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	<title>パレスサイド・ビル　Palaceside Building へのコメント</title>
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	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Thu, 11 Mar 2010 14:42:26 +0000</pubDate>
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		<title>遠州 より</title>
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		<dc:creator>遠州</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Nov 2008 00:06:50 +0000</pubDate>
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		<description>「パレスサイド・ビル」の訪問記、ありがとございました！大変、興味深く読ませて頂きました。

確かにこの建築のデザイン・ディテールには日本の伝統建築の影響がファサードの構成や屋上・内部の手摺など各所に感じられますね。設計担当者の林氏は、その著書で日本建築への含蓄や傾倒を著わしていましたから、必然のことと思われます。また、空間を無駄なく使うというあたりも、このビルの複雑で不整形な敷地に、人の出入りや物流・車の取り入れ方など、隅々まで余す所なく利用し尽くしていることから、窺い知ることが出来ました。

遠州</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「パレスサイド・ビル」の訪問記、ありがとございました！大変、興味深く読ませて頂きました。</p>
<p>確かにこの建築のデザイン・ディテールには日本の伝統建築の影響がファサードの構成や屋上・内部の手摺など各所に感じられますね。設計担当者の林氏は、その著書で日本建築への含蓄や傾倒を著わしていましたから、必然のことと思われます。また、空間を無駄なく使うというあたりも、このビルの複雑で不整形な敷地に、人の出入りや物流・車の取り入れ方など、隅々まで余す所なく利用し尽くしていることから、窺い知ることが出来ました。</p>
<p>遠州</p>
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		<title>伊神誠治 より</title>
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		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 10 Nov 2008 02:52:37 +0000</pubDate>
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		<description>こんにちは、伊神です。
下記は平成10年12月28日に企画した「パレスサイドビル」の訪問記です。懐かしい憶いが甦るテクストでした。
拙文ではありますが、御参考までに。
次回は神奈川県立近代美術館

近代建築行脚の旅路　１０−パレスサイドビル

『社会的役割を担う組織としての眼』

日本で最大の組織設計事務所である日建設計工務（現・日建設計）に籍を置き、これまでに数々の巨大オフィスビルを手掛けてきた林昌二（1928年生まれ）の出世作となったのが、今回見学する「パレスサイドビル」です。第８回で取り上げたアントニン・レーモンドが1951年に完成したリーダーズ・ダイジェスト東京支社が在った敷地にそれを取壊して建てられた大規模複合ビルでした。1953年に東京工業大学を卒業した林昌二は、同じ清家清（1918-）門下のひとりであった篠原一男（1925-）と同期生（1953年卒）であり、日本建築に空間構成に着目し住宅をテーマとした作家活動に身を於いた篠原に対して、林は大組織設計事務所において社会的な役割を担う建築プロジェクトに関わることで将来の新しい都市空間形成（景観）への期待に夢を抱いていました。しかし、現代の都市（特に東京）は、いみじくも篠原が指摘するカオス（混沌）の状況を露呈することとなり、飽くまでも林が蓄積してきたその行為はバブルの影響もあってか社会を取り巻く環境は思ったようには進みませんでした。しかし、彼の社会を見据えた新たなるテーマを追求する建築への審美眼は、時代を経た今日においても未だ健在で、これまでに「三愛ドリームセンター」（1963年）、「ポーラ五反田ビル」（1971年−日本建築学会賞受賞）、「新宿ＮＳビル」（1982年−日本建築学会賞受賞）、「日本火災横浜ビル」（1989年）、「ＮＥＣ日本電気本社」（1990年）、「文京シビックセンター」（1995年）、「掛川市庁舎」（1996年）といった代表作を担当し多くの役職も歴任して、現在では同社の最高顧問とＮＵＩ都市建築研究所の所長を兼務しています。また、住宅作家（女性建築家）の林雅子（1928-）と夫婦で設計した「自邸」（1978年）には、大規模なものもさることながら小さな住宅へのこだわり（特にディテール）にも大変強い関心があったことが伺われます。
□
官庁御用納めの暮れも押し迫った師走の28日、地下鉄東西線の竹橋駅改札口では不景気の感もあってか普段と変わらないぐらいの混みようでした。私が設定した日が間違っていたのか、結局単独で見学することとなりました。（途中で辛うじて１名が合流）地下鉄の改札口からパレスサイドビル内へは直結しているため、早速東側の円筒形タワーにあるエレベーターで5階へと上がり見学の予約をしていたこのビルの管理会社へと向かいました。そこで見学の主旨を説明し1階の防災センターでバッチ（腕章）を借りて、まず最初にこのビルの屋上庭園へと案内されました。普段は社内の人に限定して昼の休憩時間（午前11時30分〜午後1時30分）に開放しているそうですが、皇居を見下ろすことのできる眺望のため警備が厳重（皇居側）で写真撮影は写す方向が限定されています。昨今では屋上に機械類を置くオフィスビルが多いため屋上空間の居住化（庭園化）は難しく、然も目隠しをしてエレベーションを調整するなど屋上空間の魅力が疎外されているのが現状です。ところがこの屋上庭園には舟のメタファ（隠喩）ともいえる、差し詰めジェット機が飛び立つ航空母艦のデッキ（円筒形シャフトはマストである）のような奥行（平面形による）を感じさせる広大な空間が拡がっていました。屋上庭園と聞いてパーゴラや低木類などが騒然としている姿を想像したのですが、そこは恰も都会の狭間（周辺のビルに埋没した）に現われた空隙（GAP）、そして予想以上に何もない空虚に拡がりを感じました。ところで、このビルには毎日新聞社の他に複数のテナントが入居していますが、その中から管理会社の入る5階のオフィスフロアの内部を見学させてもらい、管理者からぺリメーターゾーン（通常外側からしか見られない）についての説明を受けました。室内側の天井高さは2400㎜（階高は3600㎜、インテリアゾーンの天井高さは2800㎜である）の低さにも係わらず、腰壁がなくフルオープンなカーテンウォールが実現されていますが、それは設計当初において製造可能な最大寸法（2.4ｍ×3.2ｍ、厚み15㎜）のガラスを取り付けるために造船技術を応用して造ったスチールの枠とガスケットを採用したことによるもので、内部は明るく開放的な感じが見られました。そのカーテンウォールの外部にはメンテナンス用のコンクリート床スラブ（幅400㎜程度）、そしてキャストアルミの水平ルーバー（南北面共に角度は一定で固定されている）を設けることによって日照調整を行っています。円筒形のコアには10基のエレバーターの他、階段、便所が組み込まれており、そのシリンダー状の純粋な形態面を覆う彎曲したプレキャストコンクリート板（外壁）の襞やジョイント部に穿かれたスリットに或種、装飾的な材質感が齎されています。それは、細長いオフィス棟の端部にあるコア（東西にある避難階段）の外壁部に英国から輸入した硬質煉瓦を採用していることなどからも同じように理解できます。オフィス棟の外装はスチールですが、妻面の簾のようなルーバーや正面の日除けルーバー、竪樋はすべてアルミキャストの手作りです。それを内堀通りから眺めると、規則的に並べられた非常に軽快な（部材の細い）現場の足場のようで、平滑な面で仕上げるファサードのビルが多い（最近は少なくなっている）中、光の陰影による美しさが際立っていました。1階は商店街、地下1階は食堂街となったコンコースの吹き抜け部分には、ステンレスを編んで作ったダイナミックで繊細な階段が設けられていました。ちょうど踊場の位置を階高の四分の一に設定しているため上下に連続感が生まれステンレスが纏つくアーティスティックな美しさを醸し出していました。この長いコンコースの天井にはアルミのルーバー照明を連続的に設け、グレア（眩しさ）の防止を施すとともに、1階の天井高さを2600㎜に抑えて吹き抜け部をより開放的に見せ上下の繋がりを強めています。正面玄関は道路（内堀通り）拡幅のため、窮屈なアプローチとなりましたが西玄関にある空傘のようなキャノピー（庇）はレディメイドのユニークなオブジェのようで、アプローチする人を包み込むような大らかさを感じました。林のディテールへの関心や手摺や庇など、どれをとって見ても大変ユニークなものであります。特に屋上の手摺の隅角部の処理は寝殿造りの欄干の納まり、また深い軒出はユニットとして分割した蔀戸を思わせ、随所に日本建築の影響が見られます。最期にこのビルで最も魅力的と思えた箇所が、円筒形のコアと四角いオフィスの端部（赤煉瓦の壁）にできた狭間の空間でした。ちょうど数十センチのスリット部に射し込んでくる密度の濃い光の帯が大ガラスを通して通路内にまで伸び、京都の坪庭のようでちょっとした安らぎを与えてくれます。大概はこの狭間を淫らな空間として閉鎖してしまいますが、ちょっとした空間も無駄にしないでそれを積極的にルーム（ルイス・カーン流の言葉で心の場所）として還元できるパワーがこの時代には、用途に関係なく感じられ、改めて若き日の林昌二の才能を知ったように思います。
□
このパレスサイドビルでは、日建設計、山下設計、大林組、竹中工務店の4社により一ヶ月の短期間でプロポーザル（基本設計）が行われ、設計・監理を日建設計（設計担当責任者として林昌二、チーフとして平井尭、さらに東京支店の全スタッフがバックアップするという体制）、施工を竹中・大林のＪＶに決定して建設が始まりました。延床面積12万平米の大規模複合ビルの企画に際して、当然事業者は超高層ビルとしての検討も行っており、同時期に計画のあった前川國男設計の東京海上ビル（1974年）や山下寿郎設計の霞ヶ関ビル（1968年）は1963年の建築基準法の改正（容積制限の制度）に伴い現に高層化し実現されました。しかし、パレスサイドビルでは地下に新聞の印刷工場をもつが故に容積制は不利に働くと見て旧法で計画（皇居側に配慮した低層化の案）を速やかに進めたという経緯が『パレスサイドビルディング建設史』には記されていました。
「（思想）第一は『さすが東京だ』と万人がうなずく東京一、いや日本一の巨大ビルを完成させることであった。その巨大ビルは都市景観と都市美の象徴となるような格調高い近代建築である、と言う構想であった。（中略）第二は、建設されるビルディングが環境に調和し、周辺の美観を引き立てるようなものでありたい、という願望であった。」−『パレスサイドビルディング建設史』より
「社会が建築をつくりクライアントが建築をつくるのである」「本当のお施主さんにめぐり会えるかどうかが、運命の別れ目といえましょう。今や稀少価値となりつつあるらしいその相手に！！」−『二十二世紀を設計する』林昌二著　彰国社刊より
この文章からもおわかりのように、確かにクライアントの要望、その時代の社会状況、市民感情など様々な要因によって建築の性格の大きな方向性は決定されてしまいます。私も組織（松田平田）の中に身を置いた経験から、担当者によって施主の運、不運で建築の質がある程度決定してしまうこともやむ得ない理由であると理解できます。幸いこのパレスサイドビルでは施主の建物に対する理念と設計者の理念が一致し、非常に恵まれた環境のもとで作品が完成しました。のちに新法により新しい日本の都市開発の先駆として脚光を浴びた霞ヶ関ビルとは異なり、今日、スクラップ化する現状の都市の中で真のモダニズムの思想をストレートに甘受できるオフィスビルとしては貴重な存在であると言えましょう。ところで、前述に林が述べた相手（施主）、特に創業者から何代にも受け継がれてきた近頃の経営者（社長や会長）には、何の苦労もなく、ひたすら金儲けに走り、贅沢三昧を繰り返し、挙げ句の果てには多額の不良債権を抱えバブルの後遺症で倒産に追い込まれるなど、文化人として見識に欠けている企業家が少なからず多いようです。特に公共建築の場合には最も難しく、決定するその相手が見えないこともままあります。そんな見えない相手にどう林の退いた日建設計が社会的役割を担う組織としてこの時代を見据えた提案をして行くことができるのか今後の作品に期待したいと思います。
□
次回は、父親に内務省の技師で明治神宮などの社寺建築の設計に携わっていた大江新太郎（1875-1935）そして東京大学建築学科の同期生には丹下健三、浜口隆一など、恵まれた建築環境のもとで学び卒業後も文部省や三菱地所といったエリートコースを経験した大江宏の処女作として知られる『法政大学キャンパス計画』（1958年日本建築学会賞受賞）です。戦後、法政大学教授に就任したのを期にモダニズムの理論でマスタープランに着手、周辺の都市化の進展に伴い逸早くキャンパスの高層化を提案し、八年の歳月を要し実践してきた建築構想が伺い知れることと思います。

1999年　如月　伊神誠治</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>こんにちは、伊神です。<br />
下記は平成10年12月28日に企画した「パレスサイドビル」の訪問記です。懐かしい憶いが甦るテクストでした。<br />
拙文ではありますが、御参考までに。<br />
次回は神奈川県立近代美術館</p>
<p>近代建築行脚の旅路　１０−パレスサイドビル</p>
<p>『社会的役割を担う組織としての眼』</p>
<p>日本で最大の組織設計事務所である日建設計工務（現・日建設計）に籍を置き、これまでに数々の巨大オフィスビルを手掛けてきた林昌二（1928年生まれ）の出世作となったのが、今回見学する「パレスサイドビル」です。第８回で取り上げたアントニン・レーモンドが1951年に完成したリーダーズ・ダイジェスト東京支社が在った敷地にそれを取壊して建てられた大規模複合ビルでした。1953年に東京工業大学を卒業した林昌二は、同じ清家清（1918-）門下のひとりであった篠原一男（1925-）と同期生（1953年卒）であり、日本建築に空間構成に着目し住宅をテーマとした作家活動に身を於いた篠原に対して、林は大組織設計事務所において社会的な役割を担う建築プロジェクトに関わることで将来の新しい都市空間形成（景観）への期待に夢を抱いていました。しかし、現代の都市（特に東京）は、いみじくも篠原が指摘するカオス（混沌）の状況を露呈することとなり、飽くまでも林が蓄積してきたその行為はバブルの影響もあってか社会を取り巻く環境は思ったようには進みませんでした。しかし、彼の社会を見据えた新たなるテーマを追求する建築への審美眼は、時代を経た今日においても未だ健在で、これまでに「三愛ドリームセンター」（1963年）、「ポーラ五反田ビル」（1971年−日本建築学会賞受賞）、「新宿ＮＳビル」（1982年−日本建築学会賞受賞）、「日本火災横浜ビル」（1989年）、「ＮＥＣ日本電気本社」（1990年）、「文京シビックセンター」（1995年）、「掛川市庁舎」（1996年）といった代表作を担当し多くの役職も歴任して、現在では同社の最高顧問とＮＵＩ都市建築研究所の所長を兼務しています。また、住宅作家（女性建築家）の林雅子（1928-）と夫婦で設計した「自邸」（1978年）には、大規模なものもさることながら小さな住宅へのこだわり（特にディテール）にも大変強い関心があったことが伺われます。<br />
□<br />
官庁御用納めの暮れも押し迫った師走の28日、地下鉄東西線の竹橋駅改札口では不景気の感もあってか普段と変わらないぐらいの混みようでした。私が設定した日が間違っていたのか、結局単独で見学することとなりました。（途中で辛うじて１名が合流）地下鉄の改札口からパレスサイドビル内へは直結しているため、早速東側の円筒形タワーにあるエレベーターで5階へと上がり見学の予約をしていたこのビルの管理会社へと向かいました。そこで見学の主旨を説明し1階の防災センターでバッチ（腕章）を借りて、まず最初にこのビルの屋上庭園へと案内されました。普段は社内の人に限定して昼の休憩時間（午前11時30分〜午後1時30分）に開放しているそうですが、皇居を見下ろすことのできる眺望のため警備が厳重（皇居側）で写真撮影は写す方向が限定されています。昨今では屋上に機械類を置くオフィスビルが多いため屋上空間の居住化（庭園化）は難しく、然も目隠しをしてエレベーションを調整するなど屋上空間の魅力が疎外されているのが現状です。ところがこの屋上庭園には舟のメタファ（隠喩）ともいえる、差し詰めジェット機が飛び立つ航空母艦のデッキ（円筒形シャフトはマストである）のような奥行（平面形による）を感じさせる広大な空間が拡がっていました。屋上庭園と聞いてパーゴラや低木類などが騒然としている姿を想像したのですが、そこは恰も都会の狭間（周辺のビルに埋没した）に現われた空隙（GAP）、そして予想以上に何もない空虚に拡がりを感じました。ところで、このビルには毎日新聞社の他に複数のテナントが入居していますが、その中から管理会社の入る5階のオフィスフロアの内部を見学させてもらい、管理者からぺリメーターゾーン（通常外側からしか見られない）についての説明を受けました。室内側の天井高さは2400㎜（階高は3600㎜、インテリアゾーンの天井高さは2800㎜である）の低さにも係わらず、腰壁がなくフルオープンなカーテンウォールが実現されていますが、それは設計当初において製造可能な最大寸法（2.4ｍ×3.2ｍ、厚み15㎜）のガラスを取り付けるために造船技術を応用して造ったスチールの枠とガスケットを採用したことによるもので、内部は明るく開放的な感じが見られました。そのカーテンウォールの外部にはメンテナンス用のコンクリート床スラブ（幅400㎜程度）、そしてキャストアルミの水平ルーバー（南北面共に角度は一定で固定されている）を設けることによって日照調整を行っています。円筒形のコアには10基のエレバーターの他、階段、便所が組み込まれており、そのシリンダー状の純粋な形態面を覆う彎曲したプレキャストコンクリート板（外壁）の襞やジョイント部に穿かれたスリットに或種、装飾的な材質感が齎されています。それは、細長いオフィス棟の端部にあるコア（東西にある避難階段）の外壁部に英国から輸入した硬質煉瓦を採用していることなどからも同じように理解できます。オフィス棟の外装はスチールですが、妻面の簾のようなルーバーや正面の日除けルーバー、竪樋はすべてアルミキャストの手作りです。それを内堀通りから眺めると、規則的に並べられた非常に軽快な（部材の細い）現場の足場のようで、平滑な面で仕上げるファサードのビルが多い（最近は少なくなっている）中、光の陰影による美しさが際立っていました。1階は商店街、地下1階は食堂街となったコンコースの吹き抜け部分には、ステンレスを編んで作ったダイナミックで繊細な階段が設けられていました。ちょうど踊場の位置を階高の四分の一に設定しているため上下に連続感が生まれステンレスが纏つくアーティスティックな美しさを醸し出していました。この長いコンコースの天井にはアルミのルーバー照明を連続的に設け、グレア（眩しさ）の防止を施すとともに、1階の天井高さを2600㎜に抑えて吹き抜け部をより開放的に見せ上下の繋がりを強めています。正面玄関は道路（内堀通り）拡幅のため、窮屈なアプローチとなりましたが西玄関にある空傘のようなキャノピー（庇）はレディメイドのユニークなオブジェのようで、アプローチする人を包み込むような大らかさを感じました。林のディテールへの関心や手摺や庇など、どれをとって見ても大変ユニークなものであります。特に屋上の手摺の隅角部の処理は寝殿造りの欄干の納まり、また深い軒出はユニットとして分割した蔀戸を思わせ、随所に日本建築の影響が見られます。最期にこのビルで最も魅力的と思えた箇所が、円筒形のコアと四角いオフィスの端部（赤煉瓦の壁）にできた狭間の空間でした。ちょうど数十センチのスリット部に射し込んでくる密度の濃い光の帯が大ガラスを通して通路内にまで伸び、京都の坪庭のようでちょっとした安らぎを与えてくれます。大概はこの狭間を淫らな空間として閉鎖してしまいますが、ちょっとした空間も無駄にしないでそれを積極的にルーム（ルイス・カーン流の言葉で心の場所）として還元できるパワーがこの時代には、用途に関係なく感じられ、改めて若き日の林昌二の才能を知ったように思います。<br />
□<br />
このパレスサイドビルでは、日建設計、山下設計、大林組、竹中工務店の4社により一ヶ月の短期間でプロポーザル（基本設計）が行われ、設計・監理を日建設計（設計担当責任者として林昌二、チーフとして平井尭、さらに東京支店の全スタッフがバックアップするという体制）、施工を竹中・大林のＪＶに決定して建設が始まりました。延床面積12万平米の大規模複合ビルの企画に際して、当然事業者は超高層ビルとしての検討も行っており、同時期に計画のあった前川國男設計の東京海上ビル（1974年）や山下寿郎設計の霞ヶ関ビル（1968年）は1963年の建築基準法の改正（容積制限の制度）に伴い現に高層化し実現されました。しかし、パレスサイドビルでは地下に新聞の印刷工場をもつが故に容積制は不利に働くと見て旧法で計画（皇居側に配慮した低層化の案）を速やかに進めたという経緯が『パレスサイドビルディング建設史』には記されていました。<br />
「（思想）第一は『さすが東京だ』と万人がうなずく東京一、いや日本一の巨大ビルを完成させることであった。その巨大ビルは都市景観と都市美の象徴となるような格調高い近代建築である、と言う構想であった。（中略）第二は、建設されるビルディングが環境に調和し、周辺の美観を引き立てるようなものでありたい、という願望であった。」−『パレスサイドビルディング建設史』より<br />
「社会が建築をつくりクライアントが建築をつくるのである」「本当のお施主さんにめぐり会えるかどうかが、運命の別れ目といえましょう。今や稀少価値となりつつあるらしいその相手に！！」−『二十二世紀を設計する』林昌二著　彰国社刊より<br />
この文章からもおわかりのように、確かにクライアントの要望、その時代の社会状況、市民感情など様々な要因によって建築の性格の大きな方向性は決定されてしまいます。私も組織（松田平田）の中に身を置いた経験から、担当者によって施主の運、不運で建築の質がある程度決定してしまうこともやむ得ない理由であると理解できます。幸いこのパレスサイドビルでは施主の建物に対する理念と設計者の理念が一致し、非常に恵まれた環境のもとで作品が完成しました。のちに新法により新しい日本の都市開発の先駆として脚光を浴びた霞ヶ関ビルとは異なり、今日、スクラップ化する現状の都市の中で真のモダニズムの思想をストレートに甘受できるオフィスビルとしては貴重な存在であると言えましょう。ところで、前述に林が述べた相手（施主）、特に創業者から何代にも受け継がれてきた近頃の経営者（社長や会長）には、何の苦労もなく、ひたすら金儲けに走り、贅沢三昧を繰り返し、挙げ句の果てには多額の不良債権を抱えバブルの後遺症で倒産に追い込まれるなど、文化人として見識に欠けている企業家が少なからず多いようです。特に公共建築の場合には最も難しく、決定するその相手が見えないこともままあります。そんな見えない相手にどう林の退いた日建設計が社会的役割を担う組織としてこの時代を見据えた提案をして行くことができるのか今後の作品に期待したいと思います。<br />
□<br />
次回は、父親に内務省の技師で明治神宮などの社寺建築の設計に携わっていた大江新太郎（1875-1935）そして東京大学建築学科の同期生には丹下健三、浜口隆一など、恵まれた建築環境のもとで学び卒業後も文部省や三菱地所といったエリートコースを経験した大江宏の処女作として知られる『法政大学キャンパス計画』（1958年日本建築学会賞受賞）です。戦後、法政大学教授に就任したのを期にモダニズムの理論でマスタープランに着手、周辺の都市化の進展に伴い逸早くキャンパスの高層化を提案し、八年の歳月を要し実践してきた建築構想が伺い知れることと思います。</p>
<p>1999年　如月　伊神誠治</p>
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