9 月 28 2008

近代建築 modern

Published by 遠州

近代建築は19世紀末から20世紀初頭の欧州において、前時代の装飾性・様式主義を否定して機能的・合理的な建築を追求することから台頭し、以来その機能主義的思想が世界に普及して、新しい建築の潮流となっていった。日本に近代建築が輸入されたのは、大正末期から昭和初頭にかけた1920年代で、明治維新後の西洋化の波に伴って輸入されていたそれまでの様式主義の西洋建築に対して、革命的なものとして出現した。国粋主義が高まっていた昭和初期(1930年代)の日本に新興の近代建築を定着させる上で、鉄とコンクリート、ガラスなどの近代的な材料を用いて造られる近代建築に日本らしさ、「日本的なもの」を表現することが主題として設定された。様式主義を否定した革命的な近代建築の理念を日本に根付かせ、「日本的なもの」を模索する拠り所として、長い歴史に培われた過去の日本建築の伝統が求められたのは、自然な流れであった。そして近代主義のフィルターを通して伝統を再発見し、そのエッセンスを近代建築の中に再構成することで、日本的なものを表現していく営為が試みられていった。その成果は、幾つかの優れた近代建築として都市の中に立ち上がり、30年代の日本のモダニズムの隆盛に寄与した。

終戦(1945)後、廃墟から立ち上がった日本の劇的な復興と並行して、近代建築は50年代からオリンピックが開催された高度成長期の60年代にかけて質・量とも黄金時代を迎える。戦前に問われた「日本的なもの」をめぐる模索は戦後も引き継がれ、伊勢神宮や桂離宮などの伝統を触媒化して、時代を切り開いてゆくような近代建築の傑作が陸続と生みだされていった。そして日本の近代建築は東京オリンピックの頃をピークに70年の大阪万博でエンディングを向かえ終息していく。時代が変遷した21世紀初頭の現在、近代建築はdocomomoなどの活動からその歴史的価値が認められ、伝統建築のごとく文化遺産として認識されるようになった。このサイトでは日本の近代建築が刻んできた西欧的、かつ日本的な幅広い表現を現代の自分の眼で見直し、近過去の20世紀に築き上げられてきた日本の近代化の軌跡を伝えていきたいと思います。

The modern architecture appeared because it denied the principle of the aureateness and the form in the previous era in the Europe in the beginning in the 20th century from 19 pieces of the end of a century and pursued the functional and rational architecture, and the thought having to do with a functionalism spread since then to the world and became a tide at the new architecture. It is from the 1920s to the 30s that the modern architecture was imported into Japan and emerged as the revolutionary one to the western architecture of the form principle to it which was imported with the wave of Occidentalization behind the Meiji restoration. When fixing new modern architecture to Japan in the early stages ( the 1930s ) of Shouwa when the hundred-percentism was rising, it is iron and concrete. To express the seeming of doing Japanese being, ” the Japanese one ” in the modern architecture which is made using the modern material such as glass was set as the subject. It roots the idea of the revolutionary modern architecture in Japan and as for that a tradition at the Japanese architecture in the past which was cultivated by the long history as the authority who gropes about ” the Japanese one ” was sought, to be natural flowed each other. Then, it is a rediscovery mosquito, the essence in the tradition through the filter of the modernism. The routine which expresses ” the Japanese one ” in reorganizing in the modern architecture was tried. The result became some excellent modern architecture and stood up in the city and contributed for the prosperity of the modernism in Japan in the 30s.

The end of the war (1945) Concurrently, the modern architecture reaches millennium with the quality and the quantity, too,to the 60s of the high-growth period when the Olympics was hosted from the 50s with the dramatic revival of Japan which stood up later from the ruin. Groping concerning ” the Japanese one ” boiled before the war and to have asked it was taken over after the war, too, and it made a tradition in Ise-jingu and the Katsura Imperial Villa and so on a catalyst and the masterpiece of the modern architecture as it opens times was produced with the immediate proximity. Then, the modern architecture in Japan is a Oosaka expo in 70 in the peak in the time of the Tokyo Olympic Games and ends in the ending, that it is possible to head. In the present of the beginning in the 21th century when times were changed, the historic value was admitted from the activity of DOCOMOMO and the modern architecture became recognized as the cultural heritage like the tradition architecture. At this site, it reconsiders the European and moreover Japanese wide expression which the modern architecture in Japan carved with the eyes of it in today and it thinks that it wants to show the track of the modernization of Japan which could be built up in the 20th century of the near past.

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25 Responses to “近代建築 modern”

  1. 伊神on 11 11 月 2008 at 10:17 PM

    モダニズム古書REVIEW
    大正13年に時事新報社から出版された『新しい東京と建築の話』をネット(古本)で手に入れました。関東大震災後の帝都東京の四方山話を蒐集した書籍です。そこには吉田鉄郎が「現代建築の様式に就いて」や遠藤新の「建築家を坑にせよ」とか瀧澤眞弓の「誤れる建築の芸術化」今和次郎「芸術家の側から分離派の人達へ」塚本靖「新東京の理想」伊東忠太「復興の社寺建築」下田菊太郎「東京完成と復興建築の希望」佐野利器「復興後の東京市の面影」など当時の各界の建築家諸氏のテキストが掲載されています。復興への憶いと、ここから近代化への道を辿る帝都東京の少し前の雰囲気が伝わる好著です。
    −『新しい東京と建築の話/時事新報出版社編/時事新報出版社/1924』

  2. 伊神on 13 11 月 2008 at 10:29 PM

    モダニズム古書REVIEW-02
    先の蔵書に引き続きモダンの息吹きを感じることのできる本を紹介いたします。『趣味の近代層』であります。昭和初期のアサヒグラフ誌の「趣味講座」に連載したものを纏めたものです。担当したのは各界の学者、研究家、蒐集家、探検家などが広汎な趣味について縦断し、実に眺めた視点がユニークでした。とくに建築分野では「今日の建築:仲田定之助」「室内工芸の尖端を見る:蔵田周忠」「今日及び明日の工芸:宮下孝雄」「新興のグラス芸術:濱田増治」など掲載されていますが、他にマネキンや天文学、熱帯魚、洋犬、凧の話など、また「吸殻から見た世相:吉田謙吉」「都市美とポスター:橡内吉嵐」などは当時を知ることのできる貴重な資料研究ともいえましょう。こういったモダン雑学書が本書の特徴といったところです。
    −『趣味の近代層/朝日新聞社編/朝日新聞社/1930』

  3. 伊神on 25 11 月 2008 at 9:23 PM

    モダニズム古書REVIEW-03
    板垣鷹穂、坂倉準三が編集したモダン雑誌、『新興藝術』とそれを引き継いだ『新興藝術研究』は、建築や映画、写真といった新興藝術批評を各界の論者に委譲して編まれた希有な雑誌であった。薄い雑誌ではあるが、中身のグラビアとか吉田謙吉の表紙デザインも、エスプリを感じさせ興味をそそられる。ましてや論文の内容も当時の最先端を語るテキストとして貴重なものである。わたしが所蔵しているもの(『新興藝術3号』)には下記の論文が掲載されているが、とくに建築を生業としているひとには、恐らく興味が沸く内容であろう。「新ロシアの建築:香野雄吉」「現代建築の合理性と日本趣味:藤島亥治郎」「グラスのロマンティック:板垣鷹穂」「アルキペンコ作人体像への一考察:西田正秋」「エイゼンシュタインの「全線」:山田肇」「科学の革命家:マーツァ」であるが、新興藝術がモダンの最前線として拡充していく端緒を伝える貴重な雑誌であるのだが、古本相場では1万円/册単位であることがそれを示唆しているといえよう。因に『新興藝術』は5号まで、『新興藝術研究』は3号までで戦争のために休止してしまったとのこと。
    −『新興藝術/板垣、坂倉、岩崎、吉川、吉田編集/藝文書院/1929』

  4. 伊神on 01 12 月 2008 at 12:12 AM

    遠州様へ

    私が1998年〜1999年に企画した「近代建築行脚の旅路・見学会」シリーズは、関東近郊で保存が危ぶまれる建築を選択して下記のテーマで行われました。因に、10年を経て未だにすべて現存しています。遠州様、御参考ください。(すべて先方に予約してから行きました。)

    第 1回 1998.04.04(土) 丹下 健三      「東京カテドラル聖マリア大聖堂」
    第 2回 1998.05.23(土) 槇  文彦      「立正大学熊谷キャンパス校舎」
    第 3回 1998.06.13(土) 吉阪 隆正      「大学セミナー・ハウス」
    第 4回 1998.07.04(土) 今井 兼次      「大多喜町役場」
    第 5回 1998.08.22(土) 村野 藤吾      「日本ルーテル神学大学」
    第 6回 1998.09.14(月) 白井 晟一      「松井田町役場」
    第 7回 1998.10.06(火) 海老原一郎      「憲政記念館」
    第 8回 1998.11.12(木) アントニン・レーモンド「群馬音楽センター」
    第 9回 1998.12.10(木) 吉田五十八      「玉堂美術館」
    第10回 1998.12.28(月) 日建設計工務(林昌二)「パレスサイドビル」
    第11回 1999.02.20(土) 大江  宏      「法政大学55年館・58年館」
    最終 回 1999.03.22(月) 坂倉 準三      「神奈川県立近代美術館」

    番外編として
                   前川 國男      「神奈川県立音楽堂・図書館」
                   ル・コルビュジェ   「国立西洋美術館」
                   谷口 吉郎      「秩父第二セメント工場」
                   山田  守      「東海大学キャンパス」
                   吉田 鉄郎      「旧馬場烏山別邸」
                   ブルーノ・タウト   「旧日向別邸」
                   谷口 吉郎      「慶應幼稚舎」
                   堀口 捨巳      「八勝館」
                   田辺 淳吉      「晩香廬・青淵文庫」

  5. 遠州on 02 12 月 2008 at 9:56 PM

    10年が経過し、行脚した全ての近代建築が健在なのは、嬉しいですね!ただ、今後はどうなるか予断を許さない
    のではないかと危惧しています。これら1950、60年代の建築や戦前の近代建築にも、寺院や神社などの伝統建築と同じように、重要文化財の指定など国の保護が必要な段階に来ているのではないかと思う昨今です。

  6. 重源on 04 12 月 2008 at 11:06 PM

    遠州様へ

    この間見せていただいた古書『大東京冩眞帖』も当時のよすがが伺える好著でしたが、研究会で取り上げた建築評論家黒田鵬心が編集した下記の『東京百建築』は単体建物を扱った冩眞集です。参考までに復刻されましたが、高値ですね!

    書籍名: 東京百建築[復刻版]
    著者名:
    発行所: 不二出版
    判型: 190×260 ページ: 254
    価格(税込): \ 12600 価格(税別): \ 12000
    内容・概要
    本書は大正4年に建築画報社から発行された写真集で、明治初年より大正三年までに東京で竣工した100の建築物が収録されている。日本で最初の建築評論家として著名な、東大文科出身の黒田鵬心が編集にあたり、震災前の東京に於ける代表的な建築物を網羅し、各建築物の様式及び手法、起工及び竣工年月、設計者、監督者、施工者などのデータがそろっている。
    ■収録建造物一覧 
    (※=関東大震災で焼失・大破した建物)
    東京停車場/銀座協会/日本赤十字社本社/※三井銀行/※三菱第二十一号館
    赤坂離宮/伝通院本堂/東京商業会議所/日本勧業銀行/三井貸営業所
    内務省/※仏教青年伝道館/東京株式取引所/※興行銀行/渋澤貸事務所
    農商務省/※旧工部大学/※東京倶楽部/村井銀行/※三越呉服店/※海軍省
    東京帝国大学法科大学本部/※生命保険会社協会/森村銀行/※白木屋呉服店
    ※司法省/東京帝国大学工科大学本部/※大日本蠶絲会/※十五銀行日本橋支店
    ※松屋呉服店/逓信省/※東京帝国大学正門/大日本私立衛生会/※東京貯蔵銀行
    ※銀座貸商店/参謀本部/早稲田大学恩寵記念館/国技館/東海銀行/※高田商会
    ※大蔵省専売局/東京美術学校本館/遊楽館/※豊国銀行京橋支店/丸善株式会社
    ※警視庁/※東京美術学校図案家教室/吾楽/麹町銀行四谷支店/岩井商店東京支店
    大審院/東京高郷工業学校本館/※新橋停車場/※紅葉屋銀行/林小兵衛商店
    京橋電話局/上智大学/※万世橋停車場/※若尾銀行東京支店/近江屋伴伝商店
    東京府庁/明治大学講堂/※帝国劇場/※共栄貯金銀行/富山房/※英国大使館
    ※聖心女学院/※歌舞伎座/明治生命保険株式会社/東京堂/※露国大使館
    ※仏英和女学校/※本郷座/※愛国生命保険株式会社/エフ・ダブルユー・ホーン商会
    東京帝室博物館/東京工科学校/※有楽座/※日之出生命保険株式会社/安藤組
    表慶館/泰明小学校/福沢演舞場/第一生命保険株式会社/※黒澤タイプライター商店
    ニコライ会堂/慶應義塾記念図書館/帝国ホテル/東京火災海上保険株式会社/伊東屋
    ※青年会館/※日比谷図書館/※築地静養軒/※秀英舎/奥田油商店
    天龍門/南葵文庫/日本銀行/内国通運株式会社日本橋集荷所/原島自動車店

  7. 遠州on 05 12 月 2008 at 10:21 PM

    重源様
    「東京百建築」 南洋堂のウエブサイトに載ってましたが、表紙がレトロなデザインで復刻版ていう趣でした。
    明治・大正時代に完成した建築は、関東大震災や戦災、老朽化による解体、バブル期の再開発などで喪われているものが多いから写真やデータが網羅されている本は貴重ですね。もう少し、安ければよかったんですが・・・。

  8. 重源on 16 12 月 2008 at 1:46 PM

    こんにちは、伊神です。

    神奈川県横須賀市にあり相模湾に面し建てられた旧竹田宮別邸は設計者が不明である
    が、かなり無垢なモダニズム建築である。相模湾から直接に舟でこの住宅に乗り付け
    ることができるらしい。それをプールにすればアーキテクトニカで担当したレム・コー
    ルハースのスペアー邸そのものだ。外観は表現派ではないメンデルゾーン風でありな
    かなか構成も手慣れているデザインである。年代が1931年とクレジットさせているが
    それが本当であれば朝香宮邸のアールデコの少し様式ばったものより断然、モダニズ
    ム建築としては貴重な作品といえよう。台風で護岸が崩れたらしいが、落ちた石を拾っ
    て改修するなどオーナーのこだわりはすごいらしい。
    PS
    前川國男の木造自邸はたてもの園にあるが、1978年に其の場所に改築されたコンクリー
    トの自邸(晩年まで過ごした)が昨年デヴェロッパーに渡り、もうこれまでかと思わ
    れたが、フランスの不動産家の娘に助けられたらしい。5億強で買い取ったらしい。

    こういったことは
    造ることが第一と思っていらっしゃる建築家先生諸氏には・・・こんなことはどうで
    もよい話しなのであろう。

    下記は旧竹田宮別邸のサイト
    http://www.kindaikenchiku.com/yokosuka/yokosuka_t_miya_tei.htm
    http://members.at.infoseek.co.jp/tomosuzu/yokosuka/stakeda.htm
    http://kagetsurou.sub.jp/takeda.html

  9. 遠州on 20 12 月 2008 at 4:14 AM

    もう年の瀬ですね!遠州です。

    横須賀の旧竹田宮別邸、ネット検索して画像を見ました。確か以前TVで著名な玩具コレクターのお宅として紹介されいました。湾に迫り出した外観は、船舶のメタファーのようで、夕暮れ時など素晴らしい眺望が楽しめそう!自宅だけに中を見るのは無理でしょうが、外観だけでも一度拝見してみたい建築ですね。

  10. 伊神on 15 1 月 2009 at 10:23 PM

    モダニズム古書REVIEW-04
    モダン、取り分け住宅の空間で大きな変革を齎したものは台所廻り、所謂「家事」空間ではなかろうか。建築家も機能主義的な生活を実践し他者に積極的に啓蒙したのであろうが、戦前にはまだそういった計画のハウツウ本は出版されてはいなかったといえよう。戦後にその変革にメスを入れたのが、濱口ミホであり、彼女の『日本住宅の封建生(1950)/相模書房』は戦後日本における近代的住宅を積極的に推量った素因となった。ただ、戦前において小池新二という千葉大学の建築工芸評論家によって訳述されたものに『新興家事学』というものが出版されていた。これはドイツのエルナ・マイヤー女史(家庭科学の研究で博士号を取得)によって描かれた『新興家政』(ドイツ政府の推薦書で4万部を売り上げた)を小池新二が要約したもので、住居の問題を家事という観点から問題提起している。「経済原則」「台所の設備」「調理の準備」「食器と台所の始末」「作業を節約する台所の器械・器具」など合理化促進への奇策が描かれている。表紙は、当時商工省工藝局技師の豊口克平がデザインに協力している。
    −『新興家事學/エルナ・マイヤー著小池新二訳述/佐藤新興生活館/1937』

  11. 伊神on 30 1 月 2009 at 11:04 AM

    今號のINAX REPOERTの特集は、生き続ける建築は「蔵田周忠」著書の解題は『民家は生きていた:伊藤ていじ』です。
    蔵田周忠のテクストは日大の大川さんが纏められております。蔵田というひとは住宅研究会でも取り上げましたが、幅広い建築活動をし、デザイナー=建築家という枠を取っぱらいモダニズム啓蒙の立て役者たる建築家でした。差し詰めわたしは仕事で京王閣に縁があったこともあり蔵田との邂逅を果たしてからいままでに彼の大著を蒐集し、爛熟した日本のモダニズムを研究、多大なる今日的な発見をさせてくれました。ただ、現存する作品が少ないなか、今回の特集で「百十三銀行本店」や等々力ジードルング計画で生き残った「三輪邸」が存在していたことには驚きでした。逓信博物館のサイトにあった米川邸と勝野邸も豊富な冩眞で取り上げられています。ワルター・グロピウスが自身の展覧会のために来日した時の冩眞や今和次郎、竹内芳太郎と写っている冩眞などは貴重なものでしょう。蔵田周忠の立ち位置は啓蒙家だけではすまない卓抜なるデザイナーとしての気質も伺えていて興味がつきないと僕は感ずるのです。また、著書の解題では伊藤ていじさんの元気な姿を拝見して安堵した憶いを抱きました。内藤さんとの対談で「一度、死んだ」と言った病との格闘話しなど、このひともある一介の研究者に留まることなく幅広い活動をした旨が語られています。川上、磯崎との住宅愚作論から始まる論客家、乃至は鋭い批評精神は、日本の伝統問わず、重源論に至り、新しい視点を建築界に投げかけてきたのだなあ〜と就中感じ得たのだが、
    冒頭で話されていた8000字なるテクストがどういう視点で描かれようとしているのかは・・・この閉息した建築界にこの老翁頼りは何とも情けない限りである。・・・と思っている。デザインを既得権益にしていてはビジョンは見えない・・・ということを彼らから教えられようことを幾程の建築家諸氏がわかっているのか・・・わたしには知る蘆はない。

    まだ、転載されてはいないが、暫くすると下記サイトで見られます。
    http://inaxreport.info/new_book.html

  12. 伊神on 03 2 月 2009 at 10:06 PM

    わたしが、貴殿に以前紹介した長谷川尭著『都市廻廊−あるいは建築の中世主義』の中公文庫版のものですが、南洋堂書店で3000円でした。また、篠原一男の『住宅建築』も同じ値段です。文庫版でありながらこのような値段がつくのも貴重価値の故なのでしょうか?その長谷川さんが敬愛する村野藤吾の「大阪そごう本店」が売却の潤わしき目にあいそうです。ちょっとした改修が外観には加えられていますが、当時の面影を残し存在していましたが・・・ついにその時がきましたね!売却先にもよるのでしょうが、建築の儚さを思い知らされる今日この頃です。

  13. 遠州on 06 2 月 2009 at 11:52 PM

    大阪そごう本店は、村野藤吾氏の設計で1935年に竣工した近代建築。村野氏の30年代は、そごうと並ぶ百貨店の名建築の大丸や森五商店ビル、大阪パンション、大庄村役場、宇部市渡部翁記念会館、比叡山ホテルなど当時の先端だったインターナショナルスタイルの建築を鮮やかな手際で連作していた戦前の充実期でしたね。
    確か大阪そごう店は、2000年に経営破綻し民事再生法を申請して撤退してから、また2005年にそごう再生のシンボルとして創業の大阪店跡地に復活オープンした筈でしたが・・・やはり再生は無理でしたか。もう百貨店という業態自体が、今の消費者の嗜好に適応出来なくなってしまってるような気がします。こんな結末を迎えるんだったら、村野氏が戦前の前衛的な感覚で創った貴重な近代建築の旧大阪店をそのまま保存していたらと思いますが、社会資産としての建築の価値を見据えた保存は困難を極める一方の状況です。

  14. 伊神on 21 2 月 2009 at 11:23 AM

    日経に発表された歌舞伎座と東京中央郵便局、それぞれに歴史重みを抱えた名建築と誰もがそう思うのであろう。時代の趨勢とはいえ、このような高層建築+皮一枚(エレベーション)という、これしかないという提案に日建や三菱などの若い設計担当者、否社長のポリシーに嘆かわしい現代建築の新しきヴィジョンが全く持って伺われないのは扱く残念ではある。このような事態を紐帯できる建築家の人材不足ともいえるし、若手中堅の消極的な「社会的有効性のみに特化」「負ける建築」「制度依存」「流行遊戯的」は、雁字搦めの法改正の呪縛から抜け出て、未来の明るい兆しさえ見えない設計業界である。政治もそうであるが、指導者言わばリーダーが他者からの依存供与を授受しているこのような風体では、そういったひとたちも疎かそこで働くひとからも未来へ向けたビジョンというよりも、個人の権利を守るのみという多利主義を蔓延させているとしかいえない人間社会学的な欠陥構造が今世紀に露呈してくると思えてしょうがない。メディアまたは社会的には、少なくとも明るく振る舞うことが人間的(常識)だというレッテルがこの社会構造を介して平和的に、また安易に、文化的な事についても形式的なものとしてしか受容できないというジレンマを、今日の社会情勢を見て思う次第である。改めて戦後世代の我々は未来をどのように描かなくてはならないのかを営利も大事ではあるが真摯に考えるということを自戒しなくては、いま自分では新しいことに挑戦していようとも、それは建築と社会の難無く平穏に取り繕うといったことで、それは停滞なのであろう。そんなリーダーも望むべくもなく時は、ただひたすら流れて往くだけなのである。「おりこうさん」な物言いはもう止めようではないか、それよりも本意を証してほしいものである。

  15. 伊神on 22 2 月 2009 at 10:05 AM

    先日(平日)、遠州さんから前川國男設計の東京文化会館(1961年竣工)の見学会のお誘いを受けて参加してきました。他の音楽ホールと比べ稼働率の高い(館長より)このホールの見学はリハーサルなどあって困難きわまりないなかでの見学でありました。屋上から裏方(楽屋など)、管理部門など隈無く駆け回って観てきました。わたしも以前に前川國男の神奈川県立音楽堂の見学を実施したこともあり、この晩年の大作と謂われる「東京文化会館」も併せて拝見できたことには満足ではありますが、この建築には少し躊躇した観も抱いていました。あの大庇といいコルのボキャブリーで埋め尽くされた建築にこの現代が乗り越えるべき創造の限界を思惟していたからです。要するに向かいの国立西洋美術館の純粋幾何の抽象体を醸していないからであろうと勝手に考えておりました。まあ、台形の要素(デザイン上)やマテリアル(素材)のリアルなことなどが日本の伝統観を中途半端に介入させていることにあるのだろうと・・・・。3回ほどコンサートに訪れたことがあるのですが、あの壮大なるホワイエの空間を謳歌した覚えがなく、ただ音楽を聞きに訪れただけと言えたでしょう。合理的な枠組みだけからであれば、あのような空間は生まれてこないだろうと改めて前川國男の音楽・オペラへの憶い入れを感じ入りました。とくに今回は小ホールに入るのははじめてであり、あの即物的な石の扱いに驚いたのと、楽屋の柱や壁に描きつづられた大作家の落丁めいたサインが絵画のような痕跡を空間に与え舞台へ出るまで緊張感というか逆に楽しさが伝わってくるものでした。あの大庇の屋上に上がれば、眺望が爽快で周辺の国立西洋美術館や吉田五十八の芸術院会館が俯瞰でき、改めてこの地が高台にあることを気づかされます。塔屋のデザインもコルを意識したデザインであり下から仰ぎ見えないといえども手抜かりのない意匠心に魅いられます。この建築設計の苦労話しを当時の雑誌で伊藤ていじやレイモンドが述懐していることからも理解できるのでしょうが、改めて前川國男の男気を感じるデザインに感無量の持ちで帰ってきました。近々に遠州さんのウェブサイトに掲載される予定でしょうから詳細はそちらを待ちましょう。

  16. 伊神on 03 3 月 2009 at 10:26 PM

    伊神です。酩酊といえば中川大臣であったが、再開発案が決まって動きだしたかにみえた東京中央郵便局に待ったがかかった。(選挙からみもあるやもしれないが、救世主となってくれればと思っている)

    「酩酊する東京中央郵便局」

    いま、かんぽの入札問題で、日本郵政と国で揺れている。これが発端で鳩山邦夫大臣が日本郵政に噛み付いてる。そこで本丸の「東京中央郵便局」の建て替え計画へ、ついには波及したかたちとなった。わたしから言わせれば「いまさら何だ!」と言いたい。これまで保存に尽力し活動してきたひとたちのエネルギーが吹っ飛んでしまう出来事と感じた。聞くに及ぶと日本郵政は文化庁から言われた「改築案では重要文化財指定を解除する」ということを東京都に話しをせずに役所手続きをし本計画を実施しようとしていたらしい。まあ、これまでの経緯を見れば、設計入札(ヤーンは表向きで三菱地所が獲得)や業者入札(大成建設)も、これまでの対応を見れば怪しまれることも承知で強引に奨める開発業者の利益優先の方針と日本郵政の姿勢は、いくら民と言えども歴史的(一般からすれば建築なんかは文化というよりも資産としか感じないのであろうが)観点にたてば、鳩山大臣が言われるとうに国の恥じとか国辱と言われてしかるべきであろう。前から一部の議員(河村氏など)を巻込んでの保存要望の運動を起していのだが、それが鳩山大臣には届いていなかったのか?。こんな文化庁や申請を許可した東京都、それに政治家たちの本意は、国を良い方向へ舵をとるというヴィジョンがすでに欠けているし、以前にも話したのだが建築に携わるひとたちのモダニズム建築への理解が一般人は疎か優秀なる建築家のあいだでも議論とならないのは寂しい限りである。この惨事を見ていて日本の将来が、このこと(麻生政権)だけではなく行末が偲ばれてしようがない。即刻、文化財に指定して郵政博物館として本体を使い継続させ国民にこれまでの郵便事業の歴史やあり方などを公開する場として活用して欲しい旨を望む次第である。言っておきたいのは、日本にとってモダニズム建築の最高峰(端緒でありデザイン的にすぐれ、教育的価値が存する)でああったということを・・・。

  17. 伊神on 04 3 月 2009 at 10:34 AM

    遠州様、時間があったら御参加ください。

    シンポジウム「近代建築史の最先端」
    第5回 近代(日本)×近代(西洋)−「機能主義」再読の可能性

    近年の近代建築史研究の深まりは、これまで通説として理解されてきた
    近代建築の理論とその枠組みに対し、さまざまな角度から再考をうながし
    てきている。その成果は、従来の近代建築史像に修正を迫るだけでなく、
    新たな研究手法の展開を予期させるものがある。近代建築を生み出した
    西洋と、それを受容してきた日本、両者の近代建築史研究を横断する共通
    のプラットホーム構築の可能性も、そのひとつと言えよう。たがいの問題
    意識を共有させることで、近代建築の新たな読解可能性や、これまで見過
    ごされてきた姿が逆に浮かび上がってくるのではないだろうか。両分野で
    新たなアプローチを試みている研究者を招き、その研究成果を披露いただ
    きながら、近代(日本)と近代(西洋)の「交配」の作業を試みていきたい。

    <主催>建築歴史・意匠委員会 近代建築史小委員会
    <日時> 2009年3月13日(金)13:00〜17:00
    <会場>建築会館会議室
    <定員>50名
    プログラム
    1.主旨説明:藤谷陽悦(日本大学)
    2.各論発表
    Part ㈵:モダニズム運動の震源へ
    1)「ヴァルター・グロピウスの機能主義とその特性」
      冨田英夫(呉工業高等専門学校)
    2)「山口文象の『ドイツ日記』を読む」
          田所辰之助(日本大学)
    コメンテーター:大川三雄(日本大学)

    Part ㈼:合わせ鏡としてのル・コルビュジエ
    1)「フーゴー・ヘーリンクのCIAM離脱と高層住宅−低層住宅論争」
                中江研(神戸大学)

    2)「前川國男と日本−太平洋戦争下の思考」
          松隈洋(京都工芸繊維大学)
    コメンテーター:千代章一郎(広島大学)
    3.パネル・ディスカッション−「機能主義」再読の可能性をめぐって
    司  会:西澤泰彦(名古屋大学)
    パネラー:各論発表者
    4.まとめ :足立裕司(神戸大学)

    参加費:会員1,500円 会員外2,500円
         登録メンバー2,000円 学生 1,000円
    申込方法:E-mailまたはFaxにて、催物名称、氏名、勤務先・所属、
    同電話番号、E-mailアドレスを明記のうえ、申し込んでくだ
    さい。定員に達した場合は、お断りの方にのみご連絡します。
    申込先:研究事業G 酒井
          E-mail: sakai@aij.or.jp  Fax:03-3456-2058

  18. 遠州on 04 3 月 2009 at 9:46 PM

    建築学会シンポジウムの連絡、ありがとうございます。

    西欧で生み出された近代建築とそれを受容した日本。西欧における近代と日本の近代を問い
    直す意義深いテーマですね。特に、山口文象氏と前川國男氏がどう論じられるかに興味があります。
    何とかスケジュールを都合して、3月13日は出席しようと思います。

  19. 伊神on 06 3 月 2009 at 11:42 PM

    「建築家たちの東京中央郵便局に対する不穏な憶い」

    この東京中央郵便局の保存問題が、鳩山大臣のおかげでメディアに取り上げられるなか、建築諸団体の動きが鈍いのは、やはり建設業の馴れ合い体質を意識しての実態であろうと思われる。況してや建築家協会のマスコミへのアッピールも名声のない建築家の集まり(運動)ではどうしようもないのは扱く当然ではないだろうか。少なくとも日本における世界的な賞を受賞している建築家の先生方から何らかのメッセージが必要なのであり、それが聞こえてこないのはどういうことなのか?。帝国ホテルを守れなかったのが惜しまれて忍びないと語っていたのは、壊されてゆく明治の建築を保護し、明治村の開設に尽力した建築家谷口吉郎であった。大正や昭和の建築も、一般にひとが抱くほど明治の建築に比べて劣るような建築では決してなかったはずであろう。一般のひとが東京中央郵便局をどうでもよい建築と評するのはしょうがないにしても、いまの建築家の姿勢がデザインの既得権益だけで建築家として署名され、旧いものを顧みない・・・これは将来、日本に於いて大きな痛手を負うであろうことは間違いない・・・果たして建築家の責務とは何だろうか・・・考えさせられる。きっと吉田鉄郎だけではなく戦前の建築家たちの落胆乃至は罵声が聞こえてきそうであるのだが、いまの建築家たちの東京中央郵便局に対する不穏な憶いが本意であるならば残念でならない。

  20. 伊神on 23 3 月 2009 at 11:49 AM

    「東京・大阪中央郵便局の緊急シンポジウムに参加して」

    昨日、東京・大阪中央郵便局の文化的価値を知ると称した「緊急シンポジウム」に参加してきました。わたしは、以前から国宝級の価値がこのモダニズム建築(大阪ではなく東京に於いて)には存在するという一点に於いて、その動向に注視し、且つ保存活動をしている会の方々にも微力ながら協力も惜しむなく、それまでに行われてきた合計3回ものシンポジウムに参加してきました。今回の「東京中央郵便局」という建物の重要性についての認識が一般は疎か専門家(著名な建築家たち)並びに学者にも甚だ薄いという状況に落胆は隠せないのですが、パネリストであった法律家の五十嵐敬喜氏(法政大学教授)が述懐したように「「文化的価値」はお題目で「営利」が本意の都市開発を民間の大手企業(ジャーナリズムや広告、メディア、建設など)、政治家、官僚、学会(都市計画学会)といった国策巨大連合(「大、丸、有」と言っていた)で薦められれば、これは小さな保存運動の会など太刀打ちできないであろう」・・・という意見は核心をついていて、これは民意を果たして反映している社会構造なのだろうか・・・と五十嵐氏も問うていたのだが?。そもそも民意など虚構で、知らないところで真の民意が反映されない国家政策が確立されているのではないだろうか・・・云々と思いたくもなる発言であり、興味を惹いた。しかし、学会会長の齋藤公男氏は開会の挨拶をして半ばで退席されたし、建築評論家(学者でもある)である布野修司氏(滋賀県立大教授)、建築家(学者でもある)である宇野求氏(東京理科大教授)はその国策巨大連合への配慮を込めた玉虫色の意見で茶を濁したぐらいで説得力を欠いたものであった。彼らも所詮、主催である建築計画委員会の立場上(逆に歴史意匠委員会からの積極的な参加が見られなかった)のことで参加されていることが見え見えであり、以前から保存運動に関わられていたパネリスト(前野、南、多児氏)のお話を補填するような見解は聞かれなかったことは残念であった。それ以上に、参加者の少なさは決定的であった。これが丹下健三の「代々木屋内競技場」となれば変わるのだろうか・・・?。ひょっとしてその国策巨大連合形成の中心的な人物であった丹下であろうから、瞬時に保存すべきであろうという見解が、現在の著名な建築家たちも含めて検討されるのだろう。・・・恐らく建築ということに限って言うと、いまの日本には真の文化的価値を公平、平等に判断できるひとは皆無といってよかろう・・・国策巨大連合に迎合していては・・・。それよりも最近のモーガン邸、俣野別邸、吉田茂邸といった文化財の全焼(放火とも噂されている)もそういった風潮批判に起因していなければよいのだが・・・思う次第である。

  21. 伊神on 22 11 月 2009 at 10:15 AM

    「東京中央郵便局舎の情けない姿形に一言」

    先日、「逓信建築から郵政建築への軌跡」と題して元郵政省建築部の観音克平氏による講演会があり参加してきました。しかし、期待していた逓信・郵政建築の真髄とは何か・・・謂うなれば、建築界での位置づけといったものまで及ばず、歴史的変遷の紹介と各々の作品の概要説明に留まり、また最後のスライドで東京中央郵便局の工事現況と大阪中央郵便局の構想案(設計は日建設計)の映像を見せられ、それを冷静に説明し聴講しされていた郵政省のOBたちの楽観した雰囲気や態度に驚くばかりでした。そのこと以上に、東京駅に降り立って、東京中央郵便局舎はいま、どうなっているのかな?・・・と仰ぎ見て、愕然とした光景の映像に・・・ショックを隠しきれないほどの脱力感で、ただ呆然とするばかりでした。あの鳩山問題以後の郵政の方針である東京駅に面した部分は少なくとも保存するとの話しはどうなったのか?それは、あくまでフェイク(見せ掛け)にするつもりでのカット(一部解体)なのか????。旧・設計者であった吉田鉄郎デザインの命であるカーブのついた面へメスを入れた現・設計者である三菱地所・建築家(担当者)の見識を疑うのと同時に、・・・これが21世紀型建設術なのだろうか・・・と。資本経済で民衆を手玉にとって会社存続のために、建築家の魂を売って生きてゆかねばならない建築家と呼ばれるサラリーマンの性なのでしょう。いま、山口文象と大谷幸夫との対談「建築はどうなる」(1972年夏季号『建築家』より)を読み返し鑑みますと、彼らが危惧していたこと(社会には迎合しない姿勢や精神、思想が消えゆくこと)、そのものが今の建築家に侵犯していると・・・このような行為(責任の所在のわからない)を見て憶う次第でありますが、郵政社長であられた西川氏更迭が引き金なのか、東京中央郵便局舎を愛するひとへの腹いせともとれる行為・・・わたしには一生忘れ得ぬ出来事となってしまった。因に帝国ホテルが陥落(解体)したのは昭和42年(1967)で42年前の出来事でした、いわば「死に(4シ2ニ)」再び居合せてしまったともとれよう。

  22. 伊神on 01 12 月 2009 at 11:42 PM

    「モダニズム古書REVIEW-05」

    随分御無沙汰になりました。
    大正から昭和初期にかけて夭折した優秀なる建築家には逸材が多い。就中、東大の伊東忠太が惜しんで已まなかったのは長谷川輝雄であり、また早稲田大の佐藤功一が惜しんで已まなかったのは中村鎮、それに東京美術学校(芸大)の岡田信一郎が惜しんで已まなかったのは後藤慶二であった。彼らの作品及び評論は突然の死によって書籍として纏められずして逝くなってしまい、死後に妻君や雄志によって遺稿集(非売品)として残されたのであるが、これぐらいしか彼らのことを理解する術がないため、いまでは大変な稀少本(高価)として夙に有名である。もうひとり曽根中條建築事務所の高松政雄を加えれば、遺稿集4部作と建築古書業界から呼ばれているようである。戦中や戦後の遺稿集などは追悼文などが主であるものが多いのだが、とくに今回紹介するものは作品・評論集の体裁であり、彼らを知る決定版的なるものであるが、そこに顕現される寡黙な作品から伺われるデザインの秀逸さは同時代の建築家たちを凌駕するほど魅惑的であり、今日の建築界に於いても見劣りしないほどの内容であることは疑いようはないでしょう。因にわたしは、『高松・・・』以外を所持しています。
    −『後藤慶二氏遺稿/中村鎮編集/後藤芳香発行/1925』
    −『長谷川輝雄氏遺稿/長谷川輝雄氏遺稿刊行會編集/二見秀雄発行/1927』
    −『高松政雄君の制作と著作/中村啄治郎編集/中村啄治郎発行/1935』
    −『中村鎮遺稿/中村鎮遺稿刊行會編集/中村音羽発行/1936』

  23. 伊神on 02 12 月 2009 at 11:21 AM

    「モダニズム古書REVIEW-06」

    申し訳ありません、前回(REVIEW-05)の補遺を致します。
    わたしが崇敬する夭折した優秀なる建築家は、恐れながら彼らだけではありません。わたしの記憶では、岩元禄(1893-1922、享年29才)、野田俊彦(1891-1929、享年38才)、立原道造(1914-1938、享年24才)が脳裏に過ります。立原道造は大東亜戦争動乱の折で「四季」の追悼号や「新建築」の追悼記事が出版、掲載されただけで遺稿集は、山本書店で発刊された「立原道造全集3巻」に建築のことが詳らかに追記されたに過ぎませんでした。また、岩元禄に関しては遺稿としての出版はありませんでしたが、先頃亡くなられた向井覚さんの手によって纏められた著作がそれを補填し得るものとして戦後の昭和52年に出版されました。そして、野田俊彦も遺稿集といった本ではありませんが、「建築画報」という戦前の雑誌の特集號(故野田俊彦遺作集)に全頁に亘って掲載され、それはさながら遺稿集の体裁をとっております、如何せん「雑誌」というペーパーなので残存する可能性が少なく業界では幻的なるものとされているようです。こういった書籍から非凡なるものを彼らから享受されるのですが、昨今の社会的評価ありきだけに与しない彼らのパトス(情念乃至は信条)の強さを改めて感じさせてくれます。
    −『建築画報第21巻第4号(1930年4月号) 春季特集 故野田俊彦遺稿集/建築画報社発行/1930』
    −『建築家・岩元禄/向井覚著/相模書房/1977』
    −『立原道造全集 全三巻/堀辰雄、生田勉他編/山本書店/1941』
    *その後、建築に於ける未資料を補填して本年に下記が出版されています。
    −『立原道造全集 第四巻/中村稔、鈴木博之他編/筑摩書房/2009』

  24. 伊神誠治on 28 1 月 2010 at 11:28 PM

    今後は、過去の研究会(近代建築家論)のレビューを掲載してきます。
    第1回は
    2005.02.26/研究会−篠原 一男より

    『住宅は芸術たりえるか』

    今回から保戸田氏の企画による新たなる研究会が始まった。第1回は彼の最も敬愛する篠原一男である。「シノハラスクール」と呼ばれる東工大を中心としたシューレ(学派)をはじめとして、いまの現代若手建築家からは、インテリアの倉俣史朗と二分するほど、影響力を持った建築家とされている。その魅力とは何なのか・・・これが、最大の問題提起となるはずであり、その芸術性たる所以を探究することが、今後に展開されるこの研究会の骨子ではないかと感じる。篠原一男のイメージはどうしても住宅作家という歴史的なイコン(評価)が付きまとうのだが、ただ、ここが現代の建築家を惹き付けて病まない点であることも確かな事実であるようだ・・・・。彼がデヴューして間もない頃、「すまいは広ければ広いほどよい(新建築1961年1月号)とか「住宅は芸術である(1962年5月号)」、「現代の住宅が表現するものは、しかし、調和した美ではなく、混乱した美であっていい(『住宅建築(紀伊國屋書店)』1964)」といったアフォリズム(警句)を建築アカデミズムに提起し、非難の矢面に立たされていたのだが、それでも彼は、迷わず数々の言説を建築界に投げかけ、新鮮味あふれる作品(問題作)を提供し続けてきたと言える。・・・とここで終わっては問題提起にはならない。今日、住宅はおしなべて、とても高価な実用品として売られているのがほとんどと言える。それは、いまにはじまったことではないのであるが、ちょっと過去のそれとは異なる気がしているのは住まうであろう家族のイコンや生活美らしきものが存在しないことであり、痕跡も見えないし、またセレクトした生活を嗜んでその気になっている点ではないかと感じる。建築家の設計した住宅にもそれを後押しするセレクターとして臭いがつきまとう。こんな話しは、今回のテーマとしてあげられた「篠原一男」には相応しくないのであるが、先きの論文の「住宅は芸術である」を、いま「住宅は芸術たりえるか」というかたちで問題提起してみたい。篠原一男は、一般には東京工業大学の建築学科を卒業されていると思われがちであるが、実は東北大学理学部の数学科を卒業している。その後東京医科歯科大学で教鞭をとっていたのだが、数学科の助教授の席をあっさり蹴って、建築を一からやりはじめた特異な建築家である。それが、その後の建築作品や論文などにも影響が伺われるのだが、時代は戦後すぐのことである。ちょうどその頃、清家清は東工大助教授として研究室を持ちつ、森邸、斉藤邸、宮城邸といった住宅三部作でデビューし各界から評価を得ていた、そこに篠原は助手としてしばらく在籍した。同研究室には故・林(旧姓山田)雅子、故・番匠谷尭二、宮坂修吉といった、清家研ではあるが、インフォーマルな住宅作家としてそれぞれが活躍していたが、頭角が顕われたのは、篠原と林であった。同じ住宅作家でありながら「住宅=建築、はたまた芸術」へと推し量った篠原一男に対し、林雅子は「住宅=建築はたまた生活」だったと言える。ただ、夫の林昌二の影響を見逃す理由には往くまいのだが・・・・。1954年、東工大清家清のもとで設計した実質のデヴュー作、「久我山の家」は、丹下健三設計の「住居(自邸)」よりもやや発表がはやいが、木造の美学を徹底し、追求した丹下の思惑とは裏腹に鉄骨造で挑戦した巧拙が浮き彫りにされた作品ではあった。しかし当時主流とされたモダンリビングとは一線を成していた篠原流の日本伝統に裏打ちされた空間構成のイデアは、その後の第1の様式の最後作「白の家」まで形象化し、数々の論文と併せて、「住宅なるもの」を建築のいき(境界)まで引っ張ってきた。しかしながら1958年にARCHITECTURAL DESIGN誌から「桂離宮とミースの強い影響がある」と紹介された事に対して、篠原は「日本伝統への強い憧憬から変わった私の最初の作品へのこの批評は楽しかった。」と言うオプティミスティックな回答を寄せている。それは、彼のデヴュー作としては最大の褒め言葉であったからであろうか、はたまたその後の民家集落への憧憬や他分野の哲学からの影響を悟って、想起したものだろうか?そうはいっても、桂とミースは晩年にいたるまで、彼の美学の根底に秘めたる武器、弾薬として、就中(なかんずく)登場した芸術を語るキーワードであった。ところで、先きに問題提起した主題から逸れてしまったが、「住宅は芸術である」といった「芸術」の本質を篠原一男は、決してクライアントの意向を無視してまで、己のかたちや空間の美を、小さな住宅に顕示してきた理由ではないと思う。それは豪華絢爛な空間や贅沢な材質を翳すといった芸術を陋劣するような行為がその設計行為には見られないからである。例えば「いま、住宅はアートである」といったらどうであろう?それは西洋言語に置換したとたんに・・・不動産会社が企画するデザイナーズマンションのキャッチコピーの一部と化してしまうだろう、それほどに、いま「芸術」の意味は建築界にとって、骨抜きにされているのであり、・・・だから逆に私は、「住宅は芸術たりえるのか」と問いたいのである。

    伊神誠治

  25. 重源on 01 4 月 2010 at 11:22 AM

    第2回は
    2005.3.23/研究会−レム・コールハースより

    ■レム・コールハース研究会(2/23)への問題提起

    『建築のエステティーク解体新書』

    まずはじめに、私にとって印象的であったのは、レム・コールハースの経歴である。それは、大学も出ず、18歳という若年でアムステルダムの『ハーグポスト紙』のジャーナリストからはじまり、『デ・ブランケ・スラフィン社』の映画・脚本作家として働いたという社会的ベースを持ち合わせていたことであった。その後に、ロンドンのAAスクールで建築への転身をはかり、いまでは押しもおされぬワールドアーキテクトの地位を不動にしているのだが、彼の建築観というのはやはりそれらを規範とした形式性に依拠していると言わざる得ないのである。

    「私は、建築の本質は社会的イマジネーションの一形態だと考えていますから。建築家であればあるほど、私は台本を書く人と建築をする人との間に強い類似性を見い出します。」
    (レム・コールハースへのインタヴュー「ディコンストラクティヴィズムへの系譜:レム・コールハース」より)

    レム・コールハースのデヴューは、あまり知られてはいないのであるが、実はOMA(Office for Metoropolitan Architecture)結成の以前にある。マイアミを拠点に活動していたアルキテクトニカという建築家集団を御存じであろうか?その5人のヘッド(現在は2人)のひとり、ローリンダ・スピアー女史のもとで設計した彼女の自邸(スピアー邸)に参加協力をしていたのであり、それが実質の処女作となった。見てもおわかりのようにアルキテクトニカのドローイングには、後のOMAのレンダリングのタッチに近似し得るロマンティシズムを漂わせるものがある。そして、1979年まで参加したピーター・アイゼンマン主宰の「IAUS(建築都市研究所)」での成果が、『デリリアス・イン・ニューヨーク(1978)−「大都市の文化が建築に及ぼすであろう衝撃に関する研究」』(邦訳『錯乱のニューヨーク』鈴木圭介訳/1995)という著書として絶賛され、そこに描かれていたのが、妻であり、OMAのひとり、マデロン・フリーゼンドロプのベッドに寝そべるクライスラー・ビルとエンパイヤーステート・ビルの情事を描いた「アプレ・ラムール(愛の営みが終わって)」などのイラストであった。そういったスタイルの延長化で初期OMA(エリア&ゾエ・ゼンゲリスを加えた4人)は建築単体の美学ではなく都市のなかの建築というものに戦略的意義を見い出していた。私が、というより一般に彼の名声を確乎たるものとしたのは、ベルナール・チュミが最優秀となって実現した1983年のパリ・ラヴィレット公園国際コンペで2等となった案であった。プログラムのなかにフォリーを介した形態学的システム構築を目指したチュミに対し、デザイン的な風景を虚構とし、すべての行為(機能など)、それを呑み込むことのできるグリッドの均質性として提示していた。それは、その後に彼が示したナラティヴ(建築上の事件としての)なプロジェクトの数々、そして今日の若い世代に及ぼした影響を見れば然もありなんことであろう。そのピークとなった作品に1989年のフランス国立図書館(当選−ドミニク・ぺロー)、ベルギー・ゼーブリュッへ・フェリーターミナル(一等で実現せず)、カールスーエ・メディア・テクノロジー・センター(一等で実現せず)の三つのアンビルト・プロジェクトがあった。そして、都市を扱う大きなプロジェクトを主体とするOMAで、割と意外なのは、住宅を設計していることであり、フィー(設計料)としては赤字を覚悟しなくてはならないのに、規模の大きさに関係なく変幻自在に操る設計術を持っていたことである。問題作は多数あり、ボルドーの住宅(1994)をはじめ、初期のダラヴァ邸(1984)、パティオ・ヴィラ(1985)、ダッチ・ハウス(1992)、Y2K(1998)である。レム・コールハースの興味は、とくにジャーナリスト観(ゴーストライターとして)に秘められた「事件」つまりは「出来事」にあると言える。彼はミ−スやヒルベルザイマー、レオニドフ、ハリソンといった建築家にシンパシーを抱いているらしい、彼等に共通する点は、ライトやコルビュジェ、カーンのような表現の明晰さではなく、謎めいた生きざまから滲み出てくる、その内省に秘めたる美学なのであり、ある事件の裏で徘徊する黒幕的な行動(太陽の目を見ない)、そのものといえる。だから当時の彼等からは、積極的なメッセージが喧伝されていない。でもレム・コールハースの行動は、いまでは自己の会社名「OMA」を逆さに読んだリサーチ・コンサルタント業務(都市及びブランド、IT構想)をこなす会社「AMO」を組織し、従来の設計事務所の枠を超えた戦略でもって、最近作の中国中央電視台本社ビル(CCTV)をはじめ精力的に活動を展開している。要するに「事件」「出来事」を挑発する手段として、建築美の洗練からは惹起しえないこと。それが、1995年に出版された『S,M,L,LX』には「ビッグネス(巨大性)」とか「ジャンクスペース」「ジェネリック・シティ」などのキーワードでもってレム・コールハース流プリンシプル(原理)として纏められている。謂わば、『S,M,L,LX』は、建築のエステティーク解体新書となる。1774年に蘭医であった杉田玄白を中心とした西洋解剖学の訳本として著わされたのが「解体新書」であった。いま、建築の美容師は機能を整え、美しく見えるように、また着飾った体裁をつくろうと一心である。身体が老化してるのならともかく・・・なのだが。やはり建築は医師として身体の良き診療、および処方箋・・・・それは、レム・コールハース流に言わせれば「動機」、謂わば、「形式」を問うことでもあり、「社会」に問うことでもあるのだが・・・。

    2006.2.22  伊神誠治

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