7 月 28 2009
建築家 坂倉準三展 Junzo Sakakura,Architect
モダニズムを生きる-人間・都市・空間
モダニズムを住む-住宅・家具・デザイン
日本の近代建築を先導した一人である建築家・坂倉準三(1901~1969)の回顧展が、坂倉の代表作であり戦後日本における近代建築の出発点ともなった神奈川県立近代美術館の鎌倉館と汐留ミュージアムの二つの会場に分かれて開催されている。鎌倉では戦後復興期と高度経済成長期の渦中で手掛けた美術館、市庁舎、学校施設などの公共建築から企業の本社ビル・研究施設などの大規模な民間建築、また渋谷や新宿など都市中心部の巨大ターミナル計画に到るまでの新時代を告げるような建築群が取り上げられている。一方、汐留では、「住宅は建築の本質的なものを全部持っている」と坂倉自身が語っているように、建築家として独立した最初の作品から生涯にわたって手掛けた住宅を主題とし、住空間にマッチさせるべく考案していった椅子・テーブルなどの家具、また建築の領域のみならず他領域で活動するデザイナーやクリエイター達とのコラボレーションによるプロジェクトなど多岐にわたる坂倉準三の仕事の全貌が明らかにされていました。以下に両展覧会を観た後の印象と分析を記します。
Ⅰ.国際舞台で鮮烈なデビュー
出発点としてのパリ万国博日本館
坂倉は、パリのコルビジェのアトリエに在籍していた(1931~1936)頃、開催されたパリ万国博覧会(1937)の日本館を設計し、コンクールのグラ ンプリを獲得するという栄誉に輝き、建築家として国際的に華々しいデビューを飾っている。この日本館は日本の博覧会協会が求めていた日本趣味なものという 意向に従わず、坂倉が師事していたコルビジェの近代建築思想をそのまま造形化して実現させたもので、日本の近代建築が国際舞台で脚光を浴びた最初の出来事でもあった。日本館は一見すると、ガラスと鉄骨のピロティで持上げられ外観や傾斜地を巧みに利用したスロ-プで観客を導くというコルビジェ的な構成であるが、一方で手摺やファサードに欄干や矢来を連想させるようなローカルな日本の伝統的意匠も取り入れられ、全体に軽快でしなやかな印象を漂わせている。
Ⅱ.パリから戦争直前の日本へ
「選択・伝統・創造」展
1939年にパリから帰国した坂倉は、目黒に事務所を構え日本で建築家としてのキャリアをスタートさせる。この太平洋戦争直前から敗戦に到る(1945)までは、コルビジェのアトリエで同僚だったシャルロット・ペリアン(1903~1999)を日本の工芸指導顧問として、パリから招聘(1940)し「選択・伝統・創造」と題した展覧会を東京と大阪の高島屋で開催(1941)されたことが特筆される。この展覧会ではペリアンと坂倉の審美眼で「選択」された日本の工芸品や過去の「伝統」が具えている美の法則を踏まえて「創造」された家具などが展示されている。とりわけ目を引くのは、日本の蓑を編む技術を長椅子に応用したり、竹材を駆使してスツールを作ったりするように、ペリアンが伝統の技から新鮮なデザインを生み出している点である。この展覧会は戦後の日本の工芸デザインに大きな影響を与え、展覧会を協同した坂倉自身もこの後、建築のみならずペリアンのデザインに影響されながら低座椅子など日本の住環境を考慮した家具を盛んに製作していくことになる。
戦中に実現した小住宅・・・飯箸邸・龍村邸
東京と大阪で展覧会を開催した1941年、坂倉は前年に事務所を開設してから最初の実作である「Ih(飯箸)邸」、更に太平洋戦争最中の1943年に2作目の住宅の「Ta(龍村)邸」を完成させる。戦中という最悪の環境で実現した建築はこの2軒の小規模住宅のみであるが、この2作は戦後に陸続と展開される坂倉の住宅の習作ともいえる建築であった。東京の郊外で田園風景が広がっていた戦前の世田谷、緑深い等々力渓谷に程近い「Ih(飯箸)邸」(1941)というと、昨年、東陽町の竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで催された「木造モダニズム展」で前川國男の自邸(1942)とともに「飯箸邸」が展覧されていたことを想い出しました。この二つの住宅はいずれも木造で一つの切妻屋根が全体を大らかに覆っているのが特徴的です。東西に長い平面をもつ「Ih(飯箸)邸」は当初、コルビジェばりのバタフライ屋根を計画していたが、庇との関係からうまくいかず、坂倉自身が長手方向に緩やかな切妻の大屋根を架けるように変更したと謂う。やや偏芯した棟から降ろされたシンプルな切妻屋根を戴く白い漆喰壁のファサードが南北に細長い敷地の東西に広がっている姿は威厳すら漂わせている。対して正方形平面の中心に中庭をもつ宝塚の「Ta(龍村)邸」は、中庭上部がぽっかり切り取られた急勾配の切妻屋根が架けられ、空を望む小さな中庭はどこか戦後の神奈川県立近代美術館の中庭を想わせる雰囲気が漂う。これら切妻の大屋根は、戦後に連作される住宅においても繰り返し架けられていることから、戦中に実現したこの二つの小住宅は、戦後の坂倉の住宅に対する方向性を決定付けた原点ともいうべき重要な作品であると謂える。
Ⅲ.戦後の再出発、新しき創造へ
家具への取り組み
焼け野原となった東京で終戦を迎えた坂倉は、進駐軍(GHQ)関連の住宅やビルの改装などを中心に仕事を再開する。まず、焦土となった都市のため、パリ時代から交流のあるジャン・プルーヴェのアイディアを翻案して戦中から展開していた「戦争組立建築」を「復興組立建築」と役割を変え規格化住宅を製造販売して、日本の復興へ寄与する。住宅の規格化ともに戦中からペリアンに触発されて手掛けていた家具の製作も、戦後更に推し進め、1948年にはニューヨーク近代美術館(MOMA)が主催した「ローコスト家具国際設計競技」に出品した低座椅子が佳作入選を果たす。坂倉は、戦前ペリアンと協働した「選択・伝統・創造」展で着目された竹材に取り組み、籠状に編んだ竹籠パネルを椅子の背と座に利用しZ型に切り抜かれた板のフレームで繋ぐ竹籠座低座椅子でこの設計競技に挑んだ。竹という日本の伝統素材を匠の技で構成した坂倉の作品は、MOMAの審査員から「明快な構造。自然素材に近代的なフォルムを与えた。」と評された。
会場でオリジナルの竹籠座低座椅子を観た時、2枚の板で竹籠の座と背を支えるその構造のシンプルさに日本の伝統が持つ簡素明快さと繋がるセンスを感じ、伝統の持つ法則に従い正しく創造するという戦前の「選択・伝統・創造」展に於ける基本理念が、戦後の坂倉の家具製作のコンセプトとなり発展していったように思えた。
住宅の多様な展開・・・バタフライ屋根・切妻屋根・コートハウス
戦中に実現した二つの小住宅を出発点として、戦後の坂倉は主に規模の大きな邸宅を多彩なバリエーションで手掛けていく。それは坂倉が戦前のパリ時代に交流した人間関係を戦後、クラブハウス(クラブ関西・関東)などの設立に参画してその交流を更に発展させて、そこで築いた実業界、政界とのコネクションを活かして、次々と富裕層の邸宅の設計を依頼されたからに他ならない。存分に腕を奮う環境を得た坂倉は、戦中に用いた切妻大屋根やコルビジェ仕込のバタフライ屋根、近代的なフラットルーフなど多彩な屋根のバリエーションを展開していくことになる。
事務所の処女作である「Ih(飯箸)邸」(1941)で計画しながら断念したバタフライ屋根は、「Te(寺田)邸」(1952)でようやく陽の目を見る。「Ih(飯箸)邸」同様、敷地いっぱい東西に長い平面を持ち、2階の東西で高さの違う空間に対応すべくバタフライ屋根が架けられているが、スキップフロアではなく軒高があり過ぎるためかバタフライ屋根特有の軽快さやシャープさが感じられず、ファサードが間延びしているように見える。大阪支所が担当した「Mu(村川)邸」(1956)のほうが、展示された写真で見る限り、スキップフロアによって軒高が抑えられ、バタフライ屋根のシャープさが活かされている。師のコルビジェのエラズリス邸計画案(1930)で着想されたバタフライ屋根への坂倉の執着は続き、「Fu(藤山)邸」(1957)では、池を望む広大な傾斜地に半中庭を囲んだコの字型の平面を採用し、中庭上部の谷部分を切り欠いたバタフライ屋根を架けている。このぐらいの大邸宅になるとボリュームがあり過ぎて、バタフライ屋根の存在感が希薄に感じられる。やはり、エラズリス邸やA・レーモンドの夏の家(1933)のように長方形平面で軒高を抑えられる規模の住宅が、バタフライ屋根を採用するのに適しているようだ。
「Ih(飯箸)邸」(1941)や「Ta(龍村)邸」(1943)を大らかに覆った切妻大屋根は、戦後、規模の大きな住宅で採用され定形化していく。坂倉が手掛けた住宅で最も規模の大きな「Sh(塩野)邸」(1955)は、国立西洋美術館の敷地を視察する目的で来日した師のコルビジェを関西に案内した際、建設中のこの住宅に立ち寄ってもらったほどの自信作であった。南北に長い敷地の中央に東西に細長いプロポーションの平面をもち、南に芝庭が広がる。「Ih(飯箸)邸」と同様の敷地環境にあり、切妻大屋根を架け渡すに相応しいロケーションに位置している。「Ih(飯箸)邸」のやや偏芯した切妻屋根とは異なる左右対称の緩勾配の長大な切妻大屋根が大らかに架け渡され、その下には白い壁から水平に伸びる長い庇と庭側に面した横長の大開口など・・その構成は「Ih(飯箸)邸」と似通い、ファサード全体を心地よく引き締めている。また「Sh(塩野)邸」は完全な2階建てであるためか、高い棟位置から緩やかで長大な屋根が伸びて軒深く跳ねだしている姿は、そこに生活をする家族を育むに相応しい安定感を醸し出している。
戦後の坂倉の住宅作品で異彩を放っているのは、1952年に開設した大阪支所の所長である西澤文隆が中心となって丁寧に紡ぎ出した住宅群である。関西の風土から醸されるその洗練と優雅さは、師の坂倉を上回る腕の冴えが感じられる。60年代に連作される一連のコートハウスは、西澤が主導して生み出した庭と住まいの関係を重視したスタイルの住宅であった。コートハウスとは敷地境界を塀や壁で囲い、その内側を分割して室内と庭が緊密に絡み合い連続する空間を配置するもので、密集し条件の悪い環境の敷地にいかにして快適な住まいをつくるかというところから始まっている。その原理を端的に現わしたのが「Ni(仁木邸」(1960)で、南北に細長い敷地を東西三分割し、そのスペースに部屋と庭を市松模様に嵌め込み、全体に大きくフラットな屋根が架けられた平屋である。庭部分にはパーゴラ、室内部分にはフラット屋根が架り、どの部屋も必ずパーゴラから陽が注ぐ庭に二方向、面するよう構成されている。ここでは各室相互の視線がぶつからない配慮と、内部である住まいと外部の庭を分離せず等しく扱い、敷地全体を住まいとして一体化する演出が施され、寝殿造りのような清々しい空間が立ち現われているようだ。
西宮市の新興住宅地にある「Ni(仁木邸」とはロケーションの異なる大阪市内の街中に位置する「Mi(宮本)邸」は2階建てのコートハウス。この住宅は、オフィスの近くの街中に住まうことを選択した施主のために、出来るだけ緑の豊富な住環境にすべく設計されたという。その姿勢は、セットバッツクした2階前面の屋上も庭園化し緑で覆い尽くした光景にも現われている。南北に長い敷地の東西の境界に2枚のコンクリート壁を建てて、南北方向を開放する構造によって、敷地内に前庭・中庭・後庭の三つの庭が確保されている。これらの庭と部屋が開口部を透して北から南まで連続した透明感ある空間が清々しい。旺盛に繁茂した緑に住宅が覆われた光景の俯瞰写真を見ると、設計者の住まいと緑への深い愛情に脱帽する思いでした。
Ⅳ.建築から都市・公共空間へ
戦後、日本が復興を遂げ経済が高度成長していく50年代から60年代にかけて、坂倉に依頼される仕事も増加し大型化する。企業の研究施設、市庁舎などの公共建築、渋谷や新宿といった都心部のターミナルプロジェクトなど大規模で複合した施設を設計し、モダニズムの理念を手がかりに混沌とした都市空間へコミットしていく。戦前の事務所開設から戦後の初めまで、坂倉の仕事は住宅、百貨店など一貫して民間建築に終始していた。GHQの占領から日本が開放された50年代から、コンペによって獲得し実現した公共建築が「神奈川県立近代美術館」(1951)である。この建築は坂倉が建築家として飛躍するターニングポイントあり、また戦争でその進展を阻まれた日本の近代建築にとっても戦後の出発点とも謂える建築であった。この公共建築を皮切りに坂倉の仕事は大型化し塩野義製薬や東洋レーヨンなど企業の研究所や関連施設、岐阜の羽島や広島の呉市といった市庁舎を次々と手掛けて行く。
渋谷計画(1952~1970)
建築家として飛躍した50年代、コルビジェの元でウルバニズム(都市計画)を学んだ坂倉に都心の総合計画に関わる機会が訪れる。坂倉は東京急行電鉄会長の五島慶太から依頼を受け、国鉄・東急渋谷駅周辺の将来像を描いた「渋谷総合計画」(1952)を構想し、その一画であった東急会館を設計し完成させる(1954)。この会館は後に東横百貨店西館と呼ばれ。近年大幅にファサードが改修されて今もJR渋谷駅ハチ公口を見下ろすように立っている。低層の商業ビルや木造家屋が並んでいた当時の渋谷で、周囲を睥睨するように白く輝く11階建ての高層ビルは、国鉄渋谷駅の改札口や東横百貨店新館、劇場などを含む複合ターミナルビルの先駆であった。国鉄を挟んだ東には戦前(1934)に建てられた東横百貨店(現東横百貨店東館)があり、これと国鉄を跨いで繋ぐオーバーブリッジをもつくられた。更に、渋谷駅の東を走る明治通りの向こう側で闇市街だった敷地に、大小四つの映画館と東横百貨店の雑貨売り場(のれん街)や美容室、結婚式宴会場、屋上にシンボリックなプラネタリウムを載せた東急文化会館(2003年閉館)を計画する。
この8階建ての複合ビルは、「渋谷総合計画」に則り、明治通りを上空を渡る連絡通路で増築する東急百貨店事務所棟と接続させて1956年に完成する。以後も坂倉は、京王帝都の駅ビル(京王ビル1961)、国鉄と京王帝都渋谷駅繋ぐ京王線連絡通路(1961)、渋谷駅西口ビル(1970)を完成させ、「渋谷総合計画」(1952)から18年の長きにわたり、渋谷のターミナル建設に関わることになるのだが、今、渋谷駅と東急東横百貨店ほど複雑に入り組んだターミナル空間は都内でも珍しいのではないだろうか。坂に囲まれた谷間の渋谷にJR(旧国鉄)や私鉄(京王井の頭線・東急東横線)、地下鉄(銀座線・田園都市線)など複数の路線が集まり、その改札口と東横百貨店の東・西・南館が各層ごとに繋がって混じり合い迷路のごとき呈をなしてしまっている。最早、この錯綜した関係を解きほぐすことは不可能に近い。それは、交通(鉄道網)と流通(百貨店)という都市の根幹に連携がなく、それぞれが長い歳月をかけて自己増殖することを看過した結果であり、また「渋谷総合計画」を立案しタ-ミナルの建設に携ってきた坂倉の都市計画家としての限界も示しているように思える。
新宿計画(1961~1966)
東京で新興の繁華街というと、渋谷に並んで新宿が挙げられる。1960年に決定された新宿副都心建設事業は、広大な淀橋浄水場を移転し、東口に比べて未開発だった新宿駅西口周辺をビジネスセンターとして整備する計画であった。この計画の要となったのが西口の駅前広場である。61年、坂倉はまず小田急の新宿駅西口本屋ビルを設計委託されるが、小田急が西口の広場建設の事業者となったため、ビルとともに広場の設計も任されることになった。西口広場は地下2階を駐車場、地上を自動車道路及びバスターミナルとして整理し、その間の地下1階を国鉄・小田急・京王・地下鉄など新宿に集まる各路線と周辺建物を結ぶコンコースとする3層構造の建築物として計画される。このような地下2階から3層に及ぶ立体構造となったのは、当時のモータリゼーションの進展で交通量が増大し、都心が駐車場不足に陥っていた為、副都心への車のアクセスを考慮してビル建設者に広大な地下駐車場の付置義務を課されたからである。このため、新宿駅西口には巨大な地下空間が出現することになった。メインとなる地下1階では、各路線のコンコースと四周のオフィス及び商業ビルの間を回遊する群衆をいかに円滑に捌くかが課題であったが、坂倉は直径60mの巨大なヴォイドを穿ち、優美な曲線を描くランプウエイを走らせることで地下空間に都市の結節点ともいえるプラザ(広場)を生み出した。このヴォイドは、地下のコンコースを歩いて乗り換え或いは西口周辺のビルへアクセス、階段で地上へ出るなどこの空間を利用する人々に、地上の光りや風、風景または方向感覚などを感じて貰える建築的な仕掛けであった。西口広場の竣工(1966)の一年後、最初に設計委託された新宿駅西口本屋ビルが完成する。小田急百貨店をテナントとする南北400mの長大なファサードをもつこのビルにも、坂倉は力を注ぎ西口広場同様の公共性を与えている。小田急線の軌道上部空間を活用した人工地盤をつくり、歩行者空間として南側の甲州街道まで延長し繋げた。後に、この人工地盤はモザイク坂と呼ばれ、西口から甲州街道へ向けて歩行者の流れをつくるストリートに成長し、現在は甲州街道を越えて南口の新宿サザンテラスに連結して東南方向の高島屋百貨店まで広大な歩行者空間が形成されるに至っている。このビルの完成した2年後の1969年に坂倉は進行中だった多くのプロジュクトを抱えたまま急逝する。没後40年の歳月が流れた今、新宿駅西口に立って、楕円形の巨大なヴォイドと南北に突き出た換気塔の対比的な造形が西口広場のイコンとして輝き、都市の公共空間として生動していることを確認する時、坂倉が師であるコルビジェの提唱したウルバニスム(都市計画)を担い、都市に対して果たした仕事の大きさを想う。
Ⅴ.まとめ
今回の回顧展を観るまで、自分の中の坂倉準三のイメージは「鎌倉近代美術館(現神奈川県立近代美術館)」(1951)に尽きていた。コルビジェを彷彿とさせる白く端正な直方体の箱が歴史ある鎌倉鶴岡八幡宮の平家池の汀に軽快に浮かび、日本的な中庭を取り巻くようにコルビジェの無限発展美術館のコンセプトの如く螺旋状にギャラリーが展開する。そして、蓮の池に脚を降ろした鉄骨のピロティで支えられた空間に迫り出した半屋外テラスの天井に池の波紋が映し出される幻想的な光景が脳裏に焼きついているのです。しかし、小さなスケールの家具、住宅から大スケールの百貨店やオフィスや市庁舎等の公共建築、そして渋谷・新宿といった巨大スケールの都市計画に至るまで、その仕事は個人の建築家の枠を超えるような広い範囲に渡っていることに驚きを禁じ得ませんでした。特筆すべきは、大家となった建築家が遠ざけるきらいのある住宅の設計や家具のデザインを独立当初から晩年まで一貫して手掛け続けたことと、巨大で複雑な都市中心部のターミナル建設に長期間取り組み、現在から見ても大胆な公共空間を実現したことです。思えば坂倉がモダニスムに生きた戦後50年代~60年代までの日本は、個々の力量が求められ、また充分に発揮できた発展途上の社会でした。そんな時代なればこそ、新宿西口地下広場のような都市の公共空間が実現できたとも謂える。しかし、個人の建築家が都市の中心部を開発する計画を手掛けることすら難しく、個人の力を発揮する機会が喪われる一方の社会となった現代、坂倉が都市に遺したものの意味は以前にも増して大きくなっているのではないだろうか。そんな想いにふけながら、坂倉没後40年経って開催された回顧展を後にしました。