12 月 17 2009
無鄰菴 Murin-an,The Yamagata Villa
敷地:京都市左京区南禅寺草川町
種類:別荘
竣功:明治32年(1899)
Location:Kusakawa-cho,Nanzenji,Sakyo-ku,Kyoto Prefecture
Kind:Villa
Establishment:1899
「植治と権力者の庭 近代庭園の先駆け」
Ⅰ.造園王 七代目小川治兵衛(植治)
七代目小川治兵衛(1860~1933)
「無鄰庵」は、明治の元勲山県有朋(1838~1922)が南禅寺脇に造営した別荘であるが、「無鄰庵」という名の別荘を山県は生涯に三度造営している。最初が維新前の慶応3年(1867)、長州(山口県)の下関吉田の清水山山麓に建てた草庵で、隣家のない閑静なところであったことから名づけられたという。二度目が明治24年(1871)、京都木屋町ニ条の旧角倉邸跡を別邸としたもの。しかし、ここが「無鄰庵」という名に相応しからぬ繁華な立地であったことから、山県はより閑静な立地を求めて、もとは南禅寺境内だった現在地に謂わば第三の「無鄰庵」を造営しました。敷地の大半を占め、この別荘を風光明媚なものにならしめている庭園を山県の構想をもとに作庭したのが、江戸時代から続く植木屋の七代目小川治兵衛(1860~1933 屋号は植治、以下植治と称す)でした。植治は明治10年(1877)、17歳で小川家の婿養子となるや二年後には当主の死去から七代目を襲名するが、30代までは法然院などの寺の庭や茶庭、町家の坪庭などを手入れする普通の植木屋であったという。明治27年(1894)の山県との出会いが植治にとって大きな転機となる。既に東京で「椿山荘」(明治11年 1878)、大磯では「小淘庵」(明治20年 1887)を自ら指図し造営していた山県は庭への造詣深く、この時も植治へ造園を任せるにあたって次の三つの注文をしている。
①芝生の明るい空間をつくること
②今まで脇役だった樹木(樅・檜・杉)をたくさん使うこと
③琵琶湖疏水の水を引き入れて作庭すること
日本の国政を司る山県は、近代化を驀進する明治国家の精神を現わすような開放的で明るい庭園にしようと意気込んでいたようだ。このような山県の意図を理解した植治は、いずれの注文も初めての経験だったが、琵琶湖疏水の水を使って造園することに大きな遣り甲斐と喜びを感じたという。京都の近代化事業であった琵琶湖疎水施設は明治18年(1885)から5年が費やされ、明治23年(1890)に竣功している。この折、天皇・皇后をお迎えして竣功式を執り行ったのが当時の総理大臣山県有朋だった。無隣庵という私邸の庭に疎水の水を導入する試みは、山県の構想と植治の手によって実現した最初の例であり、この無隣庵の作庭で、植治はその造園スタイルの基礎を確立していく。以後、植治は平安神宮の御神苑・円山公園・清風荘・対龍山荘・碧雲荘・洛翠庭園などで琵琶湖疏水の水を使った庭をデザインし、南禅寺界隈を主舞台とした作庭活動によって、一介の植木屋から立地選択から敷地の全体計画までトータルに庭づくりに関わる造園王として名を馳せてゆくことになる。さて、植治を登用した山県有朋という人物像や庭好きぶりは、どのようなものだったのだろうか。
平安神宮中神苑 対龍山荘 洛翠庭園



Ⅱ.権力者 山県有朋の庭道楽
山県有朋(1838~1922)
明治の元勲山県有朋の出自は低く、足軽以下の身分の中間の出である。平民宰相といわれた原敬(盛岡藩上士の家柄)は、元老でありながら異常なまでに権力に執着する山県のことを「あれは足軽だから」と蔑んだという。また、立原正秋著「日本の庭」(昭和52年新潮社)によると、山県が内閣総理大臣だった明治31年~34年(1898~1891)にかけて、原敬日記に汚職を暴露されていることが書かれている。「山県清廉潔白なるが如く装ふも、かくの如き秘事あり、驚くべし」と・・秘事とは山県が内閣の増税案に反対している議員を買収する費用として明治帝から出処した金(持ち株の配当金) 計98万円(現在に換算すると100億円程)の内、かなりの額を自分の財産にしてしまったという。山県を権力追及者として嫌っている著者の立原は、無隣庵などの別荘を造営する金をこうして捻出したと推測している。そう疑われても仕方がないほど、山県には金にまつわる疑惑が多い。明治初頭にも、新政府の陸軍卿として大掛かりな汚職疑惑(山城屋和助事件)に絡み、辞職を余儀なくされている。
椿山荘(明治33年1900) 小田原古希庵

生涯、権力に執心した山県だが、一方では和歌や書や茶をたしなみ、庭好きとしても知られる風雅の人でもあった。山県の普請、庭道楽は本格的で、自ら想を練り、世に名高い山県三名園 椿山荘(東京)・無鄰庵(京都)・古希庵(小田原)を造営するほどの入れ込みようであった。彼の道楽は、これらにとどまらず栃木県那須に農場をまた東京小石川には無鄰庵の如き流れと池がある新々亭という小さな別邸などをもつ。無鄰庵をつくり始めた明治27年(1894)の七月は日清戦争が勃発、陸軍大将であった山県は軍司令官として出征し陣頭指揮をふるった。緊張感たかまる時局の中、静養に訪れる京都の別荘無鄰庵には、のびのびとした環境が求められたのであろう。気分転換のための庭として、山県は京都の伝統的な侘び寂びの緊張感ある庭を拒否して、西洋的な庭、明るい開放的な空間表現を志向し、英国の自然主義的な庭園をイメージをしていたのかもしれない。想えば、山県や植治が生きた明治という時代は、内向きで抑圧的だった江戸時代とはがらりと変わり、近代国家として誕生したばかりの日本が欧米列強の世界へ漕ぎ出す開化期であり、国中にのびのびとした気分が横溢していた時代でもあった。こうした時代の空気がスケールの大きい豪壮な庭づくりに繋がったともいえる。
Ⅲ.水の流れる喜びを表現した庭園
無鄰庵庭園平面図

無鄰庵 門 潜り戸(ここから庭園へ)

アプローチ
平安神宮の赤い大鳥居を過ぎ、仁王門通りをさらに東へ南禅寺へ向かって行くと、右手に無鄰庵と書かれた案内がある。そこから右手の露地に入り塀沿いに歩くと左手に無鄰庵庭園と彫られた石碑が見え、さりげなく開けられた入り口から邸内へ入り正面の白い塀の小さな潜り戸を潜ると、そこには騒然とした現代から隔絶した画のような静寂境が広がっていました。足許を流れる涼しげな小川のせせらぎに誘われるように、木造二階建ての母屋の正面に廻ると、広々とした芝面を浅い小川が陽を浴びてらきらきらと輝き、優雅な曲線を描きながら流れゆく光景が眼前に映る。爽やかな風が明るい庭を吹き抜けるのを肌に感じ、しばし母屋の縁側に腰を降ろし庭をぼーっと眺め尽くして時を過ごすと、気持ちが自然と穏やかになってゆくようです。遠く東山の峰を借景とし、起伏した地面を野筋風の芝面と低く刈り込まれたサツキが彩っている。明るく西洋的でありながら、どこか雅な王朝風といった趣きがこの庭から漂ってくる。
蹴上の琵琶湖疏水インクライン(明治40年頃)
豊かに庭を流れ貫通する琵琶湖疏水の水
無鄰庵の庭を流れる水は、琵琶湖疏水から引き込んだもので、この庭園が近代たる所以を示している。前述したように、山県は作庭にあたって植治に琵琶湖疏水の水を取り入れることを注文しており、植治はこれに応えるように貴重な水を迎える喜びを様々な手法で表現している。疎水の水は庭の東南奥から引き込まれ、醍醐寺の三宝院の瀧を倣ったといわれる巨岩で組まれた三段の瀧を勢いよく落ちていく。水はここから沢を軽やかな水音をたてて流れ、密に植えられた樹木に囲まれた広く浅いひょうたん型の園池で溜まって休む。そして、広い池の出口でぎゅっと絞られ、小川の早瀬を西北へ野筋風に開けた起伏ある芝面を緩やかに流れ、母屋の手前で屈曲して西南へ向かい、ここで南から流れてきたもう一筋の小川とぶつかり合流して幅広い川となって西へ折れて母屋と洋館の間を抜けて往く。
明るい芝面を小川が流れる 三段落ちの瀧


視覚を修正する造園術
植治が作庭で腐心したのが、三角形の変形した敷地を如何に扱うかであった。現十一代目小川治兵衛氏が監修した「植治の庭を歩いてみませんか」(平成16年白川書院)によると、植治は、視覚をあやつり修正する造園術を駆使したという。まず庭園奥の三角形の鋭角部分にある三段の瀧。直線的な瀧にせず、三箇所の高さから流れ落ちるようにして、視線を横に走らせ、瀧を幅のあるものに演出している。確かに、琵琶湖疏水を引き込んだ狭い取水口から右、左、中央とジグザグに位置を変えて流れ落ちる水は、どこか喜び勇んでいるように見え楽しい。
広くて浅い瓢箪池
そして、瀧から落ちた水は池へと導かれる。中央がくびれて二段落ちになった瓢箪型の池は、水深がわずか2,3cmときわめて浅い。底が透けるほど浅くすることによって、池に広がりが生まれることを狙った植治の意図は、庭の一番奥の瀧口側から池を眺めた時、石が点々と置かれた浅い池の水面が綺麗に横に広がり、実祭以上の広さに魅せていることから感じられます。また瓢箪型のくびれた部分が段になっていることで、池を立体的に見せ、一旦溜まって休んだ水が再び流れ行くことも予感させている。樅や杉などの樹木で囲まれ木漏れ陽のみで照らされた池から西北を望むと、視線の先には木の間越しに開けた芝面を緩やかに流れる小川と母屋が見え、ほの暗い渓谷から開放されたような明るさに満ちていました。野趣溢れる三段の瀧から岩が縁取る沢を経て浅く広い池へ至り、そこから一気に視界が開けて往くシークエンスは、きわめて作為的だが、見事としかいいようがない。
瓢箪池から流れ出た水は平安時代の遣水の如く、小川となって芝面を蛇行して母屋の前庭へ辿り着く。ここで植治は、庭が間延びしないように、この本流とは別の流れを反対方向につくり、広い前庭で二本の流れをY字型に合流させ視線が集中するように仕組んでいる。狭めたり広くしたり、また流れの方向を旋回させて合流させてみたりと・・植治の手で自在に操られた水は、視覚を修正するだけでなく、五感に訴えるかけるような豊かな表情を見せながら流れてゆく。その水辺には巨石が横たわり、低く刈り込んだサツキや草花が添えられ、流れの躍動感を引立たせているようです。
瓢箪池から母屋を眺める Y字型に合流する小川 母屋の脇を小川が流れて往く



Ⅲ.まとめ 近代的な庭園美
野趣に富んだ明治期の無鄰庵林泉
山県は、自ら想を練り指図した無鄰庵の庭をこよなく愛し、多忙な政務の合間を縫っては夫人を伴ってしばしば訪れていたという。政・軍・官に君臨した権力主義者という印象の強い山県だが、風雅に親しみ、庭の奥から聞こえる瀑布の響きや美しく流れるせせらぎの水音に耳を澄まし、東山を借景とした田園的な風景を眺めて国政で疲弊した心を癒していたと思うと、人間臭さを感じ微笑ましい。
明治期の京都の庭園は、伝統的な作庭による幽玄性などに重きがおかれ、ごちゃごちゃした茶庭くさいものや寺院の浄土式庭園なようなものが主流で、およそ雄大・豪壮という趣きから程遠かったという。近代人の山県はそのような古来の作庭を好まず、雑味のない明るくスケールの大きい庭を望んだ。無鄰庵の庭には、そうした山県の庭に対する理想が植治の手腕によって色濃く投影されている雰囲気がある。南禅寺界隈につくった一連の植治の庭に見られる密なデザインとは趣きを異にし、野趣に富み自然主義的で牧歌的な素朴さに溢れているのだ。生涯、自己を一介の武弁と称していた軍人山県有朋の庭園観が形となって現われているような気がしてならない。植木屋植治が造園家として開眼した無鄰庵の庭は、山県が基本構想を示し、植治が設計施工した近代庭園の先駆けともいえる作品で、伝統的な庭園がひしめく京都において近代の庭園美を謳いあげている。
参照文献
1)「植治の庭」を歩いてみませんか/十一代目小川治兵衛監修/白川書院発行/2004
2)「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
3)「日本の庭」/立原正秋著/新潮社発行/1977
無鄰庵 Murin-an,The Yamagata Villa
