Archive for the '喪われた都市 Fogone days of the Metropolis' Category

2 月 27 2009

忘却された帝都の停車場 萬世橋駅

Ⅰ.外濠沿いを横断し帝都の中心部を走った甲武鉄道
甲武鉄道市街線(明治末 市ヶ谷付近)                    甲武鉄道市街線(明治末 水道橋付近)

東京を東西に貫く現在のJR中央線は、明治22年(1889)多摩地方と東京市を結ぶべく新宿~立川~八王子に開通した私鉄「甲武鉄道」がその前身です。以後、甲武鉄道は郊外から東へと東京市街地への果敢な進出を試み、明治20年代後半から外濠方向へ延長され、明治27年(1884)新宿~牛込,明治28年(1885)牛込~飯田町(現飯田橋)明治37年(1904)飯田町~御茶ノ水と開通させていきましたが、明治39年 (1906)に公布された鉄道国有法によって、甲武鉄道は国に買収され国有化される。その後は官営鉄道・中央線が事業を引き継ぎ、明治41年(1908) 御茶ノ水~万世橋間が開通していくことになるのだが、台地や谷など起伏ある地形に囲まれた東京市街地への鉄道乗り入れは、用地の買収など難問が山積みの一大事業でした。だが、当時の陸軍が市内から全国各地へ軍隊や物資を輸送する必要性から市街地への鉄道敷設を民間に持ちかけたことが契機となり、甲武鉄道の市街線計画が実現化してゆきました。
軍部の要請に応える形で、甲武鉄道は市街線の路線を新宿から南に迂回し、千駄ヶ谷と信濃町間に位置する陸軍の青山練兵場を経由して、四ツ谷見附の外濠脇腹に掘ったトンネル(隧道)を潜り、外濠の内側沿いの堤を走り、市ヶ谷見附と牛込見附の下を通過して、陸軍用地の飯田町(現飯田橋)を終着駅とする南回りのコース案を計画し、免許を得るべく国に出願します。現在の中央線の基盤とも言えるこのコースについては、政府が主催する鉄道会議を経て免許が下付された (明治26年)のだが、軍部の意向を反映して重要な陸軍施設を繋ぐように計画されたことから国防に主眼がおかれた軍事色の強い路線になっていました。四箇所のトンネルと16箇所の鉄橋を建設するという難関の敷設工事の末、明治27(1894)にまず新宿から牛込駅までが開業し、続いて翌28年(1895) に牛込から終着の飯田町駅までの延長路線が開業したことで、乗客数は飛躍的に伸び、紆余曲折の末に開業した市街線は大成功を収める。更に、飯田町~御茶ノ水の開通、そして万世橋への延伸に着手していたが、前記したように私鉄甲州鉄道が国有化された為、未完のまま国が引継ぐことになった。そして政府の保護の下に民間が敷設していた鉄道は明治の創業期から「国が管理する」国営化の時代へ推移していくことになる。
Ⅱ.喪われたもう一つの赤煉瓦のターミナルステーション
萬世橋停車場(明治45年1912)

神田連雀町・須田町界隈古地図

都心部の外濠沿いを横断して開通した中央線の終着駅(明治41年)となったのが、外濠から繋がる神田川沿いの万世橋でした。かつて万世橋付近には、江戸城を防衛する外濠に築かれた筋違見附の御門があり、その内側(南側)には延焼防止のための広場(火除け御用地)がありました。筋違見附は江戸時代、日本橋から江戸府外へ通じる中山道をおさえる北の関門でした。この神田川南岸の広場の立地性に着目して、万世橋駅が計画されました。
万世橋駅は既に明治21年(1888)から中央停車場(東京駅)と並ぶ帝都のターミナルとして構想されていたと言われています。その駅舎は、大正3年(1914)に完成する東京駅も手掛けた明治国家の建築家・辰野金吾が設計にあたり、三十万円という当時としては巨額な工事費用が投じられて明治45年(1912)に完成し開業された。二階建て、威風堂々且つ華麗なネオ・ルネッサンス様式の駅舎のファサードは後発の東京駅と酷似していることから設計者・辰野の習作的意味合いがあったとも言われています。全面を覆う赤煉瓦に白い花崗岩がアクセントとしてストライプ状に走るパターンでデザインされ、左右の屋根の角には尖塔が屹立し、屋根に突き出た飾り窓から瀟洒な趣が醸し出されていたという。駅舎の前には西洋を思わせるような中央広場が広がり、角地には日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長のモニュメンタルな軍神像が明治43年(1910)に建立され周囲を睥睨するように聳えていました。広場に面した須田町交差点は、路面電車が縦横に行き交い、東西に大正通り(現靖国通り)から柳原通り、南北方向には銀座・日本橋から上野に到る中央通りという二つの幹線道路に面した帝都屈指の交通の要衝で、神田須田町は銀座と並ぶ繁華な街でした。
国営・中央線 萬世橋駅ホーム                     萬世橋駅前広場から須田町交差点の眺め

関東大震災の被害 神田須田町界隈(屋根の鉄骨が剥き出しになった万世橋駅舎が見える)
大正8年(1911)帝都の二つのターミナルである万世橋~東京駅間が開通した。旧甲武鉄道の中央線と東海道線が繋がることで東京に円環状の路線が形成され、これが後(大正14年)の山手循環線に発展していくが、東京駅と結ばれた万世橋駅は単なる通過駅となってしまう。それから4年後の大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は明治以降、営々と築いてきた帝都の景観を一瞬にして破壊し尽した。ここ万世橋・須田町界隈も甚大な被害を被り、絢爛を誇った万世橋駅舎は屋根の鉄骨が剥き出しの無残な姿に破壊されてしまう。震災後、駅舎は再建されたが縮小されて外観からかつての面影が全く喪われしまい、また復興事業の区画整理でそれまでの幹線道路の大正通りが拡幅整備されて靖国通りになるに伴い須田町交差点が駅前から南に移動したことから、万世橋駅前界隈は裏通りとなり、銀座を凌ぐといわれた町から賑わいもまた喪われていった。
関東大震災の被害 神田須田町通り                       震災後 再建された萬世橋駅舎

Ⅲ.萬世橋駅に移植された鉄道博物館
鉄道博物館(昭和11年1936)西南側全景                   鉄道博物館

昭和9年(1934)、総武線電車の両国~御茶ノ水間が開通し、神田川を地上15mの超高架で跨いで万世橋駅を横目に御茶ノ水に直行するようになった。既に大正14年に開通した山 手環状線、総武線などの各路線に囲まれてしまった万世橋駅は乗降客が至近の御茶ノ水駅や神田駅に奪われ激減していく。大正10年(1921)の鉄道開業 50周年を記念して東京駅の北側高架下に創立された鉄道博物館も、関東大震災では壊滅的被害を受けたが、規模を拡大して本格的な博物館として再起するため 鉄道省は新たな用地を探していた。そこで乗降客が減り寂れていた万世橋駅敷地が着目され、博物館新館を建設する計画が決定された。こうして昭和11年 (1936)4月に「交通博物館」は誕生し、その後の昭和から平成に渡る長い歳月を神田須田町で過ごして多くの鉄道ファンに親しまれることになるのだが、 細々と営業していた万世橋駅舎は歴史の彼方に消えていった。
鉄道博物館西側外観                                     東南側外観

鉄道博物館は駅舎の基礎をそのまま利用して建設され、平面の形・大きさが万世橋駅舎と重なっているためか、外観は1930年代の先端だったインターナショ ナルスタイルのモダニズム建築であるにも関わらず、どこかかつての壮麗な駅舎の記憶をそこに留めているように感じられる。駅舎が博物館に移り変わり、改札口が裏に廻ってしまった万世橋駅は存在感が薄れ、乗降客の減少と隣接駅の御茶ノ水・神田との距離の短さなどの理由から、太平洋戦争最中の昭和18年 (1943)、明治45年(1911)の開業から31年の歴史に幕を降ろし、廃駅となった。しかし廃駅後もプラットホームやホームに到る通路は遺構として博物館の裏に残った。今も中央線に乗ると、御茶ノ水と神田の中間の神田川沿いに横たわる赤煉瓦アーチを通過する時、花壇状の万世橋ホーム跡を確認することが出来る。東京駅の高架下に誕生した後、万世橋駅跡地に移転し、戦後は交通博物館と名を改め、多くの鉄道ファンに親しまれながら85年が経過した平成18年(2006)、交通博物館は鉄道博物館と戦前の名称に戻って、さいたま市に新館オープンすることとなり、惜しまれながら5月に閉館された。閉館後、早や2年余りが過ぎたが、白いバウハウス風なモダニズム建築は一部取り壊された箇所はあるものの、殆んどは閉館時のまま放置されており、内部の万世橋駅遺構は今も長い眠りを続けているようです。
鉄道博物館平面図                           萬世橋駅舎平面図

学生時代、神田川に架かる万世橋や昌平橋から御茶ノ水方向を漠然と眺めた時に都市的と感じた光景に出会って以来、この界隈は好きな場所となった。神田川の南岸沿いを飾る赤煉瓦アー チの高架橋を走り過ぎる中央線のオレンジ色の電車、川の遥か上空を斜めに横切る超高架の総武線を駆ける黄色い電車が鉄橋を渡って秋葉原の電気街に突入し、 遠く御茶ノ水の渓谷には連続するパラボラ開口に接して美しい円弧を描く聖橋が望見され、その前を水面すれすれに架かった地下鉄丸の内線の鉄橋を赤い電車が横切っていく。都心に張り巡らされた交通網が川を挟んであちこちの方角に立体交差を繰り広げるダイナミックな光景に、都市の抱える猥雑さや躍動感が顕われているような錯覚を覚えた。21世紀初頭の今、神田川を挟んだ秋葉原の喧騒とは対比的な静けさが万世橋・須田町界隈を覆い、もぬけの殻の交通博物館と 「いせ源」「藪蕎麦」「まつや」「竹むら」「ぼたん」などの食の老舗だけが僅かに帝都の停車場だった万世橋駅の面影を偲ばせている。
神田・昌平橋から御茶ノ水方向(西側)を望む             神田・萬世橋から御茶ノ水方向(西側)を望む(昭和7年1932)

参照文献
「幻の東京赤煉瓦駅」/中西隆紀著/平凡社発行/2006
「東京アーカイブス よみがえる「近代東京」の軌跡」/芦原由紀夫著/山海堂発行/2005
「中央線誕生 甲武鉄道の開業に賭けた挑戦者たち」/中村建治/本の風景社発行/2003
「国際建築1936年11月号」/国際建築協会発行/1936

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12 月 31 2008

江戸・東京の下町と山の手を分ける境界 九段坂

Ⅰ.改造された九段坂
葛飾北斎 「くだんうしがふち」                         九段下から九段坂を望む(1893)

九段坂の濠際を走る外濠線(1907~1926)

ほんの2年前まで小泉元首相の公式参拝で物議を醸していた靖国神社が鎮座する九段坂、靖国通りと目白通りが交わる九段下から市ヶ谷方向に上がる坂です。江戸期の九段坂は現在よりずっと急な勾配の坂で途中には石垣がありその北側に飯田町があったので、飯田坂又は飯田町坂とも呼ばれた。18世紀初頭の宝永年間に、この坂を九段に石階で仕切って沿道に長屋をつくったことが九段坂と名づけられた起源になったという。地形の起伏が激しく、牛が淵や千鳥が淵など江戸城の内濠に接した眺望の良さから九段坂は葛飾北斎の「九段牛が淵」、江戸名所図会の「飯田町中坂 九段坂」などでその風景が描かれている。北斎が西洋画の技法を取り入れて描いた斬新な構図の風景は、急峻で寂しく細い坂道が左側の高く誇張された濃緑色の牛が淵の崖っ縁と右側の石垣、長屋塀に挟まれるように昇っており、現在からは想像できない姿の九段坂であったようだ。荷車を後ろから押す「車押し」という業者がいた程、急な坂道は明治後、通行できるように徐々に改造されていき明治40年には市電が開通するまでになった。ただ、当時の九段坂はまだ電車が上ることが出来ない勾配であったため、南側の濠に市電専用道路(外濠線)をつくり、牛が淵・千鳥が淵沿いを走行していた。そして大正12年(1923)関東大震災後の帝都復興事業で九段坂の頂上を市ヶ谷方向に振って斜面を削るなどの本格的な掘削と拡幅の改造工事が行われ、昭和8年(1933)に区画整理が完成し現在のようななだらかな坂へ変貌した九段坂は中央を市電が上下に走るルートになり、神田・両国方面と市ヶ谷・新宿方面の東西の下町、山の手を結ぶ都心部の重要な交通拠点となった。
震災復興事業  九段坂界隈完成予想模型                 震災復興後 緩やかな九段坂の展望(1933)

九段坂より神田方面を望む(1933)                              九段坂より神田方面を望む(2008)

Ⅱ.祝祭空間だった東京招魂社(靖国神社)
東京招魂社本殿を望む(1896)                          九段坂上の常灯明台(1907)

招魂社馬かけ(九段競馬 1898)

九段坂は眺望のよさから月見の名所でもあった。その坂上の高台に明治2年(1869)、幕末から明治維新後、国のために殉難した英霊を祀るため明治政府により現在の靖国神社の前身「東京招魂社」が創建されました。創建当初の招魂社は東京の庶民にとっては関心のない神社であり、江戸から明治になっても、依然として庶民の信仰は寛永寺のある上野にあった。九段坂上の招魂社は全く人の寄り付かない神社としてその歴史を歩み始めた。招魂社に人を引き寄せ、上野のような名所にして信仰を確立するため、政府は様々な人寄せの施策を実行していきます。まず明治4年(1871)、神田や日本橋・東京湾を一望できる高台にあることから西洋式灯台の常灯明台を境内に築き、東京湾を夜間航行する船舶や漁船の目印としての役割を果たさせます。そして明治12年(1879)明治天皇により、招魂社は国を靖める社「靖国神社」と改称される。やがて招魂社を皇居に近いこの地に定めた陸軍創設者・大村益次郎の銅像を空高く参道の中央に建設し、下町の神田・両国からも見えるようにして名所化していった。更には競馬・サーカス・奉納相撲など諸々のイベント(興行)が境内で催されて大いに賑わったという。日本人による洋式競馬は靖国の境内で始まった。大村益次郎の銅像を中心に今の入り口と青銅鳥居間の参道部分にレーストラックが設けられた招魂社競馬場で、春秋の例大祭の度に競馬が明治31年(1898)まで開催された。現在では想像もできないイベントだが、競馬開催の光景は版画の錦絵に残されており、当時の靖国が西欧風な民衆のイベント広場だった雰囲気を伝えてくれている。明治初頭に誕生した九段の靖国神社は明治政府の肝煎りで人工的に発展し、上野に比肩する信仰と娯楽の名所として、明るく開放的な祝祭の空間に変貌を遂げたのです。明治の日清日露、昭和の日中・太平洋戦争と重なる戦役で膨大な戦没者が出るに及んで、靖国神社は戦死した英霊を祀る場として国民的な支持を得てゆくのだが、その現象は明るく開放的な祝祭空間の靖国を国粋的な閉ざされた空間へと変えていってしまった。明治維新直後の創建から140年を経た21世紀初頭の現在、靖国は毎年8月15日の終戦記念日を迎える度に、A級戦犯合祀の問題などイデオロギー的な対立論争の只中で翻弄されている。しかし、そういうイデオロギーにまみれた喧騒から離れて、もっと広い視野から靖国を眺め、東京の下町と山の手の境界にある九段坂上という場所に誕生した靖国神社という空間が持っていた都市的なポテンシャルに光りをあてて、靖国の未来像は語られるべきではないだろうか。
靖国神社参道(2008)                           靖国神社拝殿を望む(2008)

Ⅲ.芸術家の溜り場・白い箱の「野々宮アパートメント」
野々宮アパートメント西南外観(1936)     野々宮アパートメント正面外観(1936)

靖国通りを神保町から九段下に向かい、目白通りとの交差点に立って現在のなだらかな九段坂を見上げると正面に靖国神社の大鳥居(第一鳥居)が目に入る。さらに交差点から左の南側に視線を移すと和風の瓦屋根を乗せた帝冠様式の旧軍人会館(1934)が牛が淵沿いに重厚な姿を見せている。大鳥居の前には今、真新しい東京理科大学の九段校舎があるが、戦前には陸軍将校の親睦団体本部・偕行社の煉瓦造建築が文字通り靖国の門前に建ち、その構内南角には現在靖国通りの反対側に移設された高燈篭こと常燈明台が聳えていた。厳めしい偕行社の並び、九段坂の中央にはかつて「野々宮アパートメント」という集合住宅が建っていた。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトに師事した土浦亀城の設計により昭和11年(1936)に竣工した白い箱のモダンアパートである。地上7層、白とブルーのタイルでストライプ状に外装された端麗な容姿は、帝都東京一モダンな雰囲気に溢れ、外国人や外国生活を経験した当時のエスタブリッシュメントが入居する都市生活の拠点であったという。写真を見ると外観だけでなく内部空間も最先端の住宅設備や洒落たフロント・ロビー、各部屋に備え付けの家具・電話・ラジオなどホテル様式のサービスを誇る近代的なアパートであったことがわかる。アパートの地上階には二層吹き抜けのスタジオを配した野々宮写真館があり、このアパートのクライアントである写真家野島庸三が経営していた。野島は近代写真の先駆者と評価される写真家で、無名の異端アーティスト(画家・写真家)達に活動する場(画廊・ギャラリー)を提供し且つ経済面を支援するパトロン的存在でもあった。芸術家をパトロネージする富裕な写真家野島と彼のスタジオがある野々宮アパートを中心とした人的交流から戦前の伝説的な写真雑誌「光画」(1932~33)や陸軍参謀本部が支援する海外向け国家宣伝誌の「FRONT」といった日本の近代写真を確立するグラフが生まれている。このようにモダニズム建築の野々宮アパートは、坂上に鎮座する靖国神社や隣に並ぶ陸軍施設の偕行社に坂下の牛が淵沿いに聳える帝冠様式の軍人会館という国家のモニュメンタルな建築に取り囲まれながら、その内部は当時の先端をゆく芸術家達が集い創作活動に励む前衛的空気が流れる空間であった。九段坂界隈のモダニズムのシンボルだった野々宮アパートは惜しくも、戦災で2階から上の大部分が焼け落ち喪われてしまった。
野々宮写真館入口                                野々宮写真館ホール

野々宮写真館スタジオ                                           アパート室内

戦前までの東京府が東京都となり、戦後の復興と経済成長による東京の郊外都市化、国家イベントの東京オリンピックによる都心の大改造、バブル期の乱開発などで本来の下町は消え去り、また山の手も都市の肥大化からその地域性が曖昧になっていった。21世紀初頭の現在、下町・山の手の意味や境界は東京の人々の意識から完全に喪われてしまっている。九段坂は、歴史・地形的に東京の下町と山の手を分ける境界だった。江戸時代(17世紀半ば)には東京の西北、武蔵野台地の東端の高台に武家屋敷が並び、東南の商工業が集積された低地には多くの町人が住み、支配階級と被支配階級が山の手・下町に住み分けられ明確に地区が分割されていた。この台地(山の手)と低地(下町)が地区分けされた構図は、江戸期に構築され明治大正を経て昭和の30年代半ばくらいまで引き継がれ、それぞれの地区に流れる空気や趣の違いから大都市・東京の多様性を顕わしていた。現靖国通りを東の神田須田町方向から小川町・神保町を抜けて九段下に至り、帝都一勾配がきついといわれた九段坂を上がると背後には下町があり、坂の向こうにはかつての御屋敷街・富士見町や牛込、市ヶ谷、麹町、番町など緑豊かな山の手の町並みが広がっている。坂の途中には戦前のモダン東京を代表するモダニズム建築の野々宮アパートが山の手のハイソな趣を漂わし、坂上には鎮魂の場であり、また近代的な西欧風の祝祭広場であった靖国神社が鎮座し、かつては東京を一望出来た高台から下町を睥睨している。靖国を起点とした山の手から九段の坂を下りるとすぐ神田・日本橋といった下町界隈が広がる。このように九段坂を境界とした山の手と下町の二元的街割りは江戸・帝都東京を形づくる都市の基本構造であった。
参照文献 Reference
「靖国YASUKUNI」/坪内祐三著/新潮社発行/1999
「悲喜劇1930年代の建築と文化」/編集 同時代建築研究所/現代企画室発行/1981
「大東京写真帖」/忠誠堂発行/1930
「国際建築1936年11月号」/国際建築協会発行/1936

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12 月 06 2008

空を喪った日本橋 Nihonbashi who lost the sky

Ⅰ.大江戸の中心 The center in the Ooedo
広重「名所江戸百景」日本橋雪晴れ 戦前(1930)の日本橋 Nihonbashi in 1930

大江戸の中心であった日本橋は、東の海から昇る朝日を直々に眺めることが出来たので名付けられたという。初めてここに橋が架けられたのは慶長8年(1603)といわれている。全長37間4尺5寸(約68.6m)、幅4間2尺5寸(約8m)、橋脚8本、反りのある木橋で、歌川広重の「名所江戸百景」や「江戸名所図会」で描かれた威容が偲ばれる。現在の橋は明治44年(1911)に架けられたもので、花崗岩で覆われたアーチを二つ並べた形をしており、全長49m 幅27m、江戸の頃から長さが19m縮まり幅が19m広がっている。橋の下を流れる日本橋川は古くは平川といい、外濠の常盤橋と呉服橋との間から流れ出、日本橋の下を通過し、隅田川の河口で辺りで江戸湾へ注ぎ江戸湊に通じていた。日本橋周辺はその立地条件の良さから水上及び陸上流通の拠点として栄え、江戸・帝都随一の繁華と美観を備えた名所であった。しかし、現在の東京で名所と問われて、日本橋を挙げる人は、恐らくいないだろう。東京オリンピック直前の昭和38年(1963)に日本橋川には首都高速道路が架けられ、日本橋は頭上を塞がれて空を喪い、名所と謳われた眺望は完全に損なわれてしまった。
Nihonbashi who was a center in the Ooedo says that he was named because he could look directly at the morning sun which rises from the sea in the east. The bridge is a frame respectively for the first time. To have been kicked is said [...]

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