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12 月 25 2009

建築家 今井兼次の世界Ⅲ The World of Kenji IMAI Ⅲ

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ー祈りの造形ー
2009.12.2~12.23 多摩美術大学美術館
今井兼次(1895~1987)
2005年「建築家今井兼次の世界」、2007年「建築家今井兼次の世界Ⅱー初期作品から航空記念碑ー」と2年毎に多摩美術大学で開催されてきた今井兼次の展覧会の第三弾が祈りの造形と銘打たれ、今井が手掛けた或いは計画した教会建築をテーマに、同じ多摩美術大学で今月23日まで貴重な資料が一般公開されていました。20年前、一週間をかけて九州を縦断して近現代建築を巡礼する旅をした折、立ち寄った長崎で観た二十六聖人殉教記念館でインパクトを受け今井兼次という建築家を知った私は、2005年夏に初めて開催された最初の展覧会に足を運んで、更にこの寡作の建築家への興味を深めた次第です。写真・図面・スケッチ・模型・ビデオなどで紹介された今井の教会建築に対する並々ならぬ情熱には感銘を受けました。以下に「今井兼次郎の世界」で感得したことを纏めます。

「神は細部に宿り給う 手の痕跡を伝える建築」
今回の展覧会の目玉は、二十六聖人殉教記念館(1962)だが、他にもカトリック成城教会聖堂、洗足男子カルメル会修道院聖堂、訪問童貞会修道聖堂、また計画のみでアンビルドに終わった大阪万博の教会計画案、カトリック姫路本町教会設計案、玉川学園礼拝堂設計案などクリスチャンだった今井が教会建築を意外なほど多く手掛けていたことが認識できる構成になっていました。今井と教会建築の出会いは、彼が大正15年(1926)から昭和2年(1927)にかけて地下鉄駅の調査研究という目的で欧州各国を巡る旅に出、当時の欧州で勃興していた近代建築を精力的に行脚して廻った時であったと思われます。
この旅で、今井は独逸のメンデルスゾーンやタウト、グロピウス、仏のコルビジェ、北欧のエストベリやアスプルンドなど当時を代表する第一線の建築家達と逢って語らい、彼らが設計した近代建築に触れている。このように、多くの建築家と近代建築との邂逅を果たした欧州建築視察旅行のなかで、今井が建築家として影響を受けることとなったものに、エストベリーのストックホルム市庁舎、シュタイナーのゲーテアヌム、そして言うまでもないガウディのサグラダ・ファミリアのカテドラル、更につけ加えるならテンプムのヘガリット教会が挙げられる。奇しくも今井の早稲田の一年先輩である村野藤吾も、今井が旅した(1926~27)数年後、そごう百貨店の設計のため欧州の百貨店を視察する目的で欧州を旅し、北欧のストックホルム市庁舎とヘガリット教会を訪れて最大の感動と深い感銘を受けている。(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 「近代建築の目撃者」/佐々木宏編/新建築社/1977 参照)
サグラダ・ファミリア聖堂(バルセロナ1926)
手書きの図面や達者なスケッチ、パース、模型、写真パネルなどが飾られた展覧会場で、私の目を惹いたのは、カサ・ミラから遠望したサグラダ・ファミリア聖堂やヘガリット教会のシルエットをコンテで描いたスケッチやロンシャン教会の光りに溢れた内部空間をとらえたパステル画、今井が余った葉書でこさえた二十六聖人殉教記念館のラフで可愛らしい模型であった。今井は欧州視察旅行から帰国した後の戦前期はデビュー作の早稲田大学図書館(1925)や自身が作品として唯一挙げている代々木航空記念碑(1941)以外、これといった作品を設計することなく、早稲田大で教育及び研究者として過ごしていた。戦後、敬虔なカトリック信者だった愛妻の死(1947)の後、自身も洗礼を受けクリスチャンとなった今井は、60代という後半生に入ってからようやく設計活動を再開している。成城カトリック教会聖堂(1955)を始めとした一連の教会建築における丹念で執拗なまでに細部に拘ったスケッチや手書き図面を眺めていると、今井が教会建築に傾けた献身的なキリスト教精神が伝わってくるようで、驚きを禁じ得ませんでした。今井が手掛けた教会建築の白眉は、長崎の地に建設された26聖人殉教記念館(1962)である。この建設工事を請け負った大成建設が撮影した記録映画を会場で観ることが出来たが、そこには大学教育者としての仕事を休職して現場に乗り込んだ今井が、自ら聖堂の外装を飾る陶磁片モザイクタイルの貼り方を実践し、施工に携る現場職員や職人と一緒に汗にまみれている姿があった。わたしは、その光景から今井を設計監理に従事する建築家というより「中世の聖堂の建設に奉仕する信者」のような印象を受け、あらためて信仰心が彼の創作のエネルギーとなっていることを確認した思いであった。
                                                     ヘガリット教会(ストックホルム1926)
そして、今から20年前の夏に九州の近現代建築を巡礼した旅行で、この聖堂を訪れた時の記憶が蘇ってきた。坂に囲まれた街、長崎そのままに急な坂道を汗を飛ばしながら登り切ると、視界が開け公園が広がり、見上げると青空切り裂くように二本の尖塔が力強く伸びていた。様々な大きさに砕かれた陶磁片モザイクタイルによる外装も印象的であったが、やはりインパクトを受けたのは長崎の空に屹立した尖塔である。この時は、その特異な造形から今井が敬愛していたガウディのサグラダ・ファミリア聖堂の塔にオマージュしたものと思い込んでいたが、今回の展覧会に飾られたテンブムのヘガリット教会のコンテ・スケッチを見て、この教会を挟んで突き出た二本の尖塔のシルエットに大きく影響されているように感じた。
二十六聖人殉教記念館(長崎1962)
ヘガリット教会には、早稲田で今井の一年先輩であった村野藤吾もストックホルム市庁舎同様に激しく感動し、欧州から後輩の今井へ宛てた便りで「『どうか私にも此の教会の作者のように才能を与え給え、どうか私の努力が死ぬまで枯れずに続くように導き給え』と祈った」と吐露し、絶賛している。(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 参照)後年、広島平和記念聖堂(1954)の設計コンペにおいて、ともに審査員を勤めた今井と村野、二人は戦前から教会建築をめぐって不思議な縁で結ばれていたようだ。二人がコンペの審査員を勤めた広島平和記念聖堂は紆余曲折を経て、村野が設計者となって完成させることになるのだが、完成時、雑誌の寄稿で今井は「信者でない村野さんの聖堂建築の才能についての希求は、カトリック信者の建築家の上をいっている」と述懐している。広島平和記念聖堂(1954)と26聖人殉教記念館(1962)、村野と今井がともに60代となる後半生で手掛けた聖堂建築は、その姿形こそ異なれど煉瓦目地の陰影や有機的な模様を織り成すモザイクタイルの壁面から、建築に手の痕跡を遺すべく配慮した両者の意匠心が輝き、近代主義(モダニズム)とは対極なロマンティシズムを漂わせている。
展覧会を観た後日、成城学園駅南口から程近いカトリック成城教会(1955)を訪れてみました。教育者として専念していた今井が長い沈黙を破って設計したこの教会は、竣功から50余年が過ぎていますが、コンクリート打放しの外壁とシンプルな切妻屋根の脇に鐘塔が屹立した佇まいには、教会らしい落ち着きと品の良さが感じられました。アプローチ側の妻部分に大きく穿たれた円形のステンドグラスと屋根の棟に立つ十字架が救いを求める人々や信者を迎えてくれているようです。聖堂内部はアーチ状の梁が連続する簡素な空間に、祭壇後部の十字架を円周状に飾る七つの星と脇のステンドグラスから導かれた自然光が射し込んで、祈りの場に相応しい荘厳さが漂っています。祭壇の十字架に向かい祈りを捧げると心が安らぎ、しばし年の瀬の煩わしさを忘れさせてくれました。
カトリック成城教会聖堂(成城学園1955)

祈りの造形に、カトリック信者の建築家今井兼次はどう向き合ったのか。その集大成が長崎、26聖人の殉教の丘に建つ記念館であったことは疑いようもない。この聖堂の仕事に傾けた情熱と献身は、スケッチや図面・模型のたぐいよりも建設の記録映画のなかで、ヘルメットを被ってモザイクタイルの貼り方を陣頭指揮している痩身の姿に明瞭に映し出されていた。記録映画を観終わった後、今井が30歳で初めて手掛けた早稲田大学図書館(1925)で語っていた建設現場のエピソードが頭に浮かんだ。それは玄関ホールに立つ六本の白亜の柱を塗り上げた左官職人の物語で、最後の一本の柱を仕上げる日の朝、職人が妻と三人の幼子を現場へ連れて来てホールの一隅に座らせ、家族に見守られながら最後の仕事を完成させた後、家族とともに自分が精魂込めて仕上げた六本の柱を眺めていた・・・(「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房/1975 「光跡」/池原義郎著/新建築社/1995 参照)といういじらしくも感動的な逸話であった。「建築を一個人の作品ではなく、建設に関わった個々の労働と精神が有機的に統合して構成された作物」と認識していた今井らしいヒューマンな精神がそこにある。処女作の早稲田大学図書館(1925)から30余年を経て手掛けた26聖人殉教記念館(1962)は、職人の労働による手の痕跡や感触が色濃く顕われたヒューマン精神溢れる聖堂である。
参照文献
1)「都市廻廊」/長谷川尭著/相模書房発行/1975
2)「近代建築の目撃者」/佐々木宏編/新建築社発行/1977
3)「光跡ーモダニズムを開花させた建築家たち」/池原義郎著/新建築社発行/1995

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8 月 31 2009

建築以前・建築以後展 Before Architecture,After Architecture

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菊竹清訓 伊東豊雄 妹島和世 西沢立衛 妹島和世+西沢立衛/SANAA
Kiyonori Kikutake,Toyo Ito,Kazuyo Sejima,Ryue Nishizawa,Kazuyo Sejima+Ryue Nishizawa/SANAA
清澄庭園や清澄公園を通り過ぎ更に西へ歩くと、清洲橋のたもとに大きな倉庫ビルが見えてきます。サイトからダウンロードしたMAPを見ると、この辺りに目指す小山登美夫ギャラリーがある筈ですが・・・およそギャラリーには縁遠い殺風景な倉庫やガソリンスタンド、タクシー会社などが並び、それらしい建物が見当りません。迷いつつ丸八倉庫と大書されたビルのプラットフォーム側へぐるりと廻り込むと、玄関のガラス扉にポスターが貼られいるのが見え、どうやらこの倉庫の上階にいくつかのギャラリースペースがあることがようやく判明しました。玄関内にある案内図に示されている通り、奥の如何にも物流倉庫然としたというスペースにある幅広く奥行き深い荷物用エレベーターに載って、7Fへ上がると、そこには突然別世界のような白一色のNYのソーホー街にあるような天井の高いギャラリー空間が広がっていました。
「建築以前・建築以後」と名づけられたこの展覧会は菊竹清訓・伊東豊雄・妹島和世・西沢立衛・SANAAという四人と1ユニットの建築家が過去に手掛けた又は現在進行中のプロジェクトやアンビルドなどの過程で描かれたドローイングや作られたスタディ模型などが展示されている。西沢立衛による会場構成は、大らかなレイアウトで見やすく、ゆっくり模型やドローイングを観て回ることが出来ました。
「海上都市」 菊竹清訓
海上都市1963模型俯瞰        海上都市1958コンセプトスケッチ
菊竹清訓からは1958年から60年代にかけて構想された「海上都市」のコンセプトスケッチや模型などが提示され、丹下健三の「東京計画1960」など建築家による都市計画への提案が脚光を浴びていた時代を想起させてくれます。世界で初めて計画されたと謂われる「海上都市」は、産業基地建設のための埋め立てから日本の湾岸部を守るために、産業コンビナートを造成する場所に相模湾の洋上を設定したもので、現在盛んに叫ばれている環境破壊問題を解決すべく考案された先進的な計画でもあった。菊竹は「海上都市」のアイディアを一過性に終らせず持続的に発展させ、1960年には「移動する都市」として海洋に独立する機能をもつ大規模な「海上都市1960」を提案する。産業コンビナートから住居環境を中心として産業施設を付加した計画に変わり、電気・給排水・空調・情報・交通などのインフラ設備が内包された垂直のシャフトにムーバルブハウスと名づけられた円環状の住居ユニットを組み合わせることで一つの街区を形成する仕組みになっている。こういう垂直のシャフト(都市柱)を主要構造として、何本も海上や海中で連結していくことで、独立した都市環境をつくりだそうという計画である。更に「海上都市1963」では、シャフト(都市柱)と海面に水平に広がるプラットフォームを組み合わせたユニットとそれらを繋ぐブリッジの三つの要素が群島のような多様な形態を成すことで、海上都市の機能を構成する提案に進化している。
沖縄国際海洋博1975 アクアポリス
このように菊竹が多年、継続的にスタデイを重ねてきた「海上都市」計画は、1975年に開催された沖縄国際海洋博のメイン会場の「アクアポリス」(未来の海上都市)として沖縄の洋上にようやく実現された。実際に海洋博でこの「アクアポリス」を目にした時は、現代のパルテノン神殿のような巨大な要塞に見えたものでした。50年前からイメージした未来である21世紀となった現在から過去になった「海上都市」計画を俯瞰すると、そこには未来の都市へ向けての希望というメッセージが描かれていたように思う。都市のイメージや想像力こそ、現代の我々が喪ってしまっているものではないだろうか。
「ノルウェー・オスロ市ダイクマン中央図書館」 伊東豊雄
せんだいメディアテーク(2000)以降、次々と海外のコンペやプロジェクトに挑戦し、真にワールドクラスの建築家となった伊東豊雄が今年早々に挑戦した海外コンペティション作品。結果は一位を勝ち取ることは出来なかったが、建築の常識を拡げる新しい空間を創りだそうというエネルギーに満ち溢れた案な実に刺激的でした。ここで示されているものは、伊東と担当スタッフがコンセプトの実現のためにどのような空間構成とするべきか試行錯誤を重ねていった壮絶な過程である。伊東はコンセプトの方向性となる抽象的な言葉を投げ掛け、スタッフがその言葉を源にイメージをふくらませてアイディアを搾り出していく。壁を埋め尽くすFAXやスケッチ、プリントアウト或いはスタディ模型などの変遷を眼で追っていくと、伊東を中心に丁々発止の議論を重ねながらコンペ案を練り上げていくエネルギッシュな光景が目に浮かぶようです。伊東が「ここが頑張り所だ~もっとのめりこめ!」などとスタッフを鼓舞するFAXがものづくりの生々しい現場を現わしていて面白い。ここからわかることは、伊東が自分の発想にたよることなく、チームで考えてアイディアを生み出していこうとするタイプの建築家であるということだ。伊東スクールとも呼ばれるほど、伊東豊雄の元から優れた建築家が輩出しているのは、スタッフの考えやアイディアを掬い上げて作品に結実させる環境があるからなのだろう。
「犬島アートプロジェクト」 妹島和世
岡山県南東部の瀬戸内海上に浮かぶ面積わずか0.54平方Kmの犬島で進行中のプロジェクトの第二期にあたり、島内の集落中心部にある空き家や空き地を利用してギャラリーとして再生し、既に第一期で完成し公開されている美術館「精錬所」との相乗効果で島の活性化を図ろうというものである。目をひく巨大な 1/50の敷地模型と島の印象的な風景を切取った写真だけのシンプルな展示構成で、プロジェクトの設計過程を示すようなスタディ模型やドローイング、スケッチのたぐいは一切なく、師匠の伊東氏の展示内容と比べると物足りない感は否めませんでした。起伏に富んだ自然環境に囲まれた小さな集落のなかに、既存の木造家屋の骨組みや屋根をリノベーションした施設やアルミやアクリルといったクリアーな素材を使った施設などタイプの異なる四つのギャラリーを回遊出来るように配置して、現代アートを島のランドスケープと一体化させることで島全体を美術館化しようとする構成が新鮮でした。この犬島アートプロジェクトも近くの直島同様にベネッセコーポレーションが手掛けていて、直島~犬島という海路も抜かりなく設定されているようなので、瀬戸内海の美しい海景を眺めながら現代アート鑑賞という旅コースも近いうちに楽しめそうです。
「ガーデンアンドハウス」 「T project」 西沢立衛
都心で進行中の住宅兼オフィスプロジェクト。在りがちな賃貸ビルに囲まれた谷底のような8m×4mの狭小敷地に、透明なフロアで構成されたスタディ模型が廊下の壁際にずらりと並んだ光景は壮観でした。また都心にたつ住宅兼用オフィスという身近な内容にも心惹かれるものがありました。狭小スペースを有効利用するため、各階の室内から構造壁を排除して、ガラスの皮膜と水平な床スラブだけが積み重なっていく透明感溢れる構成は、どこかミースの「鉄とガラスのスカイスクレーパー案」(1922)のイメージを想い起こさせる。住宅的な雰囲気が皆無なシルエットだが、各階には居住性が考慮されリビング・寝室・浴室などからなる個室に専用の庭がセットで配置されているのが面白い。しかも、階毎にその個室と庭のデザインは異なっており、都心の多様な生活スタイルにフィットするように考えられているように感じた。
妹島和世が手掛ける犬島より南方の香川県寄りの瀬戸内海に浮かぶ豊島で進行中の美術館プロジェクト。ギャラリーの壁に飾られた水滴の写真が、この美術館の特異な形態のイメージを明確に表現している。豊島は、香川県高松の北、直島のすぐ東隣に位置し、起伏に富み、緑豊かで、美術館周辺には田畑が広がっているという。否でも自然環境との関係性を意識するロケーションからスタデイされたのが、大地に有機的な曲線を描く水滴を置くイメージだったようだ。美術館内部は柱や壁などの空間を仕切るものがなく壁と天井の境目もないコンクリートシエルが水平方向に拡がるワンルームの大展示空間になっている。大空間を覆う水滴・・・彫刻的なオブジェを想起させるその外観からは、建築という概念を超えようとする意志を感じる。
「スイス連邦工科大学ローザンヌ校ロレックス・ラーニング・センター」妹島和世+西沢立衛/SANAA
妹島和世と西沢立衛の建築家ユニット「SANAA」がスイス・ローザンヌ市で手掛けているプロジェクト。図書館・多目的ホール・オフィス・レストランなど複合的機能を内包した学生センターがスイスの高級時計メーカー・ロレックスの寄付により建設される。どーんと置かれた白一色の巨大な模型の起伏ある光景にまず驚かされました。地形が大きく隆起したような表層は166.5m×121.5mの大きな一層のワンルームとして構築され、学生や学内を訪れる人々が交流する場として設定されている。自然の丘のように緩やかに起伏したスラブに、いくつものクレーターのような大きな楕円状のパティオが口を開けている。波打つスラブの下から建物にアプローチし、このパティオから空を見上げる光景はさぞかし爽快に違いない。一つの特異なフォルムで覆われたこの建築は、異なる機能をもつ諸施設がそれぞれ分離されていながら大らかに繋がり合い、また移動することで見えてくる景色が内から外へまた外から内へダイナミックに変化していくことで、全体をワンルームの中に緩やかに混じり合うように設計されているようだ。
「スカイハウス」 菊竹清訓
以上、本展に出品された四人の建築家が手掛けたアンビルド若しくは現在進行中のプロジェクトに関するドローイングや模型を一通り観ていくと、そこに世代差に依る建築へのスタンスや表現に違いはあるものの、建築に何か新しい社会性を獲得させようとする強い意志が感じられた。最後に、菊竹・伊東・SANAAの建築作品やコンセプトを映像化したDVDを鑑賞したのだが、菊竹清訓の著名な自邸「スカイハウス」(1958)を撮影した「カンガルーの家」というタイトルのドキュメンタリーフィルムが当時の建築状況を垣間見せてくれ興味をそそられた。1959年に撮影・放映されたものをDVD化したものだが、竣功当時のスカイハウスが四枚の壁柱で支えられて崖地に「舞い降りた鶴のよう」に自立している鮮烈な外観や空中に浮かぶワンルームの居住空間の開放性などがあますところなく撮られている。
丹下健三邸1953
映像の中で、スカイハウスと同様にピロティで持ち上げられた丹下健三の自邸(1953)も対比的に紹介されているが、RCと木造の違いこそあれ両住宅ともどこか伝統的な雰囲気を漂わせ、和風モダニズム住宅とも謂える近似性を感じる。日本の伝統論争が盛んだった50年代、日本の近代建築を牽引する立場だった二人の建築家が互いを刺激しあっていたと想像すると面白い。

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7 月 31 2009

「建築家 坂倉準三展」開催記念シンポジウム

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2009年7月12日(日)10:30~17:30 国際文化会館B1Fホール
神奈川県立近代美術館鎌倉(5月30日~9月6日)とパナソニック電工汐留ミュージアム(7月4日~9月27日)の二部構成で開催されている「建築家 坂倉準三展」を記念して去る7月12日(日)、坂倉が前川國男や吉村順三らと協同して設計した六本木の国際文化会館(1955)でシンポジウムが行なわれました。6月に鎌倉、シンポジウムの一週間前に汐留の両展覧会をじっくり時間をかけて観ており、坂倉に対する予備知識を持ってこのシンポジウムに臨むことが出来たのは幸いでした。以下にシンポの内容と印象をレポートします。
第1部(10:30~12:30)
モデレーター:鈴木博之(建築史家) パネラー:高階秀爾(美術史家、大原美術館館長)、磯崎新(建築家)
高階氏の坂倉論
午前の部では、坂倉準三と親しく接してきた世代の美術史家の高階氏と建築家の磯崎氏がパネラーとして夫々の坂倉論を展開された。まず、高階氏が「坂倉さんの場所が忘れられているのではないか」と口火を切り、グランプリを獲得したパリ万国博日本館(1937)は日本の委員会の意に反した鉄骨とガラスの建築だったが、伝統的感性と現代の融合が評価されたと語る。この伝統と現代の繋がりは、鎌倉近代美術館(現神奈川県立近代美術館鎌倉 1952)や飯箸邸(1941)に見られる特徴であると言う。また他に坂倉の建築の特徴として ①周囲の環境との調和②落着いた生活感覚を挙げられ、①については都市の中に広場をつくった新宿西口広場(1966)やターミナルビルに百貨店を複合した渋谷の東急会館(1954)を例として、坂倉の都市環境への取り組みを評価した。②は師であるコルビジェが唱えた「家は住むための機械である」というスローガンの真意を坂倉は「家は住むためのものである」と解釈し、そこに人間の為の建築という思想があることを指摘しておられました。最後、坂倉準三には日本の近代建築史にもう少し大きな位置が与えられてしかるべきと強調されたことが印象的で、何故、近代建築において坂倉の評価が高くないのかという問題提起が後に託された形となった。
磯崎氏の坂倉論
そこで、磯崎氏の登場です。30年にわたり自分のアトリエが坂倉事務所の店子であったという縁を語りながら、いつも坂倉さんの居場所は不安定だったとシンポのテーマ(坂倉の位置)にすばりと切り込みます。日本でのル・コルビジェの受容を辿ると、前川國男・丹下健三の名は前面に出てくるが坂倉はあまり出てこないとこと。また、日本の近代住宅史や論に、戦後は政財界との人脈から数多くの大邸宅を手掛けたためか、坂倉の住宅が位置付けられていないことなど坂倉の位置が疎外された傾向にあることを強調します。そして坂倉のデビュー作であるパリ万国博日本館(1937)について、当時のコルビジェのアトリエがやりたかったことがそのまま実現しており、また磯崎氏の師匠丹下健三のそのまた師匠にあたる東大建築学科教授の岸田日出刀が考えていた<日本の伝統建築を近代的視点で見直し近代の中へいかに組み込んでいくか>というモデル(理論)を日本の外のパリでつくってしまったと高く評価します。更に戦後の近代建築において、丹下が展開した桂離宮の木造のプロポーションをRC構造に取り入れ調和させた手法は坂倉の戦前のパリ万博日本館のデザインを参照していると建築家らしい推測を展開し、坂倉が日本の近代建築のスタート時から大きな役割を果たしていたことなど独自の建築史的評価を下していきます。そして、磯崎の話は政治的なものに変化し、坂倉が東京帝大建築学科卒でありながら、岸田日出刀教授が構築した日本の近代建築の言説や東大系などの国家的なラインから外れ、コルビジェそのものといったスタイルで国際的な活動をするポジションを保持したと分析し、坂倉がそのような独自のポジションを獲得した背景(人脈)について説明し締めとします。コルビジェの元で修業していた1930年代のパリ、そこに遊学していた多くの日本のエリート達との交遊を通じて、戦前はスメラクラブ、戦後はクラブ関東・関西というパリ時代の交遊を発展させた私的サロンの設立や設計をしながら日本の中枢(政財界・芸術界など)との人脈が形成されたこと。この人脈からの依頼で、大邸宅を多く手掛けることとなり、50年~60年代にかけて小住宅を中心とし左翼的だった日本の住宅ジャーナリズムからは、坂倉の住宅はブルジョア的あるとされ評価されなかったことを述懐し、坂倉準三という建築家の位置(居場所)や評価について非常に刺激的な講演を終えました。
高階氏・磯崎氏・鈴木氏によるディスカッション
高階、磯崎両氏が展開した坂倉論を踏まえて、司会進行役の鈴木氏を交えてのトークでは、30年代のコルビジェが描いた都市計画を側で観ていた坂倉の都市的な仕事を積極的に評価していました。例えば、都市の大量交通の結節点である新宿西口広場(1966)はあのヴォイド的な広場があるからこそ東口より機能していること、また渋谷東急文化会館(1956)は世界的なレベルで複合商業ビルの先駆的建築だったことなどを指摘し、現代のJRさいたま駅や品川駅といった駅と商業空間を複合させる「えきなか」などJRが駅利用の未来的ビジョンとしている萌芽が、坂倉が手掛けた渋谷や新宿西口広場の計画に宿っていたと分析され、その先進性を強調されていたことは、坂倉の建築にばかり関心を向け都市計画への介入や貢献を認識していなかった自分には、新鮮な発見であり興味深いものでした。
第2部(14:00~17:30)
基調講演:内藤廣(建築家)
モデレーター:太田泰人(神奈川県立近代美術館) パネラー:萬代恭博(坂倉建築研究所)、山名善之(東京理科大学)、田路貴浩(京都大学)、青井哲人(明治大学)、松隈洋(京都工芸繊維大学)、北村紀史(元坂倉建築研究所)
内藤氏の坂倉論
午後の部では午前とはパネラー陣ががらっと若返り、生前の坂倉を知らない世代に依る各自の研究や問題提起が発表されていくのだが、シンポのテーマがどこか曖昧になっているようにも感じられました。
まず、建築家の内藤氏が、ディスカッションのテーマとして坂倉の建築には「切れがないが、それには訳がある」と問題提起し、切れがないと感じる訳は人間のことを考えている為であると主張した。例えば丹下健三や前川國男は戦後の新生日本を背負うような国家的建築家であったのに対し、街や民衆を背負ったのが坂倉であり、丹下や前川のように未来や過去ではなく現在と向き合った建築家であると分析する。ここで話は都市計画のことになり、建築家でありまた土木工学に造詣深い内藤氏の独壇場となる。元来、日本の都市計画をリードしてきたのは土木であり、都市の根幹を支えるのは物流と交通であると解説し、建築などはそういう土木基盤の上物に過ぎないと謂う。そして、都市の中心部に入って仕事を推し進められた建築家は坂倉のみであると渋谷のターミナルや新宿西口広場を評価する。ヨーロッパ的なプラザ(広場)は、日本では騒乱の場と危険視され抹殺されてきた歴史があり、広場は法律用語ではなく俗称であったと述べ、そんな状況の隙間を縫って実現した坂倉の渋谷のターミナルや新宿西口広場は奇跡的であるとさえ謂う。
次に6名のパネラーに依る発表が行われたので、簡単にその要所を纏めます。
①萬代恭博(坂倉建築研究所)
坂倉の建築の特徴は、既存のものに点的に新しいものを挿入し、その関係性を魅力的なものにしており、相対的なデザインであると語り、例として パリ万国博日本館・神奈川県立近代美術館鎌倉を挙げている。
②山名善之(東京理科大学)
ル・コルビジェのもとで修業していた時代に触れ、20年代は理念的だったコルビジェが坂倉の在籍していた30年代になると都市計画のプロジェクトを手掛けるようになり、坂倉は「アルジェ都市計画」や「輝ける農村計画」などを担当していたと語り、この時期に実際のプロジェクトを通じてコルビジェのエスプリを直に
学んだことは、坂倉にとって幸運であったと謂う。
③田路貴浩(京都大学)
戦前戦後を通じて坂倉の仕事のプロデューサーだった小島威彦(スメラクラブ創設者)は、パリ万国博日本館をインターナショナルで土着的な魅力があると評した。
④青井哲人(明治大学)
私鉄のターミナルプロジェクトにおいて、新宿西口は小田急百貨店ビルと中央広場で構成されており、
副都心事業の一環の計画であった。
⑤松隈洋(京都工芸繊維大学)
共にコルビジェに師事した坂倉の飯箸邸(1941)と前川國男の自邸(1942)について語り、両方とも
同じ工務店に施行させていることや、前川自邸は都市の中の建築だが飯箸邸は都市に建築をどう介入させ調和させてゆくかを考えたとその違いを明らかにした。
⑥北村紀史(元坂倉建築研究所)
コルビジェの著書「今日の装飾芸術」(1925)に触発されコルビジェの研究生となったペリアンを同僚だっつた坂倉が日本に呼んで「選択・伝統・創造」展を共催しまたカタログを共著して、家具・工業デザインへ介入していった経緯などが語られた。
内藤氏と6人のパネラーとのディスカッションが終った後、会場との対話で坂倉事務所OBの方の話しが興味深かったので紹介します。
・坂倉は住宅は屋根が勝負といっており、その設計過程はスケッチは描かず所員に提案させ、それに是非の判断を下すスタイルであった。
・大阪支所の西澤が担当したコートハウスのNi(仁木)邸(1960)は、ケーススタディハウスの影響を受けているという。
・坂倉は、大阪支所のことは所長の西澤さんを信頼し任せていた。
最後にまとめとして内藤氏が、「鎌倉近代美術館を改めて観ると、その貧しく簡素な材料で何とか建築に仕上げようとした営為に感銘を受ける・・・だが、何かわかりにくく、伝わり難さを感じる。」と述懐し、午前と午後二部構成のシンポジウムは終わりを告げました。
※一日がかりのシンポジウムを拝聴し終わり、どこか消化不良な感覚が残ったのはテーマであった坂倉準三「位置」(居場所)についてのディスカッションが散漫な印象で、そのことに積極的な推論を展開したのが磯崎氏だけだったことが原因のようです。個人的に建築家坂倉準三というと真っ先に、鶴岡八幡宮境内の平家池に反射した陽光が天井を陽炎のように照らしているテラスとその前に並ぶスレンダーな鉄骨のピロティが池上の石に脚を降ろしている「鎌倉近代美術館」(1952)の軽快で美しい姿が目に浮かぶ。磯崎氏が展覧会のカタログに書いているとおり「コルビジェよりコルビジェらしい」近代建築であり、戦前のデビュー作となったパリ万国博日本館(1937)でコルビジェのモダニズムの理念に日本の伝統感覚を融合させた坂倉の美学をさらに洗練させた日本的な端正な佇まいに心惹かれてしまうのです。坂倉に終生、強い影響を及ぼし続けたコルビジェは30年代以後も時代の変化に合わせて変貌を重ねていったが、坂倉自身は30年代に接したコルビジェの直系として、モダニズムの理念と日本的感性を持ち続けながら近代建築をつくり続けていったような気がする。

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7 月 28 2009

建築家 坂倉準三展 Junzo Sakakura,Architect

Published by 遠州 under 評論 Review

モダニズムを生きる-人間・都市・空間
モダニズムを住む-住宅・家具・デザイン
日本の近代建築を先導した一人である建築家・坂倉準三(1901~1969)の回顧展が、坂倉の代表作であり戦後日本における近代建築の出発点ともなった神奈川県立近代美術館の鎌倉館と汐留ミュージアムの二つの会場に分かれて開催されている。鎌倉では戦後復興期と高度経済成長期の渦中で手掛けた美術館、市庁舎、学校施設などの公共建築から企業の本社ビル・研究施設などの大規模な民間建築、また渋谷や新宿など都市中心部の巨大ターミナル計画に到るまでの新時代を告げるような建築群が取り上げられている。一方、汐留では、「住宅は建築の本質的なものを全部持っている」と坂倉自身が語っているように、建築家として独立した最初の作品から生涯にわたって手掛けた住宅を主題とし、住空間にマッチさせるべく考案していった椅子・テーブルなどの家具、また建築の領域のみならず他領域で活動するデザイナーやクリエイター達とのコラボレーションによるプロジェクトなど多岐にわたる坂倉準三の仕事の全貌が明らかにされていました。以下に両展覧会を観た後の印象と分析を記します。

Ⅰ.国際舞台で鮮烈なデビュー
出発点としてのパリ万国博日本館
坂倉は、パリのコルビジェのアトリエに在籍していた(1931~1936)頃、開催されたパリ万国博覧会(1937)の日本館を設計し、コンクールのグラ ンプリを獲得するという栄誉に輝き、建築家として国際的に華々しいデビューを飾っている。この日本館は日本の博覧会協会が求めていた日本趣味なものという 意向に従わず、坂倉が師事していたコルビジェの近代建築思想をそのまま造形化して実現させたもので、日本の近代建築が国際舞台で脚光を浴びた最初の出来事でもあった。日本館は一見すると、ガラスと鉄骨のピロティで持上げられ外観や傾斜地を巧みに利用したスロ-プで観客を導くというコルビジェ的な構成であるが、一方で手摺やファサードに欄干や矢来を連想させるようなローカルな日本の伝統的意匠も取り入れられ、全体に軽快でしなやかな印象を漂わせている。
Ⅱ.パリから戦争直前の日本へ
「選択・伝統・創造」展
1939年にパリから帰国した坂倉は、目黒に事務所を構え日本で建築家としてのキャリアをスタートさせる。この太平洋戦争直前から敗戦に到る(1945)までは、コルビジェのアトリエで同僚だったシャルロット・ペリアン(1903~1999)を日本の工芸指導顧問として、パリから招聘(1940)し「選択・伝統・創造」と題した展覧会を東京と大阪の高島屋で開催(1941)されたことが特筆される。この展覧会ではペリアンと坂倉の審美眼で「選択」された日本の工芸品や過去の「伝統」が具えている美の法則を踏まえて「創造」された家具などが展示されている。とりわけ目を引くのは、日本の蓑を編む技術を長椅子に応用したり、竹材を駆使してスツールを作ったりするように、ペリアンが伝統の技から新鮮なデザインを生み出している点である。この展覧会は戦後の日本の工芸デザインに大きな影響を与え、展覧会を協同した坂倉自身もこの後、建築のみならずペリアンのデザインに影響されながら低座椅子など日本の住環境を考慮した家具を盛んに製作していくことになる。
戦中に実現した小住宅・・・飯箸邸・龍村邸
東京と大阪で展覧会を開催した1941年、坂倉は前年に事務所を開設してから最初の実作である「Ih(飯箸)邸」、更に太平洋戦争最中の1943年に2作目の住宅の「Ta(龍村)邸」を完成させる。戦中という最悪の環境で実現した建築はこの2軒の小規模住宅のみであるが、この2作は戦後に陸続と展開される坂倉の住宅の習作ともいえる建築であった。東京の郊外で田園風景が広がっていた戦前の世田谷、緑深い等々力渓谷に程近い「Ih(飯箸)邸」(1941)というと、昨年、東陽町の竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで催された「木造モダニズム展」で前川國男の自邸(1942)とともに「飯箸邸」が展覧されていたことを想い出しました。この二つの住宅はいずれも木造で一つの切妻屋根が全体を大らかに覆っているのが特徴的です。東西に長い平面をもつ「Ih(飯箸)邸」は当初、コルビジェばりのバタフライ屋根を計画していたが、庇との関係からうまくいかず、坂倉自身が長手方向に緩やかな切妻の大屋根を架けるように変更したと謂う。やや偏芯した棟から降ろされたシンプルな切妻屋根を戴く白い漆喰壁のファサードが南北に細長い敷地の東西に広がっている姿は威厳すら漂わせている。対して正方形平面の中心に中庭をもつ宝塚の「Ta(龍村)邸」は、中庭上部がぽっかり切り取られた急勾配の切妻屋根が架けられ、空を望む小さな中庭はどこか戦後の神奈川県立近代美術館の中庭を想わせる雰囲気が漂う。これら切妻の大屋根は、戦後に連作される住宅においても繰り返し架けられていることから、戦中に実現したこの二つの小住宅は、戦後の坂倉の住宅に対する方向性を決定付けた原点ともいうべき重要な作品であると謂える。
Ⅲ.戦後の再出発、新しき創造へ
家具への取り組み
焼け野原となった東京で終戦を迎えた坂倉は、進駐軍(GHQ)関連の住宅やビルの改装などを中心に仕事を再開する。まず、焦土となった都市のため、パリ時代から交流のあるジャン・プルーヴェのアイディアを翻案して戦中から展開していた「戦争組立建築」を「復興組立建築」と役割を変え規格化住宅を製造販売して、日本の復興へ寄与する。住宅の規格化ともに戦中からペリアンに触発されて手掛けていた家具の製作も、戦後更に推し進め、1948年にはニューヨーク近代美術館(MOMA)が主催した「ローコスト家具国際設計競技」に出品した低座椅子が佳作入選を果たす。坂倉は、戦前ペリアンと協働した「選択・伝統・創造」展で着目された竹材に取り組み、籠状に編んだ竹籠パネルを椅子の背と座に利用しZ型に切り抜かれた板のフレームで繋ぐ竹籠座低座椅子でこの設計競技に挑んだ。竹という日本の伝統素材を匠の技で構成した坂倉の作品は、MOMAの審査員から「明快な構造。自然素材に近代的なフォルムを与えた。」と評された。
会場でオリジナルの竹籠座低座椅子を観た時、2枚の板で竹籠の座と背を支えるその構造のシンプルさに日本の伝統が持つ簡素明快さと繋がるセンスを感じ、伝統の持つ法則に従い正しく創造するという戦前の「選択・伝統・創造」展に於ける基本理念が、戦後の坂倉の家具製作のコンセプトとなり発展していったように思えた。
住宅の多様な展開・・・バタフライ屋根・切妻屋根・コートハウス
戦中に実現した二つの小住宅を出発点として、戦後の坂倉は主に規模の大きな邸宅を多彩なバリエーションで手掛けていく。それは坂倉が戦前のパリ時代に交流した人間関係を戦後、クラブハウス(クラブ関西・関東)などの設立に参画してその交流を更に発展させて、そこで築いた実業界、政界とのコネクションを活かして、次々と富裕層の邸宅の設計を依頼されたからに他ならない。存分に腕を奮う環境を得た坂倉は、戦中に用いた切妻大屋根やコルビジェ仕込のバタフライ屋根、近代的なフラットルーフなど多彩な屋根のバリエーションを展開していくことになる。
事務所の処女作である「Ih(飯箸)邸」(1941)で計画しながら断念したバタフライ屋根は、「Te(寺田)邸」(1952)でようやく陽の目を見る。「Ih(飯箸)邸」同様、敷地いっぱい東西に長い平面を持ち、2階の東西で高さの違う空間に対応すべくバタフライ屋根が架けられているが、スキップフロアではなく軒高があり過ぎるためかバタフライ屋根特有の軽快さやシャープさが感じられず、ファサードが間延びしているように見える。大阪支所が担当した「Mu(村川)邸」(1956)のほうが、展示された写真で見る限り、スキップフロアによって軒高が抑えられ、バタフライ屋根のシャープさが活かされている。師のコルビジェのエラズリス邸計画案(1930)で着想されたバタフライ屋根への坂倉の執着は続き、「Fu(藤山)邸」(1957)では、池を望む広大な傾斜地に半中庭を囲んだコの字型の平面を採用し、中庭上部の谷部分を切り欠いたバタフライ屋根を架けている。このぐらいの大邸宅になるとボリュームがあり過ぎて、バタフライ屋根の存在感が希薄に感じられる。やはり、エラズリス邸やA・レーモンドの夏の家(1933)のように長方形平面で軒高を抑えられる規模の住宅が、バタフライ屋根を採用するのに適しているようだ。
「Ih(飯箸)邸」(1941)や「Ta(龍村)邸」(1943)を大らかに覆った切妻大屋根は、戦後、規模の大きな住宅で採用され定形化していく。坂倉が手掛けた住宅で最も規模の大きな「Sh(塩野)邸」(1955)は、国立西洋美術館の敷地を視察する目的で来日した師のコルビジェを関西に案内した際、建設中のこの住宅に立ち寄ってもらったほどの自信作であった。南北に長い敷地の中央に東西に細長いプロポーションの平面をもち、南に芝庭が広がる。「Ih(飯箸)邸」と同様の敷地環境にあり、切妻大屋根を架け渡すに相応しいロケーションに位置している。「Ih(飯箸)邸」のやや偏芯した切妻屋根とは異なる左右対称の緩勾配の長大な切妻大屋根が大らかに架け渡され、その下には白い壁から水平に伸びる長い庇と庭側に面した横長の大開口など・・その構成は「Ih(飯箸)邸」と似通い、ファサード全体を心地よく引き締めている。また「Sh(塩野)邸」は完全な2階建てであるためか、高い棟位置から緩やかで長大な屋根が伸びて軒深く跳ねだしている姿は、そこに生活をする家族を育むに相応しい安定感を醸し出している。
戦後の坂倉の住宅作品で異彩を放っているのは、1952年に開設した大阪支所の所長である西澤文隆が中心となって丁寧に紡ぎ出した住宅群である。関西の風土から醸されるその洗練と優雅さは、師の坂倉を上回る腕の冴えが感じられる。60年代に連作される一連のコートハウスは、西澤が主導して生み出した庭と住まいの関係を重視したスタイルの住宅であった。コートハウスとは敷地境界を塀や壁で囲い、その内側を分割して室内と庭が緊密に絡み合い連続する空間を配置するもので、密集し条件の悪い環境の敷地にいかにして快適な住まいをつくるかというところから始まっている。その原理を端的に現わしたのが「Ni(仁木邸」(1960)で、南北に細長い敷地を東西三分割し、そのスペースに部屋と庭を市松模様に嵌め込み、全体に大きくフラットな屋根が架けられた平屋である。庭部分にはパーゴラ、室内部分にはフラット屋根が架り、どの部屋も必ずパーゴラから陽が注ぐ庭に二方向、面するよう構成されている。ここでは各室相互の視線がぶつからない配慮と、内部である住まいと外部の庭を分離せず等しく扱い、敷地全体を住まいとして一体化する演出が施され、寝殿造りのような清々しい空間が立ち現われているようだ。
西宮市の新興住宅地にある「Ni(仁木邸」とはロケーションの異なる大阪市内の街中に位置する「Mi(宮本)邸」は2階建てのコートハウス。この住宅は、オフィスの近くの街中に住まうことを選択した施主のために、出来るだけ緑の豊富な住環境にすべく設計されたという。その姿勢は、セットバッツクした2階前面の屋上も庭園化し緑で覆い尽くした光景にも現われている。南北に長い敷地の東西の境界に2枚のコンクリート壁を建てて、南北方向を開放する構造によって、敷地内に前庭・中庭・後庭の三つの庭が確保されている。これらの庭と部屋が開口部を透して北から南まで連続した透明感ある空間が清々しい。旺盛に繁茂した緑に住宅が覆われた光景の俯瞰写真を見ると、設計者の住まいと緑への深い愛情に脱帽する思いでした。
Ⅳ.建築から都市・公共空間へ
戦後、日本が復興を遂げ経済が高度成長していく50年代から60年代にかけて、坂倉に依頼される仕事も増加し大型化する。企業の研究施設、市庁舎などの公共建築、渋谷や新宿といった都心部のターミナルプロジェクトなど大規模で複合した施設を設計し、モダニズムの理念を手がかりに混沌とした都市空間へコミットしていく。戦前の事務所開設から戦後の初めまで、坂倉の仕事は住宅、百貨店など一貫して民間建築に終始していた。GHQの占領から日本が開放された50年代から、コンペによって獲得し実現した公共建築が「神奈川県立近代美術館」(1951)である。この建築は坂倉が建築家として飛躍するターニングポイントあり、また戦争でその進展を阻まれた日本の近代建築にとっても戦後の出発点とも謂える建築であった。この公共建築を皮切りに坂倉の仕事は大型化し塩野義製薬や東洋レーヨンなど企業の研究所や関連施設、岐阜の羽島や広島の呉市といった市庁舎を次々と手掛けて行く。
渋谷計画(1952~1970)
建築家として飛躍した50年代、コルビジェの元でウルバニズム(都市計画)を学んだ坂倉に都心の総合計画に関わる機会が訪れる。坂倉は東京急行電鉄会長の五島慶太から依頼を受け、国鉄・東急渋谷駅周辺の将来像を描いた「渋谷総合計画」(1952)を構想し、その一画であった東急会館を設計し完成させる(1954)。この会館は後に東横百貨店西館と呼ばれ。近年大幅にファサードが改修されて今もJR渋谷駅ハチ公口を見下ろすように立っている。低層の商業ビルや木造家屋が並んでいた当時の渋谷で、周囲を睥睨するように白く輝く11階建ての高層ビルは、国鉄渋谷駅の改札口や東横百貨店新館、劇場などを含む複合ターミナルビルの先駆であった。国鉄を挟んだ東には戦前(1934)に建てられた東横百貨店(現東横百貨店東館)があり、これと国鉄を跨いで繋ぐオーバーブリッジをもつくられた。更に、渋谷駅の東を走る明治通りの向こう側で闇市街だった敷地に、大小四つの映画館と東横百貨店の雑貨売り場(のれん街)や美容室、結婚式宴会場、屋上にシンボリックなプラネタリウムを載せた東急文化会館(2003年閉館)を計画する。
この8階建ての複合ビルは、「渋谷総合計画」に則り、明治通りを上空を渡る連絡通路で増築する東急百貨店事務所棟と接続させて1956年に完成する。以後も坂倉は、京王帝都の駅ビル(京王ビル1961)、国鉄と京王帝都渋谷駅繋ぐ京王線連絡通路(1961)、渋谷駅西口ビル(1970)を完成させ、「渋谷総合計画」(1952)から18年の長きにわたり、渋谷のターミナル建設に関わることになるのだが、今、渋谷駅と東急東横百貨店ほど複雑に入り組んだターミナル空間は都内でも珍しいのではないだろうか。坂に囲まれた谷間の渋谷にJR(旧国鉄)や私鉄(京王井の頭線・東急東横線)、地下鉄(銀座線・田園都市線)など複数の路線が集まり、その改札口と東横百貨店の東・西・南館が各層ごとに繋がって混じり合い迷路のごとき呈をなしてしまっている。最早、この錯綜した関係を解きほぐすことは不可能に近い。それは、交通(鉄道網)と流通(百貨店)という都市の根幹に連携がなく、それぞれが長い歳月をかけて自己増殖することを看過した結果であり、また「渋谷総合計画」を立案しタ-ミナルの建設に携ってきた坂倉の都市計画家としての限界も示しているように思える。
新宿計画(1961~1966)
東京で新興の繁華街というと、渋谷に並んで新宿が挙げられる。1960年に決定された新宿副都心建設事業は、広大な淀橋浄水場を移転し、東口に比べて未開発だった新宿駅西口周辺をビジネスセンターとして整備する計画であった。この計画の要となったのが西口の駅前広場である。61年、坂倉はまず小田急の新宿駅西口本屋ビルを設計委託されるが、小田急が西口の広場建設の事業者となったため、ビルとともに広場の設計も任されることになった。西口広場は地下2階を駐車場、地上を自動車道路及びバスターミナルとして整理し、その間の地下1階を国鉄・小田急・京王・地下鉄など新宿に集まる各路線と周辺建物を結ぶコンコースとする3層構造の建築物として計画される。このような地下2階から3層に及ぶ立体構造となったのは、当時のモータリゼーションの進展で交通量が増大し、都心が駐車場不足に陥っていた為、副都心への車のアクセスを考慮してビル建設者に広大な地下駐車場の付置義務を課されたからである。このため、新宿駅西口には巨大な地下空間が出現することになった。メインとなる地下1階では、各路線のコンコースと四周のオフィス及び商業ビルの間を回遊する群衆をいかに円滑に捌くかが課題であったが、坂倉は直径60mの巨大なヴォイドを穿ち、優美な曲線を描くランプウエイを走らせることで地下空間に都市の結節点ともいえるプラザ(広場)を生み出した。このヴォイドは、地下のコンコースを歩いて乗り換え或いは西口周辺のビルへアクセス、階段で地上へ出るなどこの空間を利用する人々に、地上の光りや風、風景または方向感覚などを感じて貰える建築的な仕掛けであった。西口広場の竣工(1966)の一年後、最初に設計委託された新宿駅西口本屋ビルが完成する。小田急百貨店をテナントとする南北400mの長大なファサードをもつこのビルにも、坂倉は力を注ぎ西口広場同様の公共性を与えている。小田急線の軌道上部空間を活用した人工地盤をつくり、歩行者空間として南側の甲州街道まで延長し繋げた。後に、この人工地盤はモザイク坂と呼ばれ、西口から甲州街道へ向けて歩行者の流れをつくるストリートに成長し、現在は甲州街道を越えて南口の新宿サザンテラスに連結して東南方向の高島屋百貨店まで広大な歩行者空間が形成されるに至っている。このビルの完成した2年後の1969年に坂倉は進行中だった多くのプロジュクトを抱えたまま急逝する。没後40年の歳月が流れた今、新宿駅西口に立って、楕円形の巨大なヴォイドと南北に突き出た換気塔の対比的な造形が西口広場のイコンとして輝き、都市の公共空間として生動していることを確認する時、坂倉が師であるコルビジェの提唱したウルバニスム(都市計画)を担い、都市に対して果たした仕事の大きさを想う。
Ⅴ.まとめ
今回の回顧展を観るまで、自分の中の坂倉準三のイメージは「鎌倉近代美術館(現神奈川県立近代美術館)」(1951)に尽きていた。コルビジェを彷彿とさせる白く端正な直方体の箱が歴史ある鎌倉鶴岡八幡宮の平家池の汀に軽快に浮かび、日本的な中庭を取り巻くようにコルビジェの無限発展美術館のコンセプトの如く螺旋状にギャラリーが展開する。そして、蓮の池に脚を降ろした鉄骨のピロティで支えられた空間に迫り出した半屋外テラスの天井に池の波紋が映し出される幻想的な光景が脳裏に焼きついているのです。しかし、小さなスケールの家具、住宅から大スケールの百貨店やオフィスや市庁舎等の公共建築、そして渋谷・新宿といった巨大スケールの都市計画に至るまで、その仕事は個人の建築家の枠を超えるような広い範囲に渡っていることに驚きを禁じ得ませんでした。特筆すべきは、大家となった建築家が遠ざけるきらいのある住宅の設計や家具のデザインを独立当初から晩年まで一貫して手掛け続けたことと、巨大で複雑な都市中心部のターミナル建設に長期間取り組み、現在から見ても大胆な公共空間を実現したことです。思えば坂倉がモダニスムに生きた戦後50年代~60年代までの日本は、個々の力量が求められ、また充分に発揮できた発展途上の社会でした。そんな時代なればこそ、新宿西口地下広場のような都市の公共空間が実現できたとも謂える。しかし、個人の建築家が都市の中心部を開発する計画を手掛けることすら難しく、個人の力を発揮する機会が喪われる一方の社会となった現代、坂倉が都市に遺したものの意味は以前にも増して大きくなっているのではないだろうか。そんな想いにふけながら、坂倉没後40年経って開催された回顧展を後にしました。

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