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3 月 31 2009

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall

敷地:東京都台東区上野公園
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竣工:昭和36年(1961)
設計者:前川國男
Location:Ueno-koen,Taito-ku,Tokyo
Establishment:1961
Architect:Kunio Mayekawa
感想:Impression
「上野の山で対峙する師弟の近代建築」
Ⅰ.歴史ある上野の山に聳える音楽堂
不忍池や徳川将軍家の菩提寺寛永寺など江戸時代以来、東京市民に縁の深い上野の山はまた東都きっての桜の名所でもある。その桜の老樹がゆかしき風情を漂わす上野の山が明治初頭に公園として東京市民に開放されてから明治・大正・昭和にかけて大規模な内国博覧会の開催や大学、博物館、美術館など文教・文化施設が陸続と建ち、上野公園は帝都随一の文化・遊覧の名所として発展していきました。その上野公園に戦後、それまでの東京に類例のなかった大規模なスケールの大小二つのホールを内包した本格的な音楽堂が現われます。「東京文化会館」と呼ばれる音楽堂は、昭和36年(1961)の 4月に竣工した。オープンから50年弱が経過した今も優れた音響、抜群の利用率を誇り、現役のオーディトリアムとしてフルに稼動している。近代建築の巨匠ル・コルビジェに日本人として最も早く師事した建築家の前川國男が設計した「東京文化会館」は、戦後日本の近代建築のデザインを象徴した姿で上野の森に悠然と鎮座しています。
ル・コルビジェと前川國男
戦後日本の近代建築を常に先導した建築家・前川は、帝大を卒業した日の夜から単身、帝都東京を発ち、神戸から船で満州大連に渡り奉天を経てシベリア鉄道に乗って、コルビジェのいるパリへ渡欧している。現在では考えられないような衝動的な情熱でコルビジェに師事した前川は、彼のアトリエで昭和3年~5年(1928~1930)の二年間、欧州を風靡していた最先端のモダニズム建築を学び、欧州一のメトロポリスで絶頂期にあったパリの都市文化を享受した。滞在中のエピソードとして、前川がコルビジェに従ってパリ中心部にあるルーブル広場を横切った時、コルビジェがこの広場のスペースの好ましさついて「物があるが、物を感じさせない。開かれているが、包み込まれている感じがする。」と説明したと後に前川自身の著作(「信條」)で回想している。このことが後年の前川の建築に一貫して顕われる「都市的なるもの」に影響を与えていると謂われている(「前川國男 賊軍の将」より)。二年間の留学を終え帰国すると、前川はアントニン・レーモンドの設計事務所に在籍しながら自立した建築家としてのキャリアをスタートしました。
Ⅱ.近代建築家・前川國男 コンペに挑戦し続けた戦中期
東京帝室博物館競技設計(1931)前川國男応募案
前川國男の出発点となったのが、後に「東京文化会館」の敷地となった上野公園に計画された「東京帝室博物館コンペ」(1931)であった。この競技設計では応募要綱として「日本趣味を基調とする」デザインが求められているにも関わらず、前川は敢然と落選覚悟でコルビジェの元で学んだ近代建築のスタイルを素直な形とした案を提出する。大半の提出作が日本趣味を前提とする瓦屋根を架した、当時「帝冠様式」と呼ばれた意匠だった中、前川案は正面入口のピロティ空間にフラット屋根というコルビジェ仕込みの斬新な意匠であった。予想通り、前川案は保守派が体勢を占める審査員達に一蹴され落選するが、日本趣味に迎合しないそのプロテストぶりは当時のモダニストたちの喝采を浴び、近代建築家としてその生涯を象徴するデビューを果たすことになった。以後も前川は「近代建築の何たるかを明示する」という信條で積極的に競技設計に挑戦し続ける。「パリ万国博日本館」(1937 一等当選すれど実施は坂倉準三)、「日本万国博建国記念館」(1937 落選)、「大連市公会堂」(1938 一等)、「忠霊塔」(1939 落選)、「在盤谷(バンコック)日本文化会館」(1943 二等)。大戦中に応募した「在盤谷日本文化会館」では、モダニズムを前面に押し出していた前川が初めて日本の伝統を参照した案で勝負したが、「京都御所」をモデルとした復古的な意匠で記念性を高らかに表現した丹下健三案に敗れている。この案で前川はモニュメンタルな構えを避け、空間構成という近代建築が獲得した原理をベースに日本の伝統建築に見られるような内部と外部の空間が一体となって展開してゆくという全体的に統合された空間を実現しようとした。その思考によって得られた方法論は、戦後の近代建築へと繋がってゆくことになる。1935年の独立から敗戦の1945年までの10年、戦中という国家状況もあって前川にはコンペの挑戦と住宅やアパートなどの木造建築以外、自らの理念を投影させるような本格的な近代建築を実現させる機会に恵まれることはなく、雌伏の歳月を過ごした。
在盤谷(バンコク)日本文化会館競技設計(1943)2等 前川國男案

Ⅲ.戦後の再出発 縁ある上野の山でコルビジェと向かい合う
東京文化会館原案模型
戦後の再出発から数年が経過した1950年代に入ると、国内の建設需要も回復し始め、「日本相互銀行本店」(1952)を契機に前川はようやく本格的な近代建築を次々と手掛けていく。50年代の前川は「神奈川県立図書館・音楽堂・」(1954)、「福島教育会館」(1956)、「世田谷区民会」(1959)といったオーディトリアムを容れた公共建築を連作している。そしてオーディトリアム建築の典型として結実をみたのが、ほぼ同時期に設計した「京都会館」(1960)と「東京文化会館」(1961)である。東京開都500年記念事業における芸術文化振興の一環として、音楽堂の建設を企図した都から設計の特命をうけた前川は、向かい合うことになる「国立西洋美術館」との敷地境界にとらわれず、現在の約4倍の敷地を有するL字型配置の計画を提案する。それは、敷地と敷地を画然と分断してしまう役所の硬直した敷地主義に対するプロテストであり、敷地の所有権を解体することで公園と建築が相まって、ルーブルの庭のような居心地の良い都市的なスケールのオープンスペースを上野駅に向けて「国立西洋美術館」との間につくり出すというアーバンデザイン的なアプローチであった。結局、役所の強固な仕組みは突破することはできず、現在の敷地に窮屈に詰め込まれてしまうのだが、コルビジェに学んだウルバニズムを日本に置き換えて、より良い都市環境をつくるためにはどうしたらいいかを真摯に考える姿勢は、この音楽堂の空間の隅々まで徹底されている。
Ⅳ.「都市的なるもの」への希求
東京文化会館と国立西洋美術館
JR上野駅公園口を降りると、真正面に緑深い上野公園が拡がり、中に歩を進めると園路を挟んで、大小二つのコンクリート打ち放しの近代建築が向かい合っている光景に出くわします。右手に前庭が拡がりピロティの上に浮かんだ「国立西洋美術館」、左手はコンクリートの曲面大庇とそれを支える列柱が印象的な「東京文化会館」です。この二つの建築は近代建築の巨匠ル・コルビジェと前川國男という師弟が、ほぼ同時期に上野公園という同じロケーションで設計したものであり、前川は師の美術館において実施設計と現場監理を担っていました。前川はこの音楽堂の設計にあたり、向かい立つコルビジェの美術館との調和に配慮したとされており、それは軒高を揃え、前庭の目地割りと音楽堂ホワイエのサッシ割り付けを合わせたこと、また外壁のプレキャストパネルの割付とテクスチャーなどであるという。
東京文化会館全体配置図
四方から眺めた外観は、船の舳先のように反ったコンクリートの曲面軒庇が四周をグルリと廻り、その奥に大ホールを内包した巨大な六角形の筒状マッスがパワフルに立ち上がり大屋根から突き出ている姿は、どこか日本の城郭に漂う威厳を感じさせる。屋根から突き出た石片のプレキャスト版で覆われたマッスは天守閣を、東側に張り出した広いテラスの外周を縁取る浅く水を張った溝は城を取り囲む濠を彷彿とさせる。深く迫り出した軒下とそれを支えるコンクリート打ち放しの力強い列柱の空間が音楽堂に向かう観客を或いは上野公園を散策する人達を大らかに包んでいる。この音楽堂には正対する「国立西洋美術館」との調和のみならず、随所にコルビジェのボキャブラリーが散見される。大きく曲線を描く軒庇が水平に伸びて空を切り、階段室やエレべーター、大ホールを収めたシリンダーや角錐台形、六角垂体などのシンボリックな造形が広い屋上から突出して天空を突き刺す光景は、そのままインドのシャンディガール議事堂を思い起こさせます。
南東側外観                                 東隅入り口外観
東隅に大きく開放された軒下空間からエントランス・ロビーに入ると、彫刻家の流政之氏がデザインしたレリーフが壁の上方に水平に飾られた2層吹き抜けの明るいロビーの正面にガラス張りのレストランがブリッジ状に浮かんでいる。ロビーから大ホールのホワイエ側へ進んでいくと、左手に小ホールへ繋がる幅の広いスロープが観客を誘い、右手には開口部からテラスを縁取る傾斜した石壁の底に張られた水面に置かれた彫刻を鑑賞出来る仕掛けになっている。ここで左折してスロープをゆるゆる昇りながら、右側を眺めると斜めに立ち上がる大ホールの六面体の石壁を広々とした矩形のホワイエが囲み、スレンダーなコンクリート打ち放しの柱が林立し、透明なレストランがホワイエ空間に浮かぶように迫り出す光景が印象的です。
斜路から大ホールホワイエを見る
スロープで上階へ上がると、今度は程よいスケールの小ホールホワイエが優しく迎えてくれました。対角線上に隣り合う二つのホールの石壁と南側に繋がる石畳のテラスで囲まれたホワイエは、ロイヤルブルーの天井と床に敷き詰められた三角形のモザイクタイルの淡い色彩の対比から小宇宙的世界を醸し出し、観客に音楽を聴く前の華やぎと鑑賞後の興奮をクールダウンさせる空間に仕立てあげられているようです。国際会議場として想定された小ホールは、その音響の良さからピアノなどのミニコンサートで頻繁に利用されているという。正方形平面の隅角に置かれた舞台を中心に平土間式の客席が扇型に拡がるこじんまりとした空間に、彫刻家・流政之氏が手掛けた屏風を横にしたような舞台上の反射板と側壁を飾る彫刻が圧巻でした。積み木のような角垂体のプレキャストコンクリートが壁から突起し、垂直に食い違って連なっている壁面構成は力強くインパクトがありました。照明の光りが抑えられ、コンクリート肌のくすんだ色彩で統一されたインテリアから幻想的な雰囲気を醸しだす小ホールでは、モダンジャズのクールな音が似合いそうです。
小ホール・ホワイエ                          ホワイエから南側テラスを見る

小ホール舞台と側壁                             斜路からレストランを見る
小ホールホワイエからスロープを降りて、メインの大ホールへ向かうと息を呑むような広大なホワイエの森に取り囲まれます。マッスなホール外壁を覆う砕石仕上げのプレキャスト版や半階づつのレベル差で上がってゆくテラスと2階レストラン、公園の景色を取り込むように軒下の大きな開口部から入る自然光に満たされたホワイエは、上野の森が音楽堂内部に再現されたかのような屋外的開放感を覚えさせる。この屋外的な感覚は、ホールの客席に向かう左右の大階段を降りた時、ホール外壁とスロープの間に広がる三角形状の谷間に見られるような地形的な表現から生じているように思える。これは空間からインテリア的なスケール感を排除し、土木構造的なスケールとラフな外壁の仕上げがそのまま持ち込まれて、ホワイエ・テラス・レストラン・大階段・スロープという抽象的要素だけで空間の骨格が構成されていることで生じる雰囲気ではないだろうか。2,300席を収容する大ホール内に入ると、圧倒的なボリュームのオーディトリアム空間に新鮮な衝撃を受けました。大開口の舞台の前面に六角形平面の平土間の客席が拡がり、後ろ三方向の傾斜した壁には4層に及ぶ桟敷席が折重なるように迫り出し、蟹の甲羅を思わせる反射板がオーケストラピット上部を覆っている。特筆すべきは舞台両脇の袖壁で、彫刻家の向井良吉氏がデザインしたレリーフで装飾されたこの巨大な音響壁は、木板を雲形状に刳り貫き不規則に組み合わされたもので、その特異な形から好みが分かれるものの空間に強烈なインパクトを与えているのは間違いない。そそり立つ5階の桟敷席から舞台を見下ろすと、吸い込まれそうなボリューム感を体験し、この大ホールが本場のオペラ劇場を連想させるような演劇的空間であることを実感します。
大ホール・ホワイエ                         ホワイエからテラスへの大階段

大ホール客席から舞台を見る                               大ホール上部桟敷席
大ホールから再びホワイエに出ると、シリンダー型のエレベーターに乗って是非見たいと思っていた大屋根の上に足を踏み入れました。地上から見上げると捲れ上がっていた曲面大庇は、屋上に乗る低層部や大小ホール上部のマッスを優しく包んでいるように見えます。楽屋やリハーサル室、搬入口などを地下に、大中小会議室・音楽図書館などの小部屋の集合をまとめて大屋根に乗せることで、敷地の窮屈さをカバーするとともに建築全体の軒高を向かい側の「国立西洋美術館」に合わせて低く(地上9m)抑えることに成功している。それはこの音楽堂を訪れる観客や公園内を散策する人々に心理的な威圧感を与えないように配慮した結果でもあると思われます。小部屋群の低層部や天守閣の如く突き出た大小ホール上部の巨大なマッスの群が捲れ上がった軒で四周を枠取られて、地上9mの上空に人工的庭園をなしている光景は都市的で爽快な眺めでした。
屋上を囲む軒庇                          屋上に突出した六角形マッス

屋上庭園

※「東京文化会館」は向かい側に建つ「国立西洋美術館」が、コルビジェに師事した前川・坂倉・吉阪という三人の建築家の手で実施設計が行なわれていた時期(昭和32年5月~10月)に設計がスタートしている。前川は設計当初、都が定めた敷地境界を無視して二つのホールを大きくL型に配置し向かいの「国立西洋美術館」と上野駅の間に広く開かれたオープン・スペースを確保しようと試みた。それは、師のコルビジェが「国立西洋美術館」の基本計画で、上野公園の将来像を周辺の敷地を取り入れた形で示した総合文化センター案の精神を受け継ごうとしたためではないかと思える。前述したようにコルビジェの意思を継いだ前川の計画は役所の壁の前に実現しなかったのだが、窮屈な敷地の中で完成させた「東京文化会館」のホワイエ・ロビー・スロープ・レストラン・テラスなどが構成する骨太い空間から「都市的なるもの」を感じることが出来る。コルビジェから学んだウルバリズム(都市計画)を前川は、一つ一つの建築の中に都市的なものを内包させていくことや都市に対して建築をどう構えていくかを考えていくことで担っていこうとしたのではないだろうか。
参照文献 Reference
前川國男 賊軍の将/宮内嘉久著/晶文社発行/2005
戦時下日本の建築家/井上章一著/アート・キッシュ・ジャパン発行/1995
建築ライブラリー16 近代建築を記憶する/松隈洋著/建築思潮研究所編集/建築資料研究社発行/2005
近代建築Vol.15 No.6 1961年6月号/近代建築社発行
建築文化Vol.16 No.6 1961年6月号/彰国社発行
東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part1

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part2

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3 月 16 2009

国立西洋美術館 The National Museum of Western Art

敷地:東京都台東区上野公園
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竣工:昭和34年(1959)
設計者:ル・コルビジェ
Location:Ueno-koen,Taito-ku,Tokyo
Establishment:1959
Architect:Le Corbusier
感想:Impression
「上野の森に実現したコルビジェのムンダネウム」
Ⅰ.松方コレクションの美術館をル・コルビジェへ依頼
上野公園の敷地を視察するコルビジェ
東京の北の玄関口、JR上野駅の北側に緑豊かな上野恩賜公園が拡がっています。駅の公園側改札口から前面道路を渡って園内にアプローチすると、左右に規模の異なるマッシブなコンクリートの建築が来訪者を迎えてくれます。左手の大きな庇が特徴的な建築は「東京文化会館」という音楽堂で、右手のロダンの彫刻が置かれた石の前庭に、ピロティの列柱に支えられて正方形の石の塊が浮かんでいるように見えるのが「国立西洋美術館」です。公園内にあるこの美術館は、1959年4月に開館して以来、まもなく50周年を迎えようとしています。
国立西洋美術館が創設される経緯は、戦後間もない昭和26年(1951)、時の首相吉田茂が世に言う松方コレクション(印象派などの絵画約300点、彫刻60余点)の返還をフランス政府に切り出したことから始まると謂われています。日本とフランス、二国間の折衝の末、二年後の昭和28年(1953)にフランス政府から日本に戻すことが確約されたが、その際につけられた返還条件の一つが、美術館の建設でした。「松方コレクションは返還ではなくフランス文化財として日本に寄贈するので、コレクションを保管・展示するための美術館を用意せよ。」というフランス政府の主張で、美術館の名もフランス美術館と命名されていたと謂います。「文化の国」フランスの面目躍如といったところか。そこで文部省によって組織された「フランス美術館設置準備協議会」は、新美術館の敷地を上野に定め、また設計をフランス在住の近代建築の巨匠、ル・コルビジェに委託することが決定されます。当初、コルビジェは多忙を極めていることや、遠隔地の日本ということもあって、この設計依頼には消極的だったようです。しかし、日本側(外務省)の熱意ある要請を聞いているうちに「長年、思い描いてきた美術館構想を日本で実現出来る」と乗り気になってこの依頼を受諾し、契約成立後、日本に赴くことになりました。
時に1955年11月、ル・コルビジェは外務省の招待で、美術館の敷地調査と日本の伝統・文化に触れる目的で、初めて日本の土を踏む。当時、壮大な都市計画を手掛けていたインド・チャンディガールへ向かう途上のわずか8日間の滞日でしたが、コルビジェはこの間68才の高齢とは思えぬタフさで、日本の三人の弟子達(前川國男・坂倉準三・吉阪隆正)を旅の随行者として、東京での敷地調査、前川や坂倉、吉阪が設計した近代建築を訪問、更に京都や奈良を旅して寺院など日本の伝統建築を巡っている。
随行した一人の吉阪氏の日記によると、コルビジェは案内された京都や奈良の著名な伝統建築自体にはあまり関心を示さず、桂離宮の杉苔や卍型に腰掛が配置された卍亭(四つ腰掛)、東大寺中門のヒンジ付きの扉、大仏殿の柱・梁のプロポーション、正倉院のピロティの木肌、祇園から先斗町にかけての路地空間等など専らディテールばかり着目していたという。また、当時の東京の状況について、木造低層住宅の不可を説き、車と歩行者の混在など世界中のどの都市にもある「現代の混乱」が最も酷い形で現れていると嘆いて、都市計画の必要性を訴えたという。また自分の下で学んだ日本の三人の建築家、前川・坂倉・吉阪に向かって「ウルバニズム(都市計画)を担うことを覚悟しなさい」と叱咤したともいわれている。いかにも建築と同じように生涯、都市への提案を描き続けたコルビジェらしいエピソードである。こうして、8日間の慌しい日程をこなしながら、上野公園の敷地も5回にわたって視察して、日本からインド・チャンディガールへ旅立っていった。
Ⅱ.コルビジェが上野の森に構想した総合文化センター
コルビジェによる文化センター全体計画スケッチ          美術館2階平面図(螺旋状の動線を黄色で描写)

文化センター全体平面図
日本~インドの旅からパリに戻ったコルビジェは、1929年の「ムンダネウム(世界都市)計画」における世界博物館でそのコンセプトを考案して以来、多年にわたって幾つかのプロジェクトで繰り返し提案しながら実現を果たせずにいたコンセプト「無限成長美術館」を更に追求して、上野公園の敷地にあてはめて展開させていく。この「無限成長美術館」という形式は、美術館のプロトタイプで、特定の正面を持たず、ピロティから建物の中心部へ入り、そこから外側へ向かって螺旋を描く展示回廊が延び、収蔵すべき作品が増えると、回廊がその延長線上に外側へ増築されていくことで、展示スペースを無限に拡げていくことが可能になるというものである。コルビジェが「ムンダネウム計画」以来、手掛けた美術館のプロジェクトは10を超えるといわれているが、彼の生涯で実現させることが出来た美術館は、インドの「アーメダバード美術館」(1957)・「チャンディガール美術館」(1968)・日本の「国立西洋美術館」(1959)の三つに過ぎない。その何れも「無限成長美術館」のコンセプトをベースに応用されたものである。
ムンダネウム世界博物館スケッチ
約半年をかけた基本設計が終わり、1956年の7月、コルビジェから日本へ新美術館の基本設計図書が届く。その内容は美術館のみならず、付属的に臨時の展覧会のための展示場や演劇を探求する「不思議の箱」と呼ぶ劇場などが盛り込まれた総合的な計画で、これら一群が日本政府の求める文化センターであるとコルビジェは提案した。この大胆な総合計画案は、美術館だけの設計を依頼した筈の日本政府にはまったく想定外のことであった。美術館の完成後、コルビジェの弟子である建築家の坂倉準三が雑誌に寄稿した記事に依ると、この周囲の敷地を取り込んだ総合計画は、坂倉らが将来を考慮して基本計画に入れて貰うように依頼したとされている。その意図は、将来の上野公園の計画に、コルビジェが考えた総合計画の示唆が取り入れられて、無計画になりがちな日本の公園計画に正しい方向性や理想を与えたいためであったという。しかし結局、この総合計画案は当時の厳しい予算の前に実現の可能性があろう筈もなく、それどころか美術館単体でみても、設定された総坪数(約1000坪)を遥かに超える(300坪)もので、到底実現不可能なため、美術館の両翼(図書館・小講堂・貴賓室)を削り、また仕上げの質も落として、将来増築し得る余地を配置計画の上に残して、最小ぎりぎりの美術館に縮小を余儀なくされてしまう。
文化センター平面図・展示館スケッチ
1957年3月、基本設計の変更(美術館本館のみに限定した)を了解したコルビジェから実施設計図面が届くが、ここで再び関係者の想定外なことが起きる。実施設計図とは名ばかりのもので、構造図や設備図が全く含まない基本設計に毛が生えた程度の代物であった。添えられたコルビジェの書簡からは「自分が美術館の決定的な方針を示したこれらの図面は、実行のための全ての寸法と処理を備えており、信頼する日本の建築家たちが貴国の慣例的な方法で実行することを確信しています」と記され、実施設計がコルビジェの仕事に慣れている日本の弟子達に丸投げ状態だった。コルビジェは、自分の原案の文化センターが日本側に採用されず、また美術館が縮小されたことでモチベーションを喪ってしまったのか・・・再び日本を訪れることはなく、完成した美術館を眼にすることもないまま、1965年に世を去った。結局、師の尻拭いをする形で、前川・坂倉・吉阪ら日本の建築家が分担して実施設計を仕上げることになるが、設計料の予算はコルビジェに使いきってしまい(約1000万円)、ほとんど労働奉仕であったという。このような紆余曲折の末、三人の献身的な協力で翌1958年には実施設計が完了し、3月に着工した美術館は予定通り1959年3月に竣工し、初来日から3年半を経てコルビジェが考案した美術館のプロトタイプが日本の地に実現した。そして6月13日に開館、松方コレクションの一般公開を迎える。
文化センター断面図・全体模型鳥瞰                 文化センター断面図・19世紀ホールスケッチ

Ⅲ.卍型美術館
前庭と南側外観
1959年6月の開館からまもなく50周年を迎えようとしている「国立西洋美術館」だが、現在の姿は開館時から大きく改変されている。まず目に付くのがかつて彫刻作品も置かれていたピロティの軒下空間の半分が増築のため建物内部に組み込まれて、広いピロティを縫ってメインホールにアクセスするまでの高揚感が減じられてしまったことである。また、「考える人」や「カレーの市民」などロダンの名作が展示されている前庭に囲いが設けられて、美術館建築と彫刻が調和した屋外空間の眺望や開放感が損なわれている。警備など管理面の視点から見ると致し方がない処置とも思うが、開館当初のスクエアーに拡がる抽象的な前庭が公園の緑と一体化した光景が印象的だっただけに残念です。
開館当時のピロティ
石畳の前庭から狭くなったピロティを潜って、玄関ホールに入ると直ぐ右手にコルビジェが19世紀ホールと名づけた上階の展示回廊へ繋がる導入路があります。コルビジェは、この空間に執着し、自らデザインした写真によるモンタージュを壁画として掲げる想定だった。それは、コルビジェが寄稿した建築雑誌によると「19世紀西欧の栄光を讃えたもの」であり、実際、写真壁画のスケッチも描いており、この原案をもって美術館竣工後に現場で指示するべく来日する予定であったようだ。しかし、19世紀ホールの空間に対するコルビジェの執着も、文部省側に予算不足を盾に拒否され、頓挫してしまった。中に入ると、3層吹き抜けの垂直的な空間の中央にコンクリート打ち放しのスレンダーな円柱が天を目指して立ち上がっている光景が眼に入ります。円柱は頂点で十字に架かった梁と交差して止まり、ぽっかり穿たれた三角錐のハイサイドライトから柔らかな自然光が降り注ぎ、彫刻群を仄かに照らしている。彫刻を眺めながら、奥の壁沿いに配されたコルビジェ的なランプ(スロープ)をゆるゆる昇っていくと、ホールの吹き抜け空間が変化する眺めを楽しみながら上階の展示回廊へ自然と導かれます。コルビジェが好んで多用する吹き抜けの垂直空間にスロープを貫入して演出する建築的プロムナードが、シークエンスの変化を観客に体験させ、上階への期待感を高めている。
19世紀ホール                                三角の天窓から光が漏れる

照明ギャラリー                                卍型に配置されたハイサイドライト

緩やかなスロープを昇り切ると、張り出したバルコニーから19世紀ホールを眺め降ろす視点に変化し、異なったシークエンスを観客に楽しませる仕掛けがちりばめられている。スロープで結ばれた正方形の2階は19世紀ホールの吹き抜けを中心に「無限成長美術館」のコンセプトを裏付けるように、螺旋状の展示回廊が四周に配置されており、観客は途切れることなく無限に繋がる動線を回遊しながら作品を鑑賞していきます。中央のスロープを含め内部空間をこのように螺旋に運動する構成は、コルビジェのサヴォワ邸(1931)と酷似している。「無限成長美術館」のアイディアが考案されたのが 1929年の「ムンダネウム計画」で、サヴォワ邸の設計プロセスと時代が重なっており、30年を隔てて同質な空間が実現しているのが面白い。だが「無限成長美術館」のコンセプトにある螺旋状空間を外縁に拡げてゆく増築手法については、この美術館の他インドにおいても敷地条件や実現性の面などから構想通りに実現したものはなく、コルビジェもあくまで空間構成のアイディアに留まるものと考えていたのではないだろうか。2層分の高さを持つ回廊の採光は、天井から吊られたBOX型の照明ギャラリーのハイサイドライトから自然光と補助的な蛍光灯の光りが入り、回廊に飾られた作品に光りをあてるよう設計されていた。現在はこの部分も、自然光が絵画作品の保護上問題ありという理由で改造されており、ハイサイドライトは塞がれ、BOXの中に蛍光灯がぎっしり並ぶ人工照明だけの環境になっている。綺麗に打ち放された円柱が軽やかに群立する展示回廊を回遊し、空間体験をして感じることは、この空間構成が螺旋形というよりも卍型により近いということであった。それは、展示回廊の採光や方向性を決めている照明ギャラリーが屋上から俯瞰すると、明瞭に卍型に配置されていることから理解できる。建築家の磯崎氏が著書(ル・コルビジェとはだれか)で解釈されていたように、コルビジェが日本に滞在した時に訪れスケッチをした桂離宮・卍亭の四つ腰掛のプランにインスパイアーされ、それに「無限成長美術館」のコンセプトを重ねていったのではないだろうか。展示回廊を回遊する鑑賞を終え、再び石畳の前庭へ出る。足許に視線を落とすと、美術館の内部空間やファサードを規定しているモデュロール(コルビジェが考案した寸法体系)で割りつけられた黒御影石のボーダー目地が、園内通路を挟んだ向かい側に立つ音楽堂に向かって真っ直ぐ庭を貫いている。音楽堂は、美術館の実施設計を分担した前川國男が設計したもので、師であるコルビジェの西洋美術館との関係性を考慮してつくられたという。
美術館 平面図・断面図                             展示室・照明ギャラリー断面図

Ⅳ.コルビジェが日本に遺した美術館が世界遺産へ
21世紀初頭の現在、20世紀に遺された近代建築の価値が認識され、所謂世界遺産に推薦、登録される動きが活発化している。リートフェルトのシュレーダー邸(2000)やミースのチューゲントハット邸(2001)、ルイス・バラガンの住宅(2004)等。こうした潮流に乗っかるように、昨年2月、フランス政府の肝入りで、ル・コルビジェが世界6ヶ国(ベルギー・フランス・ドイツ・スイス・アルゼンチン・日本)に遺した22の建築を一括してユネスコの世界遺産に推薦する動きがあった。近代建築思想の普遍化にミースと並んで絶大な貢献をしたコルビジェだけに、世界遺産登録は満を持してという感がある。日本に唯一あるコルビジェの作品が22件に選ばれたのは、コルビジェが繰り返し提案した「無限成長美術館」のプロトタイプが実現したということもあるのだろう。順調に審査が通れば今年の夏にはユネスコの世界遺産のリストに登録される筈だが、これを契機に国内に遺された20世紀の優れた近代建築に対する社会的認識や価値観が好転することを願わずにはいられない。
参照文献 Reference
ル・コルビジェとはだれか/磯崎新著/王国社発行/2000
芸術新潮2009年2月号 特集 開館50周年 なるか、世界遺産 国立西洋美術館のすべて/新潮社発行
ユリイカ 臨時増刊 総特集ル・コルビジェ/青土社発行/1988.12.vol.20-15
ユリイカ 特集*ル・コルビジェ/青土社発行/2007.5.vol39-4
新建築 1959年7月号/新建築社発行

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