥陀堂西面外観
法界寺阿弥陀堂西側全景地下鉄東西線「石田」駅から東へ向かい、緩やかな道を20分程歩けば、そこは山郷の趣きが残る”日野の里”です。山門の奥、石畳が一直線に走る正面に、今日まで現存している平安時代の阿弥陀堂建築において華麗な平等院鳳凰堂や金色堂とは対照的な単純素朴で威風堂々とした法界寺阿弥陀堂が佇んでいる。浄土教寺院の型通り池泉が前面にあり、南を正面として配置され、身舎は方五間(五間四方)の正方形平面の「方形型」、身舎の外周を幅一間の裳階(もこし:見せかけの階)、吹き放ちの縁が廻る。故に裳階を含めると方七間の規模となる。少し離れてこの仏堂の姿を眺めてみると、屋根は二重で身舎上部の屋根は宝形造(ピラミッド型)、少し下がった位置から縁側を覆う庇屋根が伸びている。共に柔らかな檜皮葺きで建ちが低く抑えられているせいか落ち着いた穏やかな風情が感じられる。
法界寺阿弥陀堂南正面外観              檜皮葺の屋根が上下に重なる
法界寺阿弥陀堂南側全景法界寺阿弥陀堂南面屋根
法界寺阿弥陀堂南側裳階法界寺阿弥陀堂南側裳階軒裏南を正面とする阿弥陀堂の南縁の軒庇が左右の屋根より一段高く上がっているのは、奈良時代からの伝統を受け継いだもので、平等院鳳凰堂や厳島神社の軒庇にも見られる形だという。緩やかな勾配の檜皮葺きの屋根が上下に僅かに重なる光景は、どこか平安時代の雅を想わせるようで実に奥床しい。低い亀腹(床下の丸味をつけた漆喰塗の壇)の上に低く幅広い縁が付き身舎の四周を廻る裳階部分は外周に戸や壁がなく柱だけが並ぶ吹き放ちの空間で軒裏の垂木と相まって、この仏堂に爽快な開放感や住宅的な雰囲気を漂わせているようです。
阿弥陀堂を廻る裳階                   裳階軒裏天井

阿弥陀堂内部                                               法界寺阿弥陀堂平面図
法界寺阿弥陀堂平面図開放的な縁に上がり西側前方の戸口から堂内へ参入すると、眼前には高く何も遮るものがない空間が広がっていました。中央に独立して立つ四天柱の内側に置かれた須弥壇の上に丈六(高さ2.8m)阿弥陀如来座像が安置され、その前に座り像を仰ぐと、穏やかで滋味を湛えた表情に安らかな気持ちになり、しばし平安時代の幽玄に想いを馳せていました。阿弥陀如来を囲む四天柱の間隔は広くとられ、これを内陣として周囲四面を外陣が廻って身舎が構成されているのだが、通常なら外陣を一間幅として身舎は三間四方となるところをこの堂では規模の大きさからか五間四方となっている。同時代の阿弥陀堂と比べると内部に著しく広い空間をもつ方五間の身舎の柱間と無関係に内陣の四天柱は配置されている。つまり身舎の柱と四天柱の位置が通っていないわけで、こういう構造・意匠は
四天柱の内陣に座す阿弥陀如来像            内陣と外陣 天井廻り
法界寺阿弥陀如来座像法界寺阿弥陀堂四天柱天井廻りそれまでの阿弥陀堂には見られない新しい形であった。そのため、四天柱と身舎の側廻りと直角にま隅行を繋ぐべき虹梁が架けられない。虹梁というと、東大寺再建の勧進であった重源上人が建立した兵庫県小野市の浄土寺浄土堂(1192)の空間を思い浮かべる。方三間の身舎である浄土堂の場合は柱が通っているので繋ぎの虹梁が架かり、四天柱から放射状に太く丸い虹梁が飛び交う豪快な構造美を展開している。そのような構造美は望めないが、虹梁が架らない結果として、この堂の外陣上部の垂木が白亜の裏板にリズミカルに並んだ化粧屋根裏の下には何も遮るもののない、すっきりとした明快な空間を仰ぎ見ることが出来るようになっている。

荘厳な内陣天井
阿弥陀如来座像を包む内陣天井(折上組入天井)
法界寺阿弥陀堂内陣1法界寺阿弥陀堂内陣2法界寺阿弥陀堂内陣3
四天柱の上部を繋いだ無目の上には長押が廻り、その内外四方に描かれた壁画の上は折上組入天井(斜めに持ち上がり、広範囲に格子状に組まれた天井)になっている。内陣上部側壁の壁画は三分割、十二面に仕切られ、飛天が本尊阿弥陀如来の方を向いて軽やかに飛翔している姿が白壁に描かれている。この十二面の壁画の上は、さらに長押が廻され、二段になった組物とその間に上に斗を置いた間斗束(けんとづか)が立つ。華麗な壁画で装飾された内陣側壁の上に広がる天井は折り上げられ、ドームのような天蓋となって阿弥陀如来を包んでいます。折上げ天井を構成するアール部分は細い材で繊細に組まれ、水平部分は組入格子天井となっている。アール部分の材と材の間の裏板や水平の格子天井の一枡ごとの裏板には菊花文様が描かれており、またこれらの構成材木部にも文様が入って装飾されているというが、下からは模様まではよく見えない。堂内から去る前に再び阿弥陀如来座像を仰ぐように内陣の吹き抜け空間を見上げると、四天柱・壁面・天井廻りなどに縦横無尽に描かれた艶やかな彩画と巧緻に木組みされた天蓋が、念仏三昧の場に相応しい荘厳なるハーモニーを奏でているように聴こえました。

Ⅴ.まとめ

建築様式は異なるが、法界寺阿弥陀堂の内部空間は重源が建立した浄土寺浄土堂(1192)を拝観した時に感じた空間体験と同質なものがあるように感じる。阿弥陀堂の一般的形式の方三間ながら柱間20尺という広い平面の浄土堂は、中心に立つ阿弥陀如来像を囲んで屋根裏まで延びる四天柱から太い虹梁が層状に放射されるダイナミックな空間がピラミッド状にもちあがってゆく。対し方五間という大型の法界寺阿弥陀堂は四天柱上部の天蓋へ向けて外陣を覆う化粧垂木天井が上昇してゆく求心性の強い内部空間が形作られている。いずれの堂も平安時代の平等院鳳凰堂(1053)などと比べると広い内部空間をもち、内陣四天柱の阿弥陀如来を取り巻く外陣スペースが広くとられ、念仏を唱えながら阿弥陀如来の廻りを巡る念仏三昧堂に相応しいボリュームと平面をもっている。想えば、藤原一族が建立した法成寺無量寿院や平等院鳳凰堂を始めとした平安時代後期の阿弥陀堂は、建立した貴族たちが末法の世から逃避する観念的な場であり、一般庶民はそこから遠ざけられていた。そんな状況に対し、念仏布教のため諸国を行脚し、庶民の救いを念願としていた重源は、多くの庶民が座し念仏唱和する道場として大空間の浄土堂を建てた。法界寺の堂も藤原一門の日野家やその縁者の法会のみならず、念仏や行道の場として一般庶民に開放されていたという。阿弥陀如来を囲んで念仏唱和し極楽往生を願う貴族と庶民がともに集う大空間・・・そんな光景を頭に描きながら、由緒深い名刹にさり気無くつつしまやかに佇む阿弥陀堂の拝観から辞去しました。
参照文献
1)「古寺巡礼 京都29 法界寺」/山崎正和・岩城秀雄著/淡交社発行/1978
2)「日本名建築の美」/西澤文隆著/講談社発行/1990
3)「日本の建築 歴史と伝統」/太田博太郎著/筑摩書房発行/1968
4)「日本の建築 その芸術的本質について」/吉田鉄郎著/東海大学出版会発行/1975

法界寺阿弥陀堂 Amida-do of Hokai-ji Temple

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