<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	>
<channel>
	<title>ブログについて　about へのコメント</title>
	<atom:link href="http://www.archi-channel.com/about/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.archi-channel.com</link>
	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 17:01:14 +0000</pubDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.7.1</generator>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
		<item>
		<title>IGM より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-581</link>
		<dc:creator>IGM</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 18 May 2009 02:26:00 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-581</guid>
		<description>これまでに行われた建築家列伝の内容です。
第　１回／１０月１４日（土）／青木　　淳　　　　　　　　　　　　「建築にける不気味さ」
第　２回／１１月１１日（土）／山田　　守　　　　　　　　　　　　「ザッハリッヒ（即物的）な建築の真髄」
第　３回／１２月１４日（日）／吉武　泰水　　　　　　　　　　　　「建築計画学の本意について」

２００７年
第　４回／０１月２８日（日）／アルネ・ヤコブセン　　　　　　　　「デンマーク・デザインへの憧憬とその浮薄性」
第　５回／０２月２５日（日）／後藤　慶二　　　　　　　　　　　　「大正期が抱えた建築なるプロブレマティーク」
第　６回／０３月２５日（日）／ハンス・ホライン　　　　　　　　　「ラディカル・アーキテクトの顛末」
第　７回／０４月２９日（日）／森田　慶一　　　　　　　　　　　　「アルケオロジーとしての建築論」
第　８回／０５月２７日（日）／小堀　遠州　　　　　　　　　　　　「近世の達人　小堀遠州の功罪」
第　９回／０６月２３日（土）／ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロン　「ローカリズムという名のモデルニテ」
第１０回／０７月２９日（日）／村野　藤吾　　　　　　　　　　　　「ユートピアは技巧の上にあれ」
第１１回／０８月２６日（日）／エーロ・サーリネン　　　　　　　　「形而下なるモダニズムの行方」
第１２回／０９月３０日（日）／土浦　亀城　　　　　　　　　　　　「白きモダニズムの叛逆」
第１３回／１０月２８日（日）／原　　広司　　　　　　　　　　　　「論理としての建築、然れど芸術の奔放さ」
第１４回／１１月２５日（日）／鈴木　了二　　　　　　　　　　　　「モダニズムの亡霊、礼讃！」
第１５回／１２月２３日（日）／今　和次郎　　　　　　　　　　　　「真のリベラリスト、今和次郎」

２００８年
第１６回／０１月２７日（日）／ジュリオ・ロマーノ　　　　　　　　「マニエリスムのメタモルフォーゼ」
第１７回／０２月２４日（日）／ヨハネス・ダウカー　　　　　　　　「ファンクショナリズムの空転」
第１８回／０３月３０日（日）／俊乗房重源　　　　　　　　　　　　「大仏様 vs 禅宗様の結末」
第１９回／０４月２９日（日）／川喜田煉七郎　　　　　　　　　　　「オートマティズムの成れの果て」
第２０回／０５月２５日（日）／ピーター・ズントー
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＆シーグルド・レヴェレンツ「積層美学の崇高性について」
第２１回／０６月２９日（日）／レオン・バッティスタ・アルベルティ「批判的理論主義に向けて」
第２２回／０７月２７日（日）／谷口　吉郎　　　　　　　　　　　　「建築の意匠心」
第２３回／０８月２４日（日）／板垣　鷹穂　　　　　　　　　　　　「建築評論史と其の課題」
第２４回／０９月２８日（日）／ヘルマン・ヘルツベルハ−　　　　　「人間が存在する空間の秩序」
第２５回／１０月２５日（土）／今井　兼次　　　　　　　　　　　　「アルチザンとしての建築」
第２６回／１１月２３日（日）／アンドレア・パラディオ　　　　　　「建築における仮面性の獲得」
最終　回／１２月２７日（土）／岸田日出刀　　　　　　　　　　　　「建築家の正道とは」</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>これまでに行われた建築家列伝の内容です。<br />
第　１回／１０月１４日（土）／青木　　淳　　　　　　　　　　　　「建築にける不気味さ」<br />
第　２回／１１月１１日（土）／山田　　守　　　　　　　　　　　　「ザッハリッヒ（即物的）な建築の真髄」<br />
第　３回／１２月１４日（日）／吉武　泰水　　　　　　　　　　　　「建築計画学の本意について」</p>
<p>２００７年<br />
第　４回／０１月２８日（日）／アルネ・ヤコブセン　　　　　　　　「デンマーク・デザインへの憧憬とその浮薄性」<br />
第　５回／０２月２５日（日）／後藤　慶二　　　　　　　　　　　　「大正期が抱えた建築なるプロブレマティーク」<br />
第　６回／０３月２５日（日）／ハンス・ホライン　　　　　　　　　「ラディカル・アーキテクトの顛末」<br />
第　７回／０４月２９日（日）／森田　慶一　　　　　　　　　　　　「アルケオロジーとしての建築論」<br />
第　８回／０５月２７日（日）／小堀　遠州　　　　　　　　　　　　「近世の達人　小堀遠州の功罪」<br />
第　９回／０６月２３日（土）／ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロン　「ローカリズムという名のモデルニテ」<br />
第１０回／０７月２９日（日）／村野　藤吾　　　　　　　　　　　　「ユートピアは技巧の上にあれ」<br />
第１１回／０８月２６日（日）／エーロ・サーリネン　　　　　　　　「形而下なるモダニズムの行方」<br />
第１２回／０９月３０日（日）／土浦　亀城　　　　　　　　　　　　「白きモダニズムの叛逆」<br />
第１３回／１０月２８日（日）／原　　広司　　　　　　　　　　　　「論理としての建築、然れど芸術の奔放さ」<br />
第１４回／１１月２５日（日）／鈴木　了二　　　　　　　　　　　　「モダニズムの亡霊、礼讃！」<br />
第１５回／１２月２３日（日）／今　和次郎　　　　　　　　　　　　「真のリベラリスト、今和次郎」</p>
<p>２００８年<br />
第１６回／０１月２７日（日）／ジュリオ・ロマーノ　　　　　　　　「マニエリスムのメタモルフォーゼ」<br />
第１７回／０２月２４日（日）／ヨハネス・ダウカー　　　　　　　　「ファンクショナリズムの空転」<br />
第１８回／０３月３０日（日）／俊乗房重源　　　　　　　　　　　　「大仏様 vs 禅宗様の結末」<br />
第１９回／０４月２９日（日）／川喜田煉七郎　　　　　　　　　　　「オートマティズムの成れの果て」<br />
第２０回／０５月２５日（日）／ピーター・ズントー<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＆シーグルド・レヴェレンツ「積層美学の崇高性について」<br />
第２１回／０６月２９日（日）／レオン・バッティスタ・アルベルティ「批判的理論主義に向けて」<br />
第２２回／０７月２７日（日）／谷口　吉郎　　　　　　　　　　　　「建築の意匠心」<br />
第２３回／０８月２４日（日）／板垣　鷹穂　　　　　　　　　　　　「建築評論史と其の課題」<br />
第２４回／０９月２８日（日）／ヘルマン・ヘルツベルハ−　　　　　「人間が存在する空間の秩序」<br />
第２５回／１０月２５日（土）／今井　兼次　　　　　　　　　　　　「アルチザンとしての建築」<br />
第２６回／１１月２３日（日）／アンドレア・パラディオ　　　　　　「建築における仮面性の獲得」<br />
最終　回／１２月２７日（土）／岸田日出刀　　　　　　　　　　　　「建築家の正道とは」</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-439</link>
		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 10 Apr 2009 01:02:57 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-439</guid>
		<description>●新建築住宅特集４月号・雑感●

遅くなりましたが、４月号の雑評です。
今号は、新建築１月号でも取り上げられていた東京ガスによるSUMIKA PROJECTが臨時増刊となって発売されていたことが宣伝されていたのですが、さして臨時増刊にする企図の見つからない住宅であり、企業の顔に迎合した４名（伊東、藤森、西澤、藤本）のオプティカルなる技芸（技術とか自然という言葉の名を借りた遊戯）としか感じませんでした・・・所謂、真の意味での哲学と建築の力が伝わってこない・・・ということです。
そのひとりである藤本壮介の建築の考えを青木淳が語りかけるという「いま、住宅をつくるときに考えること」で藤本氏は最後に「根源的だけれども、同時にたくさんの可能性を切り開いてゆく、すごくリアルだけど、今までになかったもの、そういう風に建築を考えていきたいと思っています。」と締めくくった。彼のプロジェクトにはイメージがすごく最優先に働いているというか、・・・純粋にアノニマス観（匿名性）に迎合している。その源が廃虚や集落の原型となるものを現実にいかにその機能（生活であるがここでは行為）や空間を残滓させ、構築させるのかということにあり、本人がいうような思ってみなかったものというのは虚偽であって、一過性はあっても時代性に依拠したものは感じられなく、根本的に「大文字の建築」という観点では欠除していると思われた。しかし、彼の表情は常に楽しげで気持ちがよい（前向きな姿勢）まじめな観が漂っていて好感がもてるのだが、やはり彼にビジョンを託すことは無理のようだ・・・と思えてしまう。

さて、今回も辛いのだが、掲載されている住宅作品について、御丁寧に一言二言します。
■作品
吉岡寛之＆飯山千里「高台の家」：○／ここでは、座談で谷口吉生事務所にいた高宮さんの言葉「緊張感とその設計感覚の意識」ということをアドバイスされていましたが、空間の中心に設えられた柱（オーナーが焼き目を入れた生の大木）の存在が民家にある大黒柱的なるものではなく貧弱な装飾品としか見られないのは残念ではあったが、小さいながらも空間の連続観とスキップ観がシンプルに結合され、傾斜地の醍醐味を先の藤本氏みたいな大上段で表現されていないところにこの家の存在価値を見ている。
庄司寛「守谷の家」：×／このひとの性格や表現、趣味からして、わたしとはまるっきし反対であろうと感じる作品である。余分な、または余計な、そして無駄な斜め線が見苦しく感じてしまうのである。オープンな開口も綺麗だとは思わないんだがなあ。
石川淳「OUCHI-06」：×／逆にこちらは大いに興味を抱いたのだが、残念ながら外観の窓の表現を見る限り、北欧系の住宅の亜流としか見れない、どうしてあのような窓（たすきがけ）とするのか・・・トータルな意味においてアーキテクトの存在とここに掲載される企図が問われる。
三浦慎「山の家」：○／最近よく使われている構法（門型に組んだ）ではあるが、若干、眺望のよい向きにパースペクティブに開いた平面といい、傾斜地に置かれた佇まいといい、こちらも空間の連続観がヒューマンでよい。
アトリエ・ワン「ポニー・ガーデン」：○／三角形の小さな建物ではあるが腰折れ屋根の形状を生かしたデザインが輝った。飼っているポニーとの距離が近い目線で設計されていることが空間から読み取れて好感がもてる。
服部信康「はっぴぃさん」：△／こちらは平坦な敷地に四角いマスの中にスキップしたスラブを内包させ連続した空間を創出しようとしているのだろうが、断面パースからは複雑なということが多様なということに置き換えられただけのものしか伝わってこなかった。タイトルの「はっぴぃさん」、これも楽しい空間をつくろうとしているというよりも形式的なところ（虚構）に依拠した行為であると思われてしょうがない。そんなに楽しいことがいいのだろうか？否、幸福ってことか？
河口佳介「瀬戸内の家」：×／この住宅からは、風景の強奪としか受容できなかった。コルが発見した連窓も同義とか感じるのであるが、技術が進歩した結果がこれだと言わんばかりである。・・・要するにそれだけである。なにも享受できるもはないと断言できる、少なくともわたしには。
三幣順一「Dncing Living House」：△／この住宅はレム・コールハースへのオマージュ（「カーサ・ダ・ムジカ（音楽ホール）」なのだろうか？つまりは、当初住宅として計画されたデザイン（形態）をレムはスケールを拡大して音楽ホールとして実現したのであるが、この作品は当初案としてオマージュしたもの・・・として解釈してくれと言っているようである。中身はともかく、誰もがその後の状況を心配するのだろうが、羞恥心というものを感じないところが潔いと評価してしまう。
飯塚拓生「キッチンのない家」：△／キッチンという厄介な場所がない分、かなりデザインの自由度が増すと思い気や外観から受ける印象は複雑なプランや構造で、そのタイトルとは似つかわしい作品となってしまっているといえよう。
奥山信一「明野のアトリエ住居」：△／視線の視覚化と架構のレギュレーションが上手く嵌り過ぎていると感じてしまう。淫麼なる空間の臭いが感じないのは大学教授という性からくるものだろうか。
眞田大輔「森の住処」：△／何やら良い作品を見せられているような気もするのだが、どこか北欧の建築で見たことがあるような臭いと、その形式的な空間の硬さ（北欧の生活感からくるものではない）が満ちあふれていて、他人行事に見えてしょうがない。外観は完全に木造のようでいて、内部にコンクリートの壁が剥き出しにでてくるのも構造家のケチなエゴが見て取れてしまう。
ヨコヤマダ設計事務所「House O」：○／タウトのように住宅に色彩の実験を試みていることは面白いと思ったが、スリット状の空洞がトータルな意味を作品から投げかけてこないのは残念であり、外観の手抜きは甚だしい。要するに部分から全体に及んでいないということであり、イメージだけでは、こんなものでしょう！
竹原義二「小倉町の家」：ベテランであるし、それなりの費用の高価な家の設計に手慣れている竹原さんならではの作品であるが、わたしは前から彼の作品には否定的であった、というのは和風の捉え方に対してであったのだが、今回はちょっと異なる面を見たように思う。それは「和風美」ではなく「架構美」が露呈されたからなのだろうか。やはり「ヴィオレ・ル・デュクの理論と美」は核心をついていると感じいる。

その他、「建築家自邸からの家学び」の山本理顕の「GAZEBO」では「一家族一住宅ではない暮らし」で座談会をしていたのだが、建築家諸氏の話す分析的な発言の内容からして、この企画の意図が見え隠れしていてあまり迫ってくるものを感じなかった。

以上
各作品について勝手放題なことを言ってしまったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。

各住宅の画像は下記を参考に
http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>●新建築住宅特集４月号・雑感●</p>
<p>遅くなりましたが、４月号の雑評です。<br />
今号は、新建築１月号でも取り上げられていた東京ガスによるSUMIKA PROJECTが臨時増刊となって発売されていたことが宣伝されていたのですが、さして臨時増刊にする企図の見つからない住宅であり、企業の顔に迎合した４名（伊東、藤森、西澤、藤本）のオプティカルなる技芸（技術とか自然という言葉の名を借りた遊戯）としか感じませんでした・・・所謂、真の意味での哲学と建築の力が伝わってこない・・・ということです。<br />
そのひとりである藤本壮介の建築の考えを青木淳が語りかけるという「いま、住宅をつくるときに考えること」で藤本氏は最後に「根源的だけれども、同時にたくさんの可能性を切り開いてゆく、すごくリアルだけど、今までになかったもの、そういう風に建築を考えていきたいと思っています。」と締めくくった。彼のプロジェクトにはイメージがすごく最優先に働いているというか、・・・純粋にアノニマス観（匿名性）に迎合している。その源が廃虚や集落の原型となるものを現実にいかにその機能（生活であるがここでは行為）や空間を残滓させ、構築させるのかということにあり、本人がいうような思ってみなかったものというのは虚偽であって、一過性はあっても時代性に依拠したものは感じられなく、根本的に「大文字の建築」という観点では欠除していると思われた。しかし、彼の表情は常に楽しげで気持ちがよい（前向きな姿勢）まじめな観が漂っていて好感がもてるのだが、やはり彼にビジョンを託すことは無理のようだ・・・と思えてしまう。</p>
<p>さて、今回も辛いのだが、掲載されている住宅作品について、御丁寧に一言二言します。<br />
■作品<br />
吉岡寛之＆飯山千里「高台の家」：○／ここでは、座談で谷口吉生事務所にいた高宮さんの言葉「緊張感とその設計感覚の意識」ということをアドバイスされていましたが、空間の中心に設えられた柱（オーナーが焼き目を入れた生の大木）の存在が民家にある大黒柱的なるものではなく貧弱な装飾品としか見られないのは残念ではあったが、小さいながらも空間の連続観とスキップ観がシンプルに結合され、傾斜地の醍醐味を先の藤本氏みたいな大上段で表現されていないところにこの家の存在価値を見ている。<br />
庄司寛「守谷の家」：×／このひとの性格や表現、趣味からして、わたしとはまるっきし反対であろうと感じる作品である。余分な、または余計な、そして無駄な斜め線が見苦しく感じてしまうのである。オープンな開口も綺麗だとは思わないんだがなあ。<br />
石川淳「OUCHI-06」：×／逆にこちらは大いに興味を抱いたのだが、残念ながら外観の窓の表現を見る限り、北欧系の住宅の亜流としか見れない、どうしてあのような窓（たすきがけ）とするのか・・・トータルな意味においてアーキテクトの存在とここに掲載される企図が問われる。<br />
三浦慎「山の家」：○／最近よく使われている構法（門型に組んだ）ではあるが、若干、眺望のよい向きにパースペクティブに開いた平面といい、傾斜地に置かれた佇まいといい、こちらも空間の連続観がヒューマンでよい。<br />
アトリエ・ワン「ポニー・ガーデン」：○／三角形の小さな建物ではあるが腰折れ屋根の形状を生かしたデザインが輝った。飼っているポニーとの距離が近い目線で設計されていることが空間から読み取れて好感がもてる。<br />
服部信康「はっぴぃさん」：△／こちらは平坦な敷地に四角いマスの中にスキップしたスラブを内包させ連続した空間を創出しようとしているのだろうが、断面パースからは複雑なということが多様なということに置き換えられただけのものしか伝わってこなかった。タイトルの「はっぴぃさん」、これも楽しい空間をつくろうとしているというよりも形式的なところ（虚構）に依拠した行為であると思われてしょうがない。そんなに楽しいことがいいのだろうか？否、幸福ってことか？<br />
河口佳介「瀬戸内の家」：×／この住宅からは、風景の強奪としか受容できなかった。コルが発見した連窓も同義とか感じるのであるが、技術が進歩した結果がこれだと言わんばかりである。・・・要するにそれだけである。なにも享受できるもはないと断言できる、少なくともわたしには。<br />
三幣順一「Dncing Living House」：△／この住宅はレム・コールハースへのオマージュ（「カーサ・ダ・ムジカ（音楽ホール）」なのだろうか？つまりは、当初住宅として計画されたデザイン（形態）をレムはスケールを拡大して音楽ホールとして実現したのであるが、この作品は当初案としてオマージュしたもの・・・として解釈してくれと言っているようである。中身はともかく、誰もがその後の状況を心配するのだろうが、羞恥心というものを感じないところが潔いと評価してしまう。<br />
飯塚拓生「キッチンのない家」：△／キッチンという厄介な場所がない分、かなりデザインの自由度が増すと思い気や外観から受ける印象は複雑なプランや構造で、そのタイトルとは似つかわしい作品となってしまっているといえよう。<br />
奥山信一「明野のアトリエ住居」：△／視線の視覚化と架構のレギュレーションが上手く嵌り過ぎていると感じてしまう。淫麼なる空間の臭いが感じないのは大学教授という性からくるものだろうか。<br />
眞田大輔「森の住処」：△／何やら良い作品を見せられているような気もするのだが、どこか北欧の建築で見たことがあるような臭いと、その形式的な空間の硬さ（北欧の生活感からくるものではない）が満ちあふれていて、他人行事に見えてしょうがない。外観は完全に木造のようでいて、内部にコンクリートの壁が剥き出しにでてくるのも構造家のケチなエゴが見て取れてしまう。<br />
ヨコヤマダ設計事務所「House O」：○／タウトのように住宅に色彩の実験を試みていることは面白いと思ったが、スリット状の空洞がトータルな意味を作品から投げかけてこないのは残念であり、外観の手抜きは甚だしい。要するに部分から全体に及んでいないということであり、イメージだけでは、こんなものでしょう！<br />
竹原義二「小倉町の家」：ベテランであるし、それなりの費用の高価な家の設計に手慣れている竹原さんならではの作品であるが、わたしは前から彼の作品には否定的であった、というのは和風の捉え方に対してであったのだが、今回はちょっと異なる面を見たように思う。それは「和風美」ではなく「架構美」が露呈されたからなのだろうか。やはり「ヴィオレ・ル・デュクの理論と美」は核心をついていると感じいる。</p>
<p>その他、「建築家自邸からの家学び」の山本理顕の「GAZEBO」では「一家族一住宅ではない暮らし」で座談会をしていたのだが、建築家諸氏の話す分析的な発言の内容からして、この企画の意図が見え隠れしていてあまり迫ってくるものを感じなかった。</p>
<p>以上<br />
各作品について勝手放題なことを言ってしまったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。</p>
<p>各住宅の画像は下記を参考に<br />
<a href="http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html" rel="nofollow">http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</a></p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-191</link>
		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Mar 2009 08:15:36 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-191</guid>
		<description>●新建築住宅特集３月号・雑感●

今号は、実現された作品に対して二つの賞の発表が掲載されている。いま各地で行われている卒業製作言わば、ディプロマも嘗てのわたしたちの時代からは考えられないくらい建築家（大学教授も兼ねているひとが多いからなのだろうか）が関心の的としてイベントやらで担ぎだされ、熱心に且つ饒舌に学生の作品に対して意見を述べている。なんだか麻生総理ではないが「さもしい」否、「寂しい」気がしてしようがない。それはプロの作品を批評することができない大人の身勝手な学生いじめとしか言い様がないようにも見えてしまう。そんなこんなで賞についても実に平準化した審査で作品が選択されている。ひとつめの快適住宅TEPCO、それに２５回も継続してきた吉岡賞どれをとっても、というか誰がとっても、というか誰が審査しても・・・これといってすばらしいとは思えないのであり、わたしも作る側という立場からして、虚無観に憶い悩まさられる、一方で高望みをしてもしょうがないと言われそうだが、根本的に建築をつくる姿勢は大いに買うのではあるが、浮薄な思想（ポリシー）、またはそのことを曲解し逃避していては・・・恐らく建築は筈べく行為となってしまいかねないだろう。この賞を獲得したひとの作品について批評するというよりも審査した、年輩の木下壽子と北山恒への選択理由を批評するという逆説的な問いかけがなければ、以後の建築の力はどんどん崩落の一途を辿るのであろう・・・と卒業設計の講評会についても言えようことなど・・・思った次第である。

ところで、今回も住宅作品について一言二言。
■作品
武富恭美「愛宕の山荘」：△／人筆書き（「の」の字プラン）による外部と内部の貫入と一体的な環境を求めたいという気持ちはわかるが、巧みで気持ちよさそうな技量の他に何か建築家の署名が薄い作品と見えた。
内藤廣「住居Ｎｏ３４」：△／大建築家となられた内藤さんの大胆さが消え保守的な側面（ディテールや空間の雰囲気）が伺えてきた作品としか言いようがないのだが、最近のモダニズム再考に担ぎ出されたのも一因なのかもしれない。
アカサカシンイチロウアトリエ「オレセン・ノイエ」：×／面白い提案のようにも見えたが、これこそ新進の建築家がお題目のようにしていう「思ってもみない空間」の創出の駄作とみた。というかしか見えない、なにも新しいことなぞない。
オクトーバ−（上田知正＋中川陽子＋児玉遼）「NOVELA」：△／コラムに登場している上田知正さんの「ノンポリ化」というのはこういう住宅の表象を問うのであって、決して見え隠れなんぞを論理的にかざしてジグザク・エレベーションを露呈することではないように思う、だからこういうひとはアートのできそこないとしか大雑把には見てくれないということ・・・それがノンポリなんですよ！
山縣洋「YG」：○／これは前作と違って大人の建築であろうと感じた。同じキャンティレバーの住宅がTEPCOの優秀賞にあったが、こちらの方が全面的な開放に拘泥していない分、建築の環境や内部の空間との呼応が、よっぽど気持ちよく感じた。やはりトップライトと屋根・庇の大きなはねだしと、バルコニーの立ち上がりとによる切り取られたアーティスティックな景色がいい。
粕谷淳司＋粕谷奈緒子「青梅の家（T邸）」：△／こちらは逆に全面開放の気持ち良い・・・？？？である。階段から屋上にかけてのデザイン的処理が屋根の形状も含めて甘いし、サッシのマリオンを木製でカヴァ−した工法（ビル的）も住宅のイメージにそぐわないと感じた。
石田敏明「KUハウス」：△／石田さんというベテランでも条件しだいではこのように対処されるということ、それに建築的プロムナードや窓という限られた範囲でのデザインワークには寂しいものを感じる。
川島克也「東雲の家」：△／これも大きな開口をともなった大邸宅である。頂上であるアプローチと傾斜した下部の諸室との関係が住宅スケールではないことと、スケールを凌駕し抽象化を実現するでもなし・・・ということで日建設計のテクネが生かされた住宅ということなのであろう・・・それだけでした。
坂本昭「百楽園の家」：○／相変わらず、白い住宅は健在であるとみてしまう。本来ならリチャード・マイヤーのように飽きられるのが落ちであろうが、ここに掲載された他の作品の貧弱さがこれを善とさせてしまうのはなぜだろうか？基本的にはメキシコのアルベルト・カラチの空間構成的美を感じるし、ディテールの処理も中途半端な姿勢は見せていない。要するに立ち位置がブレていない。しかし若手の建築家諸君はこれに意義を唱えるのであろうが、ノンポリなひとにはわからないんだろうなあ、これを批評できるのはごく少数であろう、これが寂しいのである。
　　　「洛北の家」：○／こちらの住宅は川島氏と同等に高価そうであるが、モダニズムの純度を増す方向に苦慮したことが伺える・・・というか１９３０年代のモダニストのレベルを復活させているというか接近させている。３階のキャンティレヴァ−の囲い壁は単に見晴らしの良い空間を創出するだけではない建築的思慮深さを感じる。
鈴木エドワード「美術館のような家」：△／このひとらしいユニークな発想の住宅である。ただ、美術館のような空間といわれてもストイックにならないのが良いがやはり住宅というか生活空間が重苦しく感じてしまう。
田井勝馬「保土ヶ谷の家」：△／これも人筆断面の発想だろうが、いまでは見え見えの方法論であり、それをしてストイックに造ることが新しいなんぞは、全然感じとれない。安易に風景と言ってほしくない。まあ、環境もだが。
村松一「M&amp;G House」：○／この住宅の良さは、住人の顔が外観や空間から見えてくるからである。まあ難しい言葉で言えば「実存的空間」、わかりやすく言えば「合理的でない存在の証し」を感じさせてくれる。きっと延び延びとした生活や体験をこの住居から学びとってゆくことができよう。

以上
やはり総じて可もなく不可もなく・・・という結果になってしまった。いつも勝手放題なことを言ってしまったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。

各住宅の画像は下記を参考に
http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>●新建築住宅特集３月号・雑感●</p>
<p>今号は、実現された作品に対して二つの賞の発表が掲載されている。いま各地で行われている卒業製作言わば、ディプロマも嘗てのわたしたちの時代からは考えられないくらい建築家（大学教授も兼ねているひとが多いからなのだろうか）が関心の的としてイベントやらで担ぎだされ、熱心に且つ饒舌に学生の作品に対して意見を述べている。なんだか麻生総理ではないが「さもしい」否、「寂しい」気がしてしようがない。それはプロの作品を批評することができない大人の身勝手な学生いじめとしか言い様がないようにも見えてしまう。そんなこんなで賞についても実に平準化した審査で作品が選択されている。ひとつめの快適住宅TEPCO、それに２５回も継続してきた吉岡賞どれをとっても、というか誰がとっても、というか誰が審査しても・・・これといってすばらしいとは思えないのであり、わたしも作る側という立場からして、虚無観に憶い悩まさられる、一方で高望みをしてもしょうがないと言われそうだが、根本的に建築をつくる姿勢は大いに買うのではあるが、浮薄な思想（ポリシー）、またはそのことを曲解し逃避していては・・・恐らく建築は筈べく行為となってしまいかねないだろう。この賞を獲得したひとの作品について批評するというよりも審査した、年輩の木下壽子と北山恒への選択理由を批評するという逆説的な問いかけがなければ、以後の建築の力はどんどん崩落の一途を辿るのであろう・・・と卒業設計の講評会についても言えようことなど・・・思った次第である。</p>
<p>ところで、今回も住宅作品について一言二言。<br />
■作品<br />
武富恭美「愛宕の山荘」：△／人筆書き（「の」の字プラン）による外部と内部の貫入と一体的な環境を求めたいという気持ちはわかるが、巧みで気持ちよさそうな技量の他に何か建築家の署名が薄い作品と見えた。<br />
内藤廣「住居Ｎｏ３４」：△／大建築家となられた内藤さんの大胆さが消え保守的な側面（ディテールや空間の雰囲気）が伺えてきた作品としか言いようがないのだが、最近のモダニズム再考に担ぎ出されたのも一因なのかもしれない。<br />
アカサカシンイチロウアトリエ「オレセン・ノイエ」：×／面白い提案のようにも見えたが、これこそ新進の建築家がお題目のようにしていう「思ってもみない空間」の創出の駄作とみた。というかしか見えない、なにも新しいことなぞない。<br />
オクトーバ−（上田知正＋中川陽子＋児玉遼）「NOVELA」：△／コラムに登場している上田知正さんの「ノンポリ化」というのはこういう住宅の表象を問うのであって、決して見え隠れなんぞを論理的にかざしてジグザク・エレベーションを露呈することではないように思う、だからこういうひとはアートのできそこないとしか大雑把には見てくれないということ・・・それがノンポリなんですよ！<br />
山縣洋「YG」：○／これは前作と違って大人の建築であろうと感じた。同じキャンティレバーの住宅がTEPCOの優秀賞にあったが、こちらの方が全面的な開放に拘泥していない分、建築の環境や内部の空間との呼応が、よっぽど気持ちよく感じた。やはりトップライトと屋根・庇の大きなはねだしと、バルコニーの立ち上がりとによる切り取られたアーティスティックな景色がいい。<br />
粕谷淳司＋粕谷奈緒子「青梅の家（T邸）」：△／こちらは逆に全面開放の気持ち良い・・・？？？である。階段から屋上にかけてのデザイン的処理が屋根の形状も含めて甘いし、サッシのマリオンを木製でカヴァ−した工法（ビル的）も住宅のイメージにそぐわないと感じた。<br />
石田敏明「KUハウス」：△／石田さんというベテランでも条件しだいではこのように対処されるということ、それに建築的プロムナードや窓という限られた範囲でのデザインワークには寂しいものを感じる。<br />
川島克也「東雲の家」：△／これも大きな開口をともなった大邸宅である。頂上であるアプローチと傾斜した下部の諸室との関係が住宅スケールではないことと、スケールを凌駕し抽象化を実現するでもなし・・・ということで日建設計のテクネが生かされた住宅ということなのであろう・・・それだけでした。<br />
坂本昭「百楽園の家」：○／相変わらず、白い住宅は健在であるとみてしまう。本来ならリチャード・マイヤーのように飽きられるのが落ちであろうが、ここに掲載された他の作品の貧弱さがこれを善とさせてしまうのはなぜだろうか？基本的にはメキシコのアルベルト・カラチの空間構成的美を感じるし、ディテールの処理も中途半端な姿勢は見せていない。要するに立ち位置がブレていない。しかし若手の建築家諸君はこれに意義を唱えるのであろうが、ノンポリなひとにはわからないんだろうなあ、これを批評できるのはごく少数であろう、これが寂しいのである。<br />
　　　「洛北の家」：○／こちらの住宅は川島氏と同等に高価そうであるが、モダニズムの純度を増す方向に苦慮したことが伺える・・・というか１９３０年代のモダニストのレベルを復活させているというか接近させている。３階のキャンティレヴァ−の囲い壁は単に見晴らしの良い空間を創出するだけではない建築的思慮深さを感じる。<br />
鈴木エドワード「美術館のような家」：△／このひとらしいユニークな発想の住宅である。ただ、美術館のような空間といわれてもストイックにならないのが良いがやはり住宅というか生活空間が重苦しく感じてしまう。<br />
田井勝馬「保土ヶ谷の家」：△／これも人筆断面の発想だろうが、いまでは見え見えの方法論であり、それをしてストイックに造ることが新しいなんぞは、全然感じとれない。安易に風景と言ってほしくない。まあ、環境もだが。<br />
村松一「M&amp;G House」：○／この住宅の良さは、住人の顔が外観や空間から見えてくるからである。まあ難しい言葉で言えば「実存的空間」、わかりやすく言えば「合理的でない存在の証し」を感じさせてくれる。きっと延び延びとした生活や体験をこの住居から学びとってゆくことができよう。</p>
<p>以上<br />
やはり総じて可もなく不可もなく・・・という結果になってしまった。いつも勝手放題なことを言ってしまったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。</p>
<p>各住宅の画像は下記を参考に<br />
<a href="http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html" rel="nofollow">http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</a></p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-139</link>
		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 22 Feb 2009 01:11:38 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-139</guid>
		<description>岩波書店から出ている『思想』という硬派な雑誌の巻頭に伊東豊雄氏のテクストが掲
載されています。
あまり縁のない雑誌だからこそ建築家の言葉が響いてくるのでしょうが、伊東さんの
言葉には現状打破は数行であり、殆どが「市民のために」という空念仏と化した昨今
の建築家のモラルを滔々と謳っている。コンピューターの構造解析の発達が今後の建
築の行方を担うとは・・・これまた空念仏としか聞こえてこない。すでに進展してこ
の様であるからである。どうですか？伊東様・・・と言いたい。

誰のために現代建築はつくられるのか

伊東　豊雄
　一九二九年以来の大恐慌と言われる世界的経済危機に直面して、北京オリンピックははるか彼方に去った。あの華麗なセレモニーのTV中継に世界の人々が魅了されたのも遠い過去の出来事と化し、私達の記憶のなかでそれは真夏の夜の夢の如くに残っている。もしかしてあれは壮大なフィクションでしかなかったのではないか。映像の一部がコンピューターグラフィックスに過ぎなかったという事実が、虚実の境界の曖昧さを象徴的に物語る。

　オリンピックの開催と同じ時期、東京ではメイン会場となったスタジアム「鳥の巣」のドキュメンタリー映画（『鳥の巣：北京のヘルツォーク＆ド・ムーロン』クリストフ・シャウプ＆ミヒャエル・シントヘルム監督）が上映されていた。設計者である二人のスイス人建築家、ジャック・ヘルツォークとピエール・ド・ムーロンがこの国家的プロジェクトのコンペティションに勝ってから実現に到る過程が描かれている。

　 通常この種のドキュメンタリーは、設計や施工過程での困難と、それを克服する技術力のアピールに終始し勝ちであるが、ヨーロッパ人の監督によって製作されたこともあって、この映画では国家主義体質のクライアントと西欧流デモクラシーのモラルを振りかざす建築家の言動との奇妙なズレがクローズアップされていた。

　 コミカルなシーンがある。起工式のセレモニーで市や政府要人達が手に手にスコップを携えて誇らし気に式典に臨んでいる傍らで置き去りにされた建築家が「オレは設計者だぞ」と呟きながらウロウロしているシーンである。北京市や中央政府にとって、オリンピックという祭典は、中国の経済力や技術力、発展する国威を世界に向けてアピールしようとする絶好の機会である。彼らにとって建築家はその野望を達成するための手足程度の認識しかないのである。

　またこの巨大プロジェクトを超短期間で完成させるために、国内各地から集められた夥しい数の労働者が現場で働く姿も印象的である。ぶっかけ汁一杯のために長い列をなし、危険な高所作業に従事する労働者達、その様子は戦国時代の築城風景と何等変わらないではないか……。

　 しかし事ある毎に二人の建築家は、この施設は国家のためではなく、市民のための開かれたスタジアムであると主張し続ける。だが主張すればする程に言葉は浮き上って空疎に響く。国家的事業を目前にしたクライアントにとってそんな言葉はおよそ戯言にしか聞こえないからである。これまで建築家がお題目のように唱えてきた「市民のため」という社会的モラルは一体誰に向けられているのか。



　 「鳥の巣」がオリンピック終了後どのように使われているかは定かでない。しかし北京と同じ築城風景は世界の各地で続いている。とりわけオイルマネーで潤う中東のドバイやアブダビ、ドーハといった都市で起こっている建設ラッシュは人類史上例のない凄まじさである。酷暑の砂漠であった土地に猛烈なスピードで高層ビルが建てられる。高さを競い合うオフィスビル、豪奢の限りを尽くすホテル群、巨大なショッピングモールや空港、大規模な美術館等の文化施設も次々に計画されている。

　砂漠のなかに蜃気楼のように建ち上がる都市、その実現のために世界各地から著名な建築家が群がっている。建築家にとって、ここは自らの夢を想いのままに実現しうるパラダイスなのである。巨大な経済力をバックに、建築家の想像力を利用して権威を可視化しようと試みる資本家達……。

　 資本の流れやストックが益々不可視なものとなっている今日、資本家の夢をヴィジュアライズしてくれるのが建築家だとすれば、その構図は王侯貴族のために身を捧げたルネサンスやバロック期の芸術家達と何ら変わらない。

　 しかし中東において夢のようなプロジェクトをデザインしている建築家達も、もし彼らが誰のために、そしてどのような目的のためにデザインするのかと問われれば、きっと「鳥の巣」の建築家と同じように答えるに違いない。市民の居住環境を改善するためであり、市民の教育文化に貢献するためである、と……。大義名分はいかようにも唱えることができる。だがそうした発言がコミカルに聞こえてしまう程に、「市民のため」という言葉は空洞化してしまっている。そして何よりもその空虚さはプロジェクト自体に露わに示されている。

　例えば「鳥の巣」の建築は、建築家が主張する程、市民に対して開かれてはいない。「鳥の巣」を「鳥の巣」たらしめているあのスチールで網の目状に組まれたカゴのような外観は、コンピューター時代にふさわしい斬新な構造システムを想わせる。しかし多くの構造家達は、あれは単なる表層の表現に過ぎず、膨大な鉄の無駄使いだと語る。確かに網の目の内側には規則的に柱が立っていて、スタジアムの構造を成立させているのは主としてそれらの柱なのである。

　「鳥の巣」は中国の人々にとって分かりやすいシンボルではあったが、外観とは裏腹に内側にはきわめて凡庸でどこにでも見られるスタジアムがすっぽりと収まっていた。私は、「鳥の巣」でのイベントを見るたびに、妙に冷めた気持ちにならずにはいられなかった。ましてやドバイやアブダビでのプロジェクトは言うに及ばずである。ここには「市民のため」の建築が本質的に備えるべき何かが決定的に欠落している。



　 建築家が「市民のため」という大義名分を振りかざすのは、明らかにモダニズム建築の精神を踏襲しているからである。鉄筋コンクリートや鉄、ガラス等の工業製品や工業技術を用いて、明るく開放的な建築を「市民のため」に大量に供給しようと試みたのが初期モダニズムの建築であった。したがってモダニズムの提唱者にとって、社会改革への意思と建築の構造改革への意思は表裏一体であった。彼等は技術革新が社会の革新をもたらすことを確信していた。世界の人口が急増した二〇世紀において、モダニズムの建築は、ヨーロッパを中心として大量の建築を経済的に供給するという社会的使命を果たすことに大いに貢献した。

　 しかし近年アメリカを基点に世界を覆ったグローバリゼーションの波は社会主義的な構造改革を無力化してしまった。中国や中東諸国のような華やかさはないにしても、日本も状況は同じである。アメリカとヨーロッパの中間的なポジションを占めていた日本も、民営化という言葉の下でアメリカ型の市場経済に走った結果、「公共」概念をひたすら消失しつつある。それは我が国の公共建築の存在意義の消失とパラレルである。

　 多くの建築家は、相も変わらず「市民のため」と主張し続けるけれど、「公共」を問う場はきわめて限られてしまっている。

　 しかしそんな状況においてこそ、私達は建築家としてのモラルを問い直さなくてはならないように思う。建築家にとってモラルを問い直すとは、言葉よりもあるべき建築自体を問うことである。先に述べたように、空念仏のような「市民のため」なる言葉の空虚さは何よりも建築自体があからさまに語ってしまうからである。モダニズム建築は初期の透明な清浄さを失って、いまや虚飾に彩られた力の誇示のシンボルと化してしまっている。このような表層的な力の誇示程、初期モダニズムの精神が嫌悪したものはなかったはずである。

　 今日私達はモダニズムの建築言語とは異なる新しい言語を発見して再び変革の精神を築き直す必要に迫られている。「市民のため」という言葉が新鮮さを取り戻すためには、建築自体の抜本的な構造改革が必要なのだ。光明がない訳ではない。

　コンピューターテクノロジーの発展は新しい建築言語の発見を可能にしつつある。私達は二〇世紀よりもはるかに多様でダイナミックな建築の秩序を構築することが出来るし、はるかに複雑な構造解析が可能である。私達が生きている都市空間や社会は、二〇世紀とは比較にならない程複雑で精巧なものとなった。コミュニティのあり方もより複層的でダイナミックに変化し続けているし、自然環境との関係も精度の高いコントロールを求められている。このように激しく流動する社会に生きる現代の人々のために、建築の構造改革は求められている。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>岩波書店から出ている『思想』という硬派な雑誌の巻頭に伊東豊雄氏のテクストが掲<br />
載されています。<br />
あまり縁のない雑誌だからこそ建築家の言葉が響いてくるのでしょうが、伊東さんの<br />
言葉には現状打破は数行であり、殆どが「市民のために」という空念仏と化した昨今<br />
の建築家のモラルを滔々と謳っている。コンピューターの構造解析の発達が今後の建<br />
築の行方を担うとは・・・これまた空念仏としか聞こえてこない。すでに進展してこ<br />
の様であるからである。どうですか？伊東様・・・と言いたい。</p>
<p>誰のために現代建築はつくられるのか</p>
<p>伊東　豊雄<br />
　一九二九年以来の大恐慌と言われる世界的経済危機に直面して、北京オリンピックははるか彼方に去った。あの華麗なセレモニーのTV中継に世界の人々が魅了されたのも遠い過去の出来事と化し、私達の記憶のなかでそれは真夏の夜の夢の如くに残っている。もしかしてあれは壮大なフィクションでしかなかったのではないか。映像の一部がコンピューターグラフィックスに過ぎなかったという事実が、虚実の境界の曖昧さを象徴的に物語る。</p>
<p>　オリンピックの開催と同じ時期、東京ではメイン会場となったスタジアム「鳥の巣」のドキュメンタリー映画（『鳥の巣：北京のヘルツォーク＆ド・ムーロン』クリストフ・シャウプ＆ミヒャエル・シントヘルム監督）が上映されていた。設計者である二人のスイス人建築家、ジャック・ヘルツォークとピエール・ド・ムーロンがこの国家的プロジェクトのコンペティションに勝ってから実現に到る過程が描かれている。</p>
<p>　 通常この種のドキュメンタリーは、設計や施工過程での困難と、それを克服する技術力のアピールに終始し勝ちであるが、ヨーロッパ人の監督によって製作されたこともあって、この映画では国家主義体質のクライアントと西欧流デモクラシーのモラルを振りかざす建築家の言動との奇妙なズレがクローズアップされていた。</p>
<p>　 コミカルなシーンがある。起工式のセレモニーで市や政府要人達が手に手にスコップを携えて誇らし気に式典に臨んでいる傍らで置き去りにされた建築家が「オレは設計者だぞ」と呟きながらウロウロしているシーンである。北京市や中央政府にとって、オリンピックという祭典は、中国の経済力や技術力、発展する国威を世界に向けてアピールしようとする絶好の機会である。彼らにとって建築家はその野望を達成するための手足程度の認識しかないのである。</p>
<p>　またこの巨大プロジェクトを超短期間で完成させるために、国内各地から集められた夥しい数の労働者が現場で働く姿も印象的である。ぶっかけ汁一杯のために長い列をなし、危険な高所作業に従事する労働者達、その様子は戦国時代の築城風景と何等変わらないではないか……。</p>
<p>　 しかし事ある毎に二人の建築家は、この施設は国家のためではなく、市民のための開かれたスタジアムであると主張し続ける。だが主張すればする程に言葉は浮き上って空疎に響く。国家的事業を目前にしたクライアントにとってそんな言葉はおよそ戯言にしか聞こえないからである。これまで建築家がお題目のように唱えてきた「市民のため」という社会的モラルは一体誰に向けられているのか。</p>
<p>　 「鳥の巣」がオリンピック終了後どのように使われているかは定かでない。しかし北京と同じ築城風景は世界の各地で続いている。とりわけオイルマネーで潤う中東のドバイやアブダビ、ドーハといった都市で起こっている建設ラッシュは人類史上例のない凄まじさである。酷暑の砂漠であった土地に猛烈なスピードで高層ビルが建てられる。高さを競い合うオフィスビル、豪奢の限りを尽くすホテル群、巨大なショッピングモールや空港、大規模な美術館等の文化施設も次々に計画されている。</p>
<p>　砂漠のなかに蜃気楼のように建ち上がる都市、その実現のために世界各地から著名な建築家が群がっている。建築家にとって、ここは自らの夢を想いのままに実現しうるパラダイスなのである。巨大な経済力をバックに、建築家の想像力を利用して権威を可視化しようと試みる資本家達……。</p>
<p>　 資本の流れやストックが益々不可視なものとなっている今日、資本家の夢をヴィジュアライズしてくれるのが建築家だとすれば、その構図は王侯貴族のために身を捧げたルネサンスやバロック期の芸術家達と何ら変わらない。</p>
<p>　 しかし中東において夢のようなプロジェクトをデザインしている建築家達も、もし彼らが誰のために、そしてどのような目的のためにデザインするのかと問われれば、きっと「鳥の巣」の建築家と同じように答えるに違いない。市民の居住環境を改善するためであり、市民の教育文化に貢献するためである、と……。大義名分はいかようにも唱えることができる。だがそうした発言がコミカルに聞こえてしまう程に、「市民のため」という言葉は空洞化してしまっている。そして何よりもその空虚さはプロジェクト自体に露わに示されている。</p>
<p>　例えば「鳥の巣」の建築は、建築家が主張する程、市民に対して開かれてはいない。「鳥の巣」を「鳥の巣」たらしめているあのスチールで網の目状に組まれたカゴのような外観は、コンピューター時代にふさわしい斬新な構造システムを想わせる。しかし多くの構造家達は、あれは単なる表層の表現に過ぎず、膨大な鉄の無駄使いだと語る。確かに網の目の内側には規則的に柱が立っていて、スタジアムの構造を成立させているのは主としてそれらの柱なのである。</p>
<p>　「鳥の巣」は中国の人々にとって分かりやすいシンボルではあったが、外観とは裏腹に内側にはきわめて凡庸でどこにでも見られるスタジアムがすっぽりと収まっていた。私は、「鳥の巣」でのイベントを見るたびに、妙に冷めた気持ちにならずにはいられなかった。ましてやドバイやアブダビでのプロジェクトは言うに及ばずである。ここには「市民のため」の建築が本質的に備えるべき何かが決定的に欠落している。</p>
<p>　 建築家が「市民のため」という大義名分を振りかざすのは、明らかにモダニズム建築の精神を踏襲しているからである。鉄筋コンクリートや鉄、ガラス等の工業製品や工業技術を用いて、明るく開放的な建築を「市民のため」に大量に供給しようと試みたのが初期モダニズムの建築であった。したがってモダニズムの提唱者にとって、社会改革への意思と建築の構造改革への意思は表裏一体であった。彼等は技術革新が社会の革新をもたらすことを確信していた。世界の人口が急増した二〇世紀において、モダニズムの建築は、ヨーロッパを中心として大量の建築を経済的に供給するという社会的使命を果たすことに大いに貢献した。</p>
<p>　 しかし近年アメリカを基点に世界を覆ったグローバリゼーションの波は社会主義的な構造改革を無力化してしまった。中国や中東諸国のような華やかさはないにしても、日本も状況は同じである。アメリカとヨーロッパの中間的なポジションを占めていた日本も、民営化という言葉の下でアメリカ型の市場経済に走った結果、「公共」概念をひたすら消失しつつある。それは我が国の公共建築の存在意義の消失とパラレルである。</p>
<p>　 多くの建築家は、相も変わらず「市民のため」と主張し続けるけれど、「公共」を問う場はきわめて限られてしまっている。</p>
<p>　 しかしそんな状況においてこそ、私達は建築家としてのモラルを問い直さなくてはならないように思う。建築家にとってモラルを問い直すとは、言葉よりもあるべき建築自体を問うことである。先に述べたように、空念仏のような「市民のため」なる言葉の空虚さは何よりも建築自体があからさまに語ってしまうからである。モダニズム建築は初期の透明な清浄さを失って、いまや虚飾に彩られた力の誇示のシンボルと化してしまっている。このような表層的な力の誇示程、初期モダニズムの精神が嫌悪したものはなかったはずである。</p>
<p>　 今日私達はモダニズムの建築言語とは異なる新しい言語を発見して再び変革の精神を築き直す必要に迫られている。「市民のため」という言葉が新鮮さを取り戻すためには、建築自体の抜本的な構造改革が必要なのだ。光明がない訳ではない。</p>
<p>　コンピューターテクノロジーの発展は新しい建築言語の発見を可能にしつつある。私達は二〇世紀よりもはるかに多様でダイナミックな建築の秩序を構築することが出来るし、はるかに複雑な構造解析が可能である。私達が生きている都市空間や社会は、二〇世紀とは比較にならない程複雑で精巧なものとなった。コミュニティのあり方もより複層的でダイナミックに変化し続けているし、自然環境との関係も精度の高いコントロールを求められている。このように激しく流動する社会に生きる現代の人々のために、建築の構造改革は求められている。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-122</link>
		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Feb 2009 02:15:57 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-122</guid>
		<description>●新建築住宅特集２月号・雑感●

１月号に続き２月号の雑評をしてみたい。
この号は村野藤吾の戦前の和風住宅「中林邸」が掲載されている。京都繊維大学の石田さん「村野藤吾の戦前住宅」と評論家の長谷川尭さん「現在主義の住宅デザイン」の文が添えられている。外観や空間は旧態依然とした趣きとして伝わってくるのだが、その時代性が持っている存在性はこちらに迫ってくるものが感じられる。こういった住宅からどのような点を学び得るのか？ただ単に大きくて豪奢な和風のつくりとは裏腹に村野は玄関ホールに思いっきりモダン感覚を取り入れている。今は存在しないが、上野リチのセセッション風の絨毯があったらしく、トラバーチンやベニヤの大壁といい、階段踊場のバルコニーはこれがつくられた戦時の様相が伺われる。

ところで、今回も住宅作品について一言二言。
■作品
川口　通正「楓燕居」：×／これが何故に巻頭を飾るのか皆目わかりませんでした。丁寧な仕事だとはいえ力強く柔らかい空間とは本質を語ってはいないように思えました。
服部　信康「GO-TEI」：△／７０年代に先祖帰りしたような閉鎖的な空間を創出していますが、スケールがかなり乱暴に扱われていて意匠の斬新さとは離反していると感じます。
横内　敏人「楓林の家」：△／こちらも先祖帰りとはいっても伝統的な日本建築のベランダ空間（日光浴スペースや庭との鑑賞（緩衝）空間）を現代的に・・・といっても林立する柱を周辺の木々に見立てているところまでディテールは及んでいないのがわたしには残念であった。
高野　保光「内露地の家」：×／あまりにも意図的な操作や細工が目立ち、逆効果が正面の外観や内露地のせせこましさに顕現されている。要するにトータリティに欠けていると思った。
五十嵐　淳「間の門」：○／前号でも紹介している建築家であるが、やりたいことがストレートで伝わってくる。やはり透明なものより逆光となるような開口を欲していることがわかる。奥まで射し込んでくる光の様相は大徳寺弧蓬庵忘筌が憶いだされた。
室伏次郎「千石の家レスタウロ」：△／大きな住宅をギャラリーに用途を変えただけで何か建築的に新しいことをリノベーションで提案した点が見えない。サンルームの意匠もパリのアパルトマンの物まねで感心しない。
手島　　保「烏山の家」：×／部分的なところで感心はするが、真っ当なる建築雑誌に掲載すべきものなのか、編集者および建築家の資質が問われるのでは。
浅利　幸男「善福寺の家」：×／アーチへのこだわりはわかるが、骨董品やといい現代的な家具といい、このひとの趣味のおしつけにしか感じえない。これでは趣味の範囲を抜け出ていない。これも編集者の資質が問われる、こういいたことを新建築社は意識しているのだろうか。少なくとも川添さんたちの頃とは平和で楽しいセレクションをしているんだろうなあ〜と感じる。
メジロスタジオ「千歳船橋の住宅」：×／これも趣味の範囲を抜け出ていない。友人の紹介をむやみにメディア上でやってほしくない。
矢田朝士「帷子の家」：○／こちらはインテリアのトータリティがプンプンしている。要するに材質と色、空間の齟齬をきたしていないのである。京都の地を理解していると感ずる。
山代悟＆西澤高男「HOUSE H」：○／地方の農豪な家での増築であるが、外観のデザインは別にしても素材の見せ方というか構法（LVL積層−ベニヤを小口が見えるように積む）に新しさを感じた。経年変化でどのような状態となってゆくのか気になるが、ピーター・ズントーを意識したばかりに失敗する可能性もありそうではあるが、エッジの処理が難しそうである。
アトリエ・ワン「まちやゲストハウス」：−／要するに現状のままの方がよいということだろう。これだけのことにアーティストなどさまざまなひとが加わってできる歴史的地区の保存と存続はよい試みといえよう。ただ、大いなる議論が必要なことを教えてくれているように思えた。
■論文
デザインの暮らし「グラスのデザイン：西沢大良」：○／グラスの存在意義みたいなものに言及されていて面白く拝見しました。この便利さ（機能性）以外のデザインが決して趣味や快楽だけで成立はしていないことも西沢氏にはわかってほしいと思いました。その均衡やら葛藤からすぐれたデザインが生まれるんでしょう。

こう、感じられた。勝手なことを言ったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。

各住宅の画像は下記を参考に
http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>●新建築住宅特集２月号・雑感●</p>
<p>１月号に続き２月号の雑評をしてみたい。<br />
この号は村野藤吾の戦前の和風住宅「中林邸」が掲載されている。京都繊維大学の石田さん「村野藤吾の戦前住宅」と評論家の長谷川尭さん「現在主義の住宅デザイン」の文が添えられている。外観や空間は旧態依然とした趣きとして伝わってくるのだが、その時代性が持っている存在性はこちらに迫ってくるものが感じられる。こういった住宅からどのような点を学び得るのか？ただ単に大きくて豪奢な和風のつくりとは裏腹に村野は玄関ホールに思いっきりモダン感覚を取り入れている。今は存在しないが、上野リチのセセッション風の絨毯があったらしく、トラバーチンやベニヤの大壁といい、階段踊場のバルコニーはこれがつくられた戦時の様相が伺われる。</p>
<p>ところで、今回も住宅作品について一言二言。<br />
■作品<br />
川口　通正「楓燕居」：×／これが何故に巻頭を飾るのか皆目わかりませんでした。丁寧な仕事だとはいえ力強く柔らかい空間とは本質を語ってはいないように思えました。<br />
服部　信康「GO-TEI」：△／７０年代に先祖帰りしたような閉鎖的な空間を創出していますが、スケールがかなり乱暴に扱われていて意匠の斬新さとは離反していると感じます。<br />
横内　敏人「楓林の家」：△／こちらも先祖帰りとはいっても伝統的な日本建築のベランダ空間（日光浴スペースや庭との鑑賞（緩衝）空間）を現代的に・・・といっても林立する柱を周辺の木々に見立てているところまでディテールは及んでいないのがわたしには残念であった。<br />
高野　保光「内露地の家」：×／あまりにも意図的な操作や細工が目立ち、逆効果が正面の外観や内露地のせせこましさに顕現されている。要するにトータリティに欠けていると思った。<br />
五十嵐　淳「間の門」：○／前号でも紹介している建築家であるが、やりたいことがストレートで伝わってくる。やはり透明なものより逆光となるような開口を欲していることがわかる。奥まで射し込んでくる光の様相は大徳寺弧蓬庵忘筌が憶いだされた。<br />
室伏次郎「千石の家レスタウロ」：△／大きな住宅をギャラリーに用途を変えただけで何か建築的に新しいことをリノベーションで提案した点が見えない。サンルームの意匠もパリのアパルトマンの物まねで感心しない。<br />
手島　　保「烏山の家」：×／部分的なところで感心はするが、真っ当なる建築雑誌に掲載すべきものなのか、編集者および建築家の資質が問われるのでは。<br />
浅利　幸男「善福寺の家」：×／アーチへのこだわりはわかるが、骨董品やといい現代的な家具といい、このひとの趣味のおしつけにしか感じえない。これでは趣味の範囲を抜け出ていない。これも編集者の資質が問われる、こういいたことを新建築社は意識しているのだろうか。少なくとも川添さんたちの頃とは平和で楽しいセレクションをしているんだろうなあ〜と感じる。<br />
メジロスタジオ「千歳船橋の住宅」：×／これも趣味の範囲を抜け出ていない。友人の紹介をむやみにメディア上でやってほしくない。<br />
矢田朝士「帷子の家」：○／こちらはインテリアのトータリティがプンプンしている。要するに材質と色、空間の齟齬をきたしていないのである。京都の地を理解していると感ずる。<br />
山代悟＆西澤高男「HOUSE H」：○／地方の農豪な家での増築であるが、外観のデザインは別にしても素材の見せ方というか構法（LVL積層−ベニヤを小口が見えるように積む）に新しさを感じた。経年変化でどのような状態となってゆくのか気になるが、ピーター・ズントーを意識したばかりに失敗する可能性もありそうではあるが、エッジの処理が難しそうである。<br />
アトリエ・ワン「まちやゲストハウス」：−／要するに現状のままの方がよいということだろう。これだけのことにアーティストなどさまざまなひとが加わってできる歴史的地区の保存と存続はよい試みといえよう。ただ、大いなる議論が必要なことを教えてくれているように思えた。<br />
■論文<br />
デザインの暮らし「グラスのデザイン：西沢大良」：○／グラスの存在意義みたいなものに言及されていて面白く拝見しました。この便利さ（機能性）以外のデザインが決して趣味や快楽だけで成立はしていないことも西沢氏にはわかってほしいと思いました。その均衡やら葛藤からすぐれたデザインが生まれるんでしょう。</p>
<p>こう、感じられた。勝手なことを言ったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。</p>
<p>各住宅の画像は下記を参考に<br />
<a href="http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html" rel="nofollow">http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt_frame.html</a></p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-121</link>
		<dc:creator>伊神</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Feb 2009 02:10:45 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-121</guid>
		<description>伊神です。研究会終了のため、今後は『新建築住宅特集』誌に掲載されたる住宅を論評してみようと思っています。

最近は研究会のこともあり歴史的な観点から建築家の行動・活動やら作品、デザインのことなどを考えていて、一般に言うメディアの大勢に鈍感であったきらいが拭えない。新建築社の『住宅特集』という文字が戦前のタイポに、また横書きから縦書きへと変化して気になって買ってしまった。1930年に建築雑誌がその逆（和から洋のスタイルへと）を辿ったのとは、回顧的な企図も感じるが、掲載されていた五十嵐淳とアトリエ・ワンには興味を以前から持っていたので、購入の意思に輪を賭けたかたちとなったのだが・・・・。深く読み込むと、やはり戦前戦後の雑誌を見慣れているせいか作品は別にしても論文の華奢な（しょうがなく書かされているような）文体は、批評的なもの言いではない「おりこうさん」な文体である。（だから感覚論的でトレンディな物言いである）こんな論評を書いているUNDER40のひとたちの平和な論調には、どうにもならない倦怠観が漂ってきて、彼らは建築界を浮遊する細菌みたいなものではないかと思えた。ちょっとしたトレンドに食い付いては侵食し、また排除されれば別のものに取り付くといった風体であろう。しかし、作品には言いたいことが伝わってくるものもあったので一言二言。（技術的なことは除く）
五十嵐　淳「光の矩形」：◎／外観であるマツの下見板張りが地中にフェイドアウトしてゆく点など、ヘルツォーグ＆ムロンのバーゼルの信号所を木材で表現したもの。スッキップなシンプルさがよい。それにしても逆光となる窓が美しい。
　　　　　「相間の谷」：◎／なにやらシノハラ的タイトルであるし、意識しているのがわかるが、シノハライズム的な新しさを感じる。ただ、白い箱でも中身がいいねえ。
中村　好文「明月谷の住宅」：△／うまく納まりすぎていて発見または住宅のビジョンが見えない。気持ち良さやアイデアの奥にあるものが感じられない。
横河　　健「軽井沢のBB HOUSE」：△／グリッドプランによるツインなる家型住居で、シンプルなものだが、生活の不自由さを感じる。普遍性なのか気持ち良さなのか中途半端に思えた。
谷尻　　誠§名和　研二「名古屋の住宅」：×／基本的にデザインや構造などお仕着せが昧いアイデアであり、外が感じられるようにする回答がこんな大掛かりではなくてもできるように思えた。
アトリエ・ワン「ダブル・チムニ−」：◎／知的で乾いた（ユニーク）デザインが魅力的であった。果物を割いた切り口を併立させたプランや空間は見事であろう。
奥山　信一「御代田山荘」：△／やはり師匠の坂本一成の家型のオマージュなのだろうか、少し年代的なものを感じいる。ディテールがしかっりしている分、坂本と異なりポリシーが感じられない。
若松　　均「森のツリーハウス」：△／外観の凡庸な面い比べ空間は多種多様な場面を内部に包接しているのだが、きっとル・コルビュジェのサヴォア邸のような回遊空間を描きたかったのだろう。
西村　　浩「館山の家」：×／ヨシムラやレーモンドの山荘のようなイメージは拭えない。
武井　　誠＆鍋島千恵「廊の家」：○／キャンティレバーハウスの類いではかなりユニークな別荘である。使い勝手はさておいても内側が見られるのがいい。

こう、感じられた。勝手なことを言ったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。

各住宅の画像は下記を参考に
http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt2009/jt01/frame.html</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>伊神です。研究会終了のため、今後は『新建築住宅特集』誌に掲載されたる住宅を論評してみようと思っています。</p>
<p>最近は研究会のこともあり歴史的な観点から建築家の行動・活動やら作品、デザインのことなどを考えていて、一般に言うメディアの大勢に鈍感であったきらいが拭えない。新建築社の『住宅特集』という文字が戦前のタイポに、また横書きから縦書きへと変化して気になって買ってしまった。1930年に建築雑誌がその逆（和から洋のスタイルへと）を辿ったのとは、回顧的な企図も感じるが、掲載されていた五十嵐淳とアトリエ・ワンには興味を以前から持っていたので、購入の意思に輪を賭けたかたちとなったのだが・・・・。深く読み込むと、やはり戦前戦後の雑誌を見慣れているせいか作品は別にしても論文の華奢な（しょうがなく書かされているような）文体は、批評的なもの言いではない「おりこうさん」な文体である。（だから感覚論的でトレンディな物言いである）こんな論評を書いているUNDER40のひとたちの平和な論調には、どうにもならない倦怠観が漂ってきて、彼らは建築界を浮遊する細菌みたいなものではないかと思えた。ちょっとしたトレンドに食い付いては侵食し、また排除されれば別のものに取り付くといった風体であろう。しかし、作品には言いたいことが伝わってくるものもあったので一言二言。（技術的なことは除く）<br />
五十嵐　淳「光の矩形」：◎／外観であるマツの下見板張りが地中にフェイドアウトしてゆく点など、ヘルツォーグ＆ムロンのバーゼルの信号所を木材で表現したもの。スッキップなシンプルさがよい。それにしても逆光となる窓が美しい。<br />
　　　　　「相間の谷」：◎／なにやらシノハラ的タイトルであるし、意識しているのがわかるが、シノハライズム的な新しさを感じる。ただ、白い箱でも中身がいいねえ。<br />
中村　好文「明月谷の住宅」：△／うまく納まりすぎていて発見または住宅のビジョンが見えない。気持ち良さやアイデアの奥にあるものが感じられない。<br />
横河　　健「軽井沢のBB HOUSE」：△／グリッドプランによるツインなる家型住居で、シンプルなものだが、生活の不自由さを感じる。普遍性なのか気持ち良さなのか中途半端に思えた。<br />
谷尻　　誠§名和　研二「名古屋の住宅」：×／基本的にデザインや構造などお仕着せが昧いアイデアであり、外が感じられるようにする回答がこんな大掛かりではなくてもできるように思えた。<br />
アトリエ・ワン「ダブル・チムニ−」：◎／知的で乾いた（ユニーク）デザインが魅力的であった。果物を割いた切り口を併立させたプランや空間は見事であろう。<br />
奥山　信一「御代田山荘」：△／やはり師匠の坂本一成の家型のオマージュなのだろうか、少し年代的なものを感じいる。ディテールがしかっりしている分、坂本と異なりポリシーが感じられない。<br />
若松　　均「森のツリーハウス」：△／外観の凡庸な面い比べ空間は多種多様な場面を内部に包接しているのだが、きっとル・コルビュジェのサヴォア邸のような回遊空間を描きたかったのだろう。<br />
西村　　浩「館山の家」：×／ヨシムラやレーモンドの山荘のようなイメージは拭えない。<br />
武井　　誠＆鍋島千恵「廊の家」：○／キャンティレバーハウスの類いではかなりユニークな別荘である。使い勝手はさておいても内側が見られるのがいい。</p>
<p>こう、感じられた。勝手なことを言ったのだが、悪まで真摯に設計に取り組んでおられることは尊重しての意見である旨、了解ください。</p>
<p>各住宅の画像は下記を参考に<br />
<a href="http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt2009/jt01/frame.html" rel="nofollow">http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt2009/jt01/frame.html</a></p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-41</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 28 Dec 2008 15:04:35 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-41</guid>
		<description>■岸田日出刀研究会（12/27)への問題提起

『建築家の正道とは』

２００６年１０月にはじまった研究会も最終回となった。広汎な建築家の生きざまの痕跡を辿ったものであったが、日頃、拙速な仕事をしているひとにとっては取るに足らぬことと受けとめられよう旨は承知のこととしての継続であった。わたしは、こういった人達の生きざまから、「建築家の正道」とは何か・・・寧ろ、あまりにも専門分野化してきた、いまの閉息した建築家像の在り方を問うことで、彼ら（研究会で取り上げてきた建築家）から単にデザイン的なエッセンスだけではない、クリエイティブな活動そのものを享受してきたとも言えよう。恐らく、今日の建築家像の専門分化化の端緒を開拓していったのが、今回取り上げる岸田日出刀（1899-1966）であり、逆説的に問えばオールマイティな建築家像の最期のひとでもあったように思えてならない。彼には個人的な代表作は存在しないが、東京帝国大学教授の立ち場から社会的な意味でのクリエイティブな建築家の役目を業界外の社会、または政治にまで拡げ弟子の前川國男（1905-1986）や丹下健三（1913-2005）の能力を世に送り出した業界のフィクサー（黒幕）であった・・・というよりもそれに徹した希有な社会的デザイナー（クリエイター）であったといえる。
＊
わたしが、岸田日出刀に興味を持つ契機となったのは、あの世界的建築家であった丹下健三の足跡を辿ることで知り得たといえる。戦前から戦後の丹下作品に見え隠れする、設計者丹下健三の上に冠した岸田日出刀という署名、そしてその存在に・・・そして戦後、丹下健三の躍進の鍵が・・・この岸田日出刀という一介の教授にあろうとことなど知る由すらなく、ジャーナリズム同様に、微塵も気に留めたことはなかったのである。況してや岸田の仕事が広範囲であるがため、設計業界での位置付けがはっきりとしないし、単独で設計した作品がモノの本では「東大安田講堂」ぐらいで、しかも師であった内田祥三（1885-1972）との共同とくれば釈然としないのは無理からぬことといえよう。しかし、東大五期会以前の卒業生を経て業界全体に亘って、かなり影響力の大きな存在であったことが・・・あとになって判明されるのであるが、それ以降の世代では彼の事績に踏み込んで、たとえば建築史研究（作家論的）の対象とされることもなかったし、その功績は忘却されたまま、今日に至っているのが現状といえまいだろうか。それは、東京帝国大学在学中、「建築界のプリンス」と喚ばれた岸田日出刀を知らないものにとっては最大の謎解きであり、建築史乃至は現代史と言う観点からすればポッカリ抜け落ちた穴なのである。
＊
ただ、その反面、岸田の同窓生や師と仰ぐひとたちからは相当なるオプティミスト（楽天家）である旨が追悼に寄せた文章（追悼『岸田日出刀　上下巻／相模書房』より）から伝わってくる。とくに将棋や囲碁、ゴルフ、麻雀、その他にも多種多芸ぶりを見せ、且つ腕前は一流であったらしいし、唄や舞踊（何故だか佐渡の相川音頭が十八番とか）に到っては学会や祝宴会などで率先して披露していたらしい。そういった趣味的なものに影響されていたのだろうか、いまでいうアカデミックな研究論文的なものよりも随筆集や記録集が図り知れなく多いことに驚かされる。相模書房から出版された五部作『甍（いらか）』『堊（かべ）』『扉（とびら）』『窓（まど）』『縁（えん）』は実にユニークなもので、同時代に佐藤武夫が『無双窗』『武者窗』『薔薇窓』『火燈窓』の窓シリーズをはじめ、今和次郎の『草屋根』と蔵田周忠の『陸屋根』と題した屋根シリーズなど、また藤島亥治郎の『匠人談義』『瑠璃塔』『あかり障子』など、このようにして岸田日出刀に端を発したものが戦中にブーム化し、出版されていたことが伺える。また、記録集も土浦亀城・信子夫妻との共著である『熱河遺跡（1940）／相模書房』をはじめ、戦前から高く評価していた御所をライカで撮影した『京都御所（1954）／相模書房』、そして昭和１５年（皇紀2600年）の幻と化した東京オリンピック大会建設の目的で視察訪問した伯林（ベルリン）オリンピックの施設を纏めた『第十一回オリンピックと競技場（1937）／丸善』などを螺旋綴（リンク）で出版するなど装幀にも凝っている。極め付きは『過去の構成（1929）／構成社書房』と『現代の構成（1929）／構成社書房』であろう。ここに納められた写真はすべて岸田のライカによって撮られたものを自らレイアウトして、日本の古建築を構成という枠で切り取った美として体現させてくれているし、モダン到来を宣告した現代の機械美学を構成的なアングルで活写しているなど、従来の建築眼線を即物的なる眼線として表象しているところに岸田日出刀の唯物的なる美が存在していて面白いといえる。
＊
それにしても、このような形而上的な思考をもっていたことは脅威といえないだろうか。昭和８年（1933）に来日したブルーノ・タウト（1880-1938）の桂離宮崇拝（「涙したい程美しい」）は、日本のモダニストの詩情を擽った（モダニズム啓蒙の選ばれし異人として）のであろうが、既に桂離宮と云わず日本建築とモダニズム建築との邂逅は果たされていたとみるべきなのであろう。それをエスコートした日本インターナショナル建築会代表の上野伊三郎（1893-1967）等をはじめ一部のモダニストたちは積極的に白きモダン建築を提唱し実践し始めていた。その無節操な行為（木骨造の乾式工法など）に岸田日出刀は先祖帰り「和」の意匠でアッピールしたのであり、決して安易にモダン、所謂インターナショナル思考に接近はしなかったといえる。これも先述のユニークな一面とは裏腹に猿真似を安易には容認しない、また物事の道理に適うことを信条とする岸田日出刀の頑固一徹な面が伺えよう。その証しとして、文明開化以後の建築界を担ってきた巨人辰野金吾、伊東忠太の伝記（『近代日本の科學者（1941）所収「辰野金吾傳」、『建築学者伊東忠太（1945）／乾元社』）を描き、自身の立ち位置について熟考されたことは戦前戦中の彼の行動（業界を牽引していった）を規定したともいえなくはない。要するに御自ら建築家を自称したところで、所詮建築は社会組織に翻弄されゆくだけで護送船団化する道は明らかであると悟って、建築家の正道を養護し実践させる立場、いわばそういったストラテジー（戦略）をとったのであろう。それが、コンペでの審査の立ち振る舞いや優秀な人材の目利きにも顕われているように思われるのだが・・・しかし岸田日出刀逝き後、高度成長、バブルとともに護送船団はその正道ならねばならぬ建築家の拡がりを基にして大きな勢力というか強固なるシステム（建設業者等との癒着）を築き上げ、逆に建築家の自由を奪う羽目となることも受容しなければならないのであろう。
＊
岸田日出刀は、明治３２年（1899）に司法官吏（裁判所書記官）であった父・岸田稔のもと次男として、福岡県福岡市で生まれているが、父の転勤で東京に落ち着くまで鳥取（悪まで出身地）、山梨と転々としている。大正３年（1914）東京府立第三中学校、大正６年（1917）第一高等学校第二部甲類を卒業し、大正９年（1920）に東京帝国大学工学部建築学科を卒業するのだが、同窓生にはライトの弟子であった土浦亀城（1897-1996）、東京拘置所の設計で有名な蒲原重雄（1898-1932）、そして長谷川輝雄（1896-1926）という俊才がいた。長谷川は大学院へ進学し学問（研究）と思潮（批評）をシンクロさせるべきことを主張したはじめての建築学者として将来嘱望させた存在（伊東忠太から歴史・意匠学教授の座を約束された）であった。近代建築思想の研究（卒論−「近代建築思潮と表現」）や四天王寺建築論の研究など広汎な建築研究と卓抜な作品（卒業設計−「クンストハウス」）で評価され、1924年には岸田、蒲原等とともにラト−（裸で闘う）建築会を結成し、帝都復興創案展に作品を出品し、これからという時に早逝してしまった（仔細は『長谷川輝雄氏遺稿（1927）』参照）。その意匠学教授の後任として内田祥三から指名を受けたのが、岸田日出刀であり、歴史学は京城（ソウル）高等工業学校に赴任していた藤島亥治郎（1899-2002）を呼び戻して、新たなる東大建築学科の体制を整えたのである。岸田は長谷川のようなトータリティには欠けていたが、デザインの技量には見るべきものが存在していた。卒業設計は「監獄建築の計画（1922）」で、同時に卒業論文も「監獄建築之研究（抄）（1922）」であるように、刑務所の建築を主題としており、明らかに大正のヒロインであった後藤慶二（1883-1919）の豊多摩監獄（1915）への強いオマージュ（白樺派的な）を感得することができるし、大正９年（1920）の分離派建築會に影響されたであろうラト−建築会での出品作「犠牲者供養塔（1924）」や内田祥三との東京帝国大学諸施設に至るデザインメソッドは一環して表現派を推していたといえよう。
＊
大学を卒業した岸田日出刀は大学院へは進まず、何故だか東大営繕課（技師）に勤務し内田祥三の設計（東大キャンパス計画）をフォローする役目を担う道を選択した。前述の長谷川の死がなければ、恐らく内田・岸田の共同なる設計事務所が実現し今世では大組織事務所となっていたかもしれない。何れにしろ、長谷川の死が岸田の人生を変貌させたことは間違いないであろう。長谷川病床の大正１４年（1925）に、講師からすぐさま助教授に就任し、内田は岸田を教授に推薦するために、その翌年（1926）に欧米を視察させ、当時ドイツやオランダの新興建築が瞠目されているなか『オット−ワグナー（1927）／岩波書店』を上梓させ、また誰も手をつけようとしなかった「欧州近代建築史論（1928）」を書かせ、伊東忠太の抵抗もあったが学位論文として認められ、晴れて昭和４年（1929）に教授就任となった。このコンビの絆が後の前川、丹下への系譜と繋がってゆくのだろうが・・・結果的には師内田祥三を上回る人脈を築きあげ、岸田はその才能を開花させたといえよう。大正１３年（1924）に実業家酒井静雄の長女（勝子）と結婚し三男一女の父となるが、長男を幼き頃に逝くしてはいるが、三男は横浜市都市計画局都市デザインの官吏となり、長女は研究室の教え子（沢村弘道（清水建設））と結婚している。そういった意味で清水建設の顧問を勤めるなど清水へは有能な人材を東大から毎年就職させていたらしい。（『岸田日出刀』より）
＊
その内田祥三とのコンビにより東大キャンパス内には岸田が担当した作品が、いまでもいくつか存在している。「図書館（1928）、現・総合図書館」は間違いなく内田のデザイン（内田ゴシック調）だが、三島由紀夫の割腹自殺、全共闘の籠城事件等で有名な「安田講堂（1921-1925）−登録有形文化財」は内田も語っているようにかなり岸田に依存させたようである。だから内田ゴシックというよりも表現主義的な様相が色濃く反映されているのだが、明らかに岸田のデザイン的特徴が露呈されているとわかるのが「理学部１号館（1926）、現・理学部旧１号館」のハンス・ペルツィッヒ風（半円窓）のデザインに、また「医学部附属病院南研究棟（1925）」はドイツ表現主義と機能主義をリンクさせ、有機的建築思想を提唱したフ−ゴー・ヘ−リング（1882-1958）の合理性が露である。そして龍岡門（東大病院の入口）に附随した「旧医学部附属病院夜間診療所（1926）、現・広報センター−東京都選定歴史建造物指定」にはオランダのアムステルダム派の闘将ミシェル・デ・クレルク（1884-1923）の構成主義的デザインが垣間みられる。このように内田ゴシックで埋め尽くされたなかで岸田日出刀の存在は当時「建築界のプリンス」と喚ばれるだけの仕事（ネクストビジョンを視野に入れた）をしていたことが偲ばれる。
＊
ちょうど其の頃に岸田研究室（担当教諭）から最初の門下生が巣立った。大学院へ進み建築評論やトロッケンモンタージュバウ（乾式）構法の研究を実践した市浦健（1904-1981）と、岸田からコルビュジェの本を渡され卒後パリへと旅立った前川國男がいた。その後も、森田茂介、柴岡亥佐雄、小坂秀雄、生田勉、立原道造、大江宏、丹下健三、浜口隆一、高山英華、吉武泰水、浅田孝、郭茂林、磯崎新、川上秀光と挙げたら切りがないくらい岸田スクールの根は孫、曾孫の代まで建築界に深く浸透している。所謂、政治で言えば建築界の最大派閥であった。しかし、東京大学の歴代意匠教授陣では、コンドル−辰野−伊東−佐野・内田−岸田−丹下・吉武−芦原−槇−香山−安藤ときても、最も実作評価（作品・論文）の乏しい印象を持たれていることは免れえないだろう。また、近代建築史家であった村松貞次郎や鈴木博之が語る建築界の歴史的系譜の俎上に載ることは寧ろ憚られてきたようにさえ思われる。その作品を岸田自身のクレジット（署名）で堂々と設計するようになったのは、日本のモダニズム黄金期と喚ばれる１９３０年代からであった。折しも建築界では猫も杓子もル・コルビュジェ礼讃ありきで、日本の気候風土には脆弱な白亜のフラットルーフなる建築が世を席巻した時代である。岸田日出刀はこの傾向を一番理解していながら異を唱えた作品を敢えて提示してきた。「武蔵野カントリークラブハウス（1934）」「山中カントリークラブハウス（1934）」「荒野氏邸（1935）」は一見、普通の屋根勾配をもった伝統的な民家風や和風といった日本の伝統的建築ではあるが、クラブハウスではテラス部の屋根形状の軽快さと空間の開放感・・・そして住宅には合理的な生活様式といった近代的な思考が伺える。それは、昭和４年（1929）の『過去の構成』に見る日本の伝統的建築に潜むモダン性への洞察から地域性（日本の風土性）へと置換せしめようとの企図も見え隠れするのだが、一部のひとからはナショナリズム（国粋的）への傾倒とも受容された。岸田は昭和５年（1930）に結成された新興建築家聯盟の左翼化傾向（山口文象、図師嘉彦、西山卯三など）の動向を訝しみ団体を脱会、二年後には陸軍経理学校講師も勤めるなど、其の頃からかなり保守勢力に接近したようで、昭和１０年（1935）に結成された日本工作文化聯盟は就中国家依りの団体で岸田はそこの理事を勤め、機関誌である『現代建築（1号から16号までで戦争のため中断）』の編集・出版に寄与した。その効果あってか昭和１５年（1940、皇紀２６００年）に日本で開催されることが決定した東京オリンピック大会（戦争で中止）施設の招致委員会幹事に抜擢され早稲田の内藤多仲とともに昭和１１年（1936）にベルリンの地を踏み、また兼ねてから興味のあったナチスドイツの建築を見て、帰国後に伯林オリンピックの記録集とともに『ナチス獨逸の建築（1943）／相模書房』を出版している。この書のなかで、若くしてナチス建築総監に任命されたアルベルト・シュペアー（1905-1981）への憧憬の念を語っていたこともあり、大きな誤解を戦後にまねくこととなるが、戦時下は専ら審査委員の立場でナショナリズム化した日本国の建築的ビジョンを模索した。それが、あの有名なる二大コンペに表徴されているのであろうが、其の前に岸田は巧妙なる御膳立てをしていた・・・それは・・・。
＊
東京オリンピック大会招致のイベントを境にして岸田日出刀の株は上がり、また社会的な地位を獲得するに至って建築業界からも一目置かれる存在となった。各種コンペの審査委員（「ひのもと會館」「大連市公会堂」）をはじめ、一般紙への執筆活動（建築的啓蒙）、そして講演会と多忙のあまり、自身で設計を行っている暇はなかったといえよう。そんななか、オリンピック招致が戦争激化のため中止となった昭和１５年（1940）に岸記念運動會館建設（岸清一博士（大日本体育協会会長）の基金により）として利用が決定されていた敷地に急遽、体育（名目は戦争）のための各種団体事務所を建設することととなり、岸田に白刃の矢が立った。それが「岸記念体育會館（1941）」であり、岸田は自ら設計は行わずして、当時新進の若手モダニストであり、ル・コルビュジェとの縁結びをさせた弟子の前川國男に設計を依頼した。そして、それを担当したのが、岸田が編集をしていた『現代建築』誌に「MICHELANGELO頌−Le Corbusier 論への序説として−」なる処女論文を掲載した丹下健三であったこと（その論文の内容のぎこちなさといい、あまり本人は語ってはいないところからして岸田から無理矢理依頼されたのではないかと推測される）は、戦時下における岸田の思い描いた戦略的な企図が感じられる。それは、建築界の旧体制からの脱却に加え、モダニズムをナショナリズム化の道具として利用しようとするもので、前川、丹下の「構成」ではなく「観念」なる美学に岸田が賭けていたのであろう。同じ年に「社会事業會館（1941）」もそのトリオで実現しているのだが、それらに共通するのは木造でありながら鉄骨のようなシャープさとル・コルビュジェの金科玉条であるピロティによる軽さが実現されていることである。
＊
その意味で「大東亜共栄圏建設記念造営計画（1942）」「在盤谷日本文化會館（1943）」というコンペは岸田が審査する立場にたちながら、先のトリオの結束力が活かされているように思われる。結果的には丹下健三が各々一等賞を獲得しているが、大東亜では前川國男は審査員として、一方在盤谷では二等となり、岸田の独断で丹下に辞退させ前川案を基にした実施設計を土浦亀城事務所に依頼するという分業化、言わば企画は丹下、基本は前川、実施は土浦というそれぞれの力量にあったプロデュースをしたのであり、これが恐らく建築界の分業化の端緒となったのではないかと考えられよう。応募要項にある日本文化の宣揚とか伝統的建築様式を基調とするなど、ナショナリズムを昂揚する表現形態を「神社」「寝殿造り」といった外来（仏教寺院など）によらない日本独自の様式美に依存させ、モダニズムとの着地点を探るといった岸田日出刀の思惑は・・・敗戦という屈辱で無に期してしまった。
＊
しかし、戦後の岸田日出刀は昭和２２年（1947）結成された新日本建築家集団（NAU）から戦犯呼ばわりされるなど一時辛い日々を送ったのだが、国民国家から民主国家への急激な変貌を諸共せずに戦後の建築界を横断した。まずは、疎開先の山梨から帰り、昭和２３年（1948）に日本建築学会会長の座に就くと、「学会作品賞」の創設に尽力した。また戦後の主要なコンペ（「仙台市公会堂（1948）：武基雄当選」「広島平和記念会館（1949）：丹下健三当選」）の審査委員も勤め、「平和記念広島カトリック聖堂（1954）」では「一等必選論」なる論文（一等を選出しないのは根本的に間違っているとする旨）を発表してコンペのあり方について問題提起された。その第一人者として高度経済成長化に実現した大きなコンペ（「下関市庁舎（1951）：MIDO同人（田中誠、大高正人）当選」「旧東京都庁舎（1952）：丹下健三」「新潟市庁舎（1952）：佐藤武夫」「外務省（1952）：小坂秀雄」「岡山県庁舎（1953）、国立国会図書館（1954）、世田谷区庁舎（1957）：前川國男＆MIDO同人」「国立劇場（1960）：岩本博行」「京都国際会議場（1960）：大谷幸夫」など）には当然のごとく審査委員に選出され、審査外であっても明治神宮再建（神社木造論を主張）や皇居の造営（吉村順三の辞退問題）、羽田空港（審査委員の松田軍平が設計を受託する）のコンペには辛口の批評を行った。その一方で岸田が設計したものも建築雑誌には発表されなかったが、知っている限りでいくつか存在する。冒頭に記した丹下健三作品に署名のある「図書印刷原町工場（1955）」「清水市庁舎（1955）」は設計顧問という立場で、また出身である鳥取の「倉吉市庁舎（1957）−日本建築学会作品賞受賞」は丹下健三との共同設計であり、前者のガラスのカーテンウォールに対して打放しコンクリートの骨太いフレーム構造を採用し、内部空間の抑揚がすばらしい。ところで、岸田日出刀が東大を定年退官する昭和３４年（1959）までに設計したものに「成長の家本部（1950）」「清風寺（1953）」「湯ケ原カントリークラブ（1956）」「富士銀行数寄屋橋支店（1957）」が記録としてあるのだが、どれも岸田の署名の感じられない作品ばかりである。しかし、余裕ができた定年後に研究室時代の後輩とともに岸田建築設計事務所として仕事をした作品に「高知県庁舎（1960）」や「西本願寺津村別院（1960）」、そして晩年には「明治神宮外苑テニスクラブハウス（1966）−現存しない」そして遺作となった「日光東照宮宝物殿（1966）」などにはこれまで培ってきた岸田のセンスの片鱗を伺い知ることも可能といえよう。ただ、岸田日出刀の最大で最期の功績は、２０年待って漸く実現したオリンピック東京大会・施設のプロデュ−スであり、その施設委員会の委員長を勤め丹下健三の代表作となった「国立屋内総合競技場・附属体育館（1964）」を実現させたことによろう。ここにおいても岸田−丹下のコンビは健在であった。大会が無事終了した二年後の昭和４１年（1966）、岸田日出刀はゴルフを愉しみに自身が設計した別荘「山中山荘（1959）」に夫婦で出かけて行き、座敷で眠るように息を引き取ったそうである。享年６７歳・・・思わぬ訃報であった。
＊
岸田が逝くなって、昭和４５年（1970）に大阪で万国博覧会が開催された。このイベントも岸田が生きていればオリンピックの成功裡も手伝ってかきっと主導的な立場を執ったであろうことは間違いない。しかし、戦後日本のデモクラシー（民主主義）は過大な成長を遂げ、クリエーターの思うがままを許さない民衆の力（学生運動など）に圧倒されだしたといえる。そのクリエーターとなる政治家は官僚と手を編むことで政治主導ではない官僚国家を築きあげそれを維持してきた。一方、芸術家は自己をアッピールできる場や思想の後ろ楯を喪しない民衆に迎合するか、国外に逃避する（活動する）といったところまで追いつめられていたのであり、とくに建築家はこの万博のテーマである「未来のビジョンを見据えた社会」の華やかさの裏で、環境問題（公害汚染）や景観問題（地方の再開発）といった社会事情とどのように取り組むべきなのか、そうした将来のビジョンの見えないまま、ひたすら意匠の既得権益を死守するしか道を選択しなかったといってよいであろう。だから７０年代当初、社会に背を向けた住宅（住吉の長屋や中野本町の家など）が多くつくられたのも頷けられようし、公共建築のあり方を問うこともままならないまま営利目的優先の事業や開発が横行した。神代雄一郎の論文「巨大建築に抗議する（1974）」は、超高層ビルの建築的意義と人間性理解への疑問といった問題を提起したのだが、建築界は何処吹く風といった営利優先の政・官・民の癒着構造（システム）追従の風潮を選択したのであり、そのようなシステムで未だ変わらず住宅からビルに至り生産され続けているのである。冒頭にわたしが述べた「建築家の正道を養護し、実践させる立場をとった」とした岸田日出刀・・・彼の建築デザイナーとしての才能は並外れていることを内田祥三は証言しているし、同窓の吉田宏彦（福井工大教授であった）、弟子の前川國男、丹下健三は同じように語っている。彼は、今日の建築ができあがる構造（仕組み）を、言わば予測していたであろうし、そのようにするために政治家諸氏にも働きかけたのであろう。大同小異、岸田の術中に嵌ったことになろうが、最大の汚点は、その仕組みを動かす「岸田日出刀」がいないことであり、翻せば「建築家の正道」を実践するものではなく、それを養護するひとがいないことなのである。その「養護」する、言わば「我が身を処す」ひとがいなくなったこと・・・畢竟するに、建築家は建築（作品）を生産することだけが能力ではないことを・・・。

2008.12.25　伊神誠治</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>■岸田日出刀研究会（12/27)への問題提起</p>
<p>『建築家の正道とは』</p>
<p>２００６年１０月にはじまった研究会も最終回となった。広汎な建築家の生きざまの痕跡を辿ったものであったが、日頃、拙速な仕事をしているひとにとっては取るに足らぬことと受けとめられよう旨は承知のこととしての継続であった。わたしは、こういった人達の生きざまから、「建築家の正道」とは何か・・・寧ろ、あまりにも専門分野化してきた、いまの閉息した建築家像の在り方を問うことで、彼ら（研究会で取り上げてきた建築家）から単にデザイン的なエッセンスだけではない、クリエイティブな活動そのものを享受してきたとも言えよう。恐らく、今日の建築家像の専門分化化の端緒を開拓していったのが、今回取り上げる岸田日出刀（1899-1966）であり、逆説的に問えばオールマイティな建築家像の最期のひとでもあったように思えてならない。彼には個人的な代表作は存在しないが、東京帝国大学教授の立ち場から社会的な意味でのクリエイティブな建築家の役目を業界外の社会、または政治にまで拡げ弟子の前川國男（1905-1986）や丹下健三（1913-2005）の能力を世に送り出した業界のフィクサー（黒幕）であった・・・というよりもそれに徹した希有な社会的デザイナー（クリエイター）であったといえる。<br />
＊<br />
わたしが、岸田日出刀に興味を持つ契機となったのは、あの世界的建築家であった丹下健三の足跡を辿ることで知り得たといえる。戦前から戦後の丹下作品に見え隠れする、設計者丹下健三の上に冠した岸田日出刀という署名、そしてその存在に・・・そして戦後、丹下健三の躍進の鍵が・・・この岸田日出刀という一介の教授にあろうとことなど知る由すらなく、ジャーナリズム同様に、微塵も気に留めたことはなかったのである。況してや岸田の仕事が広範囲であるがため、設計業界での位置付けがはっきりとしないし、単独で設計した作品がモノの本では「東大安田講堂」ぐらいで、しかも師であった内田祥三（1885-1972）との共同とくれば釈然としないのは無理からぬことといえよう。しかし、東大五期会以前の卒業生を経て業界全体に亘って、かなり影響力の大きな存在であったことが・・・あとになって判明されるのであるが、それ以降の世代では彼の事績に踏み込んで、たとえば建築史研究（作家論的）の対象とされることもなかったし、その功績は忘却されたまま、今日に至っているのが現状といえまいだろうか。それは、東京帝国大学在学中、「建築界のプリンス」と喚ばれた岸田日出刀を知らないものにとっては最大の謎解きであり、建築史乃至は現代史と言う観点からすればポッカリ抜け落ちた穴なのである。<br />
＊<br />
ただ、その反面、岸田の同窓生や師と仰ぐひとたちからは相当なるオプティミスト（楽天家）である旨が追悼に寄せた文章（追悼『岸田日出刀　上下巻／相模書房』より）から伝わってくる。とくに将棋や囲碁、ゴルフ、麻雀、その他にも多種多芸ぶりを見せ、且つ腕前は一流であったらしいし、唄や舞踊（何故だか佐渡の相川音頭が十八番とか）に到っては学会や祝宴会などで率先して披露していたらしい。そういった趣味的なものに影響されていたのだろうか、いまでいうアカデミックな研究論文的なものよりも随筆集や記録集が図り知れなく多いことに驚かされる。相模書房から出版された五部作『甍（いらか）』『堊（かべ）』『扉（とびら）』『窓（まど）』『縁（えん）』は実にユニークなもので、同時代に佐藤武夫が『無双窗』『武者窗』『薔薇窓』『火燈窓』の窓シリーズをはじめ、今和次郎の『草屋根』と蔵田周忠の『陸屋根』と題した屋根シリーズなど、また藤島亥治郎の『匠人談義』『瑠璃塔』『あかり障子』など、このようにして岸田日出刀に端を発したものが戦中にブーム化し、出版されていたことが伺える。また、記録集も土浦亀城・信子夫妻との共著である『熱河遺跡（1940）／相模書房』をはじめ、戦前から高く評価していた御所をライカで撮影した『京都御所（1954）／相模書房』、そして昭和１５年（皇紀2600年）の幻と化した東京オリンピック大会建設の目的で視察訪問した伯林（ベルリン）オリンピックの施設を纏めた『第十一回オリンピックと競技場（1937）／丸善』などを螺旋綴（リンク）で出版するなど装幀にも凝っている。極め付きは『過去の構成（1929）／構成社書房』と『現代の構成（1929）／構成社書房』であろう。ここに納められた写真はすべて岸田のライカによって撮られたものを自らレイアウトして、日本の古建築を構成という枠で切り取った美として体現させてくれているし、モダン到来を宣告した現代の機械美学を構成的なアングルで活写しているなど、従来の建築眼線を即物的なる眼線として表象しているところに岸田日出刀の唯物的なる美が存在していて面白いといえる。<br />
＊<br />
それにしても、このような形而上的な思考をもっていたことは脅威といえないだろうか。昭和８年（1933）に来日したブルーノ・タウト（1880-1938）の桂離宮崇拝（「涙したい程美しい」）は、日本のモダニストの詩情を擽った（モダニズム啓蒙の選ばれし異人として）のであろうが、既に桂離宮と云わず日本建築とモダニズム建築との邂逅は果たされていたとみるべきなのであろう。それをエスコートした日本インターナショナル建築会代表の上野伊三郎（1893-1967）等をはじめ一部のモダニストたちは積極的に白きモダン建築を提唱し実践し始めていた。その無節操な行為（木骨造の乾式工法など）に岸田日出刀は先祖帰り「和」の意匠でアッピールしたのであり、決して安易にモダン、所謂インターナショナル思考に接近はしなかったといえる。これも先述のユニークな一面とは裏腹に猿真似を安易には容認しない、また物事の道理に適うことを信条とする岸田日出刀の頑固一徹な面が伺えよう。その証しとして、文明開化以後の建築界を担ってきた巨人辰野金吾、伊東忠太の伝記（『近代日本の科學者（1941）所収「辰野金吾傳」、『建築学者伊東忠太（1945）／乾元社』）を描き、自身の立ち位置について熟考されたことは戦前戦中の彼の行動（業界を牽引していった）を規定したともいえなくはない。要するに御自ら建築家を自称したところで、所詮建築は社会組織に翻弄されゆくだけで護送船団化する道は明らかであると悟って、建築家の正道を養護し実践させる立場、いわばそういったストラテジー（戦略）をとったのであろう。それが、コンペでの審査の立ち振る舞いや優秀な人材の目利きにも顕われているように思われるのだが・・・しかし岸田日出刀逝き後、高度成長、バブルとともに護送船団はその正道ならねばならぬ建築家の拡がりを基にして大きな勢力というか強固なるシステム（建設業者等との癒着）を築き上げ、逆に建築家の自由を奪う羽目となることも受容しなければならないのであろう。<br />
＊<br />
岸田日出刀は、明治３２年（1899）に司法官吏（裁判所書記官）であった父・岸田稔のもと次男として、福岡県福岡市で生まれているが、父の転勤で東京に落ち着くまで鳥取（悪まで出身地）、山梨と転々としている。大正３年（1914）東京府立第三中学校、大正６年（1917）第一高等学校第二部甲類を卒業し、大正９年（1920）に東京帝国大学工学部建築学科を卒業するのだが、同窓生にはライトの弟子であった土浦亀城（1897-1996）、東京拘置所の設計で有名な蒲原重雄（1898-1932）、そして長谷川輝雄（1896-1926）という俊才がいた。長谷川は大学院へ進学し学問（研究）と思潮（批評）をシンクロさせるべきことを主張したはじめての建築学者として将来嘱望させた存在（伊東忠太から歴史・意匠学教授の座を約束された）であった。近代建築思想の研究（卒論−「近代建築思潮と表現」）や四天王寺建築論の研究など広汎な建築研究と卓抜な作品（卒業設計−「クンストハウス」）で評価され、1924年には岸田、蒲原等とともにラト−（裸で闘う）建築会を結成し、帝都復興創案展に作品を出品し、これからという時に早逝してしまった（仔細は『長谷川輝雄氏遺稿（1927）』参照）。その意匠学教授の後任として内田祥三から指名を受けたのが、岸田日出刀であり、歴史学は京城（ソウル）高等工業学校に赴任していた藤島亥治郎（1899-2002）を呼び戻して、新たなる東大建築学科の体制を整えたのである。岸田は長谷川のようなトータリティには欠けていたが、デザインの技量には見るべきものが存在していた。卒業設計は「監獄建築の計画（1922）」で、同時に卒業論文も「監獄建築之研究（抄）（1922）」であるように、刑務所の建築を主題としており、明らかに大正のヒロインであった後藤慶二（1883-1919）の豊多摩監獄（1915）への強いオマージュ（白樺派的な）を感得することができるし、大正９年（1920）の分離派建築會に影響されたであろうラト−建築会での出品作「犠牲者供養塔（1924）」や内田祥三との東京帝国大学諸施設に至るデザインメソッドは一環して表現派を推していたといえよう。<br />
＊<br />
大学を卒業した岸田日出刀は大学院へは進まず、何故だか東大営繕課（技師）に勤務し内田祥三の設計（東大キャンパス計画）をフォローする役目を担う道を選択した。前述の長谷川の死がなければ、恐らく内田・岸田の共同なる設計事務所が実現し今世では大組織事務所となっていたかもしれない。何れにしろ、長谷川の死が岸田の人生を変貌させたことは間違いないであろう。長谷川病床の大正１４年（1925）に、講師からすぐさま助教授に就任し、内田は岸田を教授に推薦するために、その翌年（1926）に欧米を視察させ、当時ドイツやオランダの新興建築が瞠目されているなか『オット−ワグナー（1927）／岩波書店』を上梓させ、また誰も手をつけようとしなかった「欧州近代建築史論（1928）」を書かせ、伊東忠太の抵抗もあったが学位論文として認められ、晴れて昭和４年（1929）に教授就任となった。このコンビの絆が後の前川、丹下への系譜と繋がってゆくのだろうが・・・結果的には師内田祥三を上回る人脈を築きあげ、岸田はその才能を開花させたといえよう。大正１３年（1924）に実業家酒井静雄の長女（勝子）と結婚し三男一女の父となるが、長男を幼き頃に逝くしてはいるが、三男は横浜市都市計画局都市デザインの官吏となり、長女は研究室の教え子（沢村弘道（清水建設））と結婚している。そういった意味で清水建設の顧問を勤めるなど清水へは有能な人材を東大から毎年就職させていたらしい。（『岸田日出刀』より）<br />
＊<br />
その内田祥三とのコンビにより東大キャンパス内には岸田が担当した作品が、いまでもいくつか存在している。「図書館（1928）、現・総合図書館」は間違いなく内田のデザイン（内田ゴシック調）だが、三島由紀夫の割腹自殺、全共闘の籠城事件等で有名な「安田講堂（1921-1925）−登録有形文化財」は内田も語っているようにかなり岸田に依存させたようである。だから内田ゴシックというよりも表現主義的な様相が色濃く反映されているのだが、明らかに岸田のデザイン的特徴が露呈されているとわかるのが「理学部１号館（1926）、現・理学部旧１号館」のハンス・ペルツィッヒ風（半円窓）のデザインに、また「医学部附属病院南研究棟（1925）」はドイツ表現主義と機能主義をリンクさせ、有機的建築思想を提唱したフ−ゴー・ヘ−リング（1882-1958）の合理性が露である。そして龍岡門（東大病院の入口）に附随した「旧医学部附属病院夜間診療所（1926）、現・広報センター−東京都選定歴史建造物指定」にはオランダのアムステルダム派の闘将ミシェル・デ・クレルク（1884-1923）の構成主義的デザインが垣間みられる。このように内田ゴシックで埋め尽くされたなかで岸田日出刀の存在は当時「建築界のプリンス」と喚ばれるだけの仕事（ネクストビジョンを視野に入れた）をしていたことが偲ばれる。<br />
＊<br />
ちょうど其の頃に岸田研究室（担当教諭）から最初の門下生が巣立った。大学院へ進み建築評論やトロッケンモンタージュバウ（乾式）構法の研究を実践した市浦健（1904-1981）と、岸田からコルビュジェの本を渡され卒後パリへと旅立った前川國男がいた。その後も、森田茂介、柴岡亥佐雄、小坂秀雄、生田勉、立原道造、大江宏、丹下健三、浜口隆一、高山英華、吉武泰水、浅田孝、郭茂林、磯崎新、川上秀光と挙げたら切りがないくらい岸田スクールの根は孫、曾孫の代まで建築界に深く浸透している。所謂、政治で言えば建築界の最大派閥であった。しかし、東京大学の歴代意匠教授陣では、コンドル−辰野−伊東−佐野・内田−岸田−丹下・吉武−芦原−槇−香山−安藤ときても、最も実作評価（作品・論文）の乏しい印象を持たれていることは免れえないだろう。また、近代建築史家であった村松貞次郎や鈴木博之が語る建築界の歴史的系譜の俎上に載ることは寧ろ憚られてきたようにさえ思われる。その作品を岸田自身のクレジット（署名）で堂々と設計するようになったのは、日本のモダニズム黄金期と喚ばれる１９３０年代からであった。折しも建築界では猫も杓子もル・コルビュジェ礼讃ありきで、日本の気候風土には脆弱な白亜のフラットルーフなる建築が世を席巻した時代である。岸田日出刀はこの傾向を一番理解していながら異を唱えた作品を敢えて提示してきた。「武蔵野カントリークラブハウス（1934）」「山中カントリークラブハウス（1934）」「荒野氏邸（1935）」は一見、普通の屋根勾配をもった伝統的な民家風や和風といった日本の伝統的建築ではあるが、クラブハウスではテラス部の屋根形状の軽快さと空間の開放感・・・そして住宅には合理的な生活様式といった近代的な思考が伺える。それは、昭和４年（1929）の『過去の構成』に見る日本の伝統的建築に潜むモダン性への洞察から地域性（日本の風土性）へと置換せしめようとの企図も見え隠れするのだが、一部のひとからはナショナリズム（国粋的）への傾倒とも受容された。岸田は昭和５年（1930）に結成された新興建築家聯盟の左翼化傾向（山口文象、図師嘉彦、西山卯三など）の動向を訝しみ団体を脱会、二年後には陸軍経理学校講師も勤めるなど、其の頃からかなり保守勢力に接近したようで、昭和１０年（1935）に結成された日本工作文化聯盟は就中国家依りの団体で岸田はそこの理事を勤め、機関誌である『現代建築（1号から16号までで戦争のため中断）』の編集・出版に寄与した。その効果あってか昭和１５年（1940、皇紀２６００年）に日本で開催されることが決定した東京オリンピック大会（戦争で中止）施設の招致委員会幹事に抜擢され早稲田の内藤多仲とともに昭和１１年（1936）にベルリンの地を踏み、また兼ねてから興味のあったナチスドイツの建築を見て、帰国後に伯林オリンピックの記録集とともに『ナチス獨逸の建築（1943）／相模書房』を出版している。この書のなかで、若くしてナチス建築総監に任命されたアルベルト・シュペアー（1905-1981）への憧憬の念を語っていたこともあり、大きな誤解を戦後にまねくこととなるが、戦時下は専ら審査委員の立場でナショナリズム化した日本国の建築的ビジョンを模索した。それが、あの有名なる二大コンペに表徴されているのであろうが、其の前に岸田は巧妙なる御膳立てをしていた・・・それは・・・。<br />
＊<br />
東京オリンピック大会招致のイベントを境にして岸田日出刀の株は上がり、また社会的な地位を獲得するに至って建築業界からも一目置かれる存在となった。各種コンペの審査委員（「ひのもと會館」「大連市公会堂」）をはじめ、一般紙への執筆活動（建築的啓蒙）、そして講演会と多忙のあまり、自身で設計を行っている暇はなかったといえよう。そんななか、オリンピック招致が戦争激化のため中止となった昭和１５年（1940）に岸記念運動會館建設（岸清一博士（大日本体育協会会長）の基金により）として利用が決定されていた敷地に急遽、体育（名目は戦争）のための各種団体事務所を建設することととなり、岸田に白刃の矢が立った。それが「岸記念体育會館（1941）」であり、岸田は自ら設計は行わずして、当時新進の若手モダニストであり、ル・コルビュジェとの縁結びをさせた弟子の前川國男に設計を依頼した。そして、それを担当したのが、岸田が編集をしていた『現代建築』誌に「MICHELANGELO頌−Le Corbusier 論への序説として−」なる処女論文を掲載した丹下健三であったこと（その論文の内容のぎこちなさといい、あまり本人は語ってはいないところからして岸田から無理矢理依頼されたのではないかと推測される）は、戦時下における岸田の思い描いた戦略的な企図が感じられる。それは、建築界の旧体制からの脱却に加え、モダニズムをナショナリズム化の道具として利用しようとするもので、前川、丹下の「構成」ではなく「観念」なる美学に岸田が賭けていたのであろう。同じ年に「社会事業會館（1941）」もそのトリオで実現しているのだが、それらに共通するのは木造でありながら鉄骨のようなシャープさとル・コルビュジェの金科玉条であるピロティによる軽さが実現されていることである。<br />
＊<br />
その意味で「大東亜共栄圏建設記念造営計画（1942）」「在盤谷日本文化會館（1943）」というコンペは岸田が審査する立場にたちながら、先のトリオの結束力が活かされているように思われる。結果的には丹下健三が各々一等賞を獲得しているが、大東亜では前川國男は審査員として、一方在盤谷では二等となり、岸田の独断で丹下に辞退させ前川案を基にした実施設計を土浦亀城事務所に依頼するという分業化、言わば企画は丹下、基本は前川、実施は土浦というそれぞれの力量にあったプロデュースをしたのであり、これが恐らく建築界の分業化の端緒となったのではないかと考えられよう。応募要項にある日本文化の宣揚とか伝統的建築様式を基調とするなど、ナショナリズムを昂揚する表現形態を「神社」「寝殿造り」といった外来（仏教寺院など）によらない日本独自の様式美に依存させ、モダニズムとの着地点を探るといった岸田日出刀の思惑は・・・敗戦という屈辱で無に期してしまった。<br />
＊<br />
しかし、戦後の岸田日出刀は昭和２２年（1947）結成された新日本建築家集団（NAU）から戦犯呼ばわりされるなど一時辛い日々を送ったのだが、国民国家から民主国家への急激な変貌を諸共せずに戦後の建築界を横断した。まずは、疎開先の山梨から帰り、昭和２３年（1948）に日本建築学会会長の座に就くと、「学会作品賞」の創設に尽力した。また戦後の主要なコンペ（「仙台市公会堂（1948）：武基雄当選」「広島平和記念会館（1949）：丹下健三当選」）の審査委員も勤め、「平和記念広島カトリック聖堂（1954）」では「一等必選論」なる論文（一等を選出しないのは根本的に間違っているとする旨）を発表してコンペのあり方について問題提起された。その第一人者として高度経済成長化に実現した大きなコンペ（「下関市庁舎（1951）：MIDO同人（田中誠、大高正人）当選」「旧東京都庁舎（1952）：丹下健三」「新潟市庁舎（1952）：佐藤武夫」「外務省（1952）：小坂秀雄」「岡山県庁舎（1953）、国立国会図書館（1954）、世田谷区庁舎（1957）：前川國男＆MIDO同人」「国立劇場（1960）：岩本博行」「京都国際会議場（1960）：大谷幸夫」など）には当然のごとく審査委員に選出され、審査外であっても明治神宮再建（神社木造論を主張）や皇居の造営（吉村順三の辞退問題）、羽田空港（審査委員の松田軍平が設計を受託する）のコンペには辛口の批評を行った。その一方で岸田が設計したものも建築雑誌には発表されなかったが、知っている限りでいくつか存在する。冒頭に記した丹下健三作品に署名のある「図書印刷原町工場（1955）」「清水市庁舎（1955）」は設計顧問という立場で、また出身である鳥取の「倉吉市庁舎（1957）−日本建築学会作品賞受賞」は丹下健三との共同設計であり、前者のガラスのカーテンウォールに対して打放しコンクリートの骨太いフレーム構造を採用し、内部空間の抑揚がすばらしい。ところで、岸田日出刀が東大を定年退官する昭和３４年（1959）までに設計したものに「成長の家本部（1950）」「清風寺（1953）」「湯ケ原カントリークラブ（1956）」「富士銀行数寄屋橋支店（1957）」が記録としてあるのだが、どれも岸田の署名の感じられない作品ばかりである。しかし、余裕ができた定年後に研究室時代の後輩とともに岸田建築設計事務所として仕事をした作品に「高知県庁舎（1960）」や「西本願寺津村別院（1960）」、そして晩年には「明治神宮外苑テニスクラブハウス（1966）−現存しない」そして遺作となった「日光東照宮宝物殿（1966）」などにはこれまで培ってきた岸田のセンスの片鱗を伺い知ることも可能といえよう。ただ、岸田日出刀の最大で最期の功績は、２０年待って漸く実現したオリンピック東京大会・施設のプロデュ−スであり、その施設委員会の委員長を勤め丹下健三の代表作となった「国立屋内総合競技場・附属体育館（1964）」を実現させたことによろう。ここにおいても岸田−丹下のコンビは健在であった。大会が無事終了した二年後の昭和４１年（1966）、岸田日出刀はゴルフを愉しみに自身が設計した別荘「山中山荘（1959）」に夫婦で出かけて行き、座敷で眠るように息を引き取ったそうである。享年６７歳・・・思わぬ訃報であった。<br />
＊<br />
岸田が逝くなって、昭和４５年（1970）に大阪で万国博覧会が開催された。このイベントも岸田が生きていればオリンピックの成功裡も手伝ってかきっと主導的な立場を執ったであろうことは間違いない。しかし、戦後日本のデモクラシー（民主主義）は過大な成長を遂げ、クリエーターの思うがままを許さない民衆の力（学生運動など）に圧倒されだしたといえる。そのクリエーターとなる政治家は官僚と手を編むことで政治主導ではない官僚国家を築きあげそれを維持してきた。一方、芸術家は自己をアッピールできる場や思想の後ろ楯を喪しない民衆に迎合するか、国外に逃避する（活動する）といったところまで追いつめられていたのであり、とくに建築家はこの万博のテーマである「未来のビジョンを見据えた社会」の華やかさの裏で、環境問題（公害汚染）や景観問題（地方の再開発）といった社会事情とどのように取り組むべきなのか、そうした将来のビジョンの見えないまま、ひたすら意匠の既得権益を死守するしか道を選択しなかったといってよいであろう。だから７０年代当初、社会に背を向けた住宅（住吉の長屋や中野本町の家など）が多くつくられたのも頷けられようし、公共建築のあり方を問うこともままならないまま営利目的優先の事業や開発が横行した。神代雄一郎の論文「巨大建築に抗議する（1974）」は、超高層ビルの建築的意義と人間性理解への疑問といった問題を提起したのだが、建築界は何処吹く風といった営利優先の政・官・民の癒着構造（システム）追従の風潮を選択したのであり、そのようなシステムで未だ変わらず住宅からビルに至り生産され続けているのである。冒頭にわたしが述べた「建築家の正道を養護し、実践させる立場をとった」とした岸田日出刀・・・彼の建築デザイナーとしての才能は並外れていることを内田祥三は証言しているし、同窓の吉田宏彦（福井工大教授であった）、弟子の前川國男、丹下健三は同じように語っている。彼は、今日の建築ができあがる構造（仕組み）を、言わば予測していたであろうし、そのようにするために政治家諸氏にも働きかけたのであろう。大同小異、岸田の術中に嵌ったことになろうが、最大の汚点は、その仕組みを動かす「岸田日出刀」がいないことであり、翻せば「建築家の正道」を実践するものではなく、それを養護するひとがいないことなのである。その「養護」する、言わば「我が身を処す」ひとがいなくなったこと・・・畢竟するに、建築家は建築（作品）を生産することだけが能力ではないことを・・・。</p>
<p>2008.12.25　伊神誠治</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>遠州 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-39</link>
		<dc:creator>遠州</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 19 Dec 2008 19:02:00 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-39</guid>
		<description>27日のラスト研究会に参加させて頂きます。

岸田日出刀著の「過去の構成」を最近、古書店より購入してよく観ていますが、古典に対する深い洞察や
近代的な視点で切り撮られた写真に顕われた伝統建築の構成の妙に新鮮な驚きを感じました。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>27日のラスト研究会に参加させて頂きます。</p>
<p>岸田日出刀著の「過去の構成」を最近、古書店より購入してよく観ていますが、古典に対する深い洞察や<br />
近代的な視点で切り撮られた写真に顕われた伝統建築の構成の妙に新鮮な驚きを感じました。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-36</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 15 Dec 2008 05:43:54 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-36</guid>
		<description>■　最終回　「岸田日出刀−「（仮称）建築家の正道とは」研究会」

●
日時：12月27日（土）午後２時から午後６時まで　

会場：保戸田建築設計事務所
（最寄り駅は東西線葛西駅下車３分)

問合せ電話：（携帯080-1019-2303)
参加費：500円（資料代込み）

前回の研究会のレジュメについては、下記のホームページ掲示板にて御覧ください。
http://ddc.s21.xrea.com/bbs2/joyful.cgi</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>■　最終回　「岸田日出刀−「（仮称）建築家の正道とは」研究会」</p>
<p>●<br />
日時：12月27日（土）午後２時から午後６時まで　</p>
<p>会場：保戸田建築設計事務所<br />
（最寄り駅は東西線葛西駅下車３分)</p>
<p>問合せ電話：（携帯080-1019-2303)<br />
参加費：500円（資料代込み）</p>
<p>前回の研究会のレジュメについては、下記のホームページ掲示板にて御覧ください。<br />
<a href="http://ddc.s21.xrea.com/bbs2/joyful.cgi" rel="nofollow">http://ddc.s21.xrea.com/bbs2/joyful.cgi</a></p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>伊神誠治 より</title>
		<link>http://www.archi-channel.com/about/comment-page-1/#comment-24</link>
		<dc:creator>伊神誠治</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 25 Nov 2008 02:56:28 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://ac0801.kir.jp/?page_id=2#comment-24</guid>
		<description>■アンドレア・パラディオ研究会（11/23)への問題提起

『建築における仮面性の獲得』

わたしが、ルネッサンスの芸術家で特に気に留めていたジュリオ・ロマーノ（1492-1546）、そしてレオン・バッティスタ・アルベルティ（1404--1472）、・・・とくれば最後はやはりアンドレア・パラディオ（1508-1580）であろう。「ヴィッラ Villa」という住宅（別荘）の接頭語（因に、Casaはスペイン）として建築家の間で多く使われていたことを学生時代に憶い出すのであるが、恐らくパラディオのヴィッラ・シリーズに影響されていたことは間違いない。あれだけ多くのヴィッラを設計し、また普遍的なヴィッラの型を発見した天才建築家に敬畏を表したからであろうが、とくに磯崎新のヴォ−ルト・シリーズ（初期住宅）は差し詰めパラディオへのオマージュが具象化された一例といえよう。実はアンドレア・パラディオが研究者ではなく建築家の間で知られることとなったのは、没後４００年（1980年）を記念する国際学会や展覧会、シンポジウムと、既に1950年代に発表されていたルドルフ・ウィットコウア−（1901-1971）の「ヒューマニズム建築の源流」でのファサード（古代神殿のモチーフ）の分析性やコーリン・ロウ（1920-1999）の論文「理想的ヴィッラの数学」によるル・コルビュジェの住宅との類似性を指摘したロウの明晰性への首肯からとされている。わたしはその論文を纏めた『マニエリスムと近代建築（1981）／コーリン・ロウ著伊東豊雄、松永安光訳／彰国社』によってイタリア・ルネサンスの、所謂芸術家肌的な建築の美とは異なる、今日的な視点（現代性）を嗅ぎとってこのアンドレア・パラディオ探求の機縁と相成った。
＊
アンドレア・パラディオの魅力は、単なる普遍性が内包されているからだけではないことはヴィッラだけではなくパラッツォ（都市住宅）やバジリカ（会議場）、教会、劇場、橋といった社会的所産をめぐる広汎な仕事からも実証され得ており、またパラディオの著書『クゥアトロ・リブリ（建築四書）』はウィトリウィウスやアルベルティの「建築十書」と並び称せられる理論的体系を構築したものとして夙に有名である。そして古今東西、パラディオへの羨望の眼差しは、アメリカ合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソン（1743-1826）のパラディオ・フェチ（ヴァ−ジニア大学やモンティ・チェッロ別荘）や文豪ゲーテ（1749-1832）も『イタリア紀行』で絶賛するなど、建築家も比肩しがたいほど広大な裾野を形成するに至っている。とくにイギリスへ飛び火しイニゴ・ジョーンズ（1573-1652）やロバート・スミッソン（1536-1614）などの建築家がパラディアニズムなる様式（歴史上、建築家の名を冠した主義は存在しない）を確立し、１９世紀のネオクラシズム期まで多大なる影響を及ぼしたことなど、世界遺産という「もの（古典的作品）」としての価値というよりも「近代性（同時代性）」を宿したものとしての価値を発見させてくれたといえよう。
＊
パラディオが生きた１６世紀（チンクエチェント）は、これまでの石工や大工といった職人芸術家の域を脱してユマニスト（人文主義者）として教養を身につけた建築家が台頭してきた時代でもある。とくに建築学体系を確立したセバスティアーノ・セルリオ（1475-1555）の『建築七書（1537年以降）』をはじめジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ（1507-1575）の『建築の五つのオーダー（1562年）』そしてアンドレア・パラディオは『建築四書（1570）』を出版し、フィレンツェ派（ミケランジェロの弟子たち）のアンマナーティ、ブオンタレンティ、ヴァザーリといった理論的体系を持たない建築家との違いを見せた。しかし、セルリオやヴィニョーラの体系とは異なり、悪まで作品主義（自作）を貫いたパラディオは自身の作品をその理論的体系の解説としても引用し、第二書では主に住宅、そして第三書では道路や橋、バジリカなど公共建築を例にとり、さながら自身の作品集（図面集）ともとれる近代的思考（現代で言うメディア戦略）を実践したことが伺い知れる。だから当時の建築家としては破格の物件数（仕事）をこなしたことでも明らかなようにパラディオは芸術的、技術的才能も然ることながら弁証法（経験よりも分析的）に熟達していたのであろう、要するにクライアント（トリッシノ、バルバロ、コルナーロ等）の心を掴む術と迅速、且つ決断力に長けていたともいえる。それが証拠にパラディオの構造は恒久的な石造よりも安ぶちで簡易な煉瓦造漆喰塗りの建築が多いことからも頷けよう。まあ戦前に於ける日本のモダンハウス（白亜壁の箱型の住宅）のコンクリート造と木骨造（漆喰または乾式）の違いみたいなもので、明らかに耐久性という点で劣っていたことは事実である、しかし気候の違いもあるのだがイタリアでの修復保存の文化的思考に支えられ、いまでもパラディオの作品は大差ない状態で見ることができるのも日本の文化的事情との違いを露呈していると実感できよう。
＊
アンドレア・パラディオは北イタリアのパドヴァで粉屋の息子として生まれ、アンドレア・ディ・ピエトロ・ダラ・ゴンドーラという長い姓（本名）をもつごく普通の一般庶民として育った。１３歳でパドヴァの彫刻師バオトロメオの工房で石切工として徒弟奉公に入るが、程無くしてそこを脱走し一家ともども1524年にヴィチェンツァに移住している。その後ポルレッツァのペデムーロの工房に移りそこで修行を積み、1530年にマエストロ（親方）の資格を取り、祭壇や墓の制作、附属屋の仕事などを経験し４年後には指物大工の娘・アレグラドンナと結婚し４男１女を授かるのである。・・・と、このまま安穏な人生を過ごしたならば「建築家 アンドレア・パラディオ」は存在しなかったであろう。その千載一遇となったのが、ヴィチェンツァのユマニストであるジャンジョルジョ・トリッシノ（1478-1550）との出会いであろう。彼は建築家としての能力も兼ね備えた人物で素人にもかかわらず自身が所有していた屋敷の改造を手掛け、当時アンドレアが在籍していたペデムーロ工房に施工を依頼した。そこで出会したアンドレアの素質を見抜いたトリッシノは理想的建築家として仕立て上げようと古典教育やローマへの建築視察旅行などに参加させ、またサークルの仲間などにも紹介し、さらに「パラディオ」という雅号を授けてヴィチェンツァの郷土建築家としての地位を築かせた。このトリッシノとの機縁を境にヴィチェンツァ近郊の貴族たちが設計依頼に訪れるようになり、石工時代に附属屋を手掛けたゴーディ家からの改築工事「ヴィッラ・ゴーディ（1537-42）」がパラディオにとっての処女作となった。一介の職人であったアンドレアからユマニストなる教育を受けたパラディオへの変転は、やはり古代ローマ建築への憧憬やら実測調査で学び取った知識が直截的に反映されたかたちとして現われるはずであったが、その後の作品「パラッツォ・ティエーネ（1542-58）、ジュリオ・ロマーノ関与説がある」「ヴィッラ・ピサーニ（1542-47）」「ヴィッラ・ガゾッティ（1542-45）」などは、尊敬していたブラマンテの「ラファエロの家」や理論家アルベルティの版型をなぞっているかに見えるデザイン（三連アーチ状の破風屋根の正面にピアノノビレ（主階）へ昇る階段を配する）に留まっているといえよう。
＊
そうしたなか、ヴィチェンツァ市の裁判所及び市庁舎「パラッツォ・デラ・ラジョーネ、別称“バジリカ”（1545-80）」の設計依頼が先述のトリッシノの策略によってパラディオにめぐってきたのである。それは1444年に建てられた中世様式のホールを新しいルネサンス様式に改造しようとするもので、すでに1938年のサンソヴィーノ、1939年にはセルリオ、1941年にはサンミケーリ、そして1942年にはジュリオ・ロマーノを招聘して助言や模型などで実施案を求めたのだが決定するには至らなかったものである。すでに「パラッツォ・デル・テ（1535）」でマントヴァの主任建築家の地位に就き名声を得ていたジュリオ・ロマーノへ早々に面会し意見を求め、そしてトリッシノとローマへ行き「バジリカ」の設計アイデアを練るといった二人三脚での闘いの末、二度の図面・模型提示を経て、1549年に決定を見て着工にこぎつけたのであるが、その翌年、トリッシノは没して完成はなんとパラディオの死後34年経った1614年となったものである。でも、この建築はパラディオの新機軸が発揮されたもので、マニエリスムの表層的な面に依存せずロッジア（回廊）を伴ったエレベーション（姿図）に度量衡（深みや厚み）を付与し、セルリアーナと喚ばれるセルリオが普及させようとした両側円形＋アーチ盾式が軽快に絶妙のプロポーションでもって囲繞（いにょう）している。総体的には、参考にしたであろうといわれるサンソヴィーノの「ヴェネチア旧図書館（1537）」の水平な列柱廊というよりも厳格なグリッド構造が表層から垣間見られ、逆に近傍にある「パラッツォ・キエリカーティ（1550-57）」はアーチ形式を除いた開放的な列柱廊で構成されていてヴェネト地方色の濃いデザインから脱却しようとする企図が感じられる。
＊
バジリカの成功によりヴィチェンツァで名を馳せたパラディオは次なるクライアント、ダニエーレ・バルバロ（1513-1570、大司教）、そしてトリッシノのアカデミーで知り合ったアルヴィーゼ・コルナーロ（1484-1566、営農家）といった建築に関して人一倍強烈な個性を持ち合わせたユマニストたちの援護によって、パラディオ形式のヴィッラ（郊外住宅）を発展、完成させていった。とくにコルナーロは合理主義、そしてバルバロは快楽主義的なフマニストであった。その企図が彼らのヴィッラの形式によく反映されているといえる。「ヴィッラ・コルナ−ロ（1552-58）」はピアノノビレ（主階）の平面を重ね合せただけの２階屋で、正面を上下二層に亘りロッジアとするなど極力シンプルなかたちで纏めている。一方、バルバロは、古代趣味が旺盛で『ウィトルウィウスの建築十書』の翻訳・出版に際し、パラディオに図版を描かせるなどした仲であり、これが縁で『建築四書』出版の糧となったと言われているのだが、バルバロの豪邸「ヴィッラ・バルバロ（1554-58）」はパラディオの作品としては珍しい両翼渦巻き型破風を載せてキッチュで玩具的（日時計や広間のだまし絵、半円形のニンフェイムなど）な書き割り建築のようにも見えるが、日本の平等院鳳凰堂を憶わせるすらっと伸びた両翼構成のプロポーションは連続する抉られたアーチ壁によるレイヤリング効果（重ね合せ）もあってか希有な佇まいを見せている。ところが同じような構成は「ヴィッラ・エーモ（1559-66）」でも試みられているが、ややそれは鈍調である。
＊
パラディオは1556年にヴィチェンツァのアカデミアオリンピアの創立メンバーとなると、宿願であったヴェネツィアへの憧憬（パドヴァもヴィチェンツァも1405年以降ヴェネツィア共和国の支配下にあり、あくまで文化経済の中心地は首都・ヴェネツィアであった）もあってプロジェクト進出を企てるのだが、1570年に当時のヴェネツィア・主任建築家であったヤコポ・サンソヴィーノ（1486-1570）が没するまでは、やはり「リアルト橋設計案（1554）・修正案（1565）を提示したものの実現には至らなかったが、1970年にパッサーノ・デル・グラッパの橋を完成させている」や「サンタ・マリア・デラ・カリヤ修道院（1560-70、現・美術アカデミー）、中途で中断」など、壁は大きかったといえよう。しかし、パラディオの宗教建築の代表作とも言われている「サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂（食堂は1560-63、聖堂は1564-80）」はサンマルコ広場・総督宮（ドゥカーレ宮殿）前に浮かぶサン・ジョルジョ島に建てられたベネディクト派の大修道院で赤褐色の煉瓦壁の本体に純白の神殿風正面ファサードが特徴的な「古典様式を伴ったバジリカ式聖堂」における新機軸を打ち立てた。それは前述のレイヤリング効果を最大限発揮した正面ファサードとジュデッカ運河と教会内部とのダイレクトな関係に見事に現われている。その風貌は、ペスト（1575年に流行した伝染病）の猛威を収拾、祈願するために建てられた「イル・レデントーレ聖堂（1579-80）」にも踏襲され、ともにサンマルコ広場を凝視する場所に、また対岸からは象徴的なる美しい風景（絵画的な）のシルエットとして存在している。１８世紀の画家アントニオ・カナレット（1697-1768、ヴェネツィア出身）は郷里ヴェネツィアの都市を写実することに飽き足らず、かってにパラディオの代表作をヴェネツィアの都市に、然もそこに存在したかのような空想的な風景画を描いている。これもパラディオの影響が末代まで継続していたことの裏付けといよう。
＊
ここまでくるとすでに大建築家といったところであろうか。ヴェネツィアも然ることながら各地方でヴィッラ建設のラッシュとなった。そのなかで、とくに眼を惹くものは、やはりコーリン・ロウの分析（ル・コルビュジェのシュタイン邸、それにサヴォア邸との邂逅を指摘した）で知られる「ヴィッラ・フォスカリ」と「ヴィッラ．ロトンダ」ではなかろうか。わたしもこの論文で魅せられた類いのひとりであり、ル・コルビュジェ（1887-1965）の「トラセ・レギュラト−ル（指標線）」なる平面プランの重ね合せと比例の秩序との一致なる発見は当時熟読（研究室でもゼミで読み合わせをしていたほど）して驚嘆するに及んだ。まあ、創造というよりも発想の視点の卓抜さとして理解していたのだが、逆にこのヴィッラの存在そのものが訴えかけてくるのも事実であり、ロウの分析的なものではなく寧ろ、何故だかアドルフ・ロース（1870-1933）の住宅との接点が見い出された。それは、ロースの言う「ポチョムキン都市」とか「装飾と犯罪」などの世論批評ともとれる言説と古典回帰の本意（精神）とがパラディオの作品と重なって見えてきたからである。その「ヴィッラ・フォスカリ（1558-60）」は別称「ラ・マルコンテンタ（不満げな女）」（地名）とも言われているが、ヴェネツィアの貴族であるニコロとアルヴィーゼ兄弟のセカンドハウスとしてブレンダ河という運河に面して建っている。京都・八条宮家の館「桂離宮（1615頃）」は桂川から舟でアプローチしたと言われているように、このフォスカリ邸もヴェネツィアからはるばる舟で運河（グランデ）を航行し利用していたらしい。とにかくこの別荘は住宅のスケールが少し逸脱しており、ビッグネス（巨大性）観が露である。それはできるかぎり眺望を得ようと周辺の環境から突出するように、そして河の氾濫のためなのだろうかピアノノビレを高くとり附属棟が結合しない純粋な構成（箱型）をとっている。そのためだろうか正面性が開放され座りとか安定感のない無気味な貌（立面）を周辺に向けている。屋根から突き出るミナレット（モスクの尖塔）のような背高な煙突（のような）も、その様相を昂揚させているといえよう。その後年に建てられたロトンダには完璧なかたちでそれが現われている・・・。その「ヴィッラ・アルメリコ（1566-69）」は、通称「ラ・ロトンダ」（以後、ロトンダ）と喚ばれている。教皇庁の高位聖職者であったパオロ・アルメリコ（1514-89）の田園住居として構想されたが、パラディオ没後に弟子のヴィチェンツァ・スカモッツィ（1552-1616）によってクーポラ（天蓋）と外階段が造られ完成に至った。因にパラディオの遺産を相続したのはこのヴィチェンツァ・スカモッツィであり、彼はその後継を優秀な建築家に権利（遺産）を譲渡するためカプラ家に依頼して没した。そのカプラ家というのがロトンダを相続した一族であり、今日、パラディオの書物や図面類が完全なかたちで残されているのも、このカプラ家の後継者マリオ・カプラ男爵と彼に建築家として育てられたオッタヴィオ・ベルトッティ（1719-1790、スカモッツィ姓を継承）の成果『Le Fabbriche e i Disegni di Andrea Palladio ：パラディオ図面集』の賜物といわれている。
＊
ところで、ちょっと逸れてしまったのだが、パラディオと言えばこの「ロトンダ」と喚ばれるくらい、ル・コルビュジェの「サヴォア邸」と同義で語られる普遍性を内在した住宅として知られている。このロトンダの完璧なる幾何学性ないしは理想郷（アルカディア）、宇宙観（コスモロジー）については誰もが好意的に語っているのであるが、以下にゲーテが『イタリア紀行』で述べた感想はそれとは異にしていて興味深い。

・・・・恐らく建築術上これ以上贅をつくした例はほかにあるまい。階段と玄関との占めている面積は、家屋そのものの面積より遥かに広いのである。・・・・内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとはいえない。広間は絶美の均斉を保っている。それぞれの部屋も同様。しかし高貴の家庭の避暑地としては、あまり十分とはいかないであろう。そのかわり、どこから見ても壮麗な景観を呈することは、この地方において他に比儔を見ない。−『イタリア紀行／ゲーテ著相良守峯訳』より

それは、このロトンダが生活するための諸施設を欠いている（納屋など）ことなどからもパビリオン的な意味合いが強ったのではないかと言われている論拠である。寧ろ、わたしは４面すべてが同じ貌（立面−古代神殿のポルティコ（テラス））を持っていることにフォスカリ同様、無気味さを感じないではいられないのである。同じように近代の傑作と言われるサヴォア邸も眺望を支配するニ層レヴェルの４面はすべて連続窓（穴：ヴォイド）の貌をもったものであり、非常に謎めいたアウラを周辺に放散している。それはあらゆる生き物がそうであるように、必ず正面性という秩序観が賦与され安心感を抱かせる姿形となっているのだが、若しも眼や口が後頭部についていたとしたなら驚愕するのと似てはいないだろうか。きっと、逆説的には未完に終わった「ヴィッラ・トリッシノ計画案（1567頃）」が完成していれば最大規模で、しかもバロック的な円廊とロトンダの原型が活かされた正面性の強い建築が誕生し、大傑作となっていたのであろうが・・・。（既にバロック的な円廊は「ヴィッラ・バドエル（1556-63）」で試みられている）
＊
1568年にパラディオは、仕事の多忙さのあまり神聖ローマ皇帝からのウィーン招聘を断っている。それは1570年にヴェネツィアの書店ドメニコ・デ・フランチェスキから出版された『クゥアトロ・リブリ（建築四書）』編纂の労に費やされたことに加え、パラディオの仕事の全盛期が主に1560年から1570年に集中していたからであろうと推測でき得る。これまでに取り上げられなかった「ロッジア・デル・カピタニアート（1565-72）」「パラッツォ・ヴァルマラーナ・ブラーガ（1554-71）」「ヴィッラ・サレーゴ（1565-69）」なども、先のロトンダやフォスカリの時期に計画されたもので、古代神殿のモチーフとなる巨大オーダー（円柱、付柱、粗柱といった）への試行錯誤の跡が見られ、ヴィッラやパラッツォといった住居の設計は頂点に達していた。しかし、1572年に、長男、三男が疫病（伝染病）のため相次いで他界し、1574年には妻アレグラドンナが死去（恐らく、ペストにより）し、また戦友でもあるヴィニョーラやヴァザーリもこの時期に亡くなり、そしてヴェネツィアでのペストの流行によるものと思われるが、パラディオの仕事も墓碑や修復調査（パラッツォ・ドゥカーレ火災のため）、教会の増築や改築といったことに限定され、仕事は激減していたことが伺い知れる。その後、ペストという社会的不安が解消され、その祈祷所として計画された「イル・レデントーレ聖堂（1578-80）」がパラディオの案により決定され、またあのバルバロの弟マルカントニオから依頼された小礼拝堂「テンピエット・バルバロ（1579-80）」にも着手し、ヴィチェンツァの文化活動の拠点となったアカデミア・オリンピカ（1556年創設の組織）からは待望の劇場設計「テアトロ・オリンピコ（1580-83）」の依頼があり・・・・と、再びパラディオの事務所が活気を呈する時候であった1580年8月19日、７１歳でこの世を逝った。その後は残されたスケッチをもとに弟子のスカモッツィが完成にこぎつけたが、前述したように遺産相続は次男マルカントーニ（彫刻師）と四男シッラの消息不明により、彼の手に委ねられたとされているが、パラディオ本人もどのように亡くなったのかは記されていない・・・・。
＊
このようなパラディオの人生を辿ってみて思うことは、フィリッポ・ブルネレスキからはじまったイタリア・ルネサンスの建築美の根っこが、たとえばアノニマスな自然発祥的なものや神話的なもの（匿名性）とは異なる「自我（行動）」と「博識（科学）」からなるユマニズム（人文主義）に支えられていたことにあろう。この二面性というのは、頭で感じたことを直喩的な表現、もしくは感情に訴えて表現するものとは異にするのだろうが・・・。この思考回路は、この世に存在しない建築を生み出そうとすることではなく、古代ローマの建築への憧憬を別の回路・・・要するにマニエラという手法を借りてメタモルフォーゼ（変容）するという操作（ランガージュ：言語性）または理論の構築と彼らに内省する美とが結びついて生まれたものと理解される。この二面性なる極致、または近代性とも呼べるものを発展極まりないものとして確立したのが、アンドレア・パラディオだといえよう。それはイタリア・ルネサンス期を漢詩で言う「起承転結」になぞえれば、「起」をブルネレスキとすれば「承」はブラマンテ、「転」はミケランジェロであり、「結」はパラディオとなろうが、敢えてそのパラディオのキーワードを探るとすれば、「仮面性」なのだといえよう。それは新古典主義（古代ギリシャ・ローマの回帰）の形式的なものから脱却した近代の自我、またはその端緒が、このパラディオだと言えるからである。イタリアの建築史批評家であったマンフレッド・タフーリ（1935-1994）はイタリア合理主義の建築（とくにジュゼッペ・テラーニ）に潜む形態のアウラを評して「エレメント」ではなく「マスク」と喚んでいたのを記憶しているが、バウハウス（ドイツ）やデ・スティル（オランダ）のようなエレメンタリズムの美学ではないものを感じとったのであろう。畢竟すれば、アンドレア・パラディオの建築とは先頃邦訳されたヴィトルト・リプチンスキの著書のタイトルにある「完璧な家」ではなく「不安で無気味な貌（仮面）」といえなくはないだろうか・・・・。

2008.11.22　伊神誠治</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>■アンドレア・パラディオ研究会（11/23)への問題提起</p>
<p>『建築における仮面性の獲得』</p>
<p>わたしが、ルネッサンスの芸術家で特に気に留めていたジュリオ・ロマーノ（1492-1546）、そしてレオン・バッティスタ・アルベルティ（1404&#8211;1472）、・・・とくれば最後はやはりアンドレア・パラディオ（1508-1580）であろう。「ヴィッラ Villa」という住宅（別荘）の接頭語（因に、Casaはスペイン）として建築家の間で多く使われていたことを学生時代に憶い出すのであるが、恐らくパラディオのヴィッラ・シリーズに影響されていたことは間違いない。あれだけ多くのヴィッラを設計し、また普遍的なヴィッラの型を発見した天才建築家に敬畏を表したからであろうが、とくに磯崎新のヴォ−ルト・シリーズ（初期住宅）は差し詰めパラディオへのオマージュが具象化された一例といえよう。実はアンドレア・パラディオが研究者ではなく建築家の間で知られることとなったのは、没後４００年（1980年）を記念する国際学会や展覧会、シンポジウムと、既に1950年代に発表されていたルドルフ・ウィットコウア−（1901-1971）の「ヒューマニズム建築の源流」でのファサード（古代神殿のモチーフ）の分析性やコーリン・ロウ（1920-1999）の論文「理想的ヴィッラの数学」によるル・コルビュジェの住宅との類似性を指摘したロウの明晰性への首肯からとされている。わたしはその論文を纏めた『マニエリスムと近代建築（1981）／コーリン・ロウ著伊東豊雄、松永安光訳／彰国社』によってイタリア・ルネサンスの、所謂芸術家肌的な建築の美とは異なる、今日的な視点（現代性）を嗅ぎとってこのアンドレア・パラディオ探求の機縁と相成った。<br />
＊<br />
アンドレア・パラディオの魅力は、単なる普遍性が内包されているからだけではないことはヴィッラだけではなくパラッツォ（都市住宅）やバジリカ（会議場）、教会、劇場、橋といった社会的所産をめぐる広汎な仕事からも実証され得ており、またパラディオの著書『クゥアトロ・リブリ（建築四書）』はウィトリウィウスやアルベルティの「建築十書」と並び称せられる理論的体系を構築したものとして夙に有名である。そして古今東西、パラディオへの羨望の眼差しは、アメリカ合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソン（1743-1826）のパラディオ・フェチ（ヴァ−ジニア大学やモンティ・チェッロ別荘）や文豪ゲーテ（1749-1832）も『イタリア紀行』で絶賛するなど、建築家も比肩しがたいほど広大な裾野を形成するに至っている。とくにイギリスへ飛び火しイニゴ・ジョーンズ（1573-1652）やロバート・スミッソン（1536-1614）などの建築家がパラディアニズムなる様式（歴史上、建築家の名を冠した主義は存在しない）を確立し、１９世紀のネオクラシズム期まで多大なる影響を及ぼしたことなど、世界遺産という「もの（古典的作品）」としての価値というよりも「近代性（同時代性）」を宿したものとしての価値を発見させてくれたといえよう。<br />
＊<br />
パラディオが生きた１６世紀（チンクエチェント）は、これまでの石工や大工といった職人芸術家の域を脱してユマニスト（人文主義者）として教養を身につけた建築家が台頭してきた時代でもある。とくに建築学体系を確立したセバスティアーノ・セルリオ（1475-1555）の『建築七書（1537年以降）』をはじめジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ（1507-1575）の『建築の五つのオーダー（1562年）』そしてアンドレア・パラディオは『建築四書（1570）』を出版し、フィレンツェ派（ミケランジェロの弟子たち）のアンマナーティ、ブオンタレンティ、ヴァザーリといった理論的体系を持たない建築家との違いを見せた。しかし、セルリオやヴィニョーラの体系とは異なり、悪まで作品主義（自作）を貫いたパラディオは自身の作品をその理論的体系の解説としても引用し、第二書では主に住宅、そして第三書では道路や橋、バジリカなど公共建築を例にとり、さながら自身の作品集（図面集）ともとれる近代的思考（現代で言うメディア戦略）を実践したことが伺い知れる。だから当時の建築家としては破格の物件数（仕事）をこなしたことでも明らかなようにパラディオは芸術的、技術的才能も然ることながら弁証法（経験よりも分析的）に熟達していたのであろう、要するにクライアント（トリッシノ、バルバロ、コルナーロ等）の心を掴む術と迅速、且つ決断力に長けていたともいえる。それが証拠にパラディオの構造は恒久的な石造よりも安ぶちで簡易な煉瓦造漆喰塗りの建築が多いことからも頷けよう。まあ戦前に於ける日本のモダンハウス（白亜壁の箱型の住宅）のコンクリート造と木骨造（漆喰または乾式）の違いみたいなもので、明らかに耐久性という点で劣っていたことは事実である、しかし気候の違いもあるのだがイタリアでの修復保存の文化的思考に支えられ、いまでもパラディオの作品は大差ない状態で見ることができるのも日本の文化的事情との違いを露呈していると実感できよう。<br />
＊<br />
アンドレア・パラディオは北イタリアのパドヴァで粉屋の息子として生まれ、アンドレア・ディ・ピエトロ・ダラ・ゴンドーラという長い姓（本名）をもつごく普通の一般庶民として育った。１３歳でパドヴァの彫刻師バオトロメオの工房で石切工として徒弟奉公に入るが、程無くしてそこを脱走し一家ともども1524年にヴィチェンツァに移住している。その後ポルレッツァのペデムーロの工房に移りそこで修行を積み、1530年にマエストロ（親方）の資格を取り、祭壇や墓の制作、附属屋の仕事などを経験し４年後には指物大工の娘・アレグラドンナと結婚し４男１女を授かるのである。・・・と、このまま安穏な人生を過ごしたならば「建築家 アンドレア・パラディオ」は存在しなかったであろう。その千載一遇となったのが、ヴィチェンツァのユマニストであるジャンジョルジョ・トリッシノ（1478-1550）との出会いであろう。彼は建築家としての能力も兼ね備えた人物で素人にもかかわらず自身が所有していた屋敷の改造を手掛け、当時アンドレアが在籍していたペデムーロ工房に施工を依頼した。そこで出会したアンドレアの素質を見抜いたトリッシノは理想的建築家として仕立て上げようと古典教育やローマへの建築視察旅行などに参加させ、またサークルの仲間などにも紹介し、さらに「パラディオ」という雅号を授けてヴィチェンツァの郷土建築家としての地位を築かせた。このトリッシノとの機縁を境にヴィチェンツァ近郊の貴族たちが設計依頼に訪れるようになり、石工時代に附属屋を手掛けたゴーディ家からの改築工事「ヴィッラ・ゴーディ（1537-42）」がパラディオにとっての処女作となった。一介の職人であったアンドレアからユマニストなる教育を受けたパラディオへの変転は、やはり古代ローマ建築への憧憬やら実測調査で学び取った知識が直截的に反映されたかたちとして現われるはずであったが、その後の作品「パラッツォ・ティエーネ（1542-58）、ジュリオ・ロマーノ関与説がある」「ヴィッラ・ピサーニ（1542-47）」「ヴィッラ・ガゾッティ（1542-45）」などは、尊敬していたブラマンテの「ラファエロの家」や理論家アルベルティの版型をなぞっているかに見えるデザイン（三連アーチ状の破風屋根の正面にピアノノビレ（主階）へ昇る階段を配する）に留まっているといえよう。<br />
＊<br />
そうしたなか、ヴィチェンツァ市の裁判所及び市庁舎「パラッツォ・デラ・ラジョーネ、別称“バジリカ”（1545-80）」の設計依頼が先述のトリッシノの策略によってパラディオにめぐってきたのである。それは1444年に建てられた中世様式のホールを新しいルネサンス様式に改造しようとするもので、すでに1938年のサンソヴィーノ、1939年にはセルリオ、1941年にはサンミケーリ、そして1942年にはジュリオ・ロマーノを招聘して助言や模型などで実施案を求めたのだが決定するには至らなかったものである。すでに「パラッツォ・デル・テ（1535）」でマントヴァの主任建築家の地位に就き名声を得ていたジュリオ・ロマーノへ早々に面会し意見を求め、そしてトリッシノとローマへ行き「バジリカ」の設計アイデアを練るといった二人三脚での闘いの末、二度の図面・模型提示を経て、1549年に決定を見て着工にこぎつけたのであるが、その翌年、トリッシノは没して完成はなんとパラディオの死後34年経った1614年となったものである。でも、この建築はパラディオの新機軸が発揮されたもので、マニエリスムの表層的な面に依存せずロッジア（回廊）を伴ったエレベーション（姿図）に度量衡（深みや厚み）を付与し、セルリアーナと喚ばれるセルリオが普及させようとした両側円形＋アーチ盾式が軽快に絶妙のプロポーションでもって囲繞（いにょう）している。総体的には、参考にしたであろうといわれるサンソヴィーノの「ヴェネチア旧図書館（1537）」の水平な列柱廊というよりも厳格なグリッド構造が表層から垣間見られ、逆に近傍にある「パラッツォ・キエリカーティ（1550-57）」はアーチ形式を除いた開放的な列柱廊で構成されていてヴェネト地方色の濃いデザインから脱却しようとする企図が感じられる。<br />
＊<br />
バジリカの成功によりヴィチェンツァで名を馳せたパラディオは次なるクライアント、ダニエーレ・バルバロ（1513-1570、大司教）、そしてトリッシノのアカデミーで知り合ったアルヴィーゼ・コルナーロ（1484-1566、営農家）といった建築に関して人一倍強烈な個性を持ち合わせたユマニストたちの援護によって、パラディオ形式のヴィッラ（郊外住宅）を発展、完成させていった。とくにコルナーロは合理主義、そしてバルバロは快楽主義的なフマニストであった。その企図が彼らのヴィッラの形式によく反映されているといえる。「ヴィッラ・コルナ−ロ（1552-58）」はピアノノビレ（主階）の平面を重ね合せただけの２階屋で、正面を上下二層に亘りロッジアとするなど極力シンプルなかたちで纏めている。一方、バルバロは、古代趣味が旺盛で『ウィトルウィウスの建築十書』の翻訳・出版に際し、パラディオに図版を描かせるなどした仲であり、これが縁で『建築四書』出版の糧となったと言われているのだが、バルバロの豪邸「ヴィッラ・バルバロ（1554-58）」はパラディオの作品としては珍しい両翼渦巻き型破風を載せてキッチュで玩具的（日時計や広間のだまし絵、半円形のニンフェイムなど）な書き割り建築のようにも見えるが、日本の平等院鳳凰堂を憶わせるすらっと伸びた両翼構成のプロポーションは連続する抉られたアーチ壁によるレイヤリング効果（重ね合せ）もあってか希有な佇まいを見せている。ところが同じような構成は「ヴィッラ・エーモ（1559-66）」でも試みられているが、ややそれは鈍調である。<br />
＊<br />
パラディオは1556年にヴィチェンツァのアカデミアオリンピアの創立メンバーとなると、宿願であったヴェネツィアへの憧憬（パドヴァもヴィチェンツァも1405年以降ヴェネツィア共和国の支配下にあり、あくまで文化経済の中心地は首都・ヴェネツィアであった）もあってプロジェクト進出を企てるのだが、1570年に当時のヴェネツィア・主任建築家であったヤコポ・サンソヴィーノ（1486-1570）が没するまでは、やはり「リアルト橋設計案（1554）・修正案（1565）を提示したものの実現には至らなかったが、1970年にパッサーノ・デル・グラッパの橋を完成させている」や「サンタ・マリア・デラ・カリヤ修道院（1560-70、現・美術アカデミー）、中途で中断」など、壁は大きかったといえよう。しかし、パラディオの宗教建築の代表作とも言われている「サン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂（食堂は1560-63、聖堂は1564-80）」はサンマルコ広場・総督宮（ドゥカーレ宮殿）前に浮かぶサン・ジョルジョ島に建てられたベネディクト派の大修道院で赤褐色の煉瓦壁の本体に純白の神殿風正面ファサードが特徴的な「古典様式を伴ったバジリカ式聖堂」における新機軸を打ち立てた。それは前述のレイヤリング効果を最大限発揮した正面ファサードとジュデッカ運河と教会内部とのダイレクトな関係に見事に現われている。その風貌は、ペスト（1575年に流行した伝染病）の猛威を収拾、祈願するために建てられた「イル・レデントーレ聖堂（1579-80）」にも踏襲され、ともにサンマルコ広場を凝視する場所に、また対岸からは象徴的なる美しい風景（絵画的な）のシルエットとして存在している。１８世紀の画家アントニオ・カナレット（1697-1768、ヴェネツィア出身）は郷里ヴェネツィアの都市を写実することに飽き足らず、かってにパラディオの代表作をヴェネツィアの都市に、然もそこに存在したかのような空想的な風景画を描いている。これもパラディオの影響が末代まで継続していたことの裏付けといよう。<br />
＊<br />
ここまでくるとすでに大建築家といったところであろうか。ヴェネツィアも然ることながら各地方でヴィッラ建設のラッシュとなった。そのなかで、とくに眼を惹くものは、やはりコーリン・ロウの分析（ル・コルビュジェのシュタイン邸、それにサヴォア邸との邂逅を指摘した）で知られる「ヴィッラ・フォスカリ」と「ヴィッラ．ロトンダ」ではなかろうか。わたしもこの論文で魅せられた類いのひとりであり、ル・コルビュジェ（1887-1965）の「トラセ・レギュラト−ル（指標線）」なる平面プランの重ね合せと比例の秩序との一致なる発見は当時熟読（研究室でもゼミで読み合わせをしていたほど）して驚嘆するに及んだ。まあ、創造というよりも発想の視点の卓抜さとして理解していたのだが、逆にこのヴィッラの存在そのものが訴えかけてくるのも事実であり、ロウの分析的なものではなく寧ろ、何故だかアドルフ・ロース（1870-1933）の住宅との接点が見い出された。それは、ロースの言う「ポチョムキン都市」とか「装飾と犯罪」などの世論批評ともとれる言説と古典回帰の本意（精神）とがパラディオの作品と重なって見えてきたからである。その「ヴィッラ・フォスカリ（1558-60）」は別称「ラ・マルコンテンタ（不満げな女）」（地名）とも言われているが、ヴェネツィアの貴族であるニコロとアルヴィーゼ兄弟のセカンドハウスとしてブレンダ河という運河に面して建っている。京都・八条宮家の館「桂離宮（1615頃）」は桂川から舟でアプローチしたと言われているように、このフォスカリ邸もヴェネツィアからはるばる舟で運河（グランデ）を航行し利用していたらしい。とにかくこの別荘は住宅のスケールが少し逸脱しており、ビッグネス（巨大性）観が露である。それはできるかぎり眺望を得ようと周辺の環境から突出するように、そして河の氾濫のためなのだろうかピアノノビレを高くとり附属棟が結合しない純粋な構成（箱型）をとっている。そのためだろうか正面性が開放され座りとか安定感のない無気味な貌（立面）を周辺に向けている。屋根から突き出るミナレット（モスクの尖塔）のような背高な煙突（のような）も、その様相を昂揚させているといえよう。その後年に建てられたロトンダには完璧なかたちでそれが現われている・・・。その「ヴィッラ・アルメリコ（1566-69）」は、通称「ラ・ロトンダ」（以後、ロトンダ）と喚ばれている。教皇庁の高位聖職者であったパオロ・アルメリコ（1514-89）の田園住居として構想されたが、パラディオ没後に弟子のヴィチェンツァ・スカモッツィ（1552-1616）によってクーポラ（天蓋）と外階段が造られ完成に至った。因にパラディオの遺産を相続したのはこのヴィチェンツァ・スカモッツィであり、彼はその後継を優秀な建築家に権利（遺産）を譲渡するためカプラ家に依頼して没した。そのカプラ家というのがロトンダを相続した一族であり、今日、パラディオの書物や図面類が完全なかたちで残されているのも、このカプラ家の後継者マリオ・カプラ男爵と彼に建築家として育てられたオッタヴィオ・ベルトッティ（1719-1790、スカモッツィ姓を継承）の成果『Le Fabbriche e i Disegni di Andrea Palladio ：パラディオ図面集』の賜物といわれている。<br />
＊<br />
ところで、ちょっと逸れてしまったのだが、パラディオと言えばこの「ロトンダ」と喚ばれるくらい、ル・コルビュジェの「サヴォア邸」と同義で語られる普遍性を内在した住宅として知られている。このロトンダの完璧なる幾何学性ないしは理想郷（アルカディア）、宇宙観（コスモロジー）については誰もが好意的に語っているのであるが、以下にゲーテが『イタリア紀行』で述べた感想はそれとは異にしていて興味深い。</p>
<p>・・・・恐らく建築術上これ以上贅をつくした例はほかにあるまい。階段と玄関との占めている面積は、家屋そのものの面積より遥かに広いのである。・・・・内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとはいえない。広間は絶美の均斉を保っている。それぞれの部屋も同様。しかし高貴の家庭の避暑地としては、あまり十分とはいかないであろう。そのかわり、どこから見ても壮麗な景観を呈することは、この地方において他に比儔を見ない。−『イタリア紀行／ゲーテ著相良守峯訳』より</p>
<p>それは、このロトンダが生活するための諸施設を欠いている（納屋など）ことなどからもパビリオン的な意味合いが強ったのではないかと言われている論拠である。寧ろ、わたしは４面すべてが同じ貌（立面−古代神殿のポルティコ（テラス））を持っていることにフォスカリ同様、無気味さを感じないではいられないのである。同じように近代の傑作と言われるサヴォア邸も眺望を支配するニ層レヴェルの４面はすべて連続窓（穴：ヴォイド）の貌をもったものであり、非常に謎めいたアウラを周辺に放散している。それはあらゆる生き物がそうであるように、必ず正面性という秩序観が賦与され安心感を抱かせる姿形となっているのだが、若しも眼や口が後頭部についていたとしたなら驚愕するのと似てはいないだろうか。きっと、逆説的には未完に終わった「ヴィッラ・トリッシノ計画案（1567頃）」が完成していれば最大規模で、しかもバロック的な円廊とロトンダの原型が活かされた正面性の強い建築が誕生し、大傑作となっていたのであろうが・・・。（既にバロック的な円廊は「ヴィッラ・バドエル（1556-63）」で試みられている）<br />
＊<br />
1568年にパラディオは、仕事の多忙さのあまり神聖ローマ皇帝からのウィーン招聘を断っている。それは1570年にヴェネツィアの書店ドメニコ・デ・フランチェスキから出版された『クゥアトロ・リブリ（建築四書）』編纂の労に費やされたことに加え、パラディオの仕事の全盛期が主に1560年から1570年に集中していたからであろうと推測でき得る。これまでに取り上げられなかった「ロッジア・デル・カピタニアート（1565-72）」「パラッツォ・ヴァルマラーナ・ブラーガ（1554-71）」「ヴィッラ・サレーゴ（1565-69）」なども、先のロトンダやフォスカリの時期に計画されたもので、古代神殿のモチーフとなる巨大オーダー（円柱、付柱、粗柱といった）への試行錯誤の跡が見られ、ヴィッラやパラッツォといった住居の設計は頂点に達していた。しかし、1572年に、長男、三男が疫病（伝染病）のため相次いで他界し、1574年には妻アレグラドンナが死去（恐らく、ペストにより）し、また戦友でもあるヴィニョーラやヴァザーリもこの時期に亡くなり、そしてヴェネツィアでのペストの流行によるものと思われるが、パラディオの仕事も墓碑や修復調査（パラッツォ・ドゥカーレ火災のため）、教会の増築や改築といったことに限定され、仕事は激減していたことが伺い知れる。その後、ペストという社会的不安が解消され、その祈祷所として計画された「イル・レデントーレ聖堂（1578-80）」がパラディオの案により決定され、またあのバルバロの弟マルカントニオから依頼された小礼拝堂「テンピエット・バルバロ（1579-80）」にも着手し、ヴィチェンツァの文化活動の拠点となったアカデミア・オリンピカ（1556年創設の組織）からは待望の劇場設計「テアトロ・オリンピコ（1580-83）」の依頼があり・・・・と、再びパラディオの事務所が活気を呈する時候であった1580年8月19日、７１歳でこの世を逝った。その後は残されたスケッチをもとに弟子のスカモッツィが完成にこぎつけたが、前述したように遺産相続は次男マルカントーニ（彫刻師）と四男シッラの消息不明により、彼の手に委ねられたとされているが、パラディオ本人もどのように亡くなったのかは記されていない・・・・。<br />
＊<br />
このようなパラディオの人生を辿ってみて思うことは、フィリッポ・ブルネレスキからはじまったイタリア・ルネサンスの建築美の根っこが、たとえばアノニマスな自然発祥的なものや神話的なもの（匿名性）とは異なる「自我（行動）」と「博識（科学）」からなるユマニズム（人文主義）に支えられていたことにあろう。この二面性というのは、頭で感じたことを直喩的な表現、もしくは感情に訴えて表現するものとは異にするのだろうが・・・。この思考回路は、この世に存在しない建築を生み出そうとすることではなく、古代ローマの建築への憧憬を別の回路・・・要するにマニエラという手法を借りてメタモルフォーゼ（変容）するという操作（ランガージュ：言語性）または理論の構築と彼らに内省する美とが結びついて生まれたものと理解される。この二面性なる極致、または近代性とも呼べるものを発展極まりないものとして確立したのが、アンドレア・パラディオだといえよう。それはイタリア・ルネサンス期を漢詩で言う「起承転結」になぞえれば、「起」をブルネレスキとすれば「承」はブラマンテ、「転」はミケランジェロであり、「結」はパラディオとなろうが、敢えてそのパラディオのキーワードを探るとすれば、「仮面性」なのだといえよう。それは新古典主義（古代ギリシャ・ローマの回帰）の形式的なものから脱却した近代の自我、またはその端緒が、このパラディオだと言えるからである。イタリアの建築史批評家であったマンフレッド・タフーリ（1935-1994）はイタリア合理主義の建築（とくにジュゼッペ・テラーニ）に潜む形態のアウラを評して「エレメント」ではなく「マスク」と喚んでいたのを記憶しているが、バウハウス（ドイツ）やデ・スティル（オランダ）のようなエレメンタリズムの美学ではないものを感じとったのであろう。畢竟すれば、アンドレア・パラディオの建築とは先頃邦訳されたヴィトルト・リプチンスキの著書のタイトルにある「完璧な家」ではなく「不安で無気味な貌（仮面）」といえなくはないだろうか・・・・。</p>
<p>2008.11.22　伊神誠治</p>
]]></content:encoded>
	</item>
</channel>
</rss>
