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	<title>聴竹居　Chochikukyo へのコメント</title>
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	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 16:45:02 +0000</pubDate>
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		<title>伊神誠治 より</title>
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		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Jul 2009 01:56:28 +0000</pubDate>
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		<description>私の拙い藤井厚二短評ですが、ル・コルビュジェが桂を見て述懐していた「線が過多で物質観（ヴォリュ−ム）や真の建築精神が漲っていない」といった言説が彼を言い当てているように思えます。最近では「エコ開拓者」みたいな世評でジャーナリズムで取り上げられているのですが、藤井の功績は確かに昭和3年に上梓された著書『日本の住宅』というテキスト（学術書的な）で評価して良いと思うのですが、建築の開拓者というレベルでは少し弱い気もしています。まあ、あの隠れ美技も線の多さがなければ出来ないのでしょうが・・・・。
藤井厚二の日本の伝統に依拠しながら西洋の住様式を融合しようとした、それはまさしくモダニズムの生活スタイルの受容ではないでしょうか。視点（線の多さはあれど）は違えど、当時の思惑は近代思想を根底としていることには間違いないと、わたしは核心しております。だからエコロジカルな面だけではなく、この聴竹居という住宅を大文字の建築としてどう語れるだろうかということを考えているのですが、いまだに結論には至っていないようです。
まとめで述懐されている「和の伝統を基調とした洋との並存」というのを逆説的に捉えればモダニズム（西洋から受容）の思考を日本の伝統（和風）に繋げたと見れば合点がゆくのですが・・・だからライトの意匠も偶然に日本の真壁造りと邂逅したからの話し（日本的）だけで、藤井のデザインにもやはりそういった精神的なものというより「空間性」の欠除が支配的です。ただ、日本人の趣味的で繊細な美辞麗句なる技（ディテール）へのオマージュは、藤井の真意をあまりにも過小評価していると感じています。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>私の拙い藤井厚二短評ですが、ル・コルビュジェが桂を見て述懐していた「線が過多で物質観（ヴォリュ−ム）や真の建築精神が漲っていない」といった言説が彼を言い当てているように思えます。最近では「エコ開拓者」みたいな世評でジャーナリズムで取り上げられているのですが、藤井の功績は確かに昭和3年に上梓された著書『日本の住宅』というテキスト（学術書的な）で評価して良いと思うのですが、建築の開拓者というレベルでは少し弱い気もしています。まあ、あの隠れ美技も線の多さがなければ出来ないのでしょうが・・・・。<br />
藤井厚二の日本の伝統に依拠しながら西洋の住様式を融合しようとした、それはまさしくモダニズムの生活スタイルの受容ではないでしょうか。視点（線の多さはあれど）は違えど、当時の思惑は近代思想を根底としていることには間違いないと、わたしは核心しております。だからエコロジカルな面だけではなく、この聴竹居という住宅を大文字の建築としてどう語れるだろうかということを考えているのですが、いまだに結論には至っていないようです。<br />
まとめで述懐されている「和の伝統を基調とした洋との並存」というのを逆説的に捉えればモダニズム（西洋から受容）の思考を日本の伝統（和風）に繋げたと見れば合点がゆくのですが・・・だからライトの意匠も偶然に日本の真壁造りと邂逅したからの話し（日本的）だけで、藤井のデザインにもやはりそういった精神的なものというより「空間性」の欠除が支配的です。ただ、日本人の趣味的で繊細な美辞麗句なる技（ディテール）へのオマージュは、藤井の真意をあまりにも過小評価していると感じています。</p>
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