5 月 31 2009

京都御所 Kyoto Palace

Published by 遠州 at 10:03 PM under 伝統建築 Traditional architecture

1 紫宸殿 京都御所の中心で格式高い正殿
紫宸殿

敷地:京都府上京区御苑内

造営:安政2年(1855)

Location:Gyoen-nai,Kamigyo-ku,Kyoto Prefecture

Reconstruction:1855

「明快、簡素でありながら優雅で格調高き宮殿」

Ⅰ.京都御所の変遷

2 平安京
平安京と京都御所

平安京における皇居

現在の京都御所は平安京の大内裡(皇城)のなかに設けられた内裡(皇居)の姿を復元したものである。奈良平城京から平安京に遷都(794年)されてから十余年を経て、平安京が桂川と鴨川との間に中国の帝都長安を模範として建設された。この平安京の規模は、東西約4,520m 南北約5,320mに到る広大な矩形で、中心を成したのが天皇が居住せられる内裡と太政官をはじめとする行政諸官庁が立ち並ぶ大内裡が位置する部分で、現在の御所から2km程西で、北は一条から南は二条に及び、東は現在の大宮通りから西は北野御前通りに到る間に営まれ、四周を瓦塀で囲まれ、その外周には御溝水が流れて、現在の京都御所周辺の如き景観を成していたと謂う。この平安京における皇居は、大内裡中央から東北よりの位置にあり、広さは東西約230m、南北約300mで、現在の御所より南北が短く小規模であったようだ。

3 平安京大内裡図
平安京大内裏図

中世から近世における皇居の起源

大内裡のなかに設けられた内裡(皇居)に火災が発生した時、臨時的に大内裏の外にある臣下の邸宅に移り、ここを仮の皇居と定めることが度々あり、これを里内裡と呼んだ。里内裡は宮中の公卿・大臣などの屋敷であるので、内裡のような設備もなく規模も小さかったので、天皇は内裡が復旧するまでの数ヶ月或いは一年という短期間、そこで気楽に生活されるいうことを繰り返したため、都には土御門殿・閑院殿・富小路殿など数多くの里内裡が生まれた。このように里内裡は皇城の外に設けられた皇居であるが、大内裡にある皇居に準じて、紫宸殿・清涼殿などの各殿舎を最初に造って(1117)壮麗な宮殿に造営されたのが鳥羽天皇が行幸した土御門殿であった。各所を転々とした里内裡も、南北朝の頃、北朝が土御門殿を皇居とし、南北朝合一後、名実ともに皇居と定められた。すなわち現在の京都御所は、平安京における大内裡のなかの内裡の一部を復元しているが、実際には大内裡の外部に営まれた里内裡であった土御門殿を起源として発達したものであった。

4 平安京内裡図

平安京内裏図現在の京都御所の沿革

南北朝合一で正規の皇居となった後も、戦乱が相次ぎ火災で焼亡しては、室町幕府によって再建されていたが、平安京以来の京の町を焦土とした応仁の乱後は、皇居とは名ばかりの荒廃の一途を辿っていた。ようやく、戦国期に上洛した信長や天下人となった秀吉の手によって、大規模な修理造営が成されて、かつての美観を取り戻し、現在の御所に見られるような紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿などの各殿舎が完備されたようである。次いで慶長年間に徳川幕府は更に整備を進めて築地を築造し南門(建礼門)を設けた。その後、幾度となく火災で焼けたため、数次にわたる造営が繰り返されたが、寛政元年(1789)において幕府は抜本的な大造営計画を立て、平安京大内裡における皇居の原型を考証し、古制に則り、敷地規模も拡張して復元され、概ね京都御所の規模と配置が整然としたものになった。そして幕末の安政2年(1855)、前年の出火でまた焼失した皇居の造営が行なわれたが、国事多難の時世を考慮して節約を旨とし、寛政度造営の手法が踏襲されている。これが歴史上、最後の造営で、今日の京都御所の姿が現出されるに至っている。

Ⅱ.御所の建築

5  御所の全体配置図(斜線は戦中解体部分)
京都御所全体配置図

京都御所は東は寺町、西は烏丸、南は丸太町、北は今出川の通りで囲まれた御苑の北中央築地塀で区画された一郭で、東西226m,南北447mの南北に長く東北隅が欠けた矩形である。この築地塀をめぐらした矩形の中に、紫宸殿を中心として数多くの殿舎が展開している。築地には東西南北に宮門が開かれ、南に建礼門、東に建春門、西に宣秋門、清所門、皇后門の三門が北に朔平門を開く。建礼門は天皇が出入りされる正門で平常は閉じられており、宮中へ公家が出入りする西の宣秋門は公家門とも呼ばれていた。殿舎は南から紫宸殿と東西南に門がつく回廊に囲われた白砂の南庭、その庭と繋がるように清涼殿が紫宸殿の西北に東面して建ち、その前を紫宸殿の背面と北と東に走る渡り廊下に取り巻かれた白砂の東庭が広がっている。紫宸殿東北から北に走る渡廊下の下に開けられた通路を潜って、東に向かって左折すると、小御所前に出、東には中島を浮かべた大きな池が曲線を描きながら北へ延びている。小御所の北に御学問所が並び、その北は天皇の日常の御住まいだった御常御殿、雁行する廊下でさらに北方の迎春殿・御涼所・茶室聴雪へ繋がる。ここまでが御所の大半を占める皇居部分で、塀を隔てて北が皇后の御住まいだった皇后常御殿に飛香舎、西南に皇太子・皇女が住まわれていた若宮・姫宮御殿があり、御所の最北にあるこの地域は独立して塀で囲い込まれている。以上が御所に建つ建築群の概ねの配置で、これらの建築群の間隙に白砂の中庭や坪庭、池を中心とした樹木豊かな回遊式庭園が展開している。

Ⅲ.建築群と庭が織り成す集団美

6 建礼門                         7 築地塀
建礼門築地塀承明門紫宸殿廻廊
8 承明門より紫宸殿を望む               9 紫宸殿廻廊
御所周辺

天皇皇后両陛下御結婚50年を記念して特別公開された京都御所を晩春に訪れ、その造形的雰囲気を具に拝観してきました。御苑の幅広い砂利道を歩いて御所の四周を取り巻く築地塀に開けられた南の正門、建礼門から東西に延びる築地塀の先に望見される東山の山並みを眺めているとしばし時を忘れ、白い砂利道に築地塀の影が写り、その足許の側溝を綺麗な水がさらさらと光って流れている光景は清楚で美しい。

紫宸殿 明るい南庭

南の建礼門から築地塀に沿って西に廻り、宣秋門から御所内に足を踏み入れると、斜め前に牛車で参内する大臣・高官の玄関だった御車寄が眼に飛び込んでくる。柔らかな唐破風形式の屋根を乗せた御車寄を左に見ながら南下して行くと、朱塗りの廻廊がめぐらされた紫宸殿の西側に出る。更に南の廻り、建礼門の直ぐ前の廻廊に開けられた承明門から奥に御所内の諸殿で最も格式高い正殿の紫宸殿の雄姿が垣間見える。ぐるりと西に廻り、廻廊の西に開けられた日華門から紫宸殿南庭に到る。朱塗りの円柱と本瓦葺きの切妻屋根、白亜の壁で構成された廻廊に東西南の三方を囲い込まれた白砂一色の明るい平庭が厳かな紫宸殿の前に広々と展開して心地好く、また廻廊木部の鮮やかな朱色と白砂の清新さが明らかな対照を示して美しい。
10 紫宸殿南正面全景
紫宸殿南正面全景紫宸殿は即位礼などの式典を執り行う格式高き正殿で、御所内で最も規模が大きく、御所全体を象徴する中心的建築です。古の平安京大内裡内皇居の紫宸殿の形式を正しく継承していると謂われ、格式の高さを示すように四周を巡る高欄を付けたすの子縁は地上7尺8寸の高床である。正面柱間が九間、側面四間で南面は全て格子の蔀戸という典型的な寝殿造りで、南正面中央に雄大な18段の階段が南庭に堂々と降りている。南面以外にも東北、東南、西南、西北の四隅に9段の階段が陣の座や渡り廊下、庭に連なっているが、いずれも段は分厚い無垢の木板が使われ、そこだけ純白に塗られた小口がシャープに浮き上がり、現代建築に見られるような切れ味鋭いデイーテールに新鮮さが感じられる。桧皮葺の屋根は普通の入母屋とは違い、母屋に架けられた切妻屋根が廂部分では母屋の屋根とは縁を切って片流れ屋根となっている。南庭から見ると中途で段がつく特異な屋根だが、どこか優雅な雰囲気が漂い寝殿造り本来の趣を現わしているようだ。
11 紫宸殿西南階段                   12 紫宸殿南庭18階段
紫宸殿西南階段紫宸殿南庭18階段清涼殿
13 紫宸殿背面より清涼殿東面を望む
清涼殿 清浄なる東庭

紫宸殿北面の高縁を西へ階段を降りて長橋を進むと、その突き当たりに清涼殿がある。清涼殿は昔、仁寿殿と呼ばれた天皇の昼の御座所であり、日常の執務が行なわれた御殿である。紫宸殿の西北に東面して建っている。紫宸殿と同じ寝殿造り、中央に母屋があり四方に廂をめぐらし、東面にはさらに孫廂に高欄を廻したすの子縁が設けられている。母屋と東廂の間には御簾がかり、母屋中央には御休息のための椅子式の帳台が置かれ、東廂中央には二枚の厚畳が敷かれた昼御座がある。天皇は昼間ここに座し、大臣以下の高官らは孫廂やすの子縁に居並び、政務が行なわれたと謂う。東すの子縁には南北に階段が東庭に降り、付近には呉竹、漢竹と呼ばれる二株の竹が透し垣の中で葉を茂らせ、平安の雅な趣を伝えています。桧皮葺の入母屋の大らかな屋根の下、白い小壁が二段にすっきり高く伸びている外観が清々しい。
14紫宸殿背面                      15 清涼殿東面
紫宸殿背面清涼殿東面 特筆すべきは、この御殿の東に広がる紫宸殿南庭同様の白砂一色の中庭で、東南北の三方を紫宸殿北面や渡り廊下に取り囲まれている。一人佇んで静かに御殿前に置かれた二種の竹の葉以外、一つの樹木も庭石もない広々とした白い中庭を眺めていると、清浄な気配に包まれ、静かな感銘が心にせまってきます。紫宸殿、清涼殿の大きく高い屋根が庭に濃い影を落とし、渡り廊下の柔らかな桧皮葺の屋根が低く伸び、黒い木部と白亜の壁に広々とした白砂の庭が心地好く対比した絵画のような風景が美しい。御所の建築が醸しだす類まれな雰囲気は、紫宸殿・清涼殿とそれらを繋ぐ建築群と庭が集合して織り成す構成的な美から生まれているような気がする。かつて太平洋戦争の最中、空襲による火災から紫宸殿や清涼殿、御常御殿や小御所などの貴重な建築を守るためそれらを繋ぐ通路やその他重要視されなかった建築が解体されて、戦後しばらくの間、清涼殿の中庭は東と北を囲っていた廊下の建築が失われて、紫宸殿と清涼殿の関係がまったくまとまりのない状態になっていたという。その後、壊されていた渡り廊下の建築が復元されて、清涼殿の中庭周辺は旧観に戻ったのだが、依然として戦中に壊された御学問所の西の諸役人や女官などが使っていたサービス廻りの諸建築は現在も復元されることなく、松を主体とする庭になっているがやや間延びした観は否めない。御所に並ぶ建築群が互いに密接に結びつくことで、全体として醸しだされる集団建築の美しさが部分的に損われたままであるのは残念です。
16 白砂一色の庭と渡廊下              17 紫宸殿屋根と渡廊下
清涼殿白砂と渡廊紫宸殿背面と渡廊渡廊が囲む東庭清涼殿北面渡廊下
18 渡廊下に囲まれた庭                19 渡廊下 黒ずんだ木部と白い壁と障子
小御所20 小御所
小御所・御学問所 開放感溢れる東庭
清涼殿から西に進んで、春興殿を右に見ながら門を入ると、小御所と御学問所が北に並んで東面して建っている。御殿から東を眺めると、緩やかな円弧を描いて広がる池と対岸に茂る樹木などが美しい御池庭が眼に鮮やかに映りこむ。小御所は宮中の諸儀式が行なわれる御座敷であり、明治維新直前の著名な小御所会議が催された場所でもある。外観は四周に廂を廻し、東廂の外周に半蔀、外に高欄を付けたすの子縁を廻らすという紫宸殿・清涼殿同様の寝殿造りであるが、母屋は近世の住居形式を取り入れて畳を敷き詰めた上・中・下段の三室に分かれた書院造りの様式になっている。公卿たちが蹴鞠や奏楽に興じたという小庭を挟んで、北に渡り廊下で繋がった御学問所は、桧皮葺の入母屋屋根で外に高欄のあるすの子縁をつけて寝殿造りを踏襲しているようだが、最早寝殿造りでは日常の生活がし難くなったのか内部のプランは完全に書院造りに移行しており、外周も蔀の代わりに敷居のある引き違いの舞良戸に上部は欄間が用いられ、寝殿造りと書院造りを折衷させたような外観になっている。並行する二つの御殿を見比べると、御学問所は造られた年代が新しいせいで書院造り化し、住まいとして近世的であるがどこか堅い印象で、小御所のほうが上品で風格があるように感じられて仕方がない。それが平安以来の洗練を重ねた寝殿造のもつ伝統美のなせる技なのか知りたいところでした。

21 御学問所
御学問所東に広がる御庭は緩やかな曲線を描く池を中心とした回遊式庭園です。御殿前は白砂の平庭で、池の前面は玉石敷の州浜で船着場へ向かって傾斜し飛び石が打たれて、池には三つの中島が浮かび対岸と橋で結ばれている。飛び石は豪快なテクスチャーを湛えながら玉石と旨く調和していて、かつて桂離宮の古書院から前面の池に向かって傾斜した芝生に打たれた飛び石の流麗さに感嘆したことを思い出しました。そこには一見無造作にデザインしているようで、どんな細かな部分も疎かにしない意匠精神が徹底しているように感じられるのです。この庭は回遊出来るように造られているが、御殿から大らかな池や豪快な石、島に架かる反橋、対岸に茂る樹木などを眺めて四季の趣を楽しむ庭園であり、開放的で大まかな構成であるが宮中独特な品格が漂っている。
22 南より御池庭を望む            23 北より御池庭を望む          24 池の船着場へ打たれた飛石
南から望む小御所東庭の池北から望む小御所東庭の池州浜の飛び石
御常御殿南面25 御常御殿
御常御殿と御内庭 曲折する清流を囲む濃密な庭

御学問所の東北から続く渡廊下越しに御常御殿の大きな桧皮葺の屋根が顔を覗かせている。小御所・御学問所東庭を区切る塀に開けられた長押門から中に入ると、そこから先は宮中のプライベートな領域でした。東面して建つ御常御殿は天皇の日常のお住まいらしく15の座敷からなる最大規模の御殿で、外観はやはり桧皮葺の入母屋屋根で南面だけが半蔀がつく寝殿造り風であるが、内部も含めてほとんど書院造りの建築である。南面し東西に上段・中段・下段と三つ並んだ間が晴れに用いられる場所で、上段が玉座である。床の高さが異なると伴に天井や外周の半蔀も高さも三段に変化していてる外観が面白い。
26 御常御殿南面 上・中・下段の間
御常御殿南面庭も寝殿造り風のこしらえで、小御所の大池から分岐した小川が塀を潜って御常御殿の東南から北奥へ平安の遣水風に蛇行しながら曲折して流れゆく光景が美しい。長押門を潜って、すぐ右手に高欄のある反橋が対岸に架かる優雅な姿が眼に飛び込んでくる。反橋の下をさらさらと小川が流れ、橋の向こうには新緑を背景にツツジ、牡丹などが爛漫と咲き誇り、屏風絵ような麗しい構図の景色が展開する様子に感銘を受けました。この御内庭の造作を指図したのが仙洞御所を作事した幕臣小堀遠州であるらしく、遠州は寛永度御造営の総奉行に任じられて新内裡の工事にあたるなかで、御常御殿前の内庭を自然風な樹木を配した野筋風の様式に設えたと謂われています。

27 御内庭 反橋                28 小川に架かる石橋          29 小川の対岸に佇む泉殿
御内庭反橋御内庭石橋御内庭泉殿
30 植込みで隔てられた迎春殿・御涼所
迎春殿・御涼所御常御殿東南の反橋や東正面の重厚な石橋、東北に架かる二枚の木橋などが要所要所に架かり、蛇行して流れる小川の点景とな り、この庭に風雅な趣を添えています。木橋を渡った東岸には涼を呼ぶ泉殿が新緑の茂みの奥に見え、その周辺を笠状に枝を広げた松や爛漫と咲いたツツジが飾っている。残念ながら御常御殿から北は一般の拝観は許可されておらず、更に濃密に展開する御内庭と安政3年(1856)に孝明天皇の好みによって造られた迎春殿や数奇屋風な透廊で繋がる茶室・聴雪などを観ることは叶いません。わずかに迎春殿前の植え込みから奥の格調高い雰囲気を感じるのみです。

Ⅳ.まとめ

京都御所の拝観に訪れたのはこれで二度目ですが、今回は特別公開で宮内庁の案内もつかず、時間をかけてじっくり鑑賞することが出来ました。紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿など御所に建つ建築群が南から北へ寝殿造り、書院造り、数奇屋造りと様式が少しずつ変化しながら展開し、各々の殿舎を有機的に連携する廻廊や渡廊下に囲まれる中庭や坪庭、大らかな池を中心とした庭園と小川が曲折して流れる濃密な内庭などが渾然と織り交ぜられながら刻々と変化していく景色に魅せられてしまった思いです。
御所は、平安京大内裡における内裡(皇居)だった昔から度重なる戦乱や火事で炎上する都度に、再建復興されながら明治維新まで皇居として悠久の歴史を刻んできた。太平洋戦争の最中、延焼を防ぐため惜しくも一部の建物が解体されたてしまったが、数多くの貴重な古建築は戦災を免れ、今も日本的な建築美を輝かしており、その存在は国宝に等しい歴史的遺産である。現在の御所の諸建築は、19世紀中頃の安政度造営によるものだが、御所を経巡っていると独特な造形的雰囲気が漂い、平安の趣を感じられるのだ。それは焼失と再建が繰り返されながら受け継がれてきた伝統精神に負っているのではないだろうか。寝殿造りから書院造り、数奇屋造りと時代とともに進化する建築様式を受容しながら平安京の古制を守護するという新旧織り交ぜた洗練を重ねてきたため、江戸時代末という近世の造営でありながら、平安以来の王朝文化の雅な薫りが御所の建築群から醸し出されているように感じられてならない。

参照文献
・「京都御所」/岸田日出刀著/相模書房発行/1954
・「京都御所」/石川忠・村田治郎・谷口吉郎・猪熊兼繁・入江泰吉共著/淡交社発行/1962
・「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
・「建築と庭 西澤文隆[実測図]集」/西澤文隆著/建築資料研究社発行/1997
・「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」/岩波書店発行/1952
・「秘蔵写真で知る京都御所入門」/渡辺誠著/東京書籍発行/2005
本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・画像 1 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像 5 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像10 「秘蔵写真で知る京都御所入門」
・画像12 「京都御所」/岸田日出刀
・画像13 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像16,17,18 「京都御所」/岸田日出刀
・画像20,21,25 「京都御所」/岸田日出刀

京都御所 Kyoto Palace PartⅠ

京都御所 Kyoto Palace PartⅡ

One Response to “京都御所 Kyoto Palace”

  1. 伊神誠治on 19 8 月 2009 at 11:11 AM

    「狙われた御所」の痕跡

    15日の終戦記念日に際して朝日新聞夕刊紙誌上にて「狙われた御所−古都の戦争と平和」と題して5回連載された記事には思いも寄らない京都御所の変貌が語られていたので驚愕した。これまでにわたしは、建築史家藤岡通夫の『京都御所(彰國社)』や岸田日出刀の『京都御所(相模書房)』(ともに入手しにくい書籍−戦前の冩眞が含まれている)の研究成果や緒言、要するに御所の時代考証と建築美から彼らが述懐する戦後の無惨なまでに破壊された御所の復元への憶いが語られていたのをこの書から受容していた。しかし、その仔細な実態は宮内庁の保護化にあってか明らかにはされていなかった。それが、大凡ではあるが今回の記事で明らかとなったのである。第1回は「庭先にただ1度の銃弾」で、空襲に曝され板塀で覆われた春興殿の冩眞や11箇所の防空壕が整備されていたなど、米国から文化財として保護されていた理由ではなく原爆投下の候補地として広島と京都が挙がっていたという事実(「空襲が比較的少なかったのは原爆の威力を確かめるために街並が温存されたにすぎない」誌記事より)、そして一度だけ空襲を受けていたという記録である。第2回「戻らなかった疎開建物」では、空襲の備え(建物疎開という名のもと)ということで戦前に存在した御所の建物の3分の一が取り壊されていたという事実、そして未だに往時の復元にはいたってはいない(御台所と能舞台などは再建されていない)ということ、記事には岸田日出刀の以下の『京都御所』からの引用文が綴られていた。
    「二度とこうした過ちを繰り返さないようにし、貴重な古文化財に対しては、今より以上に慎重な保全策を講じたいものだと念願するだけである」
    第3回「植物園、身代わりに消ゆ」では、戦後の連合国軍総指令部(GHQ)に宛てた書簡で京都御所を進駐軍の住宅建設用地とする旨に対して抵抗した日本側の意志「日本国民の精神的なよりどころ」、その結果、代替地として現・京都府立植物園を充てていたという事実(「アメリカ村」の冩眞が掲載されている)が明らかとされていたということ、また進駐軍は小型飛行機の発着場として京都御苑を要求していたらしく、結果二条城東側の堀川通り一帯(掲載冩眞)が使われていたという実態が浮きぼりにされていた。第4回「開かれた門長蛇の列」では、一般公開が1946年11月に実現されていたということ、それも1906年(明治39)に定められた規定で一般人の参観は全く許されていなかったなかでのことである。いまでは年に一度は公開している参観ではあるが、得意な事情で御所にも民主主義の波が押し迫っていたことを示す実証であろう。第5回「新時代の到来示す芋畑」には、敗戦後の食料難を生き抜くために京都御所の用地が国民学校の給食、サツマイモやカボチャの収穫のために使用されていたという、また労働者の集会祭、所謂「メーデー」が1946年5月に御所の正門、建礼門前で早くも開かれ「働けるだけ食わせろ」「財閥・大資本家を倒せ」といったスローガンを掲げての5万5千人もののデモ行進があったことなど、激動の御所変遷が描き綴られている。(詳しくは8/11から8/17までの朝日新聞夕刊を参照)わたしは、これら旧宮内省資料が徐々にではあるが解明されていくことによって往時の京都御所の建築的エートス(情感)みなぎるトポス(場)が復元されていくことを希望して已まない。

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