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6 月 30 2009

聴竹居 Chochikukyo

1 「聴竹居」南側全景(1928)

敷地:京都府乙訓郡大山崎町
竣工:昭和3年
設計者:藤井厚二
Location:Ohyamasaki-cho,Otokuni district,Kyoto Prefecture
Establishment:1928
Architect:Koji Fujii
「和風の伝統から生まれたモダニズム住宅」
Ⅰ.日本の住宅建築の先駆者 藤井厚二
藤井厚二(1888~1938)
京都南郊の大山崎は、古くから京都~大阪間を結ぶ交通の要所であり、また戦国期の茶匠千利休が創建した茶室待庵(国宝)があることでも知られている。その大山崎は天王山の麓、鬱蒼とした樹木に埋もれるように一軒の古い住宅がある。「聴竹居」と呼ばれるその住宅は、昭和3年(1928)にこの地に建てられてから80年の歳月が流れた今も竣功当時の姿をとどめながら静かに佇んでいます。この住宅は、大正から昭和の戦前期にかけて活躍した建築家で京都帝国大学の教授でもあった藤井厚二の自邸である。
藤井は、大正9年(1920)にこの天王山の麓に約1万2000坪もの土地を購入して、二軒目の自邸を建てて神戸から移り住んでいる。藤井はこれを「実験住宅」と称して、設計した住宅に自らモニターとして住まい、その住み心地を検証・研究することで、近代化する日本人の生活に適応する住宅を模索していくという実験を、昭和3年(1928)までの10年足らずの間に四棟の自邸を近隣に建て続けながら繰り返していく。設計から建設、生活、研究という過程を経て次々と建て替えられていった自邸は「聴竹居」をもって五回目を数え、実験住宅の追尾を飾る集大成的な作品となった。藤井は、日本の住宅に対する理念や研究による理論を纏めた著書「日本の住宅」(昭和3年出版)の最初の章で、「個人主義、実利主義等の発達して来た今日では、住宅建築が重大なる地位を占めるに至り、何れの国でも其の国の建築を代表するものは住宅建築である」と明言し、日本の文化が欧米文化に盲従して模倣の域を出ないことや忠実な模倣による住宅は理想から程遠いことを指摘している。そして「我が国固有の環境に調和し、その生活に適応すべき真の日本文化住宅を創成せねばならない」と説き、その実践として「建築学上より実験的にまた理論的に考察し、吾々の生活に適合すべき住宅について説いてみよう」と実験住宅への決意を表明している。49年という短い生涯を住宅研究に捧げたプロフェッサーア-キテクト・藤井厚二が実践した実験住宅とはどのようなものだったのだろうか。
Ⅱ.研究者兼建築家が試みた実験住宅
2 実験住宅配置図
住宅改良運動
藤井が実験住宅を実践し住宅の近代化を模索
していた1920年代は大正期にあたり、地方から都市に豊かな生活を求めて人口が集中し始め、都市生活者の住宅不足が社会問題化した時代である。また明治末から台頭し始めた中産階級の人々は西欧文化の洗礼を受けて高い知識を持ち、新しいものに積極的だった。大正時代は、こうした教養人から生活改善の声が高まり、住宅の近代化が論じられ、住宅の改良が盛んに提唱されていった。当時の住宅改良の問題点は日本人が取り入れつつあった西洋式の生活スタイルをどうやって日本の住宅に反映させるかということであった。つまり長い慣習で営まれる伝統的な和風と洋風をいかにして折衷するかが最大の関心事であり、こうした和洋折衷住宅へのアプローチを大正期に登場した住宅作家と呼ばれる建築家たちは共通の課題として、それぞれが試行錯誤を重ねていた。藤井は、こうした時代に京都帝国大学で教えていた建築環境工学という学術的な視点から日本の住宅改良を試みるという先端的なアプローチをした建築家であった。環境工学をベースとした藤井が考える住宅とは歴史、人情、風俗、習慣、風土と密接に関係するものであり、この理想の住宅像を伝統的な和風と洋風で把握した場合、藤井は当然のように和風の空間とデイテールを選択している。この事は、日本の風土に適した伝統的な空間の中に現代的な西洋式生活スタイルを融合させることで、欧米の模倣の域を脱した日本の近代住宅を創成しようとした藤井の気概と理念を端的に現わしているようで興味深い。
3 第一回(1917)第二回(1920)実験住宅平面図
第一回から第四回までの実験住宅
藤井の著書「日本の住宅」には、第一回から第四回までの実験住宅の変遷が平面図や竣功時の写真とともに記述されているが、このうち第一回住宅だけは神戸に建てられ、その後の第二回から第五回に至る実験住宅は全て大山崎の山中に建てられている。しかし現存しているのは第五回の「聴竹居」だけで、それまでの実験住宅がどのようなものだっかは「日本の住宅」から想像する他はない。藤井が一連の実験住宅で取り組んでいた研究内容は、彼について書かれた論文や文献の分析によると以下の三点に分類されるようだ。
①居間を核とした空間構成
②坐式(和風)と腰掛式(洋風)の生活スタイルの融合
③快適な室内環境と設備面の充実
そこで、現存しない第四回までの住宅がどのようなものだったか、また「聴竹居」に至るまでどう変遷していったのかを平面図に即して観察していきたい。
神戸に建てた第一回住宅((1917)は、まだ藤井が独身で母親と2人暮らしをしていた為か、普通の木造二階建ての和風住宅で、藤井が使用していた二階の書斎と応接間以外は、居間・茶の間など全て畳敷きの純和風の設えになっている。全体に旧態依然の間取りだが、台所やトイレ・洗面化粧・浴室などの水周りの諸室を近接配置させるという設備面での近代的な試みがなされている。
4 第三回(1922)実験住宅平面図
第二回住宅(1920)からは、神戸から京都南郊にロケーションを移し、大山崎町の西国街道沿いの町家が並ぶ町中に南北に細長い木造平屋が建てられた。この住宅から居間を中心として、その周囲に応接間・寝室・書斎・台所が配置された平面構成になってきた。また椅子・テーブル・ベッドを用いた洋室がふえる一方、畳敷きの和室を減らしていいる。その代わりに、居間兼食堂の脇に床を一段上げた間仕切りのないオープンな畳敷きのスペースを設けて、境界に置いた食卓を椅子坐・床坐の両方から使えるように工夫されている。この居間と連続する畳敷きスペースのレベルを上げて腰掛けた側と座った側の視線を調整する手法は、後の第三回、四回、五回住宅まで使い方を変えながら一貫して採用されている。
第三回住宅(1922)は、同じ大山崎町の国鉄を挟んだ景色の好い山側に、約一万二千坪の土地を購入し、自由に計画できる広大な環境の中で建てたものである。木造二階建て、一階は居間を中心とし、東側に前回と同様に五畳の小上がりスペースを設けている。応接間は前回は居間兼食堂の一画にカーテンで間仕切られていたが、ここでは居間から独立して東に配置し、客間は来客用の食堂を兼ねて居間の西側に設けられ、ここに椅子式の視線に合わせて高さを上げた和風の床の間があり、洋風に和の要素を折衷させている様が面白い。客間の南には切妻屋根を架けた吹き放ちのベランダが付いている。書斎と二つの洋寝室と六畳の寝室がある二階は、昭和9年(1934)に発生した台風の強風で吹き飛ばされてしまったという。
5 第四回(1924)実験住宅平面図

小高い山腹にある第三回住宅から近接の北西に建てられた第四回住宅(1924)は、木造平屋建てで第二回から継続した居間を中心とした平面構成がとられ、前回と同じく居間の一画を食堂とした居間兼食堂スタイルになっている。居間と連続する畳敷きの小上がりは、三畳と縮小され、応接間には前回の客間にあった椅子に腰掛けた姿勢に合わせたレベルの高い床の間とその脇にベンチが設けられ、後の「聴竹居」への布石が打たれている。居間兼食堂と小上がりに接したベランダは吹き放ちではなく、二方をガラスで囲んだサンルームのような空間で、ここにも「聴竹居」に繋がる藤井の意図を感じられる。
以上、第一回から第四回までの実験住宅の変遷を整理すると、独身で母との二人暮らしだった神戸時代の最初の自邸は、ほとんど畳敷きの純和風スタイルであり、まだ藤井自身に明確な目的意識が芽生えていなかったように思える。結婚して家族が増えた第二回以降は、椅子・洋卓・ベッドなどを用いた洋式の生活スタイルが導入され、畳敷きの和室のスペースは減少していく。第二回から四回に至る実験住宅では、居間・食堂を中心として全体のプランニングを構成しながら、伝統的な和風と洋風の融合、床坐と椅子坐の適切な組み合わせを図っていることに大正期という時代を超えた近代性が感じられる。
藤井厚二は五回目の実験住宅「聴竹居」を建設中に著した「日本の住宅」(1928)の序文の中で、「私は所謂最近の旅行として現今第五回目の住宅を建てておりますから、其の住宅の完成した時は『聴竹居図案集』と題して、自己の住宅の建築設計案を公にする予定で、即ち之が本書の結論とも称すべきものです」と自信をもって語っている。私財を投じて自ら実践してきた実験住宅の完成形にして集大成といえる「聴竹居」とはいかなる住宅だったのだろうか。
6 第三回(1922)実験住宅南側外観         7 第四回(1924)実験住宅南側外観

Ⅲ.実験住宅の集大成 「聴竹居」
8 「聴竹居」配置図(1928)
奥床しいアプローチ
京都から南西に走るJR東海道本線山崎駅南口を出ると、駅前の広場の左にある妙喜庵・待庵がまず目に飛び込んできます。かつて、ここを訪れ幸運にも利休遺構の茶室待庵の内部を具に見学したことを想い出し感慨深いものがありました。藤井厚二も茶を嗜み、その著書で「茶室は純粋の日本建築であり、意匠の優秀、用意周到なるは驚嘆のほかなく、奥儀を究めた利休を追慕する念が深くなっている」と語っていることから、藤井がこの大山崎を自邸の計画地とした動機に、ロケーションの好さだけでなく妙喜庵・待庵の存在が重要な意味を持っていたように思える。駅前の妙喜庵から東に伸びる線路沿いの道を進み、踏切を渡って直ぐ左の坂道を登って山中を緩やかに蛇行する道なりに歩いてゆくと、曲折する道の突き当たりに「聴竹居」と書かれた看板を置いた小さな椅子が見つかり、新緑の樹木で覆われた中に風雅な石段が奥へ誘ってくれているようでした。自然石で縁取られ緩やかな曲線を描く石段を昇ってゆくと、眼前に「聴竹居」の姿が忽然と現われ、80年の歳月を経た佇まいは、蒼然としているがどこか爽やかな印象であった。
「聴竹居」平面図

居室(居間)を中心に展開するワンルーム空間
ボランテイアスタッフに来意を告げて、内部を案内して貰う。薄暗い玄関から上がって正面の扉を開けると、そこには今まで体験したことのない和洋が渾然とした住空間と創意の凝らされた意匠が眼前に広がっていました。第二回から四回まで一貫した洋風の居間を中心としたゾーニングであるが、この居間はがらんとした不思議な空気感が漂っている。居間らしく感じられないのは、藤井が出版した「聴竹居図案集」における平面図で居室とされていることから、第四回までの実験住宅の居間とは違う空間が指向されたからではないだろうか。居室(居間)の一画に三畳の小上がりがあるのは前回と同様だが、食事室が独立して円弧状に開いた出入り口が居室側に貫入するようにユニークに食い込み、視覚的に空間を連続させている。更に東西に客室・読書室、南に三方をガラスで囲まれた縁側などのスペースが居室(居間)を取り巻くように貫入している。
これら居室(居間)を中心に四方を囲んだスペースは引き戸や障子を開けてしまえば、そこかしこに視線が抜けて居室(居間)を含んだワンルーム空間となるわけで、伝統的な和風の空間構成を発展させようとしたのではないだろうか。居室に食い込んだ四半円の入り口から一段上った食事室に入り、明るい窓際に造りつけられたベンチに座ると、四半円を描く開口から居室(居間)を透して三畳の小上がりや縁側まで見透せる空間の連続感が印象的です。この食事室は書院や数奇屋の上段の間のようであり、四半円に切り開かれたピクチャレスクな開口はアールデコかゼセッションのようだが、むしろ茶室の華灯口の意匠を思わせ、伝統的な和の趣きを感じさせる。
居室(居間)と一体化した三畳の礼拝スペース
前回までの住宅に繰り返し設けられていた一段上がった藤井特有の三畳の小上がりスペースは、この「聴竹居」でも健在だが、ここでは食事室が独立してあるため性格が違い、居間との境は33cmの段差のみで完全に居室(居間)と一体化した空間になっている。壁一杯に造りつけられた飾り棚の中段にくすんだ金色の斜め壁が目を引く。ボランティアスタッフの説明によるとそれは扉で開けてもらうと、仏壇が隠れていました。フローリングの居室(居間)から立ったまま礼拝できるように、高さと角度が設計されているようだ。また表を飾るくすんだ金色は金箔が張られた跡であるという。スタッフの話によると、藤井はこの仏壇の他にも屋根の棟部分を葺いた瓦にも金箔を張った煌びやかなデザインをしており、豪奢な趣向を好む彼の意匠心が現われているようで面白い。
風が流れるモダンな縁側(サンルーム)
居室(居間)から南東の庭に繋がる縁側は三方を囲むガラスの横連窓から射し込む光りで満たされている。縁側的空間を藤井は実験住宅において形を変えて連続して設けており、第三回では手摺を廻した吹き放ち型のベランダで次の第四回は、二方向をガラスで囲まれた屋内型ベランダに変化させている。そして「聴竹居」では縁側と名づけられ、前回の屋内型を踏襲しながら南の庭に突き出た形にし、北の居室(居間)側との境を障子で軽く間仕切り、三方をガラスで開放しながら天井を網代という伝統的な意匠でまとめている。ここから新緑の明るい庭を眺めていると、かつて今ほど周囲の樹木が鬱蒼としていなかった昭和初めは、この大山崎の高台から眺める景色が素晴らしかったことが想像されます。この景色を存分に楽しむため、豪華にも東西南の三面にわたり全長10mものガラスが連窓とされ、コーナー部はF・L・ライトのようにガラスを直角につなぎ透明感が確保されている。さらに欄間部分に摺りガラスが入れられ明るさにともなう眩しさを防いでいます。こうした住環境への仔細な配慮は、あらゆる面ではらわれており、景色を楽しみながら涼風が感じられるよう腰壁部分には風を導く引き違い戸が設けられ、また網代天井には喫煙に配慮した開閉式換気口がデザインされている。昭和初頭に現代にも通じるような環境を重視した設計がなされていたことに驚きました。
和風の形式をモダンな感覚でデザインした客室
居室(居間)と縁側との間を障子で間仕切られた東西の小空間が客室と読書室です。その入り口を三日月形にデザインされた欄間が飾る客室は、正方形に近い6畳程のスペースに和洋折衷の不思議な趣きが漂っています。接客が重視された大正期には、洋風の部屋に椅子と洋卓などの応接セットが置かれた「応接間」が流行したが、この聴竹居の「客室」は、洋風の椅子式に和の床の間がついた斬新なインテリアでした。6畳程の小部屋でありながら、明るい広がりを感じるのは、直線的でシンプルなデザインの肘掛け椅子と窓下に造りつけられたベンチが配された奥に室の間口一杯の幅3mという大きな床の間が天井高く造られていることに起因しているようです。このモダンテイストな床の間は椅子坐の高さに合わせて床板が30cm程の高さに上げられています。それは西欧の如く壁に空けられたニッチにも見え、奥の壁面には書画、陶器、花の他に一葉の絵画なども飾られ鑑賞されたという。藤井は床板の高い床の間と椅子、造り付けのベンチの組み合わせを第四回住宅の応接間でも試みており、その具合の好さからこの「聴竹居」で更に発展させていったものと思われます。網代に張られた天井と床の間の落としかけの境の入隅部分に装置されたシャープな三角形の照明が部屋にモダンな雰囲気を漂わすことに一役買い、またベンチの背後からモンドリアンばりにイレギュラーに格子を組んだガラス窓から自然光が射しこみ気持ち好く部屋を満たしています。
子供と一緒に過ごす読書室
子供の居場所をどうするか。現代で住宅をイメージする時に居間やキッチンなどとともに真っ先に注目される子供部屋だが、昭和初頭の「聴竹居」ではどう考えられていたのか。居室(居間)と縁側の間に設けられた四畳半程の「読書室」と名付けられた小部屋がそれに想定されしています。西壁の窓際に修学院離宮客殿の霞棚を想わせるような棚を造り付けた書斎机と縁側に向かって造り付けの本棚ととも並べられた二つの子供机が同居したこの小部屋は、藤井親子が一緒に使う洋間に仕立てられている。子供机の正面の障子を開ければ、明るい縁側を介して南の庭やその向こうに広がる山並みの眺望を楽しめる仕掛けが楽しい。この部屋を書斎兼子供室ではなく読書室と名付けたことから、親子が机を並べてともに勉強(読書)する経験が子供の成長に不可欠とみた藤井の住宅に対する思想の一端が伺えるような気がします。
Ⅳ.まとめ 「日本的デザインの住宅」に取り組み続けた生涯
藤井厚二は著書の「日本の住宅」で日本趣味について語った「趣味」という章で、「科学の進歩に応じて直ちにそれを適宜利用することの必要であるのみならず、ゆったりとした落ち着きのある高雅な気分に浸ることの出来得る趣味の深い住宅を造ることが肝要である」と説き、計五回にわたる実験住宅を通じて、環境工学による科学的なアプローチのほかに日本固有の環境に調和した和の伝統を基調とした日本的デザインを探求している。実践と検証による改善から導かれた「聴竹居」では、和と洋を並存させる意匠が平面構成から一つ一つのディテールに至るまで及んでいるが、それはあくまで和の伝統を基調とした洋との並存であった。只、和の技巧的な意匠や環境を配慮した仕掛けに傾注した故か、「聴竹居」の居室(居間)を中心に三畳や食事室などの小空間が貫入した一室空間からは近代的な感覚でいうところの空間性が欠けているのは否めない。しかし西洋の近代主義による「空間」が閉ざされた厚く重い壁によって獲得された場であるのに対し、元々そのような構造を持たなかった日本の伝統建築では「空間」という感覚は存在しない。藤井が実験住宅で試み続けたことは、日本の伝統と向き合いその好ましさを再構成することであったように思う。「聴竹居」という住宅を体験すると、日本の伝統と向き合い格闘している力強さを感じ、空間としての拙さを覆う迫力に満ちている。関係者の献身的な尽力で内部の見学ができるようになった今、必見の近代建築であろう。
京都西山の麓、秋の紅葉が素晴らしい嵯峨野の大覚寺は、藤井厚二の郷里・福山の名刹・明王院の本山です。この寺から南西への路を辿ったところの二尊院にガンで死を予感した藤井が自ら病床でデザインした墓碑がある。薄く先端で軽やかに反った屋根を冠した墓碑は直線的でシャープな印象です。藤井は墓碑の完成した姿を見ることなく、昭和13年(1938)7月、住宅研究に専心した49年の短い生涯を終える。実験住宅の集大成とした自邸「聴竹居」に住んでから僅か10年後のことであった。
参照文献
・「日本の住宅」という実験 風土をデザインした藤井厚二/小泉和子著/農文協発行/2008
・モダニストの夢 聴竹居に住む/高橋功著/日本工業新聞社発行/2004
・まぼろしのインテリア/松山巌著/作品社発行/1985
・昭和住宅物語/藤森照信著/新建築社発行/1990
・思想としての日本近代建築/八束はじめ著/岩波書店発行/2005
・大山崎の光悦 住宅と作家-藤井厚二論/小能林宏城著/新建築1976
本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・1 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・2 「日本の住宅」という実験 風土をデザインした藤井厚二/小泉和子/2008
・3 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・4 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・5 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・6 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・7 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・8 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・9 「モダニストの夢 聴竹居に住む」/高橋功/2004
・10 「モダニストの夢 聴竹居に住む」/高橋功/2004

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