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	<title>神奈川県立近代美術館　Museum of Modern Art,Kamakura へのコメント</title>
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	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Thu, 09 Sep 2010 05:21:22 +0000</pubDate>
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		<title>遠州 より</title>
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		<dc:creator>遠州</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 02 Dec 2008 12:47:08 +0000</pubDate>
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		<description>近代建築行脚の旅路、熟読させて頂きました。「神奈川近代美術館」が旅路の最後を飾る建築だったんですね。
オーバーハングした深い軒が覆う池に面したピロティの空間には、桂離宮を初めとした伝統建築の空間性が色濃く感じられました。陽光が池の水面に反射してから広い軒の天井に映りこんで揺らめく光景や、池中に置かれた
自然石に細いスチールのH柱が繊細に脚を降ろしている巧み過ぎるディテールに、近代建築の合理性とは異質な日本の数奇屋建築に見られるような数寄を凝らす精神を感じ取りました。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>近代建築行脚の旅路、熟読させて頂きました。「神奈川近代美術館」が旅路の最後を飾る建築だったんですね。<br />
オーバーハングした深い軒が覆う池に面したピロティの空間には、桂離宮を初めとした伝統建築の空間性が色濃く感じられました。陽光が池の水面に反射してから広い軒の天井に映りこんで揺らめく光景や、池中に置かれた<br />
自然石に細いスチールのH柱が繊細に脚を降ろしている巧み過ぎるディテールに、近代建築の合理性とは異質な日本の数奇屋建築に見られるような数寄を凝らす精神を感じ取りました。</p>
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		<title>伊神 より</title>
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		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Dec 2008 09:08:23 +0000</pubDate>
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		<description>近代建築行脚の旅路　１２−神奈川県立近代美術館

『藝術・建築・自然環境との融和』

１９３７年、パリ万国博覧会日本館で衝撃的なデビューを飾った坂倉準三（1901年生まれ）は、当時の審査委員長であったオギュスト・ペレ（1874-1954）がアアルトのフィンランド館やセルトのスペイン館といった大建築家を押し退けて建築部門のグランプリの栄誉を勝ち取り、なじめて近代建築の名のもとに海外から評価を受けた日本で最初の建築家となりました。実際は、前川國男案（伝統的表現が欠落していたため落選）や当選した前田健二郎案に基づき、実施・監理をパリに滞在していた坂倉（当時はコルビュジェのアトリエにて修行中）に任される予定でありました。しかし、博覧会会場のトロカデロの丘という地形に難点があった前田案の代わりに急遽、坂倉がル・コルビュジェ（1887-1965）のアトリエで自案をまとめて実現したもので、運も実力のうちと言われるようにこれを契機に戦前戦後を含め数多くの作品を手掛けることとなり、1969年に亡くなった後も坂倉建築研究所として数々の傑作を生みます。坂倉準三は、1927年に東京帝国大学（現・東京大学）の文学部美術史学科を卒業し、1929年にパリに渡り1931年には建築を学ぶためにコルビュジェのアトリエに正式に入所します。ル・コルビュジェの全盛期と言われた頃で、シャルロット・ぺリアン（1903-）やホセ・ルイ・セルト（1902-）などが所員として無給で学んでおり、入所して間もなくソビエトパレスの計画案を担当し、1936年には日本へ帰国します。師のル・コルビュジェのようなカリスマ的存在感、またはその弟子であった前川國男や吉阪隆正のように強いメッセージ性のある作品で訴えかけてくるものとは違い、何故か後期の打ち放しの作品も含め非常に透明感があり、軽い印象を受けた作品が多いことに気づかされます。ひとつは前述のパリ万国博覧会日本館（1937年）、もうひとつは今回見学した神奈川県立近代美術館（1951年）で、それは坂倉自身が近代建築と日本の伝統建築の「和」を美しい表現で実態化した最初で最後の作品（頂上を若くして極め過ぎた）となりました・・・？。その後は、専ら公共建築をはじめとしたプロジェクトで後期ル・コルビュジェの亜流を思わせる作品しか残せず、1969年に68歳で生涯を閉じます。苟くも坂倉亡き後、代表となった西澤文隆（1915-1986）は、事務所での活動と共に日本の伝統建築への熱い視線を捨て切れず、膨大な実測調査を行い、師である坂倉の原点を顧みようと建築と庭に関する研究に没頭し、「透ける」という日本建築空間の中にある数寄の精神を発見し、日本建築学会に大きな功績を残しました。それは日本という国を真に理解しその風土に愛着を感じることで、はじめて建築や藝術それに自然環境をも含めたトータルな視線で建築を創出することができるのではないかと・・・。それは、50年も経過しようとしている神奈川県立近代美術館の池に浮かぶ姿を見て、意識せざる得ない時間と空間がそこには存在しているように思えてなりませんでした。
□
東京駅からＪＲ横須賀線にて１時間程で鶴岡八幡宮で有名な「古都・鎌倉」の地へ到着しました。ＪＲ鎌倉駅より鶴岡八幡宮へと延びる桜並木（来週には見頃となりそう）で美しい若宮大路を北へ暫く歩き、鳥居を潜ると源平池に浮かぶ白く四角い箱（建築）が見えてきました。ドンよりとした空で少し肌寒い中、見学を予約していた午前10時に神奈川県立近代美術館・新館（1966年に坂倉建築研究所により増築）の事務所にてパンフレットを頂き、さっそく旧館へと足を運びました。何処に正面入口があるのか外界（小町通り）からは気づかぬような玄関で、敷地内に入ると正面には非常に強い古典的で象徴的な階段、また参道の舗石道のようなペイブメントによって引き寄せられるようにアプローチします。（中途で舗石道は分岐し池の方へと延び、チラッと視線をそちらに向けるような意匠が見られます）また、階段の奥にある中庭もスチール格子（以前は金網状の格子）を通して中の様子を伺うことができ、来館者は2階から展示室へと向かいます。展示室は、開館当時のトップライトによる自然光から人工照明となり、装飾的な天井（空調システムや照度の影響もある）に変更となってしまいました。（今では絵画への配慮から至極当然のことではあるが残念である）しかし、絵画を鑑賞する視点から考えればさまざまな雰囲気の中で鑑賞する楽しみを味わうことが求められても良いし、デンマークの「ルイジアナ近代美術館」（1958年〜1991年）やオランダの「クレーラー・ミューラ−美術館」（1938年〜1977年）のようにランドスケープ（自然環境）との融合を取り入れた美術館が日本にも望まれて然るべきではないかと考えます。しかし、未だにハコモノ行政と言われるように、自然環境とは離反した美術館が各地で建てられているのが現状です。２階展示室から外に出ると、喫茶室（一部吹き抜けとなっているが天井の低い小さな気持ちの良い空間）を挟んで中庭側と池を眺望するためのテラスがあり、ボケッと佇みたくなるような場所が用意されています。そこから１階へ降りてゆくと、大谷石の壁によって囲まれた内なのか外なのか解らぬような彫刻を展示するスペース（当日は展覧会用の模型）へ導かれます。特にその階段は動的な表現が手摺壁や真鍮の手摺のデザインに見られ感心しました。彫刻は中庭や池に面するピロティ（休憩スペース）にも置かれ、その空間は互いに視覚的に連なり自由にまた気軽に鑑賞を楽しむ工夫（最近の美術館はルートに沿って移動させられながら鑑賞しなくてはならない）がなされ気持ちが柔らぎます。中庭側から望む大谷石の壁（床から天井まで）が日本の伝統である障子のようで、スパイラル状に配置された壁に動きが感じられます。これは、坂倉が述べた
『桂離宮の古書院の内に坐して障子をあけはなして外部の池の空間につらなる感じ・・・・・・・。』−建築文化1963年6月号より−
というコメントからも理解できることと思われます。（1954年にリートフェルトが設計したソンスベークパビリオンとも類似される空間思考である　〜デ・スティル派）そして、池に面した軒の深い鉄骨の柱（Ｈ−250×125）のピロティでは、午前中の曇空から午後には一転して快晴となり、その場の様相が急変し、池の水面を眺めているような感覚に誘われます。午前中で光の影響のなかった時には、ビアトリス・コロミーナ女史（プリンストン大学助教授）がル・コルビュジェの初期の住宅で指摘しているような、あるシークエンスの中で周辺の風景を切り取るフレーム（枠）として、一方的に個人が主体となって周りの自然を感受（シニフィアン＝風景そのもの）するのですが、午後に光の影響を受け始めると、その場所及び時間や空間といったものをダイレクトに個人が感受（シニフィエ＝自然現象による風景）し得ることができ、自然環境と空間や時間との間に多様な関係が形成されます。また、対象的に外観のピュアーな形態は周囲の緑の風景の中で厳島神社や平等院のような日本の伝統建築においても見られる力強い象徴性（近代建築として）を感じとることができます。この神奈川県立近代美術館も２１世紀（2001年）には竣工して50周年を迎えます。現在、葉山への移転計画が進められていると聞いて解体されてしまうのではないかと心配しましたが、その後も現役として利用されるとの事で安心したのと同時に、これまでに見学してきたもの（近代建築）の中に何時取壊されてもおかしくないものが多いことに危惧を感じました。国の重要文化財のような歴史的価値が認められるものが今後、近代の建築にも及ぶ時期が何れ来ることと思います。それまでこの世に存在してくれるという保証はないし、実体験すら難しくなることでしょう。そういった意味で、この時期に見学ができたことは私にとって貴重な経験でもあり、且つ是が非でも今後の活動に繋げていかなければならないと考えています。
□
ところで、ル・コルビュジェのアトリエに入所した日本人は、文献によると正式には8名（年代順に前川國男、牧野正己、土橋長俊、坂倉準三、吉阪隆正、金重業、村田豊、進来廉）と言われ、最も長く籍を置いたのが坂倉準三で1931年から１９３６年までの5年間在籍しています。1939年に帰国しますが、日本でのル・コルビュジェへの傾倒は当時多大なもので、特に丹下健三をはじめとした新しい世代に絶大なる影響力を与えていました。そんな中、神奈川県立近代美術館は日本において最初の近代美術館として、1950年に吉田五十八を審査委員長として坂倉準三、前川國男、山下寿郎、谷口吉郎、吉村順三の5人の指名コンペにより始まりました。坂倉案に決定した後は、実施設計や工事が短期間で進められ、翌年の11月には竣工し、開館（第１回の企画展はセザンヌ・ルノワール展）します。このプランを見ると、先ず一連のル・コルビュジェの美術館計画が想起されます。「無限に成長する美術館」（1939年）、「アーメダバード美術館」（1957年）、「国立西洋美術館」（1959年）、「シャンディガール美術館」（1968年）しかし、ル・コルビュジェの抱いた美術館のアイデアは初期の無限に成長する美術館（貝殻のように螺旋状に発展する建築）の構想にあり、アーメダバード美術館（インド）や国立西洋美術館（日本）は共に完結された幾何学的空間の美を求めたものに過ぎなかったものと言えます。これより以前に建設された神奈川県立近代美術館においても同じことですが、坂倉準三は1937年のパリ万国博覧会日本館での経験以来日本の伝統的空間の分析に非常に興味を抱き、ル・コルビュジェの強い幾何学的思考をブレンドさせることで、ル・コルビュジェの視線（直角＝90°）のシークエンシャルな空間移動から桂離宮等の数寄屋建築（ライトやアアルト等の有機的空間思考にも見られる）に見られる視線（45°）のシークエンシャルな空間移動へと変質させることで極めて日本的特質を表現できた最初の作品ではないかと考えます。今日、槇文彦（1928-）の『見えがくれする都市〜奥の思想』や篠原一男（1925-）の『住宅論〜分割と連結的空間』等の著書からもそのことが明らかにされているように、現代建築の作品においては、特に谷口吉生（1937-）にこの神奈川県立近代美術館の源流が今でも、色濃く反映されているように感じます。それは、人間の視線と自然環境を融和させる精妙な感覚が坂倉の感性と一致するところにあり、資生堂アートハウス（1978年）、土門拳記念館（1983年）、長野県信濃美術館東山魁夷館（1990年）、豊田市美術館（1995年）といった作品群に触れればそのことがよく理解できます。谷口氏は自身の作品についてはあまり多くを語らず、自然環境の中での建築、また建築の中の芸術といったことをひたすら追求する姿勢に、坂倉氏と何処か似ているところもあり、現代では最も忠実にその影響を受けた作家と言えます。特に1997年12月に発表されたMoMA（ニューヨーク近代美術館）のための拡張計画コンペで獲得した設計競技案は、他の外国人建築家（ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロン、ベルナール・チュミ）にはない日本人としての空間的感性と自然環境（ここでは都市的文脈を対象としている）との融和が意図された素晴しいもので、完成は10年先となる予定です。本来、建築に限らず目に見える物質（機械）から目に見えない情報（コンピューター）まであらゆるものが人間を対象とし、この世に存在します。一方、自然がつくりだす環境は、人間に恩恵を与えることもありますが、時には思いがけない猛威を奮いそれらを破壊することさえままあります。それは先頃、『共生』『省エネ』『エコロジー』といった２１世紀を代表するであろう地球環境学のテーマを語る上で、言葉のみ（経済論理が優先となるようなこと）がひとり歩きし、物理的環境の欲望ばかりを追求するあまり本来人間が持ちうる感受性（季節観など）が失われてしまい自然環境に順応できなくなることと甚だ無縁ではないように思います。そのことが敷いては、昨今の社会システムの崩壊（学校や会社）へと繋がる重大な出来事として受け止めなくてはならない問題のような気がいたします。真の環境とは何か、また人間がつくり出す芸術や建築といったものは自然環境とどのように対峙し共存でき得るのか、また物的欲望を超えた中（従属感の満たされた状況化）で人間はどうそれを問い直すことができるのか・・・・・？。それが２１世紀への人間（建築家）が果たすべき課題のような気がします。
□
最後に
近代建築行脚の旅路と称し、昨年４月からはじめた1960年代前後に建てられた日本の近代建築を巡る旅路（見学）も、前後編に分けて開催したスライド会（200枚程度）を以って無事、終了いたしました。戦前の近代建築の思想は欧州から齎された前衛芸術が発端となって、日本では堀口捨己や山田守（分離派）、山口文象（創宇社）といった建築家により、先ずは住宅作品を中心として展開し、そして1940年代の第二次世界大戦を挟み、1950年から60年代には戦後の復興を契機に近代建築の全盛期を迎えることとなります。そこで私は、間もなく訪れる２１世紀の建築とこの戦後の激動期における近代建築には、何故か共通している大変重要な意味（物的な豊かさから精神的な豊かさへの転換）があるのではないかと思い、安易な歴史の痕跡を辿るとかノスタルジー（懐かしさ）を得るという目的ではなく、当時の建築や都市に対する考え方（提案）を学ぶことができればと思い実行してきました。ところで、今回の企画で多少残念に思ったことがあります。それは、所謂建築を職業としている人が建築そのもの（特に桂離宮などの日本の伝統的建築）を案外見ていないことでした。それが、見学会やスライド会、見学レポートでの積極的な姿勢や活発な意見に乏しかったこと（写真を撮って資料として保存するだけの見学）と結びついているようです。そこには、建築という社会や教育制度では片付けられない多くの問題が存在しているように思います。昨今の時代的背景の中で、建築の芸術性に触れることをタブーとする風潮そのものが、本来の建築家像からは遠く離れた存在となってしまったことを意味しているように思えてなりません。それは、多くの専門的技術者を国や民間企業で率先して育成していることの弊害なのか、それとも唯、身分とか地位といった欲に固執したいだけ（技術者的プロ意識のみ）なのかそれは定かではありませんが、これから志そうとしている若い人達にもそのことが少なからず影響していることの証しではないかと不安に感じられました。そこには、気が付いてはいても逃れられず思いきった行動が取れないジレンマと格闘している他者を見ているようでちょっと寂しく思えました。今回の見学を通して実体験してきたことはこれから具体的な設計を通して問われるものです。現場で撮った写真やスケッチが無駄にならないよう今後の仕事でそれらを活かし、素晴しい作品を・・・・期待しております。１年間、どうも有難うございました。また、見学会にて御会いできる日を楽しみにしています。

1999年　卯月　伊神誠治</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>近代建築行脚の旅路　１２−神奈川県立近代美術館</p>
<p>『藝術・建築・自然環境との融和』</p>
<p>１９３７年、パリ万国博覧会日本館で衝撃的なデビューを飾った坂倉準三（1901年生まれ）は、当時の審査委員長であったオギュスト・ペレ（1874-1954）がアアルトのフィンランド館やセルトのスペイン館といった大建築家を押し退けて建築部門のグランプリの栄誉を勝ち取り、なじめて近代建築の名のもとに海外から評価を受けた日本で最初の建築家となりました。実際は、前川國男案（伝統的表現が欠落していたため落選）や当選した前田健二郎案に基づき、実施・監理をパリに滞在していた坂倉（当時はコルビュジェのアトリエにて修行中）に任される予定でありました。しかし、博覧会会場のトロカデロの丘という地形に難点があった前田案の代わりに急遽、坂倉がル・コルビュジェ（1887-1965）のアトリエで自案をまとめて実現したもので、運も実力のうちと言われるようにこれを契機に戦前戦後を含め数多くの作品を手掛けることとなり、1969年に亡くなった後も坂倉建築研究所として数々の傑作を生みます。坂倉準三は、1927年に東京帝国大学（現・東京大学）の文学部美術史学科を卒業し、1929年にパリに渡り1931年には建築を学ぶためにコルビュジェのアトリエに正式に入所します。ル・コルビュジェの全盛期と言われた頃で、シャルロット・ぺリアン（1903-）やホセ・ルイ・セルト（1902-）などが所員として無給で学んでおり、入所して間もなくソビエトパレスの計画案を担当し、1936年には日本へ帰国します。師のル・コルビュジェのようなカリスマ的存在感、またはその弟子であった前川國男や吉阪隆正のように強いメッセージ性のある作品で訴えかけてくるものとは違い、何故か後期の打ち放しの作品も含め非常に透明感があり、軽い印象を受けた作品が多いことに気づかされます。ひとつは前述のパリ万国博覧会日本館（1937年）、もうひとつは今回見学した神奈川県立近代美術館（1951年）で、それは坂倉自身が近代建築と日本の伝統建築の「和」を美しい表現で実態化した最初で最後の作品（頂上を若くして極め過ぎた）となりました・・・？。その後は、専ら公共建築をはじめとしたプロジェクトで後期ル・コルビュジェの亜流を思わせる作品しか残せず、1969年に68歳で生涯を閉じます。苟くも坂倉亡き後、代表となった西澤文隆（1915-1986）は、事務所での活動と共に日本の伝統建築への熱い視線を捨て切れず、膨大な実測調査を行い、師である坂倉の原点を顧みようと建築と庭に関する研究に没頭し、「透ける」という日本建築空間の中にある数寄の精神を発見し、日本建築学会に大きな功績を残しました。それは日本という国を真に理解しその風土に愛着を感じることで、はじめて建築や藝術それに自然環境をも含めたトータルな視線で建築を創出することができるのではないかと・・・。それは、50年も経過しようとしている神奈川県立近代美術館の池に浮かぶ姿を見て、意識せざる得ない時間と空間がそこには存在しているように思えてなりませんでした。<br />
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東京駅からＪＲ横須賀線にて１時間程で鶴岡八幡宮で有名な「古都・鎌倉」の地へ到着しました。ＪＲ鎌倉駅より鶴岡八幡宮へと延びる桜並木（来週には見頃となりそう）で美しい若宮大路を北へ暫く歩き、鳥居を潜ると源平池に浮かぶ白く四角い箱（建築）が見えてきました。ドンよりとした空で少し肌寒い中、見学を予約していた午前10時に神奈川県立近代美術館・新館（1966年に坂倉建築研究所により増築）の事務所にてパンフレットを頂き、さっそく旧館へと足を運びました。何処に正面入口があるのか外界（小町通り）からは気づかぬような玄関で、敷地内に入ると正面には非常に強い古典的で象徴的な階段、また参道の舗石道のようなペイブメントによって引き寄せられるようにアプローチします。（中途で舗石道は分岐し池の方へと延び、チラッと視線をそちらに向けるような意匠が見られます）また、階段の奥にある中庭もスチール格子（以前は金網状の格子）を通して中の様子を伺うことができ、来館者は2階から展示室へと向かいます。展示室は、開館当時のトップライトによる自然光から人工照明となり、装飾的な天井（空調システムや照度の影響もある）に変更となってしまいました。（今では絵画への配慮から至極当然のことではあるが残念である）しかし、絵画を鑑賞する視点から考えればさまざまな雰囲気の中で鑑賞する楽しみを味わうことが求められても良いし、デンマークの「ルイジアナ近代美術館」（1958年〜1991年）やオランダの「クレーラー・ミューラ−美術館」（1938年〜1977年）のようにランドスケープ（自然環境）との融合を取り入れた美術館が日本にも望まれて然るべきではないかと考えます。しかし、未だにハコモノ行政と言われるように、自然環境とは離反した美術館が各地で建てられているのが現状です。２階展示室から外に出ると、喫茶室（一部吹き抜けとなっているが天井の低い小さな気持ちの良い空間）を挟んで中庭側と池を眺望するためのテラスがあり、ボケッと佇みたくなるような場所が用意されています。そこから１階へ降りてゆくと、大谷石の壁によって囲まれた内なのか外なのか解らぬような彫刻を展示するスペース（当日は展覧会用の模型）へ導かれます。特にその階段は動的な表現が手摺壁や真鍮の手摺のデザインに見られ感心しました。彫刻は中庭や池に面するピロティ（休憩スペース）にも置かれ、その空間は互いに視覚的に連なり自由にまた気軽に鑑賞を楽しむ工夫（最近の美術館はルートに沿って移動させられながら鑑賞しなくてはならない）がなされ気持ちが柔らぎます。中庭側から望む大谷石の壁（床から天井まで）が日本の伝統である障子のようで、スパイラル状に配置された壁に動きが感じられます。これは、坂倉が述べた<br />
『桂離宮の古書院の内に坐して障子をあけはなして外部の池の空間につらなる感じ・・・・・・・。』−建築文化1963年6月号より−<br />
というコメントからも理解できることと思われます。（1954年にリートフェルトが設計したソンスベークパビリオンとも類似される空間思考である　〜デ・スティル派）そして、池に面した軒の深い鉄骨の柱（Ｈ−250×125）のピロティでは、午前中の曇空から午後には一転して快晴となり、その場の様相が急変し、池の水面を眺めているような感覚に誘われます。午前中で光の影響のなかった時には、ビアトリス・コロミーナ女史（プリンストン大学助教授）がル・コルビュジェの初期の住宅で指摘しているような、あるシークエンスの中で周辺の風景を切り取るフレーム（枠）として、一方的に個人が主体となって周りの自然を感受（シニフィアン＝風景そのもの）するのですが、午後に光の影響を受け始めると、その場所及び時間や空間といったものをダイレクトに個人が感受（シニフィエ＝自然現象による風景）し得ることができ、自然環境と空間や時間との間に多様な関係が形成されます。また、対象的に外観のピュアーな形態は周囲の緑の風景の中で厳島神社や平等院のような日本の伝統建築においても見られる力強い象徴性（近代建築として）を感じとることができます。この神奈川県立近代美術館も２１世紀（2001年）には竣工して50周年を迎えます。現在、葉山への移転計画が進められていると聞いて解体されてしまうのではないかと心配しましたが、その後も現役として利用されるとの事で安心したのと同時に、これまでに見学してきたもの（近代建築）の中に何時取壊されてもおかしくないものが多いことに危惧を感じました。国の重要文化財のような歴史的価値が認められるものが今後、近代の建築にも及ぶ時期が何れ来ることと思います。それまでこの世に存在してくれるという保証はないし、実体験すら難しくなることでしょう。そういった意味で、この時期に見学ができたことは私にとって貴重な経験でもあり、且つ是が非でも今後の活動に繋げていかなければならないと考えています。<br />
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ところで、ル・コルビュジェのアトリエに入所した日本人は、文献によると正式には8名（年代順に前川國男、牧野正己、土橋長俊、坂倉準三、吉阪隆正、金重業、村田豊、進来廉）と言われ、最も長く籍を置いたのが坂倉準三で1931年から１９３６年までの5年間在籍しています。1939年に帰国しますが、日本でのル・コルビュジェへの傾倒は当時多大なもので、特に丹下健三をはじめとした新しい世代に絶大なる影響力を与えていました。そんな中、神奈川県立近代美術館は日本において最初の近代美術館として、1950年に吉田五十八を審査委員長として坂倉準三、前川國男、山下寿郎、谷口吉郎、吉村順三の5人の指名コンペにより始まりました。坂倉案に決定した後は、実施設計や工事が短期間で進められ、翌年の11月には竣工し、開館（第１回の企画展はセザンヌ・ルノワール展）します。このプランを見ると、先ず一連のル・コルビュジェの美術館計画が想起されます。「無限に成長する美術館」（1939年）、「アーメダバード美術館」（1957年）、「国立西洋美術館」（1959年）、「シャンディガール美術館」（1968年）しかし、ル・コルビュジェの抱いた美術館のアイデアは初期の無限に成長する美術館（貝殻のように螺旋状に発展する建築）の構想にあり、アーメダバード美術館（インド）や国立西洋美術館（日本）は共に完結された幾何学的空間の美を求めたものに過ぎなかったものと言えます。これより以前に建設された神奈川県立近代美術館においても同じことですが、坂倉準三は1937年のパリ万国博覧会日本館での経験以来日本の伝統的空間の分析に非常に興味を抱き、ル・コルビュジェの強い幾何学的思考をブレンドさせることで、ル・コルビュジェの視線（直角＝90°）のシークエンシャルな空間移動から桂離宮等の数寄屋建築（ライトやアアルト等の有機的空間思考にも見られる）に見られる視線（45°）のシークエンシャルな空間移動へと変質させることで極めて日本的特質を表現できた最初の作品ではないかと考えます。今日、槇文彦（1928-）の『見えがくれする都市〜奥の思想』や篠原一男（1925-）の『住宅論〜分割と連結的空間』等の著書からもそのことが明らかにされているように、現代建築の作品においては、特に谷口吉生（1937-）にこの神奈川県立近代美術館の源流が今でも、色濃く反映されているように感じます。それは、人間の視線と自然環境を融和させる精妙な感覚が坂倉の感性と一致するところにあり、資生堂アートハウス（1978年）、土門拳記念館（1983年）、長野県信濃美術館東山魁夷館（1990年）、豊田市美術館（1995年）といった作品群に触れればそのことがよく理解できます。谷口氏は自身の作品についてはあまり多くを語らず、自然環境の中での建築、また建築の中の芸術といったことをひたすら追求する姿勢に、坂倉氏と何処か似ているところもあり、現代では最も忠実にその影響を受けた作家と言えます。特に1997年12月に発表されたMoMA（ニューヨーク近代美術館）のための拡張計画コンペで獲得した設計競技案は、他の外国人建築家（ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロン、ベルナール・チュミ）にはない日本人としての空間的感性と自然環境（ここでは都市的文脈を対象としている）との融和が意図された素晴しいもので、完成は10年先となる予定です。本来、建築に限らず目に見える物質（機械）から目に見えない情報（コンピューター）まであらゆるものが人間を対象とし、この世に存在します。一方、自然がつくりだす環境は、人間に恩恵を与えることもありますが、時には思いがけない猛威を奮いそれらを破壊することさえままあります。それは先頃、『共生』『省エネ』『エコロジー』といった２１世紀を代表するであろう地球環境学のテーマを語る上で、言葉のみ（経済論理が優先となるようなこと）がひとり歩きし、物理的環境の欲望ばかりを追求するあまり本来人間が持ちうる感受性（季節観など）が失われてしまい自然環境に順応できなくなることと甚だ無縁ではないように思います。そのことが敷いては、昨今の社会システムの崩壊（学校や会社）へと繋がる重大な出来事として受け止めなくてはならない問題のような気がいたします。真の環境とは何か、また人間がつくり出す芸術や建築といったものは自然環境とどのように対峙し共存でき得るのか、また物的欲望を超えた中（従属感の満たされた状況化）で人間はどうそれを問い直すことができるのか・・・・・？。それが２１世紀への人間（建築家）が果たすべき課題のような気がします。<br />
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最後に<br />
近代建築行脚の旅路と称し、昨年４月からはじめた1960年代前後に建てられた日本の近代建築を巡る旅路（見学）も、前後編に分けて開催したスライド会（200枚程度）を以って無事、終了いたしました。戦前の近代建築の思想は欧州から齎された前衛芸術が発端となって、日本では堀口捨己や山田守（分離派）、山口文象（創宇社）といった建築家により、先ずは住宅作品を中心として展開し、そして1940年代の第二次世界大戦を挟み、1950年から60年代には戦後の復興を契機に近代建築の全盛期を迎えることとなります。そこで私は、間もなく訪れる２１世紀の建築とこの戦後の激動期における近代建築には、何故か共通している大変重要な意味（物的な豊かさから精神的な豊かさへの転換）があるのではないかと思い、安易な歴史の痕跡を辿るとかノスタルジー（懐かしさ）を得るという目的ではなく、当時の建築や都市に対する考え方（提案）を学ぶことができればと思い実行してきました。ところで、今回の企画で多少残念に思ったことがあります。それは、所謂建築を職業としている人が建築そのもの（特に桂離宮などの日本の伝統的建築）を案外見ていないことでした。それが、見学会やスライド会、見学レポートでの積極的な姿勢や活発な意見に乏しかったこと（写真を撮って資料として保存するだけの見学）と結びついているようです。そこには、建築という社会や教育制度では片付けられない多くの問題が存在しているように思います。昨今の時代的背景の中で、建築の芸術性に触れることをタブーとする風潮そのものが、本来の建築家像からは遠く離れた存在となってしまったことを意味しているように思えてなりません。それは、多くの専門的技術者を国や民間企業で率先して育成していることの弊害なのか、それとも唯、身分とか地位といった欲に固執したいだけ（技術者的プロ意識のみ）なのかそれは定かではありませんが、これから志そうとしている若い人達にもそのことが少なからず影響していることの証しではないかと不安に感じられました。そこには、気が付いてはいても逃れられず思いきった行動が取れないジレンマと格闘している他者を見ているようでちょっと寂しく思えました。今回の見学を通して実体験してきたことはこれから具体的な設計を通して問われるものです。現場で撮った写真やスケッチが無駄にならないよう今後の仕事でそれらを活かし、素晴しい作品を・・・・期待しております。１年間、どうも有難うございました。また、見学会にて御会いできる日を楽しみにしています。</p>
<p>1999年　卯月　伊神誠治</p>
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