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	<title>イタリー大使館日光別邸 Iatlian Embassy Nikko Villa へのコメント</title>
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	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 16:56:02 +0000</pubDate>
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		<title>伊神 より</title>
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		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 May 2009 05:42:22 +0000</pubDate>
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		<description>イタリー大使館日光別邸は、わたしも公開したすぐに来訪しました。中禅寺湖畔に佇む簡素な木造数寄屋風建築があのアントニン・レーモンドの設計であるということと、当時の竣功した建築のモダニズム的なる表現媒体からは少し離反している建築であるという謎に疑問が生じての訪問でありました。御存じのようにライトから訣別して独立した処女作があのリーダーズダイジェストのあった場所（いまでは毎日新聞社屋）にあったポール・クローデルという詩人で外交官であったひとの住居と事務所（1923、震災前はフランス大使館であった）のデザインでした。１９２４年には霊南坂に、あの有名な自邸を建てる前に医者のリード博士の家を建てます。ここまでは、フランク・ロイド・ライトのプレーリーハウスと何ら遜色ありません。しかし、ペレ−の影響化なのか前記の自邸からコンクリート打放しの技術を試み、テ−テンス邸（1925）、そして東京聖心学院（1924）、聖路加病院（1923-1928、パースはあのマンハッタンの画家ヒュ−・フェリスのものです）へと大規模化してゆきます。そして、クローデルの縁で各国大使館との伝手ができて、多くの大使館の仕事が舞い込みますが徹頭徹尾、日本の伝統を微塵も感じさせないデザインを追求していったことが伺われます。誰しもが指摘する、この「イタリア大使館別荘」や「軽井沢・夏の家」の日本的な感性の導入とやらもマテリアルだけ（悪く言えば表層的）で、プランは御承知のようにシンメトリカル（当初計画されていた外構の階段が現在では表現されていないのでわかりづらい、附属屋は除いて）であり、夏の家も当初はル・コルビュジェの南米での剽窃案であることなどからも、この当時、レーモンドの意識に於いては日本の伝統的なものなるものを理解しようとしていた節はなかったと考えます。（その後の吉村順三や前川國男からの「日本建築の真意（正しい理解）」を享受していからは構造・技術的な面そして何よりも空間思考が変遷していったと思われます）以前から研究会でも話しているように、わたしの人生で最も大好きな住宅は、戦後に建てられた麻布のスタジオ＆住居です。今は取り壊されてありませんが、写しが高崎の井上邸（いまは哲学堂）として残っております。一言で言えば、玄関が真ん中のポーチとなっているところが生活のビジョンと直結しているところに伺える点でしょうか・・・ここが長谷川尭風に言わせれば獄舎的雰囲気を醸し出す美しい空間なのです。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>イタリー大使館日光別邸は、わたしも公開したすぐに来訪しました。中禅寺湖畔に佇む簡素な木造数寄屋風建築があのアントニン・レーモンドの設計であるということと、当時の竣功した建築のモダニズム的なる表現媒体からは少し離反している建築であるという謎に疑問が生じての訪問でありました。御存じのようにライトから訣別して独立した処女作があのリーダーズダイジェストのあった場所（いまでは毎日新聞社屋）にあったポール・クローデルという詩人で外交官であったひとの住居と事務所（1923、震災前はフランス大使館であった）のデザインでした。１９２４年には霊南坂に、あの有名な自邸を建てる前に医者のリード博士の家を建てます。ここまでは、フランク・ロイド・ライトのプレーリーハウスと何ら遜色ありません。しかし、ペレ−の影響化なのか前記の自邸からコンクリート打放しの技術を試み、テ−テンス邸（1925）、そして東京聖心学院（1924）、聖路加病院（1923-1928、パースはあのマンハッタンの画家ヒュ−・フェリスのものです）へと大規模化してゆきます。そして、クローデルの縁で各国大使館との伝手ができて、多くの大使館の仕事が舞い込みますが徹頭徹尾、日本の伝統を微塵も感じさせないデザインを追求していったことが伺われます。誰しもが指摘する、この「イタリア大使館別荘」や「軽井沢・夏の家」の日本的な感性の導入とやらもマテリアルだけ（悪く言えば表層的）で、プランは御承知のようにシンメトリカル（当初計画されていた外構の階段が現在では表現されていないのでわかりづらい、附属屋は除いて）であり、夏の家も当初はル・コルビュジェの南米での剽窃案であることなどからも、この当時、レーモンドの意識に於いては日本の伝統的なものなるものを理解しようとしていた節はなかったと考えます。（その後の吉村順三や前川國男からの「日本建築の真意（正しい理解）」を享受していからは構造・技術的な面そして何よりも空間思考が変遷していったと思われます）以前から研究会でも話しているように、わたしの人生で最も大好きな住宅は、戦後に建てられた麻布のスタジオ＆住居です。今は取り壊されてありませんが、写しが高崎の井上邸（いまは哲学堂）として残っております。一言で言えば、玄関が真ん中のポーチとなっているところが生活のビジョンと直結しているところに伺える点でしょうか・・・ここが長谷川尭風に言わせれば獄舎的雰囲気を醸し出す美しい空間なのです。</p>
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