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11 月 30 2009

無鄰菴 Murin-an,The Yamagata Villa

敷地:京都市左京区南禅寺草川町
種類:別荘
竣功:明治32年(1899)
Location:Kusakawa-cho,Nanzenji,Sakyo-ku,Kyoto Prefecture
Kind:Villa
Establishment:1899
「植治と権力者の庭 近代庭園の先駆け」
Ⅰ.造園王 七代目小川治兵衛(植治)
七代目小川治兵衛(1860~1933)
「無鄰庵」は、明治の元勲山県有朋(1838~1922)が南禅寺脇に造営した別荘であるが、「無鄰庵」という名の別荘を山県は生涯に三度造営している。最初が維新前の慶応3年(1867)、長州(山口県)の下関吉田の清水山山麓に建てた草庵で、隣家のない閑静なところであったことから名づけられたという。二度目が明治24年(1871)、京都木屋町ニ条の旧角倉邸跡を別邸としたもの。しかし、ここが「無鄰庵」という名に相応しからぬ繁華な立地であったことから、山県はより閑静な立地を求めて、もとは南禅寺境内だった現在地に謂わば第三の「無鄰庵」を造営しました。敷地の大半を占め、この別荘を風光明媚なものにならしめている庭園を山県の構想をもとに作庭したのが、江戸時代から続く植木屋の七代目小川治兵衛(1860~1933 屋号は植治、以下植治と称す)でした。植治は明治10年(1877)、17歳で小川家の婿養子となるや二年後には当主の死去から七代目を襲名するが、30代までは法然院などの寺の庭や茶庭、町家の坪庭などを手入れする普通の植木屋であったという。明治27年(1894)の山県との出会いが植治にとって大きな転機となる。既に東京で「椿山荘」(明治11年 1878)、大磯では「小淘庵」(明治20年 1887)を自ら指図し造営していた山県は庭への造詣深く、この時も植治へ造園を任せるにあたって次の三つの注文をしている。
①芝生の明るい空間をつくること
②今まで脇役だった樹木(樅・檜・杉)をたくさん使うこと
③琵琶湖疏水の水を引き入れて作庭すること
日本の国政を司る山県は、近代化を驀進する明治国家の精神を現わすような開放的で明るい庭園にしようと意気込んでいたようだ。このような山県の意図を理解した植治は、いずれの注文も初めての経験だったが、琵琶湖疏水の水を使って造園することに大きな遣り甲斐と喜びを感じたという。京都の近代化事業であった琵琶湖疎水施設は明治18年(1885)から5年が費やされ、明治23年(1890)に竣功している。この折、天皇・皇后をお迎えして竣功式を執り行ったのが当時の総理大臣山県有朋だった。無隣庵という私邸の庭に疎水の水を導入する試みは、山県の構想と植治の手によって実現した最初の例であり、この無隣庵の作庭で、植治はその造園スタイルの基礎を確立していく。以後、植治は平安神宮の御神苑・円山公園・清風荘・対龍山荘・碧雲荘・洛翠庭園などで琵琶湖疏水の水を使った庭をデザインし、南禅寺界隈を主舞台とした作庭活動によって、一介の植木屋から立地選択から敷地の全体計画までトータルに庭づくりに関わる造園王として名を馳せてゆくことになる。さて、植治を登用した山県有朋という人物像や庭好きぶりは、どのようなものだったのだろうか。
平安神宮中神苑                     対龍山荘                洛翠庭園

Ⅱ.権力者 山県有朋の庭道楽
                                                            山県有朋(1838~1922)
明治の元勲山県有朋の出自は低く、足軽以下の身分の中間の出である。平民宰相といわれた原敬(盛岡藩上士の家柄)は、元老でありながら異常なまでに権力に執着する山県のことを「あれは足軽だから」と蔑んだという。また、立原正秋著「日本の庭」(昭和52年新潮社)によると、山県が内閣総理大臣だった明治31年~34年(1898~1891)にかけて、原敬日記に汚職を暴露されていることが書かれている。「山県清廉潔白なるが如く装ふも、かくの如き秘事あり、驚くべし」と・・秘事とは山県が内閣の増税案に反対している議員を買収する費用として明治帝から出処した金(持ち株の配当金) 計98万円(現在に換算すると100億円程)の内、かなりの額を自分の財産にしてしまったという。山県を権力追及者として嫌っている著者の立原は、無隣庵などの別荘を造営する金をこうして捻出したと推測している。そう疑われても仕方がないほど、山県には金にまつわる疑惑が多い。明治初頭にも、新政府の陸軍卿として大掛かりな汚職疑惑(山城屋和助事件)に絡み、辞職を余儀なくされている。
椿山荘(明治33年1900)                 小田原古希庵
生涯、権力に執心した山県だが、一方では和歌や書や茶をたしなみ、庭好きとしても知られる風雅の人でもあった。山県の普請、庭道楽は本格的で、自ら想を練り、世に名高い山県三名園 椿山荘(東京)・無鄰庵(京都)・古希庵(小田原)を造営するほどの入れ込みようであった。彼の道楽は、これらにとどまらず栃木県那須に農場をまた東京小石川には無鄰庵の如き流れと池がある新々亭という小さな別邸などをもつ。無鄰庵をつくり始めた明治27年(1894)の七月は日清戦争が勃発、陸軍大将であった山県は軍司令官として出征し陣頭指揮をふるった。緊張感たかまる時局の中、静養に訪れる京都の別荘無鄰庵には、のびのびとした環境が求められたのであろう。気分転換のための庭として、山県は京都の伝統的な侘び寂びの緊張感ある庭を拒否して、西洋的な庭、明るい開放的な空間表現を志向し、英国の自然主義的な庭園をイメージをしていたのかもしれない。想えば、山県や植治が生きた明治という時代は、内向きで抑圧的だった江戸時代とはがらりと変わり、近代国家として誕生したばかりの日本が欧米列強の世界へ漕ぎ出す開化期であり、国中にのびのびとした気分が横溢していた時代でもあった。こうした時代の空気がスケールの大きい豪壮な庭づくりに繋がったともいえる。
Ⅲ.水の流れる喜びを表現した庭園
無鄰庵庭園平面図

無鄰庵 門                          潜り戸(ここから庭園へ)
アプローチ
平安神宮の赤い大鳥居を過ぎ、仁王門通りをさらに東へ南禅寺へ向かって行くと、右手に無鄰庵と書かれた案内がある。そこから右手の露地に入り塀沿いに歩くと左手に無鄰庵庭園と彫られた石碑が見え、さりげなく開けられた入り口から邸内へ入り正面の白い塀の小さな潜り戸を潜ると、そこには騒然とした現代から隔絶した画のような静寂境が広がっていました。足許を流れる涼しげな小川のせせらぎに誘われるように、木造二階建ての母屋の正面に廻ると、広々とした芝面を浅い小川が陽を浴びてらきらきらと輝き、優雅な曲線を描きながら流れゆく光景が眼前に映る。爽やかな風が明るい庭を吹き抜けるのを肌に感じ、しばし母屋の縁側に腰を降ろし庭をぼーっと眺め尽くして時を過ごすと、気持ちが自然と穏やかになってゆくようです。遠く東山の峰を借景とし、起伏した地面を野筋風の芝面と低く刈り込まれたサツキが彩っている。明るく西洋的でありながら、どこか雅な王朝風といった趣きがこの庭から漂ってくる。
                                                蹴上の琵琶湖疏水インクライン(明治40年頃)
豊かに庭を流れ貫通する琵琶湖疏水の水
無鄰庵の庭を流れる水は、琵琶湖疏水から引き込んだもので、この庭園が近代たる所以を示している。前述したように、山県は作庭にあたって植治に琵琶湖疏水の水を取り入れることを注文しており、植治はこれに応えるように貴重な水を迎える喜びを様々な手法で表現している。疎水の水は庭の東南奥から引き込まれ、醍醐寺の三宝院の瀧を倣ったといわれる巨岩で組まれた三段の瀧を勢いよく落ちていく。水はここから沢を軽やかな水音をたてて流れ、密に植えられた樹木に囲まれた広く浅いひょうたん型の園池で溜まって休む。そして、広い池の出口でぎゅっと絞られ、小川の早瀬を西北へ野筋風に開けた起伏ある芝面を緩やかに流れ、母屋の手前で屈曲して西南へ向かい、ここで南から流れてきたもう一筋の小川とぶつかり合流して幅広い川となって西へ折れて母屋と洋館の間を抜けて往く。
明るい芝面を小川が流れる                     三段落ちの瀧
視覚を修正する造園術
植治が作庭で腐心したのが、三角形の変形した敷地を如何に扱うかであった。現十一代目小川治兵衛氏が監修した「植治の庭を歩いてみませんか」(平成16年白川書院)によると、植治は、視覚をあやつり修正する造園術を駆使したという。まず庭園奥の三角形の鋭角部分にある三段の瀧。直線的な瀧にせず、三箇所の高さから流れ落ちるようにして、視線を横に走らせ、瀧を幅のあるものに演出している。確かに、琵琶湖疏水を引き込んだ狭い取水口から右、左、中央とジグザグに位置を変えて流れ落ちる水は、どこか喜び勇んでいるように見え楽しい。
                                                             広くて浅い瓢箪池
そして、瀧から落ちた水は池へと導かれる。中央がくびれて二段落ちになった瓢箪型の池は、水深がわずか2,3cmときわめて浅い。底が透けるほど浅くすることによって、池に広がりが生まれることを狙った植治の意図は、庭の一番奥の瀧口側から池を眺めた時、石が点々と置かれた浅い池の水面が綺麗に横に広がり、実祭以上の広さに魅せていることから感じられます。また瓢箪型のくびれた部分が段になっていることで、池を立体的に見せ、一旦溜まって休んだ水が再び流れ行くことも予感させている。樅や杉などの樹木で囲まれ木漏れ陽のみで照らされた池から西北を望むと、視線の先には木の間越しに開けた芝面を緩やかに流れる小川と母屋が見え、ほの暗い渓谷から開放されたような明るさに満ちていました。野趣溢れる三段の瀧から岩が縁取る沢を経て浅く広い池へ至り、そこから一気に視界が開けて往くシークエンスは、きわめて作為的だが、見事としかいいようがない。
瓢箪池から流れ出た水は平安時代の遣水の如く、小川となって芝面を蛇行して母屋の前庭へ辿り着く。ここで植治は、庭が間延びしないように、この本流とは別の流れを反対方向につくり、広い前庭で二本の流れをY字型に合流させ視線が集中するように仕組んでいる。狭めたり広くしたり、また流れの方向を旋回させて合流させてみたりと・・植治の手で自在に操られた水は、視覚を修正するだけでなく、五感に訴えるかけるような豊かな表情を見せながら流れてゆく。その水辺には巨石が横たわり、低く刈り込んだサツキや草花が添えられ、流れの躍動感を引立たせているようです。
瓢箪池から母屋を眺める             Y字型に合流する小川          母屋の脇を小川が流れて往く

Ⅲ.まとめ 近代的な庭園美
                                                  野趣に富んだ明治期の無鄰庵林泉
山県は、自ら想を練り指図した無鄰庵の庭をこよなく愛し、多忙な政務の合間を縫っては夫人を伴ってしばしば訪れていたという。政・軍・官に君臨した権力主義者という印象の強い山県だが、風雅に親しみ、庭の奥から聞こえる瀑布の響きや美しく流れるせせらぎの水音に耳を澄まし、東山を借景とした田園的な風景を眺めて国政で疲弊した心を癒していたと思うと、人間臭さを感じ微笑ましい。
明治期の京都の庭園は、伝統的な作庭による幽玄性などに重きがおかれ、ごちゃごちゃした茶庭くさいものや寺院の浄土式庭園なようなものが主流で、およそ雄大・豪壮という趣きから程遠かったという。近代人の山県はそのような古来の作庭を好まず、雑味のない明るくスケールの大きい庭を望んだ。無鄰庵の庭には、そうした山県の庭に対する理想が植治の手腕によって色濃く投影されている雰囲気がある。南禅寺界隈につくった一連の植治の庭に見られる密なデザインとは趣きを異にし、野趣に富み自然主義的で牧歌的な素朴さに溢れているのだ。生涯、自己を一介の武弁と称していた軍人山県有朋の庭園観が形となって現われているような気がしてならない。植木屋植治が造園家として開眼した無鄰庵の庭は、山県が基本構想を示し、植治が設計施工した近代庭園の先駆けともいえる作品で、伝統的な庭園がひしめく京都において近代の庭園美を謳いあげている。
参照文献
1)「植治の庭」を歩いてみませんか/十一代目小川治兵衛監修/白川書院発行/2004
2)「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
3)「日本の庭」/立原正秋著/新潮社発行/1977
無鄰庵 Murin-an,The Yamagata Villa

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10 月 31 2009

法界寺阿弥陀堂 Amida-do of Hokai-ji Temple

敷地:京都府伏見区日野西大道町
建立:鎌倉時代前期(1226~1235)
Location:Hinonishidaido-cho,Fushimi-ku,Kyoto Prefecture
Establishment:The first half of Kamakura era(1226~1235)
「阿弥陀如来が座す四天柱と華麗な壁画が織り成す荘厳な空間」
Ⅰ.親鸞聖人生誕の地 日野薬師法界寺
日野資業像
京都の南東、伏見の醍醐寺の南側は古来より「日野」と称され、閑寂な山郷の雰囲気が残っている地域です。南を木幡山、東を山科盆地、西を御蔵山に囲まれ北に眺望が開く風光明媚な景勝の地に、一般に日野薬師と呼ばれる真言宗醍醐寺派の古刹法界寺があります。「日野」は名門藤原北家の傍流である日野家の伝領地であり、平安の頃は皇室や公家の遊猟地とされ、桓武天皇も幾度か猟に興じた記録が残っているという。法界寺は平安時代後期の永承6年(1051)出家した日野資業が関白藤原頼通から所領を譲り受け、薬師如来像を安置する薬師堂を建立し日野家の菩提寺としたのが創建とされ、最初に建てたのが現世の栄華を求める薬師堂であった故に、日野薬師と称されたという。平安時代の創建から鎌倉時代初期にかけて法界寺は、寄進などにより順次堂宇が増やし、薬師堂の他に旧阿弥陀堂、観音堂、五大堂、僧房等多くの堂宇が建ち並ぶ壮観な伽藍を誇る寺院となった。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は法界寺創建者の日野資業から四代後の日野有範を父とし、承安3年(1173)、ここ法界寺で誕生している。すなわち親鸞聖人も日野一族で、仏との初めての縁をこ結んだのが法界寺阿弥陀堂の阿弥陀如来だったという。隆盛を誇った法界寺も、鎌倉時代前期に起きた承久の乱(1221)の兵火によって阿弥陀堂など大半の堂宇が焼失してしまった。しかし不幸中の幸いか、阿弥陀如来像は焼失を免れ、これが転機となり法界寺再興の資が興されることになった。現在、見られる阿弥陀堂は正確な年代は不明だが、壁画の解説にあるように鎌倉時代前期の1226年から1235年に至る間に再建されたものと考えられている。
Ⅱ.薬師堂(現世利益)と阿弥陀堂(来世救済)
                                                      藤原宗忠像
創建当初の法界寺の本堂は薬師如来を祀った薬師堂であり阿弥陀堂はなかった。来世に重点が置かれた阿弥陀信仰に対し、前時代的な密教的色彩の濃い薬師信仰は現世の栄華を求めるものである。創建者の日野資業が最初に薬師堂を建立したということは、彼の関心事が来世の救済よりも、日野一門の繁栄と安寧を祈るという現世利益的な密教信仰にあったことを示している。しかし、平安時代後期は、末法思想が広まり極楽浄土を憧憬する阿弥陀信仰が流行し、京都各所で阿弥陀如来を祀り極楽浄土を具象化した阿弥陀堂が建立された時代であった。藤原宗家の長者、藤原頼通が宇治平等院に鳳凰堂(1053)を建立、また浄瑠璃寺本堂(1107)、三千院極楽院(1148)などの阿弥陀堂がこの時代に建立されている。薬師堂を本堂としていた法界寺に、やがて阿弥陀堂が建立されたのも、こうした時代の趨勢に影響されたものといえる。資業の孫娘を母とする右大臣藤原宗忠の尽力によって、法界寺伽藍は整備され壮観なものとなり、12世紀前半には四棟の阿弥陀堂が立っていたという。前述したように承久の兵火による焼失から十数年のうちに再建された新阿弥陀堂は、現在までおよそ800年の風雪に耐えて静かな境内に南面して佇んでいる。一方、乱の兵火を免れた薬師堂はその後、不慮の火災から焼失し再建されるも、応仁から天正年間の戦国の兵火で再び焼き払われ、本尊薬師如来のみが救出される。そして焼失からおよそ400年間、法界寺には薬師堂が不在だったが、明治37年(1904)に奈良法隆寺の塔頭から本堂が移建され、長らく放浪していた薬師如来を納める薬師堂となる。現在、薬師堂は阿弥陀堂の東南に軒を接するように西向き立ち、本瓦葺きの重厚な姿を見せている。かつて薬師堂が不在であった時は、阿弥陀堂を本堂であったが、薬師堂移建後はこちらも本堂となり、現在の境内には二つの本堂が石畳の左右に存在している
Ⅲ.浄土教の仏堂 阿弥陀堂建築
法成寺伽藍配置図                                       平等院鳳凰堂(1053)平面図
11世紀から12世紀の平安時代後期、極楽往生を希求する貴族の間で阿弥陀堂の建立が流行する。阿弥陀堂の歴史は藤原道長が鴨川の西岸に創建した法成寺(987)の無量寿院と称する九体阿弥陀堂(1022)から始まり、以後、貴族の邸宅内に造営される阿弥陀堂の先例となった。そして阿弥陀堂の建立を推進したのが道長の子、関白藤原頼通であり、父の法成寺を範として宇治に創建した平等院鳳凰堂(1053)は、この時代の信仰的象徴といえるものであった。平等院鳳凰堂を契機として、浄瑠璃寺本堂(1107)、三千院極楽院(1148)など畿内各地に阿弥陀堂が建立され、その流行は地方に伝播して奥州平泉の金色堂(1124)、福島の白水阿弥陀堂(1160)など文献に残っているものだけでも150棟あまりの阿弥陀堂が建てられたという。平安時代に建立された阿弥陀堂建築は、以下の三種類の形態をもっているとされています。
平等院鳳凰堂
①桁行の長い長方形平面の「九体堂型」(法成寺・浄瑠璃寺)
②極楽浄土を彷彿とさせる「宮殿型」(平等院鳳凰堂)
③正方形平面の「方形型」(法界寺・白水阿弥陀堂・中尊寺金色堂)
①の平安後期に建立された九体阿弥陀堂は、法成寺無量寿院をはじめ、記録に残っているものだけで30軒あったとされているが、法成寺は1219年に全焼廃寺となってしまい
現存するのは浄瑠璃寺本堂のみである。また②の極楽宮殿型の阿弥陀堂の遺構もまた平等院鳳凰堂に現存するのみで、きわめて貴重なものである。
現存する唯一の九体阿弥陀堂の遺構、浄瑠璃寺本堂の身舎(もや:本屋)の桁行は9間あり、中央の柱間に阿弥陀如来座像がその両脇の柱間に4体ずつの脇仏が置かれ、合計9体の阿弥陀仏が安置されている。浄瑠璃寺より80年前に建立され、九体阿弥陀堂の先駆である法成寺無量寿院は、伽藍中央の池を挟んで薬師堂対岸の西に東を向いて位置していた。その規模は後世の浄瑠璃寺本堂より大きく、身舎の桁行が11間に及ぶ長堂であったいわれている。こうした桁行の長い長方形平面「九体堂型」は、建築の形式というより浄土教の九品往生思想の基づく九体の阿弥陀像を同格に安置するために、均質な空間を有する長方形平面にせざるを得なかったと思われる。
浄瑠璃寺本堂(1107)平面図              白水阿弥陀堂(1160)平面図   浄土寺浄土堂(1192)平面図

阿弥陀堂建築において、九体阿弥陀堂のような形式は特異な例で、最も遺構が多いのが正方形平面の「方形型」でした。特に地方では奥州平泉の金色堂や福島の白水阿弥陀堂など規模の小さな「一間四面堂」形式が一般的でした。一間四面堂とは堂内中央に一間四方の四天柱で囲んだスペースを阿弥陀如来像を置く内陣とし、その周囲四面に念仏三昧の行道空間としてのスペースを巡らせたものです。今回、取り上げた法界寺阿弥陀堂は、この形式では最大規模の仏堂である。
Ⅳ.荘厳なる空間
阿弥陀堂外観                                         法界寺阿弥陀堂西面外観
地下鉄東西線「石田」駅から東へ向かい、緩やかな道を20分程歩けば、そこは山郷の趣きが残る”日野の里”です。山門の奥、石畳が一直線に走る正面に、今日まで現存している平安時代の阿弥陀堂建築において華麗な平等院鳳凰堂や金色堂とは対照的な単純素朴で威風堂々とした法界寺阿弥陀堂が佇んでいる。浄土教寺院の型通り池泉が前面にあり、南を正面として配置され、身舎は方五間(五間四方)の正方形平面の「方形型」、身舎の外周を幅一間の裳階(もこし:見せかけの階)、吹き放ちの縁が廻る。故に裳階を含めると方七間の規模となる。少し離れてこの仏堂の姿を眺めてみると、屋根は二重で身舎上部の屋根は宝形造(ピラミッド型)、少し下がった位置から縁側を覆う庇屋根が伸びている。共に柔らかな檜皮葺きで建ちが低く抑えられているせいか落ち着いた穏やかな風情が感じられる。
法界寺阿弥陀堂南正面外観              檜皮葺の屋根が上下に重なる

南を正面とする阿弥陀堂の南縁の軒庇が左右の屋根より一段高く上がっているのは、奈良時代からの伝統を受け継いだもので、平等院鳳凰堂や厳島神社の軒庇にも見られる形だという。緩やかな勾配の檜皮葺きの屋根が上下に僅かに重なる光景は、どこか平安時代の雅を想わせるようで実に奥床しい。低い亀腹(床下の丸味をつけた漆喰塗の壇)の上に低く幅広い縁が付き身舎の四周を廻る裳階部分は外周に戸や壁がなく柱だけが並ぶ吹き放ちの空間で軒裏の垂木と相まって、この仏堂に爽快な開放感や住宅的な雰囲気を漂わせているようです。
阿弥陀堂を廻る裳階                   裳階軒裏天井
阿弥陀堂内部                                               法界寺阿弥陀堂平面図
開放的な縁に上がり西側前方の戸口から堂内へ参入すると、眼前には高く何も遮るものがない空間が広がっていました。中央に独立して立つ四天柱の内側に置かれた須弥壇の上に丈六(高さ2.8m)阿弥陀如来座像が安置され、その前に座り像を仰ぐと、穏やかで滋味を湛えた表情に安らかな気持ちになり、しばし平安時代の幽玄に想いを馳せていました。阿弥陀如来を囲む四天柱の間隔は広くとられ、これを内陣として周囲四面を外陣が廻って身舎が構成されているのだが、通常なら外陣を一間幅として身舎は三間四方となるところをこの堂では規模の大きさからか五間四方となっている。同時代の阿弥陀堂と比べると内部に著しく広い空間をもつ方五間の身舎の柱間と無関係に内陣の四天柱は配置されている。つまり身舎の柱と四天柱の位置が通っていないわけで、こういう構造・意匠は
四天柱の内陣に座す阿弥陀如来像            内陣と外陣 天井廻り
それまでの阿弥陀堂には見られない新しい形であった。そのため、四天柱と身舎の側廻りと直角にま隅行を繋ぐべき虹梁が架けられない。虹梁というと、東大寺再建の勧進であった重源上人が建立した兵庫県小野市の浄土寺浄土堂(1192)の空間を思い浮かべる。方三間の身舎である浄土堂の場合は柱が通っているので繋ぎの虹梁が架かり、四天柱から放射状に太く丸い虹梁が飛び交う豪快な構造美を展開している。そのような構造美は望めないが、虹梁が架らない結果として、この堂の外陣上部の垂木が白亜の裏板にリズミカルに並んだ化粧屋根裏の下には何も遮るもののない、すっきりとした明快な空間を仰ぎ見ることが出来るようになっている。
荘厳な内陣天井
阿弥陀如来座像を包む内陣天井(折上組入天井)

四天柱の上部を繋いだ無目の上には長押が廻り、その内外四方に描かれた壁画の上は折上組入天井(斜めに持ち上がり、広範囲に格子状に組まれた天井)になっている。内陣上部側壁の壁画は三分割、十二面に仕切られ、飛天が本尊阿弥陀如来の方を向いて軽やかに飛翔している姿が白壁に描かれている。この十二面の壁画の上は、さらに長押が廻され、二段になった組物とその間に上に斗を置いた間斗束(けんとづか)が立つ。華麗な壁画で装飾された内陣側壁の上に広がる天井は折り上げられ、ドームのような天蓋となって阿弥陀如来を包んでいます。折上げ天井を構成するアール部分は細い材で繊細に組まれ、水平部分は組入格子天井となっている。アール部分の材と材の間の裏板や水平の格子天井の一枡ごとの裏板には菊花文様が描かれており、またこれらの構成材木部にも文様が入って装飾されているというが、下からは模様まではよく見えない。堂内から去る前に再び阿弥陀如来座像を仰ぐように内陣の吹き抜け空間を見上げると、四天柱・壁面・天井廻りなどに縦横無尽に描かれた艶やかな彩画と巧緻に木組みされた天蓋が、念仏三昧の場に相応しい荘厳なるハーモニーを奏でているように聴こえました。
Ⅴ.まとめ
建築様式は異なるが、法界寺阿弥陀堂の内部空間は重源が建立した浄土寺浄土堂(1192)を拝観した時に感じた空間体験と同質なものがあるように感じる。阿弥陀堂の一般的形式の方三間ながら柱間20尺という広い平面の浄土堂は、中心に立つ阿弥陀如来像を囲んで屋根裏まで延びる四天柱から太い虹梁が層状に放射されるダイナミックな空間がピラミッド状にもちあがってゆく。対し方五間という大型の法界寺阿弥陀堂は四天柱上部の天蓋へ向けて外陣を覆う化粧垂木天井が上昇してゆく求心性の強い内部空間が形作られている。いずれの堂も平安時代の平等院鳳凰堂(1053)などと比べると広い内部空間をもち、内陣四天柱の阿弥陀如来を取り巻く外陣スペースが広くとられ、念仏を唱えながら阿弥陀如来の廻りを巡る念仏三昧堂に相応しいボリュームと平面をもっている。想えば、藤原一族が建立した法成寺無量寿院や平等院鳳凰堂を始めとした平安時代後期の阿弥陀堂は、建立した貴族たちが末法の世から逃避する観念的な場であり、一般庶民はそこから遠ざけられていた。そんな状況に対し、念仏布教のため諸国を行脚し、庶民の救いを念願としていた重源は、多くの庶民が座し念仏唱和する道場として大空間の浄土堂を建てた。法界寺の堂も藤原一門の日野家やその縁者の法会のみならず、念仏や行道の場として一般庶民に開放されていたという。阿弥陀如来を囲んで念仏唱和し極楽往生を願う貴族と庶民がともに集う大空間・・・そんな光景を頭に描きながら、由緒深い名刹にさり気無くつつしまやかに佇む阿弥陀堂の拝観から辞去しました。
参照文献
1)「古寺巡礼 京都29 法界寺」/山崎正和・岩城秀雄著/淡交社発行/1978
2)「日本名建築の美」/西澤文隆著/講談社発行/1990
3)「日本の建築 歴史と伝統」/太田博太郎著/筑摩書房発行/1968
4)「日本の建築 その芸術的本質について」/吉田鉄郎著/東海大学出版会発行/1975
法界寺阿弥陀堂 Amida-do of Hokai-ji Temple

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9 月 30 2009

鹿苑寺金閣 Kinkaku,Rokuon-ji Temple

敷地:京都府北区金閣寺町
創建:応永5年(1398)
再建:昭和30年(1955)
Location:Kinkakuji-cho,Kita-ku,Kyoto Prefecture
Establishment:1397
Reconstruction:1955
「湖面に浮かぶ金色の三層楼閣・・・・国王義満の迎賓館
Ⅰ.鹿苑寺金閣の前身 西園寺公経の北山第
西園寺(藤原)公経像
今日、金閣或いは金閣寺と呼称されている建築は、臨済宗相国寺派に属する北山鹿苑寺の中心を成す舎利殿でした。金閣のある鹿苑寺は京都の西北に位置し、西に衣笠山、背後に左大文字山が聳えた古くからの景勝地であり、鎌倉時代には太政大臣西園寺(藤原)公経(1171~1244)が営んだ山荘があって北山第と呼ばれたところである。公経の北山第を訪問した歌人藤原定家が記した「明月記」によれば、碧瑠璃を湛えたような池と高さ四十五尺の瀑布、清澄な泉石があり、見るものすべてが斬新で珍しいと称賛している。現在の鹿苑寺金閣の前面に広がる鏡湖池や北の一段高い山腹に静かに水を湛える池の安民澤、そこから落ちる滝「龍門瀑」などが鎌倉時代の北山第の遺構とみられています。北山第には、天元元年(1224)に建立された本堂西園寺を始め、大海の如くと謂われた池の周囲に、いくつもの御堂と公経の住む寝殿をはじめとする御所が営まれ、その主要建築は、西園寺(阿弥陀堂)、善積院(薬師)、功徳蔵院(地蔵菩薩)、池の畔に妙音堂、瀧の下に不動尊、石橋の上に五大堂、成就院、法水院、化水院、無量光院など多数の堂舎が建ち並んだ豪奢な山荘であったと伝えられている。つまり、後に義満がここ北山を所有するはるか昔から既にこの地には、公経が贅を凝らして造営した人工の庭園と堂舎群が、鹿苑寺の前身として存在していたわけである。
                                               安民澤(中央にあるのは西園寺家の鎮守)
田畑を掘り返し切り崩して優麗な庭園に改造し、山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した本堂を中心に多くの堂舎を配する仏寺と別荘を兼ねた北山弟は、同じスタイルで平安中期に藤原道長が鴨川沿いに造営し豪華の極致と賛美された法成寺と比べても、山際という立地による眺望の良さに林泉の美が加わり、優るとも劣らないと評されていました。鎌倉時代に栄華を極めた西園寺家の北山弟には、歴代の上皇・天皇が何度も行幸し盛大な宴遊が催されたという。行幸記録に依ると、北山第には北第と南第があり、南北二つの地域に分けられていたらしい。公式行事を担う表向きの南第は現在の鏡池湖周辺の金閣や東側の方丈・庫裏付近で、寝殿など奥向きの北第は、安民澤とその北側一帯の杉林や不動堂付近に位置していたと推測されている。
Ⅱ.国王義満の御所北山殿
足利義満像
動乱の南北朝時代、西園寺家が衰退し荒廃の一途を辿っていた北山第を河内国の領地と交換する形で譲り受けたのが室町幕府三代将軍の足利義満(1358~1408)でした。将軍職を息子の義持に譲り、出家した義満は北山第に建つ西園寺家の堂舎群を引き継いで、応永4年(1397)1月、自らの隠居所北山殿の造営に着手します。その全体像は今の鹿苑寺とはだいぶ異なるもので、応永5年(1398) に完成した三層の舎利殿(後の金閣)を中心に、護摩堂、懺法堂、法水院などの仏教建築と寝殿、公卿間、会所天鏡閣、拱北廊、泉殿、看雪亭などの住宅建築群など十数棟の建築が綺羅星のごとくばらまかれ廻廊がめぐらされていたと謂われています。義満が、既存の西園寺家の堂舎群をどのように扱ったかは不明だが、着工から比較的早い時期に御所室町から北山殿へ移住していることから、多くは既存のままにとどめ生かして造営したのではないかと見られている。その中で、義満が最も力を注ぎ趣向を凝らして造ったのが舎利殿、後の金閣である。舎利殿は釈迦の骨を祀る建物で、義満がしばしば訪れていた西芳寺の池の西岸にあった二層の楼閣舎利殿を模して構想したともいわれている。義満が敬愛した国師夢窓疎石が作庭建築した西芳寺は、八代将軍義政(1436~90)も東山殿(慈照寺)を造営する際にたびたび訪れ、祖父義満と同じように舎利殿をモデルとして観音殿(後の銀閣)をつくったという。
                                               西芳寺舎利殿(瑠璃殿)復原図
明との交易で北山殿を明使の迎賓館として活用した義満は、明皇帝から「日本国王」の称号を得る。そして北山殿の庭園が完成した応永15年(1408)には、天皇を北山殿に招いて(行幸)接待し、その権力は天皇を凌ぐものとなった。絶大な権力を背景に皇位簒奪も画策していたといわれる義満だが、天皇行幸の二ヵ月後に急逝する。義満の死後、北山殿から政治・外交の舞台としての機能は消え、四代将軍義持の手によって北山殿の一部が解体される。義満の住まいだった寝殿、公卿間、懺法堂、会所天鏡閣などが南禅寺・建仁寺・等持寺に移築・寄進され、跡には金閣と法水院、護摩堂、泉殿ぐらいしか残っていなかったという。そういう状態で、応永27年(1420)頃、北山殿は義満の菩提を弔うべく、義満の法号にちなんで命名された「鹿苑寺」という禅寺となる。八代将軍義政の治世下、 室町幕府の権威が衰え応仁・文明の大乱(1467~77)が京の都で勃発する。この大乱の際、鹿苑寺には西軍の布陣したことから戦火に遭い、護摩堂など義満の頃から残っていた堂舎が舎利殿を除いて悉く焼失し、遠く鎌倉時代の公経の山荘を受け継いで築かれた義満の豪華絢爛な宮殿の面影は完全に喪われてしまった。
Ⅲ.生き残った舎利殿(金閣)
洛中洛外図屏風にみる舎利殿(金閣)
応仁・文明の乱で多くの堂舎が灰燼に帰した鹿苑寺で辛うじて焼失を免れた舎利殿は、この頃から「金閣」という美称で呼ばれるようになる。八代将軍義政をはじめ、足利歴代将軍は鹿苑寺を訪れ金閣に登り、上層から四方の山と庭園の景色を眺め、池に船を浮かべて歌を楽しんだという。戦国の桃山時代には金閣は都の名所となり、キリスト教宣教師フロイスが鹿苑寺を訪れた時の記録によると「池の真ん中に三階建ての一種の小さい塔のような建物があった。廻廊がついた上階(三層)はすべて塗金され、そこはかつて公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池を眺め、建物の中にいながら池で釣りをしていた。」とあり、金閣が現在のように陸続きでなく、池中に浮かぶように建つ釣殿のような外観で、義満が上層から庭園を眺め中にいながら釣り糸を池に垂らして釣りを楽しむ優雅な風景が目に浮かぶ。戦国時代の天文6,7年(1537,38)と江戸時代の寛永初年に、鹿苑寺の金閣・庭園の修理修築が行なわれており、この時、現在より広かった池の南部が埋め立てられ、金閣も一層の北側が壁となり義満像を安置する仏壇をつくる改造が施されている。
                                               広重作「京都名所」の金閣
室町時代末期に狩野永徳の筆で描かれ上杉家に伝わる「洛中洛外図屏風」には金閣に登っている人影が見え、また江戸時代に刊行された広重の浮世絵や都名所図会を見ると金閣に登って上から庭園を鑑賞している人が描かれている。故に金閣は、昔から中に登って上から見物させることが行なわれていたようである。そして明治時代のある時期には金閣に屋根付きの渡り廊下がついていたという。林泉の中、拝観者はまず方丈へ向かい、それから橋を渡って金閣の二層に入り、内部を拝観した後に鏡湖池の周辺を巡るという参拝ルートだったようです。金閣の内部に立ち入る事ができない現在となっては、何とも羨ましい拝観ですが、昭和25年(1950)に焼失する前の金閣は古写真などを見ると、現在の金色に輝く再建金閣とは違い、5世紀にわたる長い歳月を経る間に金箔が剥げ落ち黒ずんで古寺の趣きが漂い、とても金閣の名に相応しい姿ではなく見上げて鑑賞するような雰囲気には程遠かったようです。
都林泉名勝図会・金閣                              渡り廊下のある金閣(明治時代)

Ⅳ.金閣炎上
焼失前の金閣                               三島由紀夫
義満の北山殿創建から550年の歳月と風雪を生きてきた金閣は、惜しくも昭和25年(1950)7月2日、寺の学僧の放火によって焼失してしまう。現在、鹿苑寺の鏡湖池の畔に金色に輝いている金閣は、放火焼失から5年後の昭和30年(1955)に再建されたものである。世間に大きな衝撃を与えた金閣放火事件は、後に三島由紀夫によって小説化されている(「金閣」1956)。当時の様子を伝える「夕刊京都新聞」によると、「7月2日の午前3時過ぎ、国宝金閣が火焔に包まれているのを、20丁あまり東方の消防署望楼勤務員が発見。消防隊が駆けつけ時には、既に金閣から紅蓮の炎が猛烈に噴出して手の施しようがなく全焼した」という。義満の創建以来、550年の歴史を刻んだ金閣が焼け落ち、二層までの骨組みだけが露出した姿は無残としかいいようがない。
                                                               金閣寺1956初版
日本中の耳目を集めたこの金閣放火事件について、三島は犯人の学僧の経歴や裁判、修業生活や人間関係などを入念に取材した。三島は、事件の枠組みや犯人の行動は取材で明らかになった事実をほぼ取り入れながら、学僧の心の葛藤や生まれつきの障害へのコンプレックス、拝金的な老師(住職)への反発、金閣の魔性的な美に魅了されながら嫉妬し、ついには金閣を破壊するまでに至る虚構的世界を精緻な文体で描写している。三島はこの作品の至るところで「金閣」の美や官能性を精細に描写し、その魔性の美に魅入られたかのように若い僧が放火という衝撃的な凶行に走り、金閣が燃え上がる有様を迫力ある筆致で表現し小説を完結させている。三島は学僧が最後の行為(放火)の直前、金閣を眺めさせその美について語らせている。「金閣の美しさは絶える時がなかった!その美は常にどこかしらで鳴り響いていた。耳鳴りの涸疾を持った人のように、至る所で私は金閣の美が鳴り響くのを聴き、それに馴れた。音にたとえるなら、この建築は五世紀半にわたって鳴り続けて来た小さな金鈴、或いは小さな琴のようなものであったろう。その音が途絶えたら・・・・」三島が微に入り細に入り描写し、一人の若い学僧を衝撃的な凶行に走らせた「金閣」の美の魔力とは何なのだろうか。
金閣炎上図 川端龍子画                              炎上焼失直後の金閣

Ⅴ.義満の金閣と再建金閣
                                              鹿苑寺境内図
再建され不死鳥の如く蘇った金閣は、その後、昭和62年(1987)に金箔を以前の5倍の厚さに張り替える修復工事を経て、現在は金色に彩られた美しい姿を鏡湖池の畔に見せてくれている。しかし、その姿は明治37年(1904)に実施された解体修理の際に作成された実測図や竣功図に基づいて復元されたものであり、義満が構想し営んだオリジナル金閣とは趣きを異にすると指摘されている。元々、北山殿に舎利殿としてあった金閣は、北の山側に立つ二層の会所「天鏡閣」と、複道「拱北廊」によって繋がっていたといわれている。複道とは二層の廊下で、この当時、金閣は釣殿のように池中に浮いていたから、水面上の廊下を往来する時、「あたかも虚空を歩むに似た」心地がしたといい、その風景はまさに極楽浄土である。
現在の鹿苑寺における金閣は池の畔に孤立した形で佇んでいるが、義満在世当時の北山殿は、今より広大な池に浮かぶ金閣と結ばれた天鏡閣をはじめとした多くの堂舎群が綺羅星の如く建ち並び絢爛華麗な絵巻を繰り広げていた。義満の金閣は、それまでに例のない三層の楼閣建築で、初層を法水院、二層を潮音洞、三層を究竟頂という。一層は西側の池に切妻屋根の漱清(釣殿)を突出させた寝殿造風の阿弥陀堂、二層は武家造りの観音堂で広縁と高欄を廻した廻廊があり、ここから池泉を俯瞰出来るように仕立てられ、最上階の三層は純然たる禅宗様の仏堂で四方を花頭窓が飾っている。屋根は杮葺き・宝形造りで頂上に金銅の鳳凰が挙げられ、全体に軽快優美な趣きが漂う庭園建築である。
橋廊下で繋がった金閣と天鏡閣
金閣創建当初、義満は大国の明との国交樹立を望んで、北山殿に明使を迎接していることから、金閣は迎賓館のような施設であったとも推測される。謂わば、広大な池中に浮かぶ金閣の上階、金箔が隈なく張りつめられた煌びやかなインテリアの中で義満は明使と引見し、池上に架橋された空中廊下を渡って天鏡閣というパーティー会場に入り、歓迎の宴遊が連日催される・・・そんな往時の豪奢なイメージが目に浮かぶ。義満は己が権威を金色に輝く楼閣で大国の明に誇示したかったのではないか。日明貿易で得られる利を優先し、明皇帝に隷属の臣下として卑屈なまでに接しながらも、天皇を超越した国王の権威を金閣に塗りこめた黄金に現わしているような気がしてならない。一体、義満の外交施設であった舎利殿(金閣)の姿は、現在の再建金閣と重なるものなのか。また金閣の美とは何なのか。
金閣の再建は法隆寺や平等院の修復も手掛けた武田五一が指導した明治37年の解体修理で残された記録を参考に復原と同じ手順を踏んで遂行されている。昭和30年の再建で指導的立場にいた建築史家村田治郎氏は再建金閣について復原的考察のひとつの結論であって決して絶対的なものではない旨を述べている。1996年、京都文化博物館で開催された「京都・激動の中世」展で建築史家の宮上茂隆氏は、再建された金閣は創建当初の姿ではないという考えから金閣復原図を提示しその相違を次のように説明している。
                                                金閣南側立面図(上)・西側立面図(下)
①現在、二階は内外とも金箔が張られ三階共々金色に彩られているが、昔は高欄を除いて内外とも黒漆塗りであった。つまり、二階は黒い外観で金色に輝くのは三階のみであったという。
②創建金閣の復原図における外観は、端正な左右対称ではなく、三階の中心が西側へずれており、そのため二階屋根の東部が入母屋屋根になっている。
③金閣東側に池から金閣へアクセスするための舟入の玄関が附属している。
④金閣の北側にあった二層会所の天鏡閣と複道(二層廊下)によって繋げられ、また金閣より東方、今の書院や方丈がある辺りにあったと思われる表向きの御殿の寝殿から金閣へ透渡殿が伸びている。
義満が北山殿に営んだ綺羅星の如き堂舎群が戦乱などで消滅し、唯一、現存していた金閣が昭和の放火で灰燼に帰してしまった後、再建された金閣と鏡湖池のみが、義満在世時の遺風を伝えてくれている。しかし、放火焼失以前の金閣もまた創建時から550年の歳月を経る間に何度か修復・改修の手が加えられ、宮上氏が指摘したように姿かたちが変わっているとするならば、焼失前の明治時代の姿を忠実に復原した今の金閣は伝金閣ともいうべきものであろう。三年前に逝去した鬼才の建築家篠原一男が著した「住宅論」の一章、日本伝統論(1960)は再建された金閣を語ることから始まっている。「金閣はあの金箔の輝きの中に価値があるのだ。義満がつくろうと思ったのは、暗い木立や水に映える金色の光であったはずだ。時が経ち、金色の光りに影がさし、古ぼけ、黒く沈んだ金閣は、その燃え殻であって、将軍のつくろうとした金閣ではない。」篠原は義満がつくった金閣の建築美は金色の光りにあり、焼失前の古寺のごとく金色が黒ずんだ金閣に日本の伝統的な情緒や趣きを感じたとしても、それは数百年の時間と風雪が生んだ結果に過ぎないと断じ、黄金で表現した異常な美意識を称賛している。
金閣復原図 南側立面図                              東側立面図

Ⅵ.まとめ ユートピアの三層楼閣
鏡湖池から望む金閣東南面                            金閣東面と舟着き
おおどかに広がる鏡湖池の水面に美しい姿を映しながら佇む金閣、陽光に輝く金色の光は思っていたより楚々として優しい。池に北畔にある金閣をじっと眺めていると、宙に浮かんでいるような軽快さと明るさが感じられる。それは、初層と二層の池に面した南側正面の吹き放ちの広縁で、外周には一間毎に柱を入れることが原則だった当時に、柱を飛ばすという離れ業を演じ、広縁の眺望を妨げない開放性を獲得していることにも起因している。また、同大の一・二層の中心に三層が載るという左右対称性が端正で上品な佇まいを強調していることにも着目したい。全体の均衡から見ると、一層に屋根を設けず高欄付きの縁を廻し、二層から深い軒屋根を架け、トップの三層を二層より僅かに窄めた形で戴かれた対比が効果的で、金閣全体に軽快な印象を与えている。更に、初層の西に漱清というささやかな釣殿を池に張り出していることで均衡の単調さを破り、金閣の造形に変化を加えているのが面白い。金閣の前面に広がる鏡湖池は、名の通り鏡面の役割で虚構の金閣を水面に映し出し、松を植えた大小様々な中島や離れ石が点景として散りばめられ、金閣と一体の景観を成して、拝観者の目を楽しませてくれる。往時、義満は船を浮かべ、或いは金閣の上から自分が作庭した大海のような池泉を眺め愛でながら、釣り糸をたれていたのであろうか。願わくば、江戸・明治時代の拝観者のように金閣に登って、金色眩い広縁から池を囲む庭園を眺めわたして義満が描いた極楽浄土の世界を体験してみたいものです。
金閣北面(左)・金閣初層の西に突出た漱清(中)・金閣二層南面の広縁(右)

金閣は初層の法水院は平安の寝殿造り、二層の潮音洞は鎌倉期の武家造り、三層の究竟頂は中国の禅宗様という三つの異なる様式から構成されているが、これは公家の上層に武家があり、更に最上層には「究極」の人である義満が公武の上に君臨するという思想が体現されているという。三層楼閣の最古の違例であり、義満がよく訪れた西芳寺の二層楼舎利殿を手本に着想されたであろう金閣は、後の義政の慈照寺銀閣(二層 1489)や西本願寺飛雲閣(三層 1592)という楼閣建築に大きな影響を与えている。三重塔や五重塔など、多層の違例は金閣以前からあるが、それらは二層以上に利用出来きる空間がなく外観だけの楼閣にすぎない。上層に登れて人を容れる空間が用意されている金閣は、日本の住宅史や建築史を語る上で、特筆されるべき建築ではないだろうか。
金閣一層法水院(左)・二層潮音洞(中)・三層究竟頂(右)

参照文献
1)「金閣寺」/三島由紀夫著/新潮社発行/1956
2)「日本の建築 歴史と伝統」/太田博太郎著/筑摩書房発行/1968
3)「住宅論」/篠原一男著/鹿島出版会発行/1970
4)「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
5)「日本名建築の美」/西澤文隆著/講談社発行/1990
6)「日本名建築写真選集第11巻 金閣寺・銀閣寺」/宮上茂隆著/新潮社発行/1992
7)「古寺巡礼 京都21 金閣寺」/有馬頼底・梅原猛著/淡交社発行/2008
鹿苑寺金閣 Kinkaku,Rokuon-ji Temple

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5 月 31 2009

京都御所 Kyoto Palace

1 紫宸殿 京都御所の中心で格式高い正殿

敷地:京都府上京区御苑内
造営:安政2年(1855)
Location:Gyoen-nai,Kamigyo-ku,Kyoto Prefecture
Reconstruction:1855
「明快、簡素でありながら優雅で格調高き宮殿」
Ⅰ.京都御所の変遷
2 平安京

平安京における皇居
現在の京都御所は平安京の大内裡(皇城)のなかに設けられた内裡(皇居)の姿を復元したものである。奈良平城京から平安京に遷都(794年)されてから十余年を経て、平安京が桂川と鴨川との間に中国の帝都長安を模範として建設された。この平安京の規模は、東西約4,520m 南北約5,320mに到る広大な矩形で、中心を成したのが天皇が居住せられる内裡と太政官をはじめとする行政諸官庁が立ち並ぶ大内裡が位置する部分で、現在の御所から2km程西で、北は一条から南は二条に及び、東は現在の大宮通りから西は北野御前通りに到る間に営まれ、四周を瓦塀で囲まれ、その外周には御溝水が流れて、現在の京都御所周辺の如き景観を成していたと謂う。この平安京における皇居は、大内裡中央から東北よりの位置にあり、広さは東西約230m、南北約300mで、現在の御所より南北が短く小規模であったようだ。
3 平安京大内裡図

中世から近世における皇居の起源
大内裡のなかに設けられた内裡(皇居)に火災が発生した時、臨時的に大内裏の外にある臣下の邸宅に移り、ここを仮の皇居と定めることが度々あり、これを里内裡と呼んだ。里内裡は宮中の公卿・大臣などの屋敷であるので、内裡のような設備もなく規模も小さかったので、天皇は内裡が復旧するまでの数ヶ月或いは一年という短期間、そこで気楽に生活されるいうことを繰り返したため、都には土御門殿・閑院殿・富小路殿など数多くの里内裡が生まれた。このように里内裡は皇城の外に設けられた皇居であるが、大内裡にある皇居に準じて、紫宸殿・清涼殿などの各殿舎を最初に造って(1117)壮麗な宮殿に造営されたのが鳥羽天皇が行幸した土御門殿であった。各所を転々とした里内裡も、南北朝の頃、北朝が土御門殿を皇居とし、南北朝合一後、名実ともに皇居と定められた。すなわち現在の京都御所は、平安京における大内裡のなかの内裡の一部を復元しているが、実際には大内裡の外部に営まれた里内裡であった土御門殿を起源として発達したものであった。
4 平安京内裡図
現在の京都御所の沿革
南北朝合一で正規の皇居となった後も、戦乱が相次ぎ火災で焼亡しては、室町幕府によって再建されていたが、平安京以来の京の町を焦土とした応仁の乱後は、皇居とは名ばかりの荒廃の一途を辿っていた。ようやく、戦国期に上洛した信長や天下人となった秀吉の手によって、大規模な修理造営が成されて、かつての美観を取り戻し、現在の御所に見られるような紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿などの各殿舎が完備されたようである。次いで慶長年間に徳川幕府は更に整備を進めて築地を築造し南門(建礼門)を設けた。その後、幾度となく火災で焼けたため、数次にわたる造営が繰り返されたが、寛政元年(1789)において幕府は抜本的な大造営計画を立て、平安京大内裡における皇居の原型を考証し、古制に則り、敷地規模も拡張して復元され、概ね京都御所の規模と配置が整然としたものになった。そして幕末の安政2年(1855)、前年の出火でまた焼失した皇居の造営が行なわれたが、国事多難の時世を考慮して節約を旨とし、寛政度造営の手法が踏襲されている。これが歴史上、最後の造営で、今日の京都御所の姿が現出されるに至っている。
Ⅱ.御所の建築
5  御所の全体配置図(斜線は戦中解体部分)

京都御所は東は寺町、西は烏丸、南は丸太町、北は今出川の通りで囲まれた御苑の北中央築地塀で区画された一郭で、東西226m,南北447mの南北に長く東北隅が欠けた矩形である。この築地塀をめぐらした矩形の中に、紫宸殿を中心として数多くの殿舎が展開している。築地には東西南北に宮門が開かれ、南に建礼門、東に建春門、西に宣秋門、清所門、皇后門の三門が北に朔平門を開く。建礼門は天皇が出入りされる正門で平常は閉じられており、宮中へ公家が出入りする西の宣秋門は公家門とも呼ばれていた。殿舎は南から紫宸殿と東西南に門がつく回廊に囲われた白砂の南庭、その庭と繋がるように清涼殿が紫宸殿の西北に東面して建ち、その前を紫宸殿の背面と北と東に走る渡り廊下に取り巻かれた白砂の東庭が広がっている。紫宸殿東北から北に走る渡廊下の下に開けられた通路を潜って、東に向かって左折すると、小御所前に出、東には中島を浮かべた大きな池が曲線を描きながら北へ延びている。小御所の北に御学問所が並び、その北は天皇の日常の御住まいだった御常御殿、雁行する廊下でさらに北方の迎春殿・御涼所・茶室聴雪へ繋がる。ここまでが御所の大半を占める皇居部分で、塀を隔てて北が皇后の御住まいだった皇后常御殿に飛香舎、西南に皇太子・皇女が住まわれていた若宮・姫宮御殿があり、御所の最北にあるこの地域は独立して塀で囲い込まれている。以上が御所に建つ建築群の概ねの配置で、これらの建築群の間隙に白砂の中庭や坪庭、池を中心とした樹木豊かな回遊式庭園が展開している。
Ⅲ.建築群と庭が織り成す集団美
6 建礼門                         7 築地塀

8 承明門より紫宸殿を望む               9 紫宸殿廻廊
御所周辺
天皇皇后両陛下御結婚50年を記念して特別公開された京都御所を晩春に訪れ、その造形的雰囲気を具に拝観してきました。御苑の幅広い砂利道を歩いて御所の四周を取り巻く築地塀に開けられた南の正門、建礼門から東西に延びる築地塀の先に望見される東山の山並みを眺めているとしばし時を忘れ、白い砂利道に築地塀の影が写り、その足許の側溝を綺麗な水がさらさらと光って流れている光景は清楚で美しい。
紫宸殿 明るい南庭
南の建礼門から築地塀に沿って西に廻り、宣秋門から御所内に足を踏み入れると、斜め前に牛車で参内する大臣・高官の玄関だった御車寄が眼に飛び込んでくる。柔らかな唐破風形式の屋根を乗せた御車寄を左に見ながら南下して行くと、朱塗りの廻廊がめぐらされた紫宸殿の西側に出る。更に南の廻り、建礼門の直ぐ前の廻廊に開けられた承明門から奥に御所内の諸殿で最も格式高い正殿の紫宸殿の雄姿が垣間見える。ぐるりと西に廻り、廻廊の西に開けられた日華門から紫宸殿南庭に到る。朱塗りの円柱と本瓦葺きの切妻屋根、白亜の壁で構成された廻廊に東西南の三方を囲い込まれた白砂一色の明るい平庭が厳かな紫宸殿の前に広々と展開して心地好く、また廻廊木部の鮮やかな朱色と白砂の清新さが明らかな対照を示して美しい。
10 紫宸殿南正面全景
紫宸殿は即位礼などの式典を執り行う格式高き正殿で、御所内で最も規模が大きく、御所全体を象徴する中心的建築です。古の平安京大内裡内皇居の紫宸殿の形式を正しく継承していると謂われ、格式の高さを示すように四周を巡る高欄を付けたすの子縁は地上7尺8寸の高床である。正面柱間が九間、側面四間で南面は全て格子の蔀戸という典型的な寝殿造りで、南正面中央に雄大な18段の階段が南庭に堂々と降りている。南面以外にも東北、東南、西南、西北の四隅に9段の階段が陣の座や渡り廊下、庭に連なっているが、いずれも段は分厚い無垢の木板が使われ、そこだけ純白に塗られた小口がシャープに浮き上がり、現代建築に見られるような切れ味鋭いデイーテールに新鮮さが感じられる。桧皮葺の屋根は普通の入母屋とは違い、母屋に架けられた切妻屋根が廂部分では母屋の屋根とは縁を切って片流れ屋根となっている。南庭から見ると中途で段がつく特異な屋根だが、どこか優雅な雰囲気が漂い寝殿造り本来の趣を現わしているようだ。
11 紫宸殿西南階段                   12 紫宸殿南庭18階段

13 紫宸殿背面より清涼殿東面を望む
清涼殿 清浄なる東庭
紫宸殿北面の高縁を西へ階段を降りて長橋を進むと、その突き当たりに清涼殿がある。清涼殿は昔、仁寿殿と呼ばれた天皇の昼の御座所であり、日常の執務が行なわれた御殿である。紫宸殿の西北に東面して建っている。紫宸殿と同じ寝殿造り、中央に母屋があり四方に廂をめぐらし、東面にはさらに孫廂に高欄を廻したすの子縁が設けられている。母屋と東廂の間には御簾がかり、母屋中央には御休息のための椅子式の帳台が置かれ、東廂中央には二枚の厚畳が敷かれた昼御座がある。天皇は昼間ここに座し、大臣以下の高官らは孫廂やすの子縁に居並び、政務が行なわれたと謂う。東すの子縁には南北に階段が東庭に降り、付近には呉竹、漢竹と呼ばれる二株の竹が透し垣の中で葉を茂らせ、平安の雅な趣を伝えています。桧皮葺の入母屋の大らかな屋根の下、白い小壁が二段にすっきり高く伸びている外観が清々しい。
14紫宸殿背面                      15 清涼殿東面
特筆すべきは、この御殿の東に広がる紫宸殿南庭同様の白砂一色の中庭で、東南北の三方を紫宸殿北面や渡り廊下に取り囲まれている。一人佇んで静かに御殿前に置かれた二種の竹の葉以外、一つの樹木も庭石もない広々とした白い中庭を眺めていると、清浄な気配に包まれ、静かな感銘が心にせまってきます。紫宸殿、清涼殿の大きく高い屋根が庭に濃い影を落とし、渡り廊下の柔らかな桧皮葺の屋根が低く伸び、黒い木部と白亜の壁に広々とした白砂の庭が心地好く対比した絵画のような風景が美しい。御所の建築が醸しだす類まれな雰囲気は、紫宸殿・清涼殿とそれらを繋ぐ建築群と庭が集合して織り成す構成的な美から生まれているような気がする。かつて太平洋戦争の最中、空襲による火災から紫宸殿や清涼殿、御常御殿や小御所などの貴重な建築を守るためそれらを繋ぐ通路やその他重要視されなかった建築が解体されて、戦後しばらくの間、清涼殿の中庭は東と北を囲っていた廊下の建築が失われて、紫宸殿と清涼殿の関係がまったくまとまりのない状態になっていたという。その後、壊されていた渡り廊下の建築が復元されて、清涼殿の中庭周辺は旧観に戻ったのだが、依然として戦中に壊された御学問所の西の諸役人や女官などが使っていたサービス廻りの諸建築は現在も復元されることなく、松を主体とする庭になっているがやや間延びした観は否めない。御所に並ぶ建築群が互いに密接に結びつくことで、全体として醸しだされる集団建築の美しさが部分的に損われたままであるのは残念です。
16 白砂一色の庭と渡廊下              17 紫宸殿屋根と渡廊下

18 渡廊下に囲まれた庭                19 渡廊下 黒ずんだ木部と白い壁と障子
20 小御所
小御所・御学問所 開放感溢れる東庭
清涼殿から西に進んで、春興殿を右に見ながら門を入ると、小御所と御学問所が北に並んで東面して建っている。御殿から東を眺めると、緩やかな円弧を描いて広がる池と対岸に茂る樹木などが美しい御池庭が眼に鮮やかに映りこむ。小御所は宮中の諸儀式が行なわれる御座敷であり、明治維新直前の著名な小御所会議が催された場所でもある。外観は四周に廂を廻し、東廂の外周に半蔀、外に高欄を付けたすの子縁を廻らすという紫宸殿・清涼殿同様の寝殿造りであるが、母屋は近世の住居形式を取り入れて畳を敷き詰めた上・中・下段の三室に分かれた書院造りの様式になっている。公卿たちが蹴鞠や奏楽に興じたという小庭を挟んで、北に渡り廊下で繋がった御学問所は、桧皮葺の入母屋屋根で外に高欄のあるすの子縁をつけて寝殿造りを踏襲しているようだが、最早寝殿造りでは日常の生活がし難くなったのか内部のプランは完全に書院造りに移行しており、外周も蔀の代わりに敷居のある引き違いの舞良戸に上部は欄間が用いられ、寝殿造りと書院造りを折衷させたような外観になっている。並行する二つの御殿を見比べると、御学問所は造られた年代が新しいせいで書院造り化し、住まいとして近世的であるがどこか堅い印象で、小御所のほうが上品で風格があるように感じられて仕方がない。それが平安以来の洗練を重ねた寝殿造のもつ伝統美のなせる技なのか知りたいところでした。
21 御学問所
東に広がる御庭は緩やかな曲線を描く池を中心とした回遊式庭園です。御殿前は白砂の平庭で、池の前面は玉石敷の州浜で船着場へ向かって傾斜し飛び石が打たれて、池には三つの中島が浮かび対岸と橋で結ばれている。飛び石は豪快なテクスチャーを湛えながら玉石と旨く調和していて、かつて桂離宮の古書院から前面の池に向かって傾斜した芝生に打たれた飛び石の流麗さに感嘆したことを思い出しました。そこには一見無造作にデザインしているようで、どんな細かな部分も疎かにしない意匠精神が徹底しているように感じられるのです。この庭は回遊出来るように造られているが、御殿から大らかな池や豪快な石、島に架かる反橋、対岸に茂る樹木などを眺めて四季の趣を楽しむ庭園であり、開放的で大まかな構成であるが宮中独特な品格が漂っている。
22 南より御池庭を望む            23 北より御池庭を望む          24 池の船着場へ打たれた飛石

25 御常御殿
御常御殿と御内庭 曲折する清流を囲む濃密な庭
御学問所の東北から続く渡廊下越しに御常御殿の大きな桧皮葺の屋根が顔を覗かせている。小御所・御学問所東庭を区切る塀に開けられた長押門から中に入ると、そこから先は宮中のプライベートな領域でした。東面して建つ御常御殿は天皇の日常のお住まいらしく15の座敷からなる最大規模の御殿で、外観はやはり桧皮葺の入母屋屋根で南面だけが半蔀がつく寝殿造り風であるが、内部も含めてほとんど書院造りの建築である。南面し東西に上段・中段・下段と三つ並んだ間が晴れに用いられる場所で、上段が玉座である。床の高さが異なると伴に天井や外周の半蔀も高さも三段に変化していてる外観が面白い。
26 御常御殿南面 上・中・下段の間
庭も寝殿造り風のこしらえで、小御所の大池から分岐した小川が塀を潜って御常御殿の東南から北奥へ平安の遣水風に蛇行しながら曲折して流れゆく光景が美しい。長押門を潜って、すぐ右手に高欄のある反橋が対岸に架かる優雅な姿が眼に飛び込んでくる。反橋の下をさらさらと小川が流れ、橋の向こうには新緑を背景にツツジ、牡丹などが爛漫と咲き誇り、屏風絵ような麗しい構図の景色が展開する様子に感銘を受けました。この御内庭の造作を指図したのが仙洞御所を作事した幕臣小堀遠州であるらしく、遠州は寛永度御造営の総奉行に任じられて新内裡の工事にあたるなかで、御常御殿前の内庭を自然風な樹木を配した野筋風の様式に設えたと謂われています。
27 御内庭 反橋                28 小川に架かる石橋          29 小川の対岸に佇む泉殿

30 植込みで隔てられた迎春殿・御涼所
御常御殿東南の反橋や東正面の重厚な石橋、東北に架かる二枚の木橋などが要所要所に架かり、蛇行して流れる小川の点景とな り、この庭に風雅な趣を添えています。木橋を渡った東岸には涼を呼ぶ泉殿が新緑の茂みの奥に見え、その周辺を笠状に枝を広げた松や爛漫と咲いたツツジが飾っている。残念ながら御常御殿から北は一般の拝観は許可されておらず、更に濃密に展開する御内庭と安政3年(1856)に孝明天皇の好みによって造られた迎春殿や数奇屋風な透廊で繋がる茶室・聴雪などを観ることは叶いません。わずかに迎春殿前の植え込みから奥の格調高い雰囲気を感じるのみです。
Ⅳ.まとめ
京都御所の拝観に訪れたのはこれで二度目ですが、今回は特別公開で宮内庁の案内もつかず、時間をかけてじっくり鑑賞することが出来ました。紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿など御所に建つ建築群が南から北へ寝殿造り、書院造り、数奇屋造りと様式が少しずつ変化しながら展開し、各々の殿舎を有機的に連携する廻廊や渡廊下に囲まれる中庭や坪庭、大らかな池を中心とした庭園と小川が曲折して流れる濃密な内庭などが渾然と織り交ぜられながら刻々と変化していく景色に魅せられてしまった思いです。
御所は、平安京大内裡における内裡(皇居)だった昔から度重なる戦乱や火事で炎上する都度に、再建復興されながら明治維新まで皇居として悠久の歴史を刻んできた。太平洋戦争の最中、延焼を防ぐため惜しくも一部の建物が解体されたてしまったが、数多くの貴重な古建築は戦災を免れ、今も日本的な建築美を輝かしており、その存在は国宝に等しい歴史的遺産である。現在の御所の諸建築は、19世紀中頃の安政度造営によるものだが、御所を経巡っていると独特な造形的雰囲気が漂い、平安の趣を感じられるのだ。それは焼失と再建が繰り返されながら受け継がれてきた伝統精神に負っているのではないだろうか。寝殿造りから書院造り、数奇屋造りと時代とともに進化する建築様式を受容しながら平安京の古制を守護するという新旧織り交ぜた洗練を重ねてきたため、江戸時代末という近世の造営でありながら、平安以来の王朝文化の雅な薫りが御所の建築群から醸し出されているように感じられてならない。
参照文献
・「京都御所」/岸田日出刀著/相模書房発行/1954
・「京都御所」/石川忠・村田治郎・谷口吉郎・猪熊兼繁・入江泰吉共著/淡交社発行/1962
・「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
・「建築と庭 西澤文隆[実測図]集」/西澤文隆著/建築資料研究社発行/1997
・「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」/岩波書店発行/1952
・「秘蔵写真で知る京都御所入門」/渡辺誠著/東京書籍発行/2005
本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・画像 1 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像 5 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像10 「秘蔵写真で知る京都御所入門」
・画像12 「京都御所」/岸田日出刀
・画像13 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像16,17,18 「京都御所」/岸田日出刀
・画像20,21,25 「京都御所」/岸田日出刀
京都御所 Kyoto Palace PartⅠ

京都御所 Kyoto Palace PartⅡ

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1 月 29 2009

三渓園 Sankeien Garden

テクノラティプロフィール
                                        大池の対岸の山上に聳える三重塔を望む

敷地:横浜市中区本牧三之谷58-1
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創建(公開):明治39年(1906)
感想 Impression
Ⅰ.古建築のミュージアム 三渓園
横浜市の東南部・本牧海岸に沿い、山や谷に囲まれた美しい自然環境に175,000㎡の広大な庭園があります。三渓園は明治の実業家原三渓が京都や鎌倉から手に入れた寺塔・殿舎・楼閣・茶室等の古建築をこの地に蒐集し景観に嵌め込むように巧みに移築して造り上げた名園で、明治39年(1906)に一般公開されました。庭園は、外苑と内苑という二つの領域に分かれており、いつでも公開されているパブリックな外苑に対し、内苑は原家の私邸があったプライベートな領域です。山上に建つ三重塔が象徴的な外苑は大きな池と四季折々の花を楽しめる大らかで開放的な趣なのに対し、内苑は池の汀や山・谷間などの起伏ある地形に相応しい古建築を配置していった造形的雰囲気が漂う緻密な構成の庭園になっていて、外苑に遅れること17年後の大正12年(1923)に完成し、三渓園が原家から横浜市に寄贈された5年後の昭和33年(1958)に公開されました。正門から園内に入ってまず視界に飛び込んでくるのが左に曲線を描いてゆったりと広がる池の対岸の山上に聳える三重塔です。外苑のみならず三渓園全体のランドマークであり、また園内の景色を引き締めるフォーカスポイントとして、荘厳な気品を湛えています。野趣で長閑な空気が流れる外苑から御門を通って原家のプライベートエリアだった内苑に到り、起伏に富んだ自然の地形を活かして上り下りするアプローチを辿って行くと、三渓が収集し移築した歴史的価値の高い古建築が最初からそこに佇んでいたのではないかと錯覚を起こさせる程、それぞれの建築が相応しいと思われる場所に配置されており、建築と地形が調和した美しい景色に魅了されます。原が次々と蒐集し、場所を択び吟味しながら移築した古建築群の中で最も見応えがあり白眉と言えるのが「臨春閣」「聴秋閣」と呼ばれる二つの数奇屋建築でした。
Ⅱ.巧みに再構成された臨春閣
池の汀に佇む臨春閣を望む                     上空より雁行した臨春閣を眺める

臨春閣平面図
内苑で最も重要な建築である臨春閣は、元々、紀州徳川家初代の頼宣が和歌山市の東北、紀ノ川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別邸であった。その後、複雑な背景から所有者が変わり、紀州から大阪に移され保存されていたが、明治39年に原が譲り受けて、大正4年(1915)から移築し始め、同6年に完成し、改めて臨春閣と名付けられた。臨春閣の正面の山の頂きに、やはり原が京都から大正3年(1914)に移築した三重塔が庭園の象徴として建っている。臨春閣は、山上の三重塔を意識し、対景という中国の庭園の技法を取り入れて互いが対の景色をつくるように現在の場所に配置されたようだ。
移築ということは木造の日本の伝統建築ではよく行われることだが、この建築のような巧緻な移築は珍しいと謂われている。内苑の池のほとりに最初からそこにあったかのように自然な佇まいを見せている現在の臨春閣は、右手前から左手奥へ第一屋、第二屋、第三屋と呼ばれる三つの棟が雁行して形づくられている。だが、かつて紀ノ川沿いにあった紀州徳川家の御殿はこのような並びでは配置されておらず、三渓園に移動してくる際、オリジナルの建築構成に手を加えて改造し、第二屋と第三屋が池に臨んで眺められるよう池に沿って雁行させたのは原三渓の創意工夫であったようだ。三つの棟とも屋根はオリジナルの本瓦葺からすべて柔らかな表情の桧皮葺に変えられ統一されているが、第一屋と第二屋は平屋の入母屋、第三屋が二階建てで寄棟屋根となっており、雁行配置のプロポーションに変化を与えている。
第二屋浪華の間                               浪華の間 欄間

建物内部に右手前の第一屋から入り、鉤の手になった縁を歩いて池に面した第二屋へいくと、この建築の中心であり最も格式ある二間続きの書院がある。浪華の間と呼ばれる部屋を囲む欄間に並んだ額入りの色紙とその隙間を菊花の透かし彫りで埋めたユニークな意匠に思わず視線が注がれる。全体に臨春閣の欄間は優れた意匠が凝らされていて実に見応えがあります。浪華の間からより格式高い住之江の間へ上がる敷居に用いられた柿材が書院の格式に柔らかな雰囲気を与えている。薄暗い住之江の間の付書院欄間から光りを透かして美しい文様が表れている光景が美しく、しばし釘付けになりました。また正面を占める床の間と床棚・地袋の意匠が瀟洒なもので、床柱の丸太や床框の朱塗りが艶やかに光り、棚の地袋には渡来品を応用した螺鈿細工が嵌め込まれ、華やかさの中に渋さが調和したような意匠になっています。雁行した棟の一番奥に位置する第三屋は、手前の第二屋との繋ぎに手洗いなどが設けられて切り離されているため、プライベートな空間になっている。ここでまず目をひくのが二階の間へ登る階段室の面白い開口である。白い壁面に黒く塗られた太い枠で縁取られた火灯形の口を開き、直角に折れながら上階へ登る階段が顔を覗かせています。この開口は頭部が炎を思わせる曲線なので火灯口または火灯窓と呼ばれ、鎌倉時代の禅宗寺院から由来したものが時代が下って臨春閣のような別荘建築にも取り入られたのだろうか。インテリア・デザインとして空間に変化を与えており、また上階へ導くサインの役割も果たしている。惜しくも二階は公開されておらず、遠い江戸時代に火灯口を潜って階段を登り、紀州藩主が近しき人や客と寛ぎ川の眺望を楽しむプライベートな空間だった村雨の間を見ることは出来ないのは残念でした。村雨の間は三方を開け放てる望楼になっていて見晴らしよく、この部屋から内苑全体の眺望が楽しめるという。また正面の東南方向の山上には前述した三重塔が聳え、借景としてピンポイントに見上げられる趣向になっている。
第三屋天楽の間より火灯口を望む                 第三屋天楽の間

                                         天楽の間 欄間
Ⅲ.軽快で円やかな楼閣 聴秋閣
聴秋閣正面全景                             聴秋閣平面図

池のほとりに雁行した臨春閣の端整な佇まいを眺めながら、北へ急峻な細い山径を登りながら中程で左に迂回すると、谷間の林から小さな望楼をのせた茶屋が見えてくる。聴秋閣と呼ばれるこの二層の茶屋は、徳川家三代将軍の家光が京都に上洛した際、作事奉行の佐久間将監に命じて二条城内に造営させたもので、当時は「三笠閣」と称されていたと伝えられている。その後、江戸城内に移されたが明治後、買い取られて持主の私邸に移されていたものが大正11年に原の元に寄贈され、三渓園に再度移築されたと謂われている。聴秋閣が三渓園に再建された翌年の大正12年に関東大震災が起こり横浜が壊滅的被害を受けて以来、原は横浜の復興と自分の事業の再建にかかりきりになったため、彼の長年にわたる古建築蒐集の活動は結果的にこの楼閣建築の移築が最後となったのたのだが、大震災がなければ蒐集した古美術品のための美術館を建設する構想もあったという。いずれにしても、聴秋閣は類例の極めて少ない楼閣建築に遺構なのだが、この種の楼閣の先駆的なものに南北朝時代に京都の西芳寺にあったという瑠璃殿や室町将軍が創建した著名な金閣、銀閣がある。これらは当時隆盛だった禅宗寺院の建築様式に影響されており、上層の望楼から見下ろすという当時にあっては非日常的な体験をすることが重視されていた。それは時代が下ると城郭建築における天守閣のような壮大な望楼に繋がってゆく。小規模ながら聴秋閣は室町の禅宗寺院を源流とする貴重な楼閣建築と言える。
山径より聴秋閣を眺める

山径のアプローチをつたって聴秋閣に近づくと、まず建物の間口側である付属部分の面と水平にやや雁行した入母屋の屋根が視界に入ってくる。しかし裏の山径から撮った画像を見ると、本来この茶屋は渓流に面している長手の正面側とその右手山側の方角から建物全体を眺めるほうが美しい景色となるよう造られていることが感得できる。現在、安全を考慮してか立ち入れないようになっている裏側の山径からアプローチしないと、この楼閣建築の造形美を堪能することが出来ないのではないだろうか。文献によると原三渓在世時は、裏の山径を辿っていたようであるので、この建築の本領を三渓園を訪れる人々に伝える意味でも以前の経路を復活させて貰いたいのだが。
                                         聴秋閣望楼より三重塔を望む

聴秋閣の正面に廻ってその姿をじっくり眺めてみると、対称性を避けて、多様な要素の集積の均衡をとるべく左右非対称に造形されている。上下層で平面のサイズが違い、上層の望楼はコンパクトな大きさにまとめられて拡がった下層の上に微笑ましく置かれている。望楼には禅宗寺院を思わせるような火灯窓が東南方向の三重塔に向かって設けられ、障子を開けると炎形の開口から谷を隔てて山上に聳える三重塔が遠景として望める仕掛けになっている。臨春閣同様、この楼閣建築もまた三渓園の象徴である三重塔をピンポイントで見上げる眺望を楽しめるように配慮されてこの場所に移築されたようだ。
渓流に架けられた巨石の橋を渡って正面から内部を見ると、木の四角い板がタイルのように斜め目地に敷かれた土間が内側に食い込み、その向こうに床、戸棚、付書院などの主室が大きく拡がっている。舟入ふうの土間の周囲に廻った欄干も対称形を避けるように、端部の位置が変えられ変化を求める細かな配慮がされている。また右側の付書院のスペースが大きく斜めに切られているなど、意表をつく奔放な意匠が面白い。書院とその先に続く二畳の上段の窓を開けると、晩秋には谷間の渓流を囲む美しい紅葉の景色が望めるため「聴秋閣」と名付けられという。天井高など空間のスケールは小さく抑えられていて、この空間が茶の湯のための小間の座敷であることに気付かされる。平面を見ると、茶事以外の機能の座敷を具えており、その構成は元々二条城内の庭園にあった建築らしく庭に対し開放的で多彩な変化をもたせている。そこからは、茶の湯の先達の利休や同時代の遠州の茶室に見られるような迫力や濃密な趣とは異質な軽快で明るく奔放な雰囲気が感じられます。
聴秋閣 書院内観                          客室より書院及び上段の間を望む

ⅳ.伝統を通して自己表現と社会貢献を果たした近代の数寄者 原三渓
三渓園を創設した実業家・原三渓は、数々の古建築の他にも美術品の蒐集家としても知られ、新進芸術家の援助・育成更には造園・茶道など多方面の分野で縦横に才能を発揮した趣味人でした。原は、三渓園の造成にあたって陣頭指揮を執り、古建築の移築はもとより園内の草花からつくばいや手水鉢、塔、燈篭などの名石に至る隅々まで目を配り、自らの美意識と哲学を浸透させていきました。そして長い年月をかけ趣向を凝らして造り上げた自宅の庭を「三渓園の土地は自分のものだが、自然の風景は市民のもの」と言い、横浜市民の憩いの場として一般開放したのです。近代化の過程にあった100余年前の明治時代に、いわゆるオープンガーデンを実行したことは現在でいうところの社会貢献にあたり、大変な先見性と価値観であったと思います。原が公開したのは庭園だけに留まらず、蒐集した古美術の名品も援助している日本画家たちに惜しみなく公開して、彼らの芸術心を養い創作に寄与したという。日本の伝統に根差して、自分の世界感を表現するために趣味として楽しみながら造った庭園をパブリックに供し、結果として社会的信頼を勝ち得るという相乗効果を遂げた意味は大きい。日本の近代化の表現という視点からも、三渓園は原が後世に遺した希有な社会遺産と言えるのではないだろうか。

参照文献 Reference
数奇屋逍遥-茶室と庭の古典案内/横山正著/彰国社/1996
数奇屋の思考/石井和紘著/鹿島出版会/1985
数奇屋の森-和風空間の見方・考え方/中川武監修/丸善/1995
日本の建築-その芸術的本質について/吉田鉄郎著/東海大学文化選書/1975

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9 月 19 2008

大池寺 Daichi-ji Temple

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敷地:滋賀県甲賀市水口町名坂
創建:江戸時代(1624~1643年)
Location:Nasaka,Minakuchicho,Kouka City,Shiga Prefecture
Establishment:Edo period(1624~1643)
感想 Impression
山中を切り開いた薄暗いアプローチの路を曲がりながら歩いて往くと、突然視界が開け、寺院の南門に通じた一直線の舗石道が現われます。ここ大池寺は四周を山と満々と水を湛えた大きな貯水池に囲まれた静寂な禅刹です。
低い刈り込みで両側を縁取られた舗石道を直進して南門を入ると、美しい松が置かれた白砂の平庭が広がっている。平庭に敷かれた舗石道を右折して庫裏の玄関に到り、中に入って庫裏書院でしばし待たされてから案内して貰い、西に進んで廊下を右折して北へ向かうと、右手にある書院の東に波のようにうねるサツキの大刈り込みの蓬莱庭園が眼に飛び込んできました。
この鑑賞式庭園は江戸時代初期の17世紀の寛永時代に作庭されたと言われています。背景のサツキの二重刈り込みと左右の刈り込みは打ち寄せる大波を表現し、その前の白砂の水面上に小さく整形されたサツキを乗せた刈り込みは、宝を積んだ宝船が到着した姿を現しているという。訪れた時期が五月下旬という季節であったため、曲線を描いて柔らかく刈り込まれたサツキの表面を紅白の花が入り乱れて咲いている華麗な光景を運よく眺めることが出来ました。刈り込みという手法で植物をこれほど柔らかく美しいものであることを伝える作庭者の優れた造形感覚に感心するばかりです。
The scenery spreads out suddenly and the straight pavement stoue road which is well-informed about the gate of the south at the temple appears when turning at the route of the dim approach which opened to be in the mountains, but walking and going. Separate Daichi-ji temple is the silent Zen temple [...]

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9 月 19 2008

玄宮園 Genkyu-en Garden

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敷地:滋賀県彦根市金亀町
創建:江戸時代(1643年)
Location:Konkicho,Hikone City,Shiga Prefecture
Establishment:Edo period(1643)
感想 Impression
彦根城の外堀と内堀に囲まれた玄宮園と楽々園は、江戸時代(17世紀)に作庭された一つの庭園が二つに分けられた形になっています。西側にある楽々園が玄宮園の一部を19世紀初めに改造して作ったものと謂われ、枯山水形式の庭園になっていますが、規模も小さく東隣の玄宮園の添え物的な感が否めません。
玄宮園は、琵琶湖から引いた水を満々と湛えた大きな池を中心にした廻遊形式の広大な庭園です。園内には数奇屋風な建築が池に張り出し、島が浮かび、橋が架けられ、巨大な石組があり、この園を訪れる者を飽きさせない多彩な仕掛けがちりばめれていて、大いに楽しめます。池の周囲の遊歩道を歩いて北岸から池を望むと、西北岸に渡る橋や小さな中島の向こうに臨池閣と呼ばれる茅葺きの建築が水面に浮かぶように架け出されている。その背後の樹林越しには彦根城天守閣の白く美しい姿が借景として望見され、この庭園の見所と言えるでしょう。更に池沿いに北岸から東岸へ廻り込んでいくと、土橋が架かった大きな凹形の中島がある。この島の西岸に沿って鶴を模した石組の巨石が自然に立てられ、後ろの松や刈り込みともよく調和した景色がつくられている。東岸から南下して行くと、池に浮かぶ三つ目の中島が現れ、ここに架かる石の橋脚に支えられた橋を渡ると、さっきの池に張り出した臨池閣より南西の築山の上に位置する茶屋に出ます。鄙びた趣のある建築ですが、鳳翔台と呼ばれ、江戸時代には彦根藩主が客をもてなすための客殿だったと伝えられています。いかにも客殿に相応しく玄宮園全体の眺望を鑑賞するには絶好の場所でした。座敷に上がり、供された薄茶を喫しながら庭園の美しい景色を眺めていると、しばし時の流れを忘れさせてくれます。
Rakurakuen becomes the form which the 1 corner garden which was done with the landscape in the Edo period ( the 17th century ) was completely classified into with Genkyuen who was surrounded by the outer moat and the inner moat in Hikone-jo. It becomes the garden of the one [...]

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9 月 19 2008

浄土寺浄土堂 Joudo-ji Temple Joudodou 

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敷地:兵庫県小野市浄谷町
創建:鎌倉時代(1192年)
Location:Kiyotanicho,Ono City,Hyogo Prefecture
Establishment:Kamakura period(1192)
感想 Impression
兵庫県南西部、かつて播磨の国と呼ばれた地域を走る神戸電鉄粟生線に長々と揺られ、小野駅で降りてから1時間程、北東に歩くと、道路沿いの右側に開いた空地に国宝極楽山浄土寺と大書された看板が見えてきます。奥を望むと、小高い丘の上に本瓦屋根が載せた阿弥陀堂が巡礼者を迎えてくれるかのように西に向かって建っていました。浄土寺へはここから東へ伸びた道を進み、突き当たりの丘を迂回した南側から石の階段を上がって到ります。
丘の上は、ひっそりとうらぶれた雰囲気の境内が拡がり、中央の池を挟んで東西に薬師堂と浄土堂が対峙し、目的の浄土堂(阿弥陀堂)は拍子抜けするほどあっけらかんと建っていました。その外観は3スパン約18㍍四方の正方形平面に本瓦葺きの宝形の寄棟屋根が載り、柱・梁・肘木などの架構は朱色に塗られ、三方に濡れ縁が廻されている。寺院建築には珍しく、屋根はまっすぐ葺かれてほとんど反りがなく、立方体に宝形屋根が乗せられた幾何学的なフォルムをもつ阿弥陀堂です。浄土寺は12世紀末、東大寺再建の大勧進職にあった重源が東大寺所領の播磨の地に創建した念仏道場と伝えられています。その阿弥陀堂である浄土堂は、昭和30年代の修復はあったものの、8世紀に及ぶ時の流れに耐え当初の姿のまま残っています。浄土堂は大仏様という中国の特異な建築様式でつくられており、この様式は著名な東大寺南大門の他は浄土堂だけがその遺構とされている貴重な建築です。
石階段から濡れ縁に上がり北側から堂内に足を踏み入れると、そっけない外観とは打って変わって、正方形平面の中央に置かれた円形台座に立つ金色の阿弥陀立像を中心とした劇的な空間が展開していました。丈5m余りの阿弥陀立像を囲むように四本の朱色の太い独立円柱が天井のないピラミッド状の屋根裏まで達して伸び、各円柱からは直角と斜めの三方向に朱色の丸太梁が上方に三段に組まれながら側柱に向かって飛び交っている。その姿は和様の寺院建築とは一線を画す荒々しくダイナミックな構築力に満ち溢れています。阿弥陀立像は東を向き、その背後の西面は全てスパン一杯の蔀戸で開放されるようになっています。夏の夕刻時に蔀戸を上げると西陽が堂内に射し込み、金色の阿弥陀如来が後光を発して輝き、阿弥陀仏来迎の光景が現出すると伝えられています。蔀戸を上げるのは年に一回らしく、体験するのは難しい。ただそういう光景に立ち会ってみたいと思う程、巨大な阿弥陀立像を囲んで念仏を唱える人々が集まる空間を覆う架構体に漲る力強さは圧倒的なものがありました。
浄土堂を建立した重源は12世紀末の同時代に焼亡した東大寺の大仏殿と南大門を勧進による資金で再建するという大事業を成し遂げています。1190年に東大寺大仏殿、1192年に浄土寺浄土堂、1199年に東大寺南大門という順で完成し、いずれも中国から技術移転した大仏様(天竺様)という建築様式でつくられている。それまでの日本の寺院建築には見られないような豪壮な架構が特徴ですが、特にこの浄土堂は小規模ながら大仏様に基づいた構築性が最も純粋に表現されているようです。
When walking for about 1 hour northeast after being for a long time jolted by Kobe Electric Railway Ao Line which runs in the storehouse Agata southwest, the area which was called a country in Harima formerly and getting off in Ono station, national treasure sky mountain Jodoji and the signboard which [...]

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9 月 17 2008

依水園 Isuien Garden

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敷地:奈良市水門町
創建:江戸時代(1670年代)
Location:Suimoncho,Nara City
Establishment:Edo period(1670s)
感想 Impression
依水園は江戸時代の1670年代に作庭された奈良市唯一の池泉回遊式庭園です。池は園の南を流れる吉城川から給水され、敷地は東西に長く西側の前園と東側の後園から構成されている。
玄関を通って園内に入ると、まず前園の池が広がり、池向こうの西端に茅葺きの田舎家「三秀亭」があります。前園はこの三秀亭を中心に前面の池の護岸の石組みと池に浮ぶ二つの中島や石橋、要所に配置された灯籠など縮小江戸時代の作庭を偲ばせる雰囲気があります。園内を西から東に走る流れに沿って路地を進んでいくと自然と後園に導かれます。すると視界が一気に広がる開けた庭が展開し、東方のツツジの刈り込みの向こうに浮び上がる東大寺南大門の雄姿や遠く若草山、春日山、御蓋山など奈良の山々が借景として取り入れられた素晴らしい眺望が楽しめます。池を中心とした作庭は前園と同じですが、開けた庭に広がる池の中央に浮ぶ中島とその向こうにあるなだらかに隆起した芝山が遠景の山と連なり、庭園に深い奥行き感をもたせているようです。依水園は世界遺産の東大寺に囲まれた環境にあり、現在も古の奈良の景観を守りながら四季の趣きを楽しめる庭園として維持されています。
Isuien Garden is the only garden which migrates in the pond of Nara City which was done with the landscape in the 1670s of the Edo period. Watered from Yoshiki river which flows in the south at Garden by the pond and Site’s consisting of pre- garden in the west side and rear [...]

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9 月 17 2008

東大寺二月堂  Nigatsu-do of Todai-ji Temple

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敷地:奈良市雑司町
創建:江戸時代(1669年)
Location:Zoushicho,Nara City
Establishment:Edo period(1669)
感想 Impression
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三月堂北の階段を登った高台には、懸崖造の二月堂が西面して聳え立っています。有名なお水取り(修二会)の時期であったためか、二月堂周辺には多くのアマチュアカメラマンの群れが陣取って、盛んに二月堂のベストアングルを探っていました。下から二月堂を見上げると三方を取り囲んだ舞台を支える肘木と床下に連続する柱、格子が織りなすパターンが美しい。堂の脇の石階段を登って、南から入堂し西側に跳ねだした舞台に出ると目前に大仏殿屋根の遠景が見え、奈良の街や遠く生駒の山まで一望です。北へ廻って屋根の架かった渡り廊下を降りて、二月堂裏の緩やかな石畳の参道を土壁や石垣の壁に囲まれて降りて行くと、辺りは長閑な雰囲気が漂い、振り返ると石階段の上に二月堂の優美な姿が浮かび上がっていました。
Nigatsudo of the over hanging bluff appearance faces to the west and dominates the hill which climbed stairs in the Sangatsudo north.The group of a lot of amateur photographers was occupied around Nigatsudo and explored the best angle of [...]

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