4 月 04 2009

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall

Published by 遠州

東京文化会館鳥瞰

敷地:東京都台東区上野公園

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竣工:昭和36年(1961)

設計者:前川國男

Location:Ueno-koen,Taito-ku,Tokyo

Establishment:1961

Architect:Kunio Mayekawa

感想:Impression

「上野の山で対峙する師弟の近代建築」

Ⅰ.歴史ある上野の山に聳える音楽堂

不忍池や徳川将軍家の菩提寺寛永寺など江戸時代以来、東京市民に縁の深い上野の山はまた東都きっての桜の名所でもある。その桜の老樹がゆかしき風情を漂わす上野の山が明治初頭に公園として東京市民に開放されてから明治・大正・昭和にかけて大規模な内国博覧会の開催や大学、博物館、美術館など文教・文化施設が陸続と建ち、上野公園は帝都随一の文化・遊覧の名所として発展していきました。その上野公園に戦後、それまでの東京に類例のなかった大規模なスケールの大小二つのホールを内包した本格的な音楽堂が現われます。「東京文化会館」と呼ばれる音楽堂は、昭和36年(1961)の 4月に竣工した。オープンから50年弱が経過した今も優れた音響、抜群の利用率を誇り、現役のオーディトリアムとしてフルに稼動している。近代建築の巨匠ル・コルビジェに日本人として最も早く師事した建築家の前川國男が設計した「東京文化会館」は、戦後日本の近代建築のデザインを象徴した姿で上野の森に悠然と鎮座しています。
ル・コルビジェと前川國男
コルビジェ前川戦後日本の近代建築を常に先導した建築家・前川は、帝大を卒業した日の夜から単身、帝都東京を発ち、神戸から船で満州大連に渡り奉天を経てシベリア鉄道に乗って、コルビジェのいるパリへ渡欧している。現在では考えられないような衝動的な情熱でコルビジェに師事した前川は、彼のアトリエで昭和3年~5年(1928~1930)の二年間、欧州を風靡していた最先端のモダニズム建築を学び、欧州一のメトロポリスで絶頂期にあったパリの都市文化を享受した。滞在中のエピソードとして、前川がコルビジェに従ってパリ中心部にあるルーブル広場を横切った時、コルビジェがこの広場のスペースの好ましさついて「物があるが、物を感じさせない。開かれているが、包み込まれている感じがする。」と説明したと後に前川自身の著作(「信條」)で回想している。このことが後年の前川の建築に一貫して顕われる「都市的なるもの」に影響を与えていると謂われている(「前川國男 賊軍の将」より)。二年間の留学を終え帰国すると、前川はアントニン・レーモンドの設計事務所に在籍しながら自立した建築家としてのキャリアをスタートしました。

Ⅱ.近代建築家・前川國男 コンペに挑戦し続けた戦中期

東京帝室博物館競技設計(1931)前川國男応募案
東京帝室博物館前川國男の出発点となったのが、後に「東京文化会館」の敷地となった上野公園に計画された「東京帝室博物館コンペ」(1931)であった。この競技設計では応募要綱として「日本趣味を基調とする」デザインが求められているにも関わらず、前川は敢然と落選覚悟でコルビジェの元で学んだ近代建築のスタイルを素直な形とした案を提出する。大半の提出作が日本趣味を前提とする瓦屋根を架した、当時「帝冠様式」と呼ばれた意匠だった中、前川案は正面入口のピロティ空間にフラット屋根というコルビジェ仕込みの斬新な意匠であった。予想通り、前川案は保守派が体勢を占める審査員達に一蹴され落選するが、日本趣味に迎合しないそのプロテストぶりは当時のモダニストたちの喝采を浴び、近代建築家としてその生涯を象徴するデビューを果たすことになった。以後も前川は「近代建築の何たるかを明示する」という信條で積極的に競技設計に挑戦し続ける。「パリ万国博日本館」(1937 一等当選すれど実施は坂倉準三)、「日本万国博建国記念館」(1937 落選)、「大連市公会堂」(1938 一等)、「忠霊塔」(1939 落選)、「在盤谷(バンコック)日本文化会館」(1943 二等)。大戦中に応募した「在盤谷日本文化会館」では、モダニズムを前面に押し出していた前川が初めて日本の伝統を参照した案で勝負したが、「京都御所」をモデルとした復古的な意匠で記念性を高らかに表現した丹下健三案に敗れている。この案で前川はモニュメンタルな構えを避け、空間構成という近代建築が獲得した原理をベースに日本の伝統建築に見られるような内部と外部の空間が一体となって展開してゆくという全体的に統合された空間を実現しようとした。その思考によって得られた方法論は、戦後の近代建築へと繋がってゆくことになる。1935年の独立から敗戦の1945年までの10年、戦中という国家状況もあって前川にはコンペの挑戦と住宅やアパートなどの木造建築以外、自らの理念を投影させるような本格的な近代建築を実現させる機会に恵まれることはなく、雌伏の歳月を過ごした。
在盤谷(バンコク)日本文化会館競技設計(1943) 2等 前川國男案
在盤谷日本文化会館
在盤谷日本文化会館平面

Ⅲ.戦後の再出発 縁ある上野の山でコルビジェと向かい合う

東京文化会館原案模型
東京文化会館原案戦後の再出発から数年が経過した1950年代に入ると、国内の建設需要も回復し始め、「日本相互銀行本店」(1952)を契機に前川はようやく本格的な近代建築を次々と手掛けていく。50年代の前川は「神奈川県立図書館・音楽堂・」(1954)、「福島教育会館」(1956)、「世田谷区民会」(1959)といったオーディトリアムを容れた公共建築を連作している。そしてオーディトリアム建築の典型として結実をみたのが、ほぼ同時期に設計した「京都会館」(1960)と「東京文化会館」(1961)である。東京開都500年記念事業における芸術文化振興の一環として、音楽堂の建設を企図した都から設計の特命をうけた前川は、向かい合うことになる「国立西洋美術館」との敷地境界にとらわれず、現在の約4倍の敷地を有するL字型配置の計画を提案する。それは、敷地と敷地を画然と分断してしまう役所の硬直した敷地主義に対するプロテストであり、敷地の所有権を解体することで公園と建築が相まって、ルーブルの庭のような居心地の良い都市的なスケールのオープンスペースを上野駅に向けて「国立西洋美術館」との間につくり出すというアーバンデザイン的なアプローチであった。結局、役所の強固な仕組みは突破することはできず、現在の敷地に窮屈に詰め込まれてしまうのだが、コルビジェに学んだウルバニズムを日本に置き換えて、より良い都市環境をつくるためにはどうしたらいいかを真摯に考える姿勢は、この音楽堂の空間の隅々まで徹底されている。

Ⅳ.「都市的なるもの」への希求

東京文化会館と国立西洋美術館
航空写真JR上野駅公園口を降りると、真正面に緑深い上野公園が拡がり、中に歩を進めると園路を挟んで、大小二つのコンクリート打ち放しの近代建築が向かい合っている光景に出くわします。右手に前庭が拡がりピロティの上に浮かんだ「国立西洋美術館」、左手はコンクリートの曲面大庇とそれを支える列柱が印象的な「東京文化会館」です。この二つの建築は近代建築の巨匠ル・コルビジェと前川國男という師弟が、ほぼ同時期に上野公園という同じロケーションで設計したものであり、前川は師の美術館において実施設計と現場監理を担っていました。前川はこの音楽堂の設計にあたり、向かい立つコルビジェの美術館との調和に配慮したとされており、それは軒高を揃え、前庭の目地割りと音楽堂ホワイエのサッシ割り付けを合わせたこと、また外壁のプレキャストパネルの割付とテクスチャーなどであるという。
東京文化会館全体配置図
東京文化会館1961配置図四方から眺めた外観は、船の舳先のように反ったコンクリートの曲面軒庇が四周をグルリと廻り、その奥に大ホールを内包した巨大な六角形の筒状マッスがパワフルに立ち上がり大屋根から突き出ている姿は、どこか日本の城郭に漂う威厳を感じさせる。屋根から突き出た石片のプレキャスト版で覆われたマッスは天守閣を、東側に張り出した広いテラスの外周を縁取る浅く水を張った溝は城を取り囲む濠を彷彿とさせる。深く迫り出した軒下とそれを支えるコンクリート打ち放しの力強い列柱の空間が音楽堂に向かう観客を或いは上野公園を散策する人達を大らかに包んでいる。この音楽堂には正対する「国立西洋美術館」との調和のみならず、随所にコルビジェのボキャブラリーが散見される。大きく曲線を描く軒庇が水平に伸びて空を切り、階段室やエレべーター、大ホールを収めたシリンダーや角錐台形、六角垂体などのシンボリックな造形が広い屋上から突出して天空を突き刺す光景は、そのままインドのシャンディガール議事堂を思い起こさせます。
南東側外観                                   東隅入り口外観
南側外観東隅外観
東隅に大きく開放された軒下空間からエントランス・ロビーに入ると、彫刻家の流政之氏がデザインしたレリーフが壁の上方に水平に飾られた2層吹き抜けの明るいロビーの正面にガラス張りのレストランがブリッジ状に浮かんでいる。ロビーから大ホールのホワイエ側へ進んでいくと、左手に小ホールへ繋がる幅の広いスロープが観客を誘い、右手には開口部からテラスを縁取る傾斜した石壁の底に張られた水面に置かれた彫刻を鑑賞出来る仕掛けになっている。ここで左折してスロープをゆるゆる昇りながら、右側を眺めると斜めに立ち上がる大ホールの六面体の石壁を広々とした矩形のホワイエが囲み、スレンダーなコンクリート打ち放しの柱が林立し、透明なレストランがホワイエ空間に浮かぶように迫り出す光景が印象的です。
斜路から大ホールホワイエを見る
斜路からホワイエの眺めスロープで上階へ上がると、今度は程よいスケールの小ホールホワイエが優しく迎えてくれました。対角線上に隣り合う二つのホールの石壁と南側に繋がる石畳のテラスで囲まれたホワイエは、ロイヤルブルーの天井と床に敷き詰められた三角形のモザイクタイルの淡い色彩の対比から小宇宙的世界を醸し出し、観客に音楽を聴く前の華やぎと鑑賞後の興奮をクールダウンさせる空間に仕立てあげられているようです。国際会議場として想定された小ホールは、その音響の良さからピアノなどのミニコンサートで頻繁に利用されているという。正方形平面の隅角に置かれた舞台を中心に平土間式の客席が扇型に拡がるこじんまりとした空間に、彫刻家・流政之氏が手掛けた屏風を横にしたような舞台上の反射板と側壁を飾る彫刻が圧巻でした。積み木のような角垂体のプレキャストコンクリートが壁から突起し、垂直に食い違って連なっている壁面構成は力強くインパクトがありました。照明の光りが抑えられ、コンクリート肌のくすんだ色彩で統一されたインテリアから幻想的な雰囲気を醸しだす小ホールでは、モダンジャズのクールな音が似合いそうです。
小ホール・ホワイエ                              ホワイエから南側テラスを見る
小ホールホワイエ
小ホールホワイエ2
小ホール舞台と側壁                            斜路からレストランを見る
小ホール舞台
斜路からレストラン
小ホールホワイエからスロープを降りて、メインの大ホールへ向かうと息を呑むような広大なホワイエの森に取り囲まれます。マッスなホール外壁を覆う砕石仕上げのプレキャスト版や半階づつのレベル差で上がってゆくテラスと2階レストラン、公園の景色を取り込むように軒下の大きな開口部から入る自然光に満たされたホワイエは、上野の森が音楽堂内部に再現されたかのような屋外的開放感を覚えさせる。この屋外的な感覚は、ホールの客席に向かう左右の大階段を降りた時、ホール外壁とスロープの間に広がる三角形状の谷間に見られるような地形的な表現から生じているように思える。これは空間からインテリア的なスケール感を排除し、土木構造的なスケールとラフな外壁の仕上げがそのまま持ち込まれて、ホワイエ・テラス・レストラン・大階段・スロープという抽象的要素だけで空間の骨格が構成されていることで生じる雰囲気ではないだろうか。2,300席を収容する大ホール内に入ると、圧倒的なボリュームのオーディトリアム空間に新鮮な衝撃を受けました。大開口の舞台の前面に六角形平面の平土間の客席が拡がり、後ろ三方向の傾斜した壁には4層に及ぶ桟敷席が折重なるように迫り出し、蟹の甲羅を思わせる反射板がオーケストラピット上部を覆っている。特筆すべきは舞台両脇の袖壁で、彫刻家の向井良吉氏がデザインしたレリーフで装飾されたこの巨大な音響壁は、木板を雲形状に刳り貫き不規則に組み合わされたもので、その特異な形から好みが分かれるものの空間に強烈なインパクトを与えているのは間違いない。そそり立つ5階の桟敷席から舞台を見下ろすと、吸い込まれそうなボリューム感を体験し、この大ホールが本場のオペラ劇場を連想させるような演劇的空間であることを実感します。
大ホール・ホワイエ                             ホワイエからテラスへの大階段
大ホールホワイエテラス
大ホールテラス大ホール舞台側内観大ホール桟敷席内観
大ホール客席から舞台を見る                          大ホール上部桟敷席
大ホールから再びホワイエに出ると、シリンダー型のエレベーターに乗って是非見たいと思っていた大屋根の上に足を踏み入れました。地上から見上げると捲れ上がっていた曲面大庇は、屋上に乗る低層部や大小ホール上部のマッスを優しく包んでいるように見えます。楽屋やリハーサル室、搬入口などを地下に、大中小会議室・音楽図書館などの小部屋の集合をまとめて大屋根に乗せることで、敷地の窮屈さをカバーするとともに建築全体の軒高を向かい側の「国立西洋美術館」に合わせて低く(地上9m)抑えることに成功している。それはこの音楽堂を訪れる観客や公園内を散策する人々に心理的な威圧感を与えないように配慮した結果でもあると思われます。小部屋群の低層部や天守閣の如く突き出た大小ホール上部の巨大なマッスの群が捲れ上がった軒で四周を枠取られて、地上9mの上空に人工的庭園をなしている光景は都市的で爽快な眺めでした。
屋上を囲む軒庇                                 屋上に突き出た六角形マッス
屋上大庇屋上大ホールマッス
屋上庭園屋上庭園
※「東京文化会館」は向かい側に建つ「国立西洋美術館」が、コルビジェに師事した前川・坂倉・吉阪という三人の建築家の手で実施設計が行なわれていた時期(昭和32年5月~10月)に設計がスタートしている。前川は設計当初、都が定めた敷地境界を無視して二つのホールを大きくL型に配置し向かいの「国立西洋美術館」と上野駅の間に広く開かれたオープン・スペースを確保しようと試みた。それは、師のコルビジェが「国立西洋美術館」の基本計画で、上野公園の将来像を周辺の敷地を取り入れた形で示した総合文化センター案の精神を受け継ごうとしたためではないかと思える。前述したようにコルビジェの意思を継いだ前川の計画は役所の壁の前に実現しなかったのだが、窮屈な敷地の中で完成させた「東京文化会館」のホワイエ・ロビー・スロープ・レストラン・テラスなどが構成する骨太い空間から「都市的なるもの」を感じることが出来る。コルビジェから学んだウルバリズム(都市計画)を前川は、一つ一つの建築の中に都市的なものを内包させていくことや都市に対して建築をどう構えていくかを考えていくことで担っていこうとしたのではないだろうか。
参照文献 Reference
前川國男 賊軍の将/宮内嘉久著/晶文社発行/2005
戦時下日本の建築家/井上章一著/アート・キッシュ・ジャパン発行/1995
建築ライブラリー16 近代建築を記憶する/松隈洋著/建築思潮研究所編集/建築資料研究社発行/2005
近代建築Vol.15 No.6 1961年6月号/近代建築社発行
建築文化Vol.16 No.6 1961年6月号/彰国社発行

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part1

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part2

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