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12 月 25 2009

建築家 今井兼次の世界Ⅲ The World of Kenji IMAI Ⅲ

Published by 遠州 under 評論 Review

ー祈りの造形ー
2009.12.2~12.23 多摩美術大学美術館
今井兼次(1895~1987)
2005年「建築家今井兼次の世界」、2007年「建築家今井兼次の世界Ⅱー初期作品から航空記念碑ー」と2年毎に多摩美術大学で開催されてきた今井兼次の展覧会の第三弾が祈りの造形と銘打たれ、今井が手掛けた或いは計画した教会建築をテーマに、同じ多摩美術大学で今月23日まで貴重な資料が一般公開されていました。20年前、一週間をかけて九州を縦断して近現代建築を巡礼する旅をした折、立ち寄った長崎で観た二十六聖人殉教記念館でインパクトを受け今井兼次という建築家を知った私は、2005年夏に初めて開催された最初の展覧会に足を運んで、更にこの寡作の建築家への興味を深めた次第です。写真・図面・スケッチ・模型・ビデオなどで紹介された今井の教会建築に対する並々ならぬ情熱には感銘を受けました。以下に「今井兼次郎の世界」で感得したことを纏めます。

「神は細部に宿り給う 手の痕跡を伝える建築」
今回の展覧会の目玉は、二十六聖人殉教記念館(1962)だが、他にもカトリック成城教会聖堂、洗足男子カルメル会修道院聖堂、訪問童貞会修道聖堂、また計画のみでアンビルドに終わった大阪万博の教会計画案、カトリック姫路本町教会設計案、玉川学園礼拝堂設計案などクリスチャンだった今井が教会建築を意外なほど多く手掛けていたことが認識できる構成になっていました。今井と教会建築の出会いは、彼が大正15年(1926)から昭和2年(1927)にかけて地下鉄駅の調査研究という目的で欧州各国を巡る旅に出、当時の欧州で勃興していた近代建築を精力的に行脚して廻った時であったと思われます。
この旅で、今井は独逸のメンデルスゾーンやタウト、グロピウス、仏のコルビジェ、北欧のエストベリやアスプルンドなど当時を代表する第一線の建築家達と逢って語らい、彼らが設計した近代建築に触れている。このように、多くの建築家と近代建築との邂逅を果たした欧州建築視察旅行のなかで、今井が建築家として影響を受けることとなったものに、エストベリーのストックホルム市庁舎、シュタイナーのゲーテアヌム、そして言うまでもないガウディのサグラダ・ファミリアのカテドラル、更につけ加えるならテンプムのヘガリット教会が挙げられる。奇しくも今井の早稲田の一年先輩である村野藤吾も、今井が旅した(1926~27)数年後、そごう百貨店の設計のため欧州の百貨店を視察する目的で欧州を旅し、北欧のストックホルム市庁舎とヘガリット教会を訪れて最大の感動と深い感銘を受けている。(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 「近代建築の目撃者」/佐々木宏編/新建築社/1977 参照)
サグラダ・ファミリア聖堂(バルセロナ1926)
手書きの図面や達者なスケッチ、パース、模型、写真パネルなどが飾られた展覧会場で、私の目を惹いたのは、カサ・ミラから遠望したサグラダ・ファミリア聖堂やヘガリット教会のシルエットをコンテで描いたスケッチやロンシャン教会の光りに溢れた内部空間をとらえたパステル画、今井が余った葉書でこさえた二十六聖人殉教記念館のラフで可愛らしい模型であった。今井は欧州視察旅行から帰国した後の戦前期はデビュー作の早稲田大学図書館(1925)や自身が作品として唯一挙げている代々木航空記念碑(1941)以外、これといった作品を設計することなく、早稲田大で教育及び研究者として過ごしていた。戦後、敬虔なカトリック信者だった愛妻の死(1947)の後、自身も洗礼を受けクリスチャンとなった今井は、60代という後半生に入ってからようやく設計活動を再開している。成城カトリック教会聖堂(1955)を始めとした一連の教会建築における丹念で執拗なまでに細部に拘ったスケッチや手書き図面を眺めていると、今井が教会建築に傾けた献身的なキリスト教精神が伝わってくるようで、驚きを禁じ得ませんでした。今井が手掛けた教会建築の白眉は、長崎の地に建設された26聖人殉教記念館(1962)である。この建設工事を請け負った大成建設が撮影した記録映画を会場で観ることが出来たが、そこには大学教育者としての仕事を休職して現場に乗り込んだ今井が、自ら聖堂の外装を飾る陶磁片モザイクタイルの貼り方を実践し、施工に携る現場職員や職人と一緒に汗にまみれている姿があった。わたしは、その光景から今井を設計監理に従事する建築家というより「中世の聖堂の建設に奉仕する信者」のような印象を受け、あらためて信仰心が彼の創作のエネルギーとなっていることを確認した思いであった。
                                                     ヘガリット教会(ストックホルム1926)
そして、今から20年前の夏に九州の近現代建築を巡礼した旅行で、この聖堂を訪れた時の記憶が蘇ってきた。坂に囲まれた街、長崎そのままに急な坂道を汗を飛ばしながら登り切ると、視界が開け公園が広がり、見上げると青空切り裂くように二本の尖塔が力強く伸びていた。様々な大きさに砕かれた陶磁片モザイクタイルによる外装も印象的であったが、やはりインパクトを受けたのは長崎の空に屹立した尖塔である。この時は、その特異な造形から今井が敬愛していたガウディのサグラダ・ファミリア聖堂の塔にオマージュしたものと思い込んでいたが、今回の展覧会に飾られたテンブムのヘガリット教会のコンテ・スケッチを見て、この教会を挟んで突き出た二本の尖塔のシルエットに大きく影響されているように感じた。
二十六聖人殉教記念館(長崎1962)
ヘガリット教会には、早稲田で今井の一年先輩であった村野藤吾もストックホルム市庁舎同様に激しく感動し、欧州から後輩の今井へ宛てた便りで「『どうか私にも此の教会の作者のように才能を与え給え、どうか私の努力が死ぬまで枯れずに続くように導き給え』と祈った」と吐露し、絶賛している。(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 参照)後年、広島平和記念聖堂(1954)の設計コンペにおいて、ともに審査員を勤めた今井と村野、二人は戦前から教会建築をめぐって不思議な縁で結ばれていたようだ。二人がコンペの審査員を勤めた広島平和記念聖堂は紆余曲折を経て、村野が設計者となって完成させることになるのだが、完成時、雑誌の寄稿で今井は「信者でない村野さんの聖堂建築の才能についての希求は、カトリック信者の建築家の上をいっている」と述懐している。広島平和記念聖堂(1954)と26聖人殉教記念館(1962)、村野と今井がともに60代となる後半生で手掛けた聖堂建築は、その姿形こそ異なれど煉瓦目地の陰影や有機的な模様を織り成すモザイクタイルの壁面から、建築に手の痕跡を遺すべく配慮した両者の意匠心が輝き、近代主義(モダニズム)とは対極なロマンティシズムを漂わせている。
展覧会を観た後日、成城学園駅南口から程近いカトリック成城教会(1955)を訪れてみました。教育者として専念していた今井が長い沈黙を破って設計したこの教会は、竣功から50余年が過ぎていますが、コンクリート打放しの外壁とシンプルな切妻屋根の脇に鐘塔が屹立した佇まいには、教会らしい落ち着きと品の良さが感じられました。アプローチ側の妻部分に大きく穿たれた円形のステンドグラスと屋根の棟に立つ十字架が救いを求める人々や信者を迎えてくれているようです。聖堂内部はアーチ状の梁が連続する簡素な空間に、祭壇後部の十字架を円周状に飾る七つの星と脇のステンドグラスから導かれた自然光が射し込んで、祈りの場に相応しい荘厳さが漂っています。祭壇の十字架に向かい祈りを捧げると心が安らぎ、しばし年の瀬の煩わしさを忘れさせてくれました。
カトリック成城教会聖堂(成城学園1955)

祈りの造形に、カトリック信者の建築家今井兼次はどう向き合ったのか。その集大成が長崎、26聖人の殉教の丘に建つ記念館であったことは疑いようもない。この聖堂の仕事に傾けた情熱と献身は、スケッチや図面・模型のたぐいよりも建設の記録映画のなかで、ヘルメットを被ってモザイクタイルの貼り方を陣頭指揮している痩身の姿に明瞭に映し出されていた。記録映画を観終わった後、今井が30歳で初めて手掛けた早稲田大学図書館(1925)で語っていた建設現場のエピソードが頭に浮かんだ。それは玄関ホールに立つ六本の白亜の柱を塗り上げた左官職人の物語で、最後の一本の柱を仕上げる日の朝、職人が妻と三人の幼子を現場へ連れて来てホールの一隅に座らせ、家族に見守られながら最後の仕事を完成させた後、家族とともに自分が精魂込めて仕上げた六本の柱を眺めていた・・・(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 「光跡」/池原義郎著/新建築社/1995 参照)といういじらしくも感動的な逸話であった。「建築を一個人の作品ではなく、建設に関わった個々の労働と精神が有機的に統合して構成された作物」と認識していた今井らしいヒューマンな精神がそこにある。処女作の早稲田大学図書館(1925)から30余年を経て手掛けた26聖人殉教記念館(1962)は、職人の労働による手の痕跡や感触が色濃く顕われたヒューマン精神溢れる聖堂である。
参照文献
1)「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房発行/1975
2)「近代建築の目撃者」/佐々木宏編/新建築社発行/1977
3)「光跡ーモダニズムを開花させた建築家たち」/池原義郎著/新建築社発行/1995

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