9 月 30 2009
鹿苑寺金閣 Kinkaku,Rokuon-ji Temple
敷地:京都府北区金閣寺町
創建:応永5年(1398)
再建:昭和30年(1955)
Location:Kinkakuji-cho,Kita-ku,Kyoto Prefecture
Establishment:1397
Reconstruction:1955
「湖面に浮かぶ金色の三層楼閣・・・・国王義満の迎賓館
Ⅰ.鹿苑寺金閣の前身 西園寺公経の北山第
西園寺(藤原)公経像
今日、金閣或いは金閣寺と呼称されている建築は、臨済宗相国寺派に属する北山鹿苑寺の中心を成す舎利殿でした。金閣のある鹿苑寺は京都の西北に位置し、西に衣笠山、背後に左大文字山が聳えた古くからの景勝地であり、鎌倉時代には太政大臣西園寺(藤原)公経(1171~1244)が営んだ山荘があって北山第と呼ばれたところである。公経の北山第を訪問した歌人藤原定家が記した「明月記」によれば、碧瑠璃を湛えたような池と高さ四十五尺の瀑布、清澄な泉石があり、見るものすべてが斬新で珍しいと称賛している。現在の鹿苑寺金閣の前面に広がる鏡湖池や北の一段高い山腹に静かに水を湛える池の安民澤、そこから落ちる滝「龍門瀑」などが鎌倉時代の北山第の遺構とみられています。北山第には、天元元年(1224)に建立された本堂西園寺を始め、大海の如くと謂われた池の周囲に、いくつもの御堂と公経の住む寝殿をはじめとする御所が営まれ、その主要建築は、西園寺(阿弥陀堂)、善積院(薬師)、功徳蔵院(地蔵菩薩)、池の畔に妙音堂、瀧の下に不動尊、石橋の上に五大堂、成就院、法水院、化水院、無量光院など多数の堂舎が建ち並んだ豪奢な山荘であったと伝えられている。つまり、後に義満がここ北山を所有するはるか昔から既にこの地には、公経が贅を凝らして造営した人工の庭園と堂舎群が、鹿苑寺の前身として存在していたわけである。
安民澤(中央にあるのは西園寺家の鎮守)
田畑を掘り返し切り崩して優麗な庭園に改造し、山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した本堂を中心に多くの堂舎を配する仏寺と別荘を兼ねた北山弟は、同じスタイルで平安中期に藤原道長が鴨川沿いに造営し豪華の極致と賛美された法成寺と比べても、山際という立地による眺望の良さに林泉の美が加わり、優るとも劣らないと評されていました。鎌倉時代に栄華を極めた西園寺家の北山弟には、歴代の上皇・天皇が何度も行幸し盛大な宴遊が催されたという。行幸記録に依ると、北山第には北第と南第があり、南北二つの地域に分けられていたらしい。公式行事を担う表向きの南第は現在の鏡池湖周辺の金閣や東側の方丈・庫裏付近で、寝殿など奥向きの北第は、安民澤とその北側一帯の杉林や不動堂付近に位置していたと推測されている。
Ⅱ.国王義満の御所北山殿
足利義満像
動乱の南北朝時代、西園寺家が衰退し荒廃の一途を辿っていた北山第を河内国の領地と交換する形で譲り受けたのが室町幕府三代将軍の足利義満(1358~1408)でした。将軍職を息子の義持に譲り、出家した義満は北山第に建つ西園寺家の堂舎群を引き継いで、応永4年(1397)1月、自らの隠居所北山殿の造営に着手します。その全体像は今の鹿苑寺とはだいぶ異なるもので、応永5年(1398) に完成した三層の舎利殿(後の金閣)を中心に、護摩堂、懺法堂、法水院などの仏教建築と寝殿、公卿間、会所天鏡閣、拱北廊、泉殿、看雪亭などの住宅建築群など十数棟の建築が綺羅星のごとくばらまかれ廻廊がめぐらされていたと謂われています。義満が、既存の西園寺家の堂舎群をどのように扱ったかは不明だが、着工から比較的早い時期に御所室町から北山殿へ移住していることから、多くは既存のままにとどめ生かして造営したのではないかと見られている。その中で、義満が最も力を注ぎ趣向を凝らして造ったのが舎利殿、後の金閣である。舎利殿は釈迦の骨を祀る建物で、義満がしばしば訪れていた西芳寺の池の西岸にあった二層の楼閣舎利殿を模して構想したともいわれている。義満が敬愛した国師夢窓疎石が作庭建築した西芳寺は、八代将軍義政(1436~90)も東山殿(慈照寺)を造営する際にたびたび訪れ、祖父義満と同じように舎利殿をモデルとして観音殿(後の銀閣)をつくったという。
西芳寺舎利殿(瑠璃殿)復原図
明との交易で北山殿を明使の迎賓館として活用した義満は、明皇帝から「日本国王」の称号を得る。そして北山殿の庭園が完成した応永15年(1408)には、天皇を北山殿に招いて(行幸)接待し、その権力は天皇を凌ぐものとなった。絶大な権力を背景に皇位簒奪も画策していたといわれる義満だが、天皇行幸の二ヵ月後に急逝する。義満の死後、北山殿から政治・外交の舞台としての機能は消え、四代将軍義持の手によって北山殿の一部が解体される。義満の住まいだった寝殿、公卿間、懺法堂、会所天鏡閣などが南禅寺・建仁寺・等持寺に移築・寄進され、跡には金閣と法水院、護摩堂、泉殿ぐらいしか残っていなかったという。そういう状態で、応永27年(1420)頃、北山殿は義満の菩提を弔うべく、義満の法号にちなんで命名された「鹿苑寺」という禅寺となる。八代将軍義政の治世下、 室町幕府の権威が衰え応仁・文明の大乱(1467~77)が京の都で勃発する。この大乱の際、鹿苑寺には西軍の布陣したことから戦火に遭い、護摩堂など義満の頃から残っていた堂舎が舎利殿を除いて悉く焼失し、遠く鎌倉時代の公経の山荘を受け継いで築かれた義満の豪華絢爛な宮殿の面影は完全に喪われてしまった。
Ⅲ.生き残った舎利殿(金閣)
洛中洛外図屏風にみる舎利殿(金閣)
応仁・文明の乱で多くの堂舎が灰燼に帰した鹿苑寺で辛うじて焼失を免れた舎利殿は、この頃から「金閣」という美称で呼ばれるようになる。八代将軍義政をはじめ、足利歴代将軍は鹿苑寺を訪れ金閣に登り、上層から四方の山と庭園の景色を眺め、池に船を浮かべて歌を楽しんだという。戦国の桃山時代には金閣は都の名所となり、キリスト教宣教師フロイスが鹿苑寺を訪れた時の記録によると「池の真ん中に三階建ての一種の小さい塔のような建物があった。廻廊がついた上階(三層)はすべて塗金され、そこはかつて公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池を眺め、建物の中にいながら池で釣りをしていた。」とあり、金閣が現在のように陸続きでなく、池中に浮かぶように建つ釣殿のような外観で、義満が上層から庭園を眺め中にいながら釣り糸を池に垂らして釣りを楽しむ優雅な風景が目に浮かぶ。戦国時代の天文6,7年(1537,38)と江戸時代の寛永初年に、鹿苑寺の金閣・庭園の修理修築が行なわれており、この時、現在より広かった池の南部が埋め立てられ、金閣も一層の北側が壁となり義満像を安置する仏壇をつくる改造が施されている。
広重作「京都名所」の金閣
室町時代末期に狩野永徳の筆で描かれ上杉家に伝わる「洛中洛外図屏風」には金閣に登っている人影が見え、また江戸時代に刊行された広重の浮世絵や都名所図会を見ると金閣に登って上から庭園を鑑賞している人が描かれている。故に金閣は、昔から中に登って上から見物させることが行なわれていたようである。そして明治時代のある時期には金閣に屋根付きの渡り廊下がついていたという。林泉の中、拝観者はまず方丈へ向かい、それから橋を渡って金閣の二層に入り、内部を拝観した後に鏡湖池の周辺を巡るという参拝ルートだったようです。金閣の内部に立ち入る事ができない現在となっては、何とも羨ましい拝観ですが、昭和25年(1950)に焼失する前の金閣は古写真などを見ると、現在の金色に輝く再建金閣とは違い、5世紀にわたる長い歳月を経る間に金箔が剥げ落ち黒ずんで古寺の趣きが漂い、とても金閣の名に相応しい姿ではなく見上げて鑑賞するような雰囲気には程遠かったようです。
都林泉名勝図会・金閣 渡り廊下のある金閣(明治時代)


Ⅳ.金閣炎上
焼失前の金閣 三島由紀夫

義満の北山殿創建から550年の歳月と風雪を生きてきた金閣は、惜しくも昭和25年(1950)7月2日、寺の学僧の放火によって焼失してしまう。現在、鹿苑寺の鏡湖池の畔に金色に輝いている金閣は、放火焼失から5年後の昭和30年(1955)に再建されたものである。世間に大きな衝撃を与えた金閣放火事件は、後に三島由紀夫によって小説化されている(「金閣」1956)。当時の様子を伝える「夕刊京都新聞」によると、「7月2日の午前3時過ぎ、国宝金閣が火焔に包まれているのを、20丁あまり東方の消防署望楼勤務員が発見。消防隊が駆けつけ時には、既に金閣から紅蓮の炎が猛烈に噴出して手の施しようがなく全焼した」という。義満の創建以来、550年の歴史を刻んだ金閣が焼け落ち、二層までの骨組みだけが露出した姿は無残としかいいようがない。
金閣寺1956初版
日本中の耳目を集めたこの金閣放火事件について、三島は犯人の学僧の経歴や裁判、修業生活や人間関係などを入念に取材した。三島は、事件の枠組みや犯人の行動は取材で明らかになった事実をほぼ取り入れながら、学僧の心の葛藤や生まれつきの障害へのコンプレックス、拝金的な老師(住職)への反発、金閣の魔性的な美に魅了されながら嫉妬し、ついには金閣を破壊するまでに至る虚構的世界を精緻な文体で描写している。三島はこの作品の至るところで「金閣」の美や官能性を精細に描写し、その魔性の美に魅入られたかのように若い僧が放火という衝撃的な凶行に走り、金閣が燃え上がる有様を迫力ある筆致で表現し小説を完結させている。三島は学僧が最後の行為(放火)の直前、金閣を眺めさせその美について語らせている。「金閣の美しさは絶える時がなかった!その美は常にどこかしらで鳴り響いていた。耳鳴りの涸疾を持った人のように、至る所で私は金閣の美が鳴り響くのを聴き、それに馴れた。音にたとえるなら、この建築は五世紀半にわたって鳴り続けて来た小さな金鈴、或いは小さな琴のようなものであったろう。その音が途絶えたら・・・・」三島が微に入り細に入り描写し、一人の若い学僧を衝撃的な凶行に走らせた「金閣」の美の魔力とは何なのだろうか。
金閣炎上図 川端龍子画 炎上焼失直後の金閣


Ⅴ.義満の金閣と再建金閣
鹿苑寺境内図
再建され不死鳥の如く蘇った金閣は、その後、昭和62年(1987)に金箔を以前の5倍の厚さに張り替える修復工事を経て、現在は金色に彩られた美しい姿を鏡湖池の畔に見せてくれている。しかし、その姿は明治37年(1904)に実施された解体修理の際に作成された実測図や竣功図に基づいて復元されたものであり、義満が構想し営んだオリジナル金閣とは趣きを異にすると指摘されている。元々、北山殿に舎利殿としてあった金閣は、北の山側に立つ二層の会所「天鏡閣」と、複道「拱北廊」によって繋がっていたといわれている。複道とは二層の廊下で、この当時、金閣は釣殿のように池中に浮いていたから、水面上の廊下を往来する時、「あたかも虚空を歩むに似た」心地がしたといい、その風景はまさに極楽浄土である。
現在の鹿苑寺における金閣は池の畔に孤立した形で佇んでいるが、義満在世当時の北山殿は、今より広大な池に浮かぶ金閣と結ばれた天鏡閣をはじめとした多くの堂舎群が綺羅星の如く建ち並び絢爛華麗な絵巻を繰り広げていた。義満の金閣は、それまでに例のない三層の楼閣建築で、初層を法水院、二層を潮音洞、三層を究竟頂という。一層は西側の池に切妻屋根の漱清(釣殿)を突出させた寝殿造風の阿弥陀堂、二層は武家造りの観音堂で広縁と高欄を廻した廻廊があり、ここから池泉を俯瞰出来るように仕立てられ、最上階の三層は純然たる禅宗様の仏堂で四方を花頭窓が飾っている。屋根は杮葺き・宝形造りで頂上に金銅の鳳凰が挙げられ、全体に軽快優美な趣きが漂う庭園建築である。
橋廊下で繋がった金閣と天鏡閣
金閣創建当初、義満は大国の明との国交樹立を望んで、北山殿に明使を迎接していることから、金閣は迎賓館のような施設であったとも推測される。謂わば、広大な池中に浮かぶ金閣の上階、金箔が隈なく張りつめられた煌びやかなインテリアの中で義満は明使と引見し、池上に架橋された空中廊下を渡って天鏡閣というパーティー会場に入り、歓迎の宴遊が連日催される・・・そんな往時の豪奢なイメージが目に浮かぶ。義満は己が権威を金色に輝く楼閣で大国の明に誇示したかったのではないか。日明貿易で得られる利を優先し、明皇帝に隷属の臣下として卑屈なまでに接しながらも、天皇を超越した国王の権威を金閣に塗りこめた黄金に現わしているような気がしてならない。一体、義満の外交施設であった舎利殿(金閣)の姿は、現在の再建金閣と重なるものなのか。また金閣の美とは何なのか。
金閣の再建は法隆寺や平等院の修復も手掛けた武田五一が指導した明治37年の解体修理で残された記録を参考に復原と同じ手順を踏んで遂行されている。昭和30年の再建で指導的立場にいた建築史家村田治郎氏は再建金閣について復原的考察のひとつの結論であって決して絶対的なものではない旨を述べている。1996年、京都文化博物館で開催された「京都・激動の中世」展で建築史家の宮上茂隆氏は、再建された金閣は創建当初の姿ではないという考えから金閣復原図を提示しその相違を次のように説明している。
金閣南側立面図(上)・西側立面図(下)
①現在、二階は内外とも金箔が張られ三階共々金色に彩られているが、昔は高欄を除いて内外とも黒漆塗りであった。つまり、二階は黒い外観で金色に輝くのは三階のみであったという。
②創建金閣の復原図における外観は、端正な左右対称ではなく、三階の中心が西側へずれており、そのため二階屋根の東部が入母屋屋根になっている。
③金閣東側に池から金閣へアクセスするための舟入の玄関が附属している。
④金閣の北側にあった二層会所の天鏡閣と複道(二層廊下)によって繋げられ、また金閣より東方、今の書院や方丈がある辺りにあったと思われる表向きの御殿の寝殿から金閣へ透渡殿が伸びている。
義満が北山殿に営んだ綺羅星の如き堂舎群が戦乱などで消滅し、唯一、現存していた金閣が昭和の放火で灰燼に帰してしまった後、再建された金閣と鏡湖池のみが、義満在世時の遺風を伝えてくれている。しかし、放火焼失以前の金閣もまた創建時から550年の歳月を経る間に何度か修復・改修の手が加えられ、宮上氏が指摘したように姿かたちが変わっているとするならば、焼失前の明治時代の姿を忠実に復原した今の金閣は伝金閣ともいうべきものであろう。三年前に逝去した鬼才の建築家篠原一男が著した「住宅論」の一章、日本伝統論(1960)は再建された金閣を語ることから始まっている。「金閣はあの金箔の輝きの中に価値があるのだ。義満がつくろうと思ったのは、暗い木立や水に映える金色の光であったはずだ。時が経ち、金色の光りに影がさし、古ぼけ、黒く沈んだ金閣は、その燃え殻であって、将軍のつくろうとした金閣ではない。」篠原は義満がつくった金閣の建築美は金色の光りにあり、焼失前の古寺のごとく金色が黒ずんだ金閣に日本の伝統的な情緒や趣きを感じたとしても、それは数百年の時間と風雪が生んだ結果に過ぎないと断じ、黄金で表現した異常な美意識を称賛している。
金閣復原図 南側立面図 東側立面図


Ⅵ.まとめ ユートピアの三層楼閣
鏡湖池から望む金閣東南面 金閣東面と舟着き

おおどかに広がる鏡湖池の水面に美しい姿を映しながら佇む金閣、陽光に輝く金色の光は思っていたより楚々として優しい。池に北畔にある金閣をじっと眺めていると、宙に浮かんでいるような軽快さと明るさが感じられる。それは、初層と二層の池に面した南側正面の吹き放ちの広縁で、外周には一間毎に柱を入れることが原則だった当時に、柱を飛ばすという離れ業を演じ、広縁の眺望を妨げない開放性を獲得していることにも起因している。また、同大の一・二層の中心に三層が載るという左右対称性が端正で上品な佇まいを強調していることにも着目したい。全体の均衡から見ると、一層に屋根を設けず高欄付きの縁を廻し、二層から深い軒屋根を架け、トップの三層を二層より僅かに窄めた形で戴かれた対比が効果的で、金閣全体に軽快な印象を与えている。更に、初層の西に漱清というささやかな釣殿を池に張り出していることで均衡の単調さを破り、金閣の造形に変化を加えているのが面白い。金閣の前面に広がる鏡湖池は、名の通り鏡面の役割で虚構の金閣を水面に映し出し、松を植えた大小様々な中島や離れ石が点景として散りばめられ、金閣と一体の景観を成して、拝観者の目を楽しませてくれる。往時、義満は船を浮かべ、或いは金閣の上から自分が作庭した大海のような池泉を眺め愛でながら、釣り糸をたれていたのであろうか。願わくば、江戸・明治時代の拝観者のように金閣に登って、金色眩い広縁から池を囲む庭園を眺めわたして義満が描いた極楽浄土の世界を体験してみたいものです。
金閣北面(左)・金閣初層の西に突出た漱清(中)・金閣二層南面の広縁(右)



金閣は初層の法水院は平安の寝殿造り、二層の潮音洞は鎌倉期の武家造り、三層の究竟頂は中国の禅宗様という三つの異なる様式から構成されているが、これは公家の上層に武家があり、更に最上層には「究極」の人である義満が公武の上に君臨するという思想が体現されているという。三層楼閣の最古の違例であり、義満がよく訪れた西芳寺の二層楼舎利殿を手本に着想されたであろう金閣は、後の義政の慈照寺銀閣(二層 1489)や西本願寺飛雲閣(三層 1592)という楼閣建築に大きな影響を与えている。三重塔や五重塔など、多層の違例は金閣以前からあるが、それらは二層以上に利用出来きる空間がなく外観だけの楼閣にすぎない。上層に登れて人を容れる空間が用意されている金閣は、日本の住宅史や建築史を語る上で、特筆されるべき建築ではないだろうか。
金閣一層法水院(左)・二層潮音洞(中)・三層究竟頂(右)



参照文献
1)「金閣寺」/三島由紀夫著/新潮社発行/1956
2)「日本の建築 歴史と伝統」/太田博太郎著/筑摩書房発行/1968
3)「住宅論」/篠原一男著/鹿島出版会発行/1970
4)「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
5)「日本名建築の美」/西澤文隆著/講談社発行/1990
6)「日本名建築写真選集第11巻 金閣寺・銀閣寺」/宮上茂隆著/新潮社発行/1992
7)「古寺巡礼 京都21 金閣寺」/有馬頼底・梅原猛著/淡交社発行/2008
鹿苑寺金閣 Kinkaku,Rokuon-ji Temple

文章が切れています。重源
遠州様へ
金閣寺の歴史的変遷など仔細な調査・見学の成果、興味深く拝読させていただきました。ところで、現況の金閣寺の金箔の範囲は、焼失した以前の状態を踏襲しているのでしょうか?いまのでは何か中途半端なように見えます。わたしが憶うのは、殆どのひとは金閣のかたちを美しいとしているのではなく、あの金箔の輝きのレアな妖気に惚れ込んでいるんじゃないでしょうか、どうですか?
昭和25年(1950)に焼失する前の金閣は、風化で金箔が剥げ落ち下地の黒漆が露出し古寺のような状態であったようです。昭和30年(1955)、京都大学の村田治郎博士らの指導によって金閣が再建され、現在見られるように二層三層に金箔が張られたのですが、焼失前の金閣の姿は、明治37年(1904)の解体修理の際に三層のみ金箔を張ったものであったと謂われています。つまり、焼失前は三層のみが金箔張りであったものが、再建で新しく二層にも金箔が張られたということらしい。再建当初は、明治の修理を踏襲して三層のみ金箔張りにする予定だったのだが、再建の指導的立場にあった村田治郎博士が明治の修理の際に出た古材(二層の隅木)からわずかに金箔の痕跡があることを発見したことから当初計画を変更して二層も金箔張りにしたようです。但し、本文にも書いたように建築史家宮上茂隆氏は、この再建金閣の姿に異議を唱え、創建時の金閣復原図では金箔張りは三層のみで二層は黒漆塗りであったと指摘しています。
昭和62年(1987)に金箔張り替え大工事をした金閣は、今もピカピカに輝く金色を維持しています。金閣へ向かい、木立の奥に金色の光りが見え始めると、大概の観覧者は驚きの声を発してしいるのを耳にします。それは、突然現われた予想を超える金色の輝きに魅入られたかのよう。建築の形を観る前に表層の装飾や色に反応してしまうのと同じように、金箔の輝きには抗しがたいように思います。