1 月 29 2009
三渓園 Sankeien Garden
大池の対岸の山上に聳える三重塔を望む

敷地:横浜市中区本牧三之谷58-1
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創建(公開):明治39年(1906)
感想 Impression
Ⅰ.古建築のミュージアム 三渓園
横浜市の東南部・本牧海岸に沿い、山や谷に囲まれた美しい自然環境に175,000㎡の広大な庭園があります。三渓園は明治の実業家原三渓が京都や鎌倉から手に入れた寺塔・殿舎・楼閣・茶室等の古建築をこの地に蒐集し景観に嵌め込むように巧みに移築して造り上げた名園で、明治39年(1906)に一般公開されました。庭園は、外苑と内苑という二つの領域に分かれており、いつでも公開されているパブリックな外苑に対し、内苑は原家の私邸があったプライベートな領域です。山上に建つ三重塔が象徴的な外苑は大きな池と四季折々の花を楽しめる大らかで開放的な趣なのに対し、内苑は池の汀や山・谷間などの起伏ある地形に相応しい古建築を配置していった造形的雰囲気が漂う緻密な構成の庭園になっていて、外苑に遅れること17年後の大正12年(1923)に完成し、三渓園が原家から横浜市に寄贈された5年後の昭和33年(1958)に公開されました。正門から園内に入ってまず視界に飛び込んでくるのが左に曲線を描いてゆったりと広がる池の対岸の山上に聳える三重塔です。外苑のみならず三渓園全体のランドマークであり、また園内の景色を引き締めるフォーカスポイントとして、荘厳な気品を湛えています。野趣で長閑な空気が流れる外苑から御門を通って原家のプライベートエリアだった内苑に到り、起伏に富んだ自然の地形を活かして上り下りするアプローチを辿って行くと、三渓が収集し移築した歴史的価値の高い古建築が最初からそこに佇んでいたのではないかと錯覚を起こさせる程、それぞれの建築が相応しいと思われる場所に配置されており、建築と地形が調和した美しい景色に魅了されます。原が次々と蒐集し、場所を択び吟味しながら移築した古建築群の中で最も見応えがあり白眉と言えるのが「臨春閣」「聴秋閣」と呼ばれる二つの数奇屋建築でした。
Ⅱ.巧みに再構成された臨春閣
池の汀に佇む臨春閣を望む 上空より雁行した臨春閣を眺める
臨春閣平面図
内苑で最も重要な建築である臨春閣は、元々、紀州徳川家初代の頼宣が和歌山市の東北、紀ノ川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別邸であった。その後、複雑な背景から所有者が変わり、紀州から大阪に移され保存されていたが、明治39年に原が譲り受けて、大正4年(1915)から移築し始め、同6年に完成し、改めて臨春閣と名付けられた。臨春閣の正面の山の頂きに、やはり原が京都から大正3年(1914)に移築した三重塔が庭園の象徴として建っている。臨春閣は、山上の三重塔を意識し、対景という中国の庭園の技法を取り入れて互いが対の景色をつくるように現在の場所に配置されたようだ。
移築ということは木造の日本の伝統建築ではよく行われることだが、この建築のような巧緻な移築は珍しいと謂われている。内苑の池のほとりに最初からそこにあったかのように自然な佇まいを見せている現在の臨春閣は、右手前から左手奥へ第一屋、第二屋、第三屋と呼ばれる三つの棟が雁行して形づくられている。だが、かつて紀ノ川沿いにあった紀州徳川家の御殿はこのような並びでは配置されておらず、三渓園に移動してくる際、オリジナルの建築構成に手を加えて改造し、第二屋と第三屋が池に臨んで眺められるよう池に沿って雁行させたのは原三渓の創意工夫であったようだ。三つの棟とも屋根はオリジナルの本瓦葺からすべて柔らかな表情の桧皮葺に変えられ統一されているが、第一屋と第二屋は平屋の入母屋、第三屋が二階建てで寄棟屋根となっており、雁行配置のプロポーションに変化を与えている。
第二屋浪華の間 浪華の間 欄間


建物内部に右手前の第一屋から入り、鉤の手になった縁を歩いて池に面した第二屋へいくと、この建築の中心であり最も格式ある二間続きの書院がある。浪華の間と呼ばれる部屋を囲む欄間に並んだ額入りの色紙とその隙間を菊花の透かし彫りで埋めたユニークな意匠に思わず視線が注がれる。全体に臨春閣の欄間は優れた意匠が凝らされていて実に見応えがあります。浪華の間からより格式高い住之江の間へ上がる敷居に用いられた柿材が書院の格式に柔らかな雰囲気を与えている。薄暗い住之江の間の付書院欄間から光りを透かして美しい文様が表れている光景が美しく、しばし釘付けになりました。また正面を占める床の間と床棚・地袋の意匠が瀟洒なもので、床柱の丸太や床框の朱塗りが艶やかに光り、棚の地袋には渡来品を応用した螺鈿細工が嵌め込まれ、華やかさの中に渋さが調和したような意匠になっています。雁行した棟の一番奥に位置する第三屋は、手前の第二屋との繋ぎに手洗いなどが設けられて切り離されているため、プライベートな空間になっている。ここでまず目をひくのが二階の間へ登る階段室の面白い開口である。白い壁面に黒く塗られた太い枠で縁取られた火灯形の口を開き、直角に折れながら上階へ登る階段が顔を覗かせています。この開口は頭部が炎を思わせる曲線なので火灯口または火灯窓と呼ばれ、鎌倉時代の禅宗寺院から由来したものが時代が下って臨春閣のような別荘建築にも取り入られたのだろうか。インテリア・デザインとして空間に変化を与えており、また上階へ導くサインの役割も果たしている。惜しくも二階は公開されておらず、遠い江戸時代に火灯口を潜って階段を登り、紀州藩主が近しき人や客と寛ぎ川の眺望を楽しむプライベートな空間だった村雨の間を見ることは出来ないのは残念でした。村雨の間は三方を開け放てる望楼になっていて見晴らしよく、この部屋から内苑全体の眺望が楽しめるという。また正面の東南方向の山上には前述した三重塔が聳え、借景としてピンポイントに見上げられる趣向になっている。
第三屋天楽の間より火灯口を望む 第三屋天楽の間
天楽の間 欄間
Ⅲ.軽快で円やかな楼閣 聴秋閣
聴秋閣正面全景 聴秋閣平面図


池のほとりに雁行した臨春閣の端整な佇まいを眺めながら、北へ急峻な細い山径を登りながら中程で左に迂回すると、谷間の林から小さな望楼をのせた茶屋が見えてくる。聴秋閣と呼ばれるこの二層の茶屋は、徳川家三代将軍の家光が京都に上洛した際、作事奉行の佐久間将監に命じて二条城内に造営させたもので、当時は「三笠閣」と称されていたと伝えられている。その後、江戸城内に移されたが明治後、買い取られて持主の私邸に移されていたものが大正11年に原の元に寄贈され、三渓園に再度移築されたと謂われている。聴秋閣が三渓園に再建された翌年の大正12年に関東大震災が起こり横浜が壊滅的被害を受けて以来、原は横浜の復興と自分の事業の再建にかかりきりになったため、彼の長年にわたる古建築蒐集の活動は結果的にこの楼閣建築の移築が最後となったのたのだが、大震災がなければ蒐集した古美術品のための美術館を建設する構想もあったという。いずれにしても、聴秋閣は類例の極めて少ない楼閣建築に遺構なのだが、この種の楼閣の先駆的なものに南北朝時代に京都の西芳寺にあったという瑠璃殿や室町将軍が創建した著名な金閣、銀閣がある。これらは当時隆盛だった禅宗寺院の建築様式に影響されており、上層の望楼から見下ろすという当時にあっては非日常的な体験をすることが重視されていた。それは時代が下ると城郭建築における天守閣のような壮大な望楼に繋がってゆく。小規模ながら聴秋閣は室町の禅宗寺院を源流とする貴重な楼閣建築と言える。
山径より聴秋閣を眺める
山径のアプローチをつたって聴秋閣に近づくと、まず建物の間口側である付属部分の面と水平にやや雁行した入母屋の屋根が視界に入ってくる。しかし裏の山径から撮った画像を見ると、本来この茶屋は渓流に面している長手の正面側とその右手山側の方角から建物全体を眺めるほうが美しい景色となるよう造られていることが感得できる。現在、安全を考慮してか立ち入れないようになっている裏側の山径からアプローチしないと、この楼閣建築の造形美を堪能することが出来ないのではないだろうか。文献によると原三渓在世時は、裏の山径を辿っていたようであるので、この建築の本領を三渓園を訪れる人々に伝える意味でも以前の経路を復活させて貰いたいのだが。
聴秋閣望楼より三重塔を望む
聴秋閣の正面に廻ってその姿をじっくり眺めてみると、対称性を避けて、多様な要素の集積の均衡をとるべく左右非対称に造形されている。上下層で平面のサイズが違い、上層の望楼はコンパクトな大きさにまとめられて拡がった下層の上に微笑ましく置かれている。望楼には禅宗寺院を思わせるような火灯窓が東南方向の三重塔に向かって設けられ、障子を開けると炎形の開口から谷を隔てて山上に聳える三重塔が遠景として望める仕掛けになっている。臨春閣同様、この楼閣建築もまた三渓園の象徴である三重塔をピンポイントで見上げる眺望を楽しめるように配慮されてこの場所に移築されたようだ。
渓流に架けられた巨石の橋を渡って正面から内部を見ると、木の四角い板がタイルのように斜め目地に敷かれた土間が内側に食い込み、その向こうに床、戸棚、付書院などの主室が大きく拡がっている。舟入ふうの土間の周囲に廻った欄干も対称形を避けるように、端部の位置が変えられ変化を求める細かな配慮がされている。また右側の付書院のスペースが大きく斜めに切られているなど、意表をつく奔放な意匠が面白い。書院とその先に続く二畳の上段の窓を開けると、晩秋には谷間の渓流を囲む美しい紅葉の景色が望めるため「聴秋閣」と名付けられという。天井高など空間のスケールは小さく抑えられていて、この空間が茶の湯のための小間の座敷であることに気付かされる。平面を見ると、茶事以外の機能の座敷を具えており、その構成は元々二条城内の庭園にあった建築らしく庭に対し開放的で多彩な変化をもたせている。そこからは、茶の湯の先達の利休や同時代の遠州の茶室に見られるような迫力や濃密な趣とは異質な軽快で明るく奔放な雰囲気が感じられます。
聴秋閣 書院内観 客室より書院及び上段の間を望む
ⅳ.伝統を通して自己表現と社会貢献を果たした近代の数寄者 原三渓
三渓園を創設した実業家・原三渓は、数々の古建築の他にも美術品の蒐集家としても知られ、新進芸術家の援助・育成更には造園・茶道など多方面の分野で縦横に才能を発揮した趣味人でした。原は、三渓園の造成にあたって陣頭指揮を執り、古建築の移築はもとより園内の草花からつくばいや手水鉢、塔、燈篭などの名石に至る隅々まで目を配り、自らの美意識と哲学を浸透させていきました。そして長い年月をかけ趣向を凝らして造り上げた自宅の庭を「三渓園の土地は自分のものだが、自然の風景は市民のもの」と言い、横浜市民の憩いの場として一般開放したのです。近代化の過程にあった100余年前の明治時代に、いわゆるオープンガーデンを実行したことは現在でいうところの社会貢献にあたり、大変な先見性と価値観であったと思います。原が公開したのは庭園だけに留まらず、蒐集した古美術の名品も援助している日本画家たちに惜しみなく公開して、彼らの芸術心を養い創作に寄与したという。日本の伝統に根差して、自分の世界感を表現するために趣味として楽しみながら造った庭園をパブリックに供し、結果として社会的信頼を勝ち得るという相乗効果を遂げた意味は大きい。日本の近代化の表現という視点からも、三渓園は原が後世に遺した希有な社会遺産と言えるのではないだろうか。
参照文献 Reference
数奇屋逍遥-茶室と庭の古典案内/横山正著/彰国社/1996
数奇屋の思考/石井和紘著/鹿島出版会/1985
数奇屋の森-和風空間の見方・考え方/中川武監修/丸善/1995
日本の建築-その芸術的本質について/吉田鉄郎著/東海大学文化選書/1975







