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7 月 31 2009

「建築家 坂倉準三展」開催記念シンポジウム

Published by 遠州 under 評論 Review

2009年7月12日(日)10:30~17:30 国際文化会館B1Fホール
神奈川県立近代美術館鎌倉(5月30日~9月6日)とパナソニック電工汐留ミュージアム(7月4日~9月27日)の二部構成で開催されている「建築家 坂倉準三展」を記念して去る7月12日(日)、坂倉が前川國男や吉村順三らと協同して設計した六本木の国際文化会館(1955)でシンポジウムが行なわれました。6月に鎌倉、シンポジウムの一週間前に汐留の両展覧会をじっくり時間をかけて観ており、坂倉に対する予備知識を持ってこのシンポジウムに臨むことが出来たのは幸いでした。以下にシンポの内容と印象をレポートします。
第1部(10:30~12:30)
モデレーター:鈴木博之(建築史家) パネラー:高階秀爾(美術史家、大原美術館館長)、磯崎新(建築家)
高階氏の坂倉論
午前の部では、坂倉準三と親しく接してきた世代の美術史家の高階氏と建築家の磯崎氏がパネラーとして夫々の坂倉論を展開された。まず、高階氏が「坂倉さんの場所が忘れられているのではないか」と口火を切り、グランプリを獲得したパリ万国博日本館(1937)は日本の委員会の意に反した鉄骨とガラスの建築だったが、伝統的感性と現代の融合が評価されたと語る。この伝統と現代の繋がりは、鎌倉近代美術館(現神奈川県立近代美術館鎌倉 1952)や飯箸邸(1941)に見られる特徴であると言う。また他に坂倉の建築の特徴として ①周囲の環境との調和②落着いた生活感覚を挙げられ、①については都市の中に広場をつくった新宿西口広場(1966)やターミナルビルに百貨店を複合した渋谷の東急会館(1954)を例として、坂倉の都市環境への取り組みを評価した。②は師であるコルビジェが唱えた「家は住むための機械である」というスローガンの真意を坂倉は「家は住むためのものである」と解釈し、そこに人間の為の建築という思想があることを指摘しておられました。最後、坂倉準三には日本の近代建築史にもう少し大きな位置が与えられてしかるべきと強調されたことが印象的で、何故、近代建築において坂倉の評価が高くないのかという問題提起が後に託された形となった。
磯崎氏の坂倉論
そこで、磯崎氏の登場です。30年にわたり自分のアトリエが坂倉事務所の店子であったという縁を語りながら、いつも坂倉さんの居場所は不安定だったとシンポのテーマ(坂倉の位置)にすばりと切り込みます。日本でのル・コルビジェの受容を辿ると、前川國男・丹下健三の名は前面に出てくるが坂倉はあまり出てこないとこと。また、日本の近代住宅史や論に、戦後は政財界との人脈から数多くの大邸宅を手掛けたためか、坂倉の住宅が位置付けられていないことなど坂倉の位置が疎外された傾向にあることを強調します。そして坂倉のデビュー作であるパリ万国博日本館(1937)について、当時のコルビジェのアトリエがやりたかったことがそのまま実現しており、また磯崎氏の師匠丹下健三のそのまた師匠にあたる東大建築学科教授の岸田日出刀が考えていた<日本の伝統建築を近代的視点で見直し近代の中へいかに組み込んでいくか>というモデル(理論)を日本の外のパリでつくってしまったと高く評価します。更に戦後の近代建築において、丹下が展開した桂離宮の木造のプロポーションをRC構造に取り入れ調和させた手法は坂倉の戦前のパリ万博日本館のデザインを参照していると建築家らしい推測を展開し、坂倉が日本の近代建築のスタート時から大きな役割を果たしていたことなど独自の建築史的評価を下していきます。そして、磯崎の話は政治的なものに変化し、坂倉が東京帝大建築学科卒でありながら、岸田日出刀教授が構築した日本の近代建築の言説や東大系などの国家的なラインから外れ、コルビジェそのものといったスタイルで国際的な活動をするポジションを保持したと分析し、坂倉がそのような独自のポジションを獲得した背景(人脈)について説明し締めとします。コルビジェの元で修業していた1930年代のパリ、そこに遊学していた多くの日本のエリート達との交遊を通じて、戦前はスメラクラブ、戦後はクラブ関東・関西というパリ時代の交遊を発展させた私的サロンの設立や設計をしながら日本の中枢(政財界・芸術界など)との人脈が形成されたこと。この人脈からの依頼で、大邸宅を多く手掛けることとなり、50年~60年代にかけて小住宅を中心とし左翼的だった日本の住宅ジャーナリズムからは、坂倉の住宅はブルジョア的あるとされ評価されなかったことを述懐し、坂倉準三という建築家の位置(居場所)や評価について非常に刺激的な講演を終えました。
高階氏・磯崎氏・鈴木氏によるディスカッション
高階、磯崎両氏が展開した坂倉論を踏まえて、司会進行役の鈴木氏を交えてのトークでは、30年代のコルビジェが描いた都市計画を側で観ていた坂倉の都市的な仕事を積極的に評価していました。例えば、都市の大量交通の結節点である新宿西口広場(1966)はあのヴォイド的な広場があるからこそ東口より機能していること、また渋谷東急文化会館(1956)は世界的なレベルで複合商業ビルの先駆的建築だったことなどを指摘し、現代のJRさいたま駅や品川駅といった駅と商業空間を複合させる「えきなか」などJRが駅利用の未来的ビジョンとしている萌芽が、坂倉が手掛けた渋谷や新宿西口広場の計画に宿っていたと分析され、その先進性を強調されていたことは、坂倉の建築にばかり関心を向け都市計画への介入や貢献を認識していなかった自分には、新鮮な発見であり興味深いものでした。
第2部(14:00~17:30)
基調講演:内藤廣(建築家)
モデレーター:太田泰人(神奈川県立近代美術館) パネラー:萬代恭博(坂倉建築研究所)、山名善之(東京理科大学)、田路貴浩(京都大学)、青井哲人(明治大学)、松隈洋(京都工芸繊維大学)、北村紀史(元坂倉建築研究所)
内藤氏の坂倉論
午後の部では午前とはパネラー陣ががらっと若返り、生前の坂倉を知らない世代に依る各自の研究や問題提起が発表されていくのだが、シンポのテーマがどこか曖昧になっているようにも感じられました。
まず、建築家の内藤氏が、ディスカッションのテーマとして坂倉の建築には「切れがないが、それには訳がある」と問題提起し、切れがないと感じる訳は人間のことを考えている為であると主張した。例えば丹下健三や前川國男は戦後の新生日本を背負うような国家的建築家であったのに対し、街や民衆を背負ったのが坂倉であり、丹下や前川のように未来や過去ではなく現在と向き合った建築家であると分析する。ここで話は都市計画のことになり、建築家でありまた土木工学に造詣深い内藤氏の独壇場となる。元来、日本の都市計画をリードしてきたのは土木であり、都市の根幹を支えるのは物流と交通であると解説し、建築などはそういう土木基盤の上物に過ぎないと謂う。そして、都市の中心部に入って仕事を推し進められた建築家は坂倉のみであると渋谷のターミナルや新宿西口広場を評価する。ヨーロッパ的なプラザ(広場)は、日本では騒乱の場と危険視され抹殺されてきた歴史があり、広場は法律用語ではなく俗称であったと述べ、そんな状況の隙間を縫って実現した坂倉の渋谷のターミナルや新宿西口広場は奇跡的であるとさえ謂う。
次に6名のパネラーに依る発表が行われたので、簡単にその要所を纏めます。
①萬代恭博(坂倉建築研究所)
坂倉の建築の特徴は、既存のものに点的に新しいものを挿入し、その関係性を魅力的なものにしており、相対的なデザインであると語り、例として パリ万国博日本館・神奈川県立近代美術館鎌倉を挙げている。
②山名善之(東京理科大学)
ル・コルビジェのもとで修業していた時代に触れ、20年代は理念的だったコルビジェが坂倉の在籍していた30年代になると都市計画のプロジェクトを手掛けるようになり、坂倉は「アルジェ都市計画」や「輝ける農村計画」などを担当していたと語り、この時期に実際のプロジェクトを通じてコルビジェのエスプリを直に
学んだことは、坂倉にとって幸運であったと謂う。
③田路貴浩(京都大学)
戦前戦後を通じて坂倉の仕事のプロデューサーだった小島威彦(スメラクラブ創設者)は、パリ万国博日本館をインターナショナルで土着的な魅力があると評した。
④青井哲人(明治大学)
私鉄のターミナルプロジェクトにおいて、新宿西口は小田急百貨店ビルと中央広場で構成されており、
副都心事業の一環の計画であった。
⑤松隈洋(京都工芸繊維大学)
共にコルビジェに師事した坂倉の飯箸邸(1941)と前川國男の自邸(1942)について語り、両方とも
同じ工務店に施行させていることや、前川自邸は都市の中の建築だが飯箸邸は都市に建築をどう介入させ調和させてゆくかを考えたとその違いを明らかにした。
⑥北村紀史(元坂倉建築研究所)
コルビジェの著書「今日の装飾芸術」(1925)に触発されコルビジェの研究生となったペリアンを同僚だっつた坂倉が日本に呼んで「選択・伝統・創造」展を共催しまたカタログを共著して、家具・工業デザインへ介入していった経緯などが語られた。
内藤氏と6人のパネラーとのディスカッションが終った後、会場との対話で坂倉事務所OBの方の話しが興味深かったので紹介します。
・坂倉は住宅は屋根が勝負といっており、その設計過程はスケッチは描かず所員に提案させ、それに是非の判断を下すスタイルであった。
・大阪支所の西澤が担当したコートハウスのNi(仁木)邸(1960)は、ケーススタディハウスの影響を受けているという。
・坂倉は、大阪支所のことは所長の西澤さんを信頼し任せていた。
最後にまとめとして内藤氏が、「鎌倉近代美術館を改めて観ると、その貧しく簡素な材料で何とか建築に仕上げようとした営為に感銘を受ける・・・だが、何かわかりにくく、伝わり難さを感じる。」と述懐し、午前と午後二部構成のシンポジウムは終わりを告げました。
※一日がかりのシンポジウムを拝聴し終わり、どこか消化不良な感覚が残ったのはテーマであった坂倉準三「位置」(居場所)についてのディスカッションが散漫な印象で、そのことに積極的な推論を展開したのが磯崎氏だけだったことが原因のようです。個人的に建築家坂倉準三というと真っ先に、鶴岡八幡宮境内の平家池に反射した陽光が天井を陽炎のように照らしているテラスとその前に並ぶスレンダーな鉄骨のピロティが池上の石に脚を降ろしている「鎌倉近代美術館」(1952)の軽快で美しい姿が目に浮かぶ。磯崎氏が展覧会のカタログに書いているとおり「コルビジェよりコルビジェらしい」近代建築であり、戦前のデビュー作となったパリ万国博日本館(1937)でコルビジェのモダニズムの理念に日本の伝統感覚を融合させた坂倉の美学をさらに洗練させた日本的な端正な佇まいに心惹かれてしまうのです。坂倉に終生、強い影響を及ぼし続けたコルビジェは30年代以後も時代の変化に合わせて変貌を重ねていったが、坂倉自身は30年代に接したコルビジェの直系として、モダニズムの理念と日本的感性を持ち続けながら近代建築をつくり続けていったような気がする。

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