Archive for the '近代建築 Modern architecture' Category

6 月 30 2009

聴竹居 Chochikukyo

1 「聴竹居」南側全景(1928)

敷地:京都府乙訓郡大山崎町
竣工:昭和3年
設計者:藤井厚二
Location:Ohyamasaki-cho,Otokuni district,Kyoto Prefecture
Establishment:1928
Architect:Koji Fujii
「和風の伝統から生まれたモダニズム住宅」
Ⅰ.日本の住宅建築の先駆者 藤井厚二
藤井厚二(1888~1938)
京都南郊の大山崎は、古くから京都~大阪間を結ぶ交通の要所であり、また戦国期の茶匠千利休が創建した茶室待庵(国宝)があることでも知られている。その大山崎は天王山の麓、鬱蒼とした樹木に埋もれるように一軒の古い住宅がある。「聴竹居」と呼ばれるその住宅は、昭和3年(1928)にこの地に建てられてから80年の歳月が流れた今も竣功当時の姿をとどめながら静かに佇んでいます。この住宅は、大正から昭和の戦前期にかけて活躍した建築家で京都帝国大学の教授でもあった藤井厚二の自邸である。
藤井は、大正9年(1920)にこの天王山の麓に約1万2000坪もの土地を購入して、二軒目の自邸を建てて神戸から移り住んでいる。藤井はこれを「実験住宅」と称して、設計した住宅に自らモニターとして住まい、その住み心地を検証・研究することで、近代化する日本人の生活に適応する住宅を模索していくという実験を、昭和3年(1928)までの10年足らずの間に四棟の自邸を近隣に建て続けながら繰り返していく。設計から建設、生活、研究という過程を経て次々と建て替えられていった自邸は「聴竹居」をもって五回目を数え、実験住宅の追尾を飾る集大成的な作品となった。藤井は、日本の住宅に対する理念や研究による理論を纏めた著書「日本の住宅」(昭和3年出版)の最初の章で、「個人主義、実利主義等の発達して来た今日では、住宅建築が重大なる地位を占めるに至り、何れの国でも其の国の建築を代表するものは住宅建築である」と明言し、日本の文化が欧米文化に盲従して模倣の域を出ないことや忠実な模倣による住宅は理想から程遠いことを指摘している。そして「我が国固有の環境に調和し、その生活に適応すべき真の日本文化住宅を創成せねばならない」と説き、その実践として「建築学上より実験的にまた理論的に考察し、吾々の生活に適合すべき住宅について説いてみよう」と実験住宅への決意を表明している。49年という短い生涯を住宅研究に捧げたプロフェッサーア-キテクト・藤井厚二が実践した実験住宅とはどのようなものだったのだろうか。
Ⅱ.研究者兼建築家が試みた実験住宅
2 実験住宅配置図
住宅改良運動
藤井が実験住宅を実践し住宅の近代化を模索
していた1920年代は大正期にあたり、地方から都市に豊かな生活を求めて人口が集中し始め、都市生活者の住宅不足が社会問題化した時代である。また明治末から台頭し始めた中産階級の人々は西欧文化の洗礼を受けて高い知識を持ち、新しいものに積極的だった。大正時代は、こうした教養人から生活改善の声が高まり、住宅の近代化が論じられ、住宅の改良が盛んに提唱されていった。当時の住宅改良の問題点は日本人が取り入れつつあった西洋式の生活スタイルをどうやって日本の住宅に反映させるかということであった。つまり長い慣習で営まれる伝統的な和風と洋風をいかにして折衷するかが最大の関心事であり、こうした和洋折衷住宅へのアプローチを大正期に登場した住宅作家と呼ばれる建築家たちは共通の課題として、それぞれが試行錯誤を重ねていた。藤井は、こうした時代に京都帝国大学で教えていた建築環境工学という学術的な視点から日本の住宅改良を試みるという先端的なアプローチをした建築家であった。環境工学をベースとした藤井が考える住宅とは歴史、人情、風俗、習慣、風土と密接に関係するものであり、この理想の住宅像を伝統的な和風と洋風で把握した場合、藤井は当然のように和風の空間とデイテールを選択している。この事は、日本の風土に適した伝統的な空間の中に現代的な西洋式生活スタイルを融合させることで、欧米の模倣の域を脱した日本の近代住宅を創成しようとした藤井の気概と理念を端的に現わしているようで興味深い。
3 第一回(1917)第二回(1920)実験住宅平面図
第一回から第四回までの実験住宅
藤井の著書「日本の住宅」には、第一回から第四回までの実験住宅の変遷が平面図や竣功時の写真とともに記述されているが、このうち第一回住宅だけは神戸に建てられ、その後の第二回から第五回に至る実験住宅は全て大山崎の山中に建てられている。しかし現存しているのは第五回の「聴竹居」だけで、それまでの実験住宅がどのようなものだっかは「日本の住宅」から想像する他はない。藤井が一連の実験住宅で取り組んでいた研究内容は、彼について書かれた論文や文献の分析によると以下の三点に分類されるようだ。
①居間を核とした空間構成
②坐式(和風)と腰掛式(洋風)の生活スタイルの融合
③快適な室内環境と設備面の充実
そこで、現存しない第四回までの住宅がどのようなものだったか、また「聴竹居」に至るまでどう変遷していったのかを平面図に即して観察していきたい。
神戸に建てた第一回住宅((1917)は、まだ藤井が独身で母親と2人暮らしをしていた為か、普通の木造二階建ての和風住宅で、藤井が使用していた二階の書斎と応接間以外は、居間・茶の間など全て畳敷きの純和風の設えになっている。全体に旧態依然の間取りだが、台所やトイレ・洗面化粧・浴室などの水周りの諸室を近接配置させるという設備面での近代的な試みがなされている。
4 第三回(1922)実験住宅平面図
第二回住宅(1920)からは、神戸から京都南郊にロケーションを移し、大山崎町の西国街道沿いの町家が並ぶ町中に南北に細長い木造平屋が建てられた。この住宅から居間を中心として、その周囲に応接間・寝室・書斎・台所が配置された平面構成になってきた。また椅子・テーブル・ベッドを用いた洋室がふえる一方、畳敷きの和室を減らしていいる。その代わりに、居間兼食堂の脇に床を一段上げた間仕切りのないオープンな畳敷きのスペースを設けて、境界に置いた食卓を椅子坐・床坐の両方から使えるように工夫されている。この居間と連続する畳敷きスペースのレベルを上げて腰掛けた側と座った側の視線を調整する手法は、後の第三回、四回、五回住宅まで使い方を変えながら一貫して採用されている。
第三回住宅(1922)は、同じ大山崎町の国鉄を挟んだ景色の好い山側に、約一万二千坪の土地を購入し、自由に計画できる広大な環境の中で建てたものである。木造二階建て、一階は居間を中心とし、東側に前回と同様に五畳の小上がりスペースを設けている。応接間は前回は居間兼食堂の一画にカーテンで間仕切られていたが、ここでは居間から独立して東に配置し、客間は来客用の食堂を兼ねて居間の西側に設けられ、ここに椅子式の視線に合わせて高さを上げた和風の床の間があり、洋風に和の要素を折衷させている様が面白い。客間の南には切妻屋根を架けた吹き放ちのベランダが付いている。書斎と二つの洋寝室と六畳の寝室がある二階は、昭和9年(1934)に発生した台風の強風で吹き飛ばされてしまったという。
5 第四回(1924)実験住宅平面図

小高い山腹にある第三回住宅から近接の北西に建てられた第四回住宅(1924)は、木造平屋建てで第二回から継続した居間を中心とした平面構成がとられ、前回と同じく居間の一画を食堂とした居間兼食堂スタイルになっている。居間と連続する畳敷きの小上がりは、三畳と縮小され、応接間には前回の客間にあった椅子に腰掛けた姿勢に合わせたレベルの高い床の間とその脇にベンチが設けられ、後の「聴竹居」への布石が打たれている。居間兼食堂と小上がりに接したベランダは吹き放ちではなく、二方をガラスで囲んだサンルームのような空間で、ここにも「聴竹居」に繋がる藤井の意図を感じられる。
以上、第一回から第四回までの実験住宅の変遷を整理すると、独身で母との二人暮らしだった神戸時代の最初の自邸は、ほとんど畳敷きの純和風スタイルであり、まだ藤井自身に明確な目的意識が芽生えていなかったように思える。結婚して家族が増えた第二回以降は、椅子・洋卓・ベッドなどを用いた洋式の生活スタイルが導入され、畳敷きの和室のスペースは減少していく。第二回から四回に至る実験住宅では、居間・食堂を中心として全体のプランニングを構成しながら、伝統的な和風と洋風の融合、床坐と椅子坐の適切な組み合わせを図っていることに大正期という時代を超えた近代性が感じられる。
藤井厚二は五回目の実験住宅「聴竹居」を建設中に著した「日本の住宅」(1928)の序文の中で、「私は所謂最近の旅行として現今第五回目の住宅を建てておりますから、其の住宅の完成した時は『聴竹居図案集』と題して、自己の住宅の建築設計案を公にする予定で、即ち之が本書の結論とも称すべきものです」と自信をもって語っている。私財を投じて自ら実践してきた実験住宅の完成形にして集大成といえる「聴竹居」とはいかなる住宅だったのだろうか。
6 第三回(1922)実験住宅南側外観         7 第四回(1924)実験住宅南側外観

Ⅲ.実験住宅の集大成 「聴竹居」
8 「聴竹居」配置図(1928)
奥床しいアプローチ
京都から南西に走るJR東海道本線山崎駅南口を出ると、駅前の広場の左にある妙喜庵・待庵がまず目に飛び込んできます。かつて、ここを訪れ幸運にも利休遺構の茶室待庵の内部を具に見学したことを想い出し感慨深いものがありました。藤井厚二も茶を嗜み、その著書で「茶室は純粋の日本建築であり、意匠の優秀、用意周到なるは驚嘆のほかなく、奥儀を究めた利休を追慕する念が深くなっている」と語っていることから、藤井がこの大山崎を自邸の計画地とした動機に、ロケーションの好さだけでなく妙喜庵・待庵の存在が重要な意味を持っていたように思える。駅前の妙喜庵から東に伸びる線路沿いの道を進み、踏切を渡って直ぐ左の坂道を登って山中を緩やかに蛇行する道なりに歩いてゆくと、曲折する道の突き当たりに「聴竹居」と書かれた看板を置いた小さな椅子が見つかり、新緑の樹木で覆われた中に風雅な石段が奥へ誘ってくれているようでした。自然石で縁取られ緩やかな曲線を描く石段を昇ってゆくと、眼前に「聴竹居」の姿が忽然と現われ、80年の歳月を経た佇まいは、蒼然としているがどこか爽やかな印象であった。
「聴竹居」平面図

居室(居間)を中心に展開するワンルーム空間
ボランテイアスタッフに来意を告げて、内部を案内して貰う。薄暗い玄関から上がって正面の扉を開けると、そこには今まで体験したことのない和洋が渾然とした住空間と創意の凝らされた意匠が眼前に広がっていました。第二回から四回まで一貫した洋風の居間を中心としたゾーニングであるが、この居間はがらんとした不思議な空気感が漂っている。居間らしく感じられないのは、藤井が出版した「聴竹居図案集」における平面図で居室とされていることから、第四回までの実験住宅の居間とは違う空間が指向されたからではないだろうか。居室(居間)の一画に三畳の小上がりがあるのは前回と同様だが、食事室が独立して円弧状に開いた出入り口が居室側に貫入するようにユニークに食い込み、視覚的に空間を連続させている。更に東西に客室・読書室、南に三方をガラスで囲まれた縁側などのスペースが居室(居間)を取り巻くように貫入している。
これら居室(居間)を中心に四方を囲んだスペースは引き戸や障子を開けてしまえば、そこかしこに視線が抜けて居室(居間)を含んだワンルーム空間となるわけで、伝統的な和風の空間構成を発展させようとしたのではないだろうか。居室に食い込んだ四半円の入り口から一段上った食事室に入り、明るい窓際に造りつけられたベンチに座ると、四半円を描く開口から居室(居間)を透して三畳の小上がりや縁側まで見透せる空間の連続感が印象的です。この食事室は書院や数奇屋の上段の間のようであり、四半円に切り開かれたピクチャレスクな開口はアールデコかゼセッションのようだが、むしろ茶室の華灯口の意匠を思わせ、伝統的な和の趣きを感じさせる。
居室(居間)と一体化した三畳の礼拝スペース
前回までの住宅に繰り返し設けられていた一段上がった藤井特有の三畳の小上がりスペースは、この「聴竹居」でも健在だが、ここでは食事室が独立してあるため性格が違い、居間との境は33cmの段差のみで完全に居室(居間)と一体化した空間になっている。壁一杯に造りつけられた飾り棚の中段にくすんだ金色の斜め壁が目を引く。ボランティアスタッフの説明によるとそれは扉で開けてもらうと、仏壇が隠れていました。フローリングの居室(居間)から立ったまま礼拝できるように、高さと角度が設計されているようだ。また表を飾るくすんだ金色は金箔が張られた跡であるという。スタッフの話によると、藤井はこの仏壇の他にも屋根の棟部分を葺いた瓦にも金箔を張った煌びやかなデザインをしており、豪奢な趣向を好む彼の意匠心が現われているようで面白い。
風が流れるモダンな縁側(サンルーム)
居室(居間)から南東の庭に繋がる縁側は三方を囲むガラスの横連窓から射し込む光りで満たされている。縁側的空間を藤井は実験住宅において形を変えて連続して設けており、第三回では手摺を廻した吹き放ち型のベランダで次の第四回は、二方向をガラスで囲まれた屋内型ベランダに変化させている。そして「聴竹居」では縁側と名づけられ、前回の屋内型を踏襲しながら南の庭に突き出た形にし、北の居室(居間)側との境を障子で軽く間仕切り、三方をガラスで開放しながら天井を網代という伝統的な意匠でまとめている。ここから新緑の明るい庭を眺めていると、かつて今ほど周囲の樹木が鬱蒼としていなかった昭和初めは、この大山崎の高台から眺める景色が素晴らしかったことが想像されます。この景色を存分に楽しむため、豪華にも東西南の三面にわたり全長10mものガラスが連窓とされ、コーナー部はF・L・ライトのようにガラスを直角につなぎ透明感が確保されている。さらに欄間部分に摺りガラスが入れられ明るさにともなう眩しさを防いでいます。こうした住環境への仔細な配慮は、あらゆる面ではらわれており、景色を楽しみながら涼風が感じられるよう腰壁部分には風を導く引き違い戸が設けられ、また網代天井には喫煙に配慮した開閉式換気口がデザインされている。昭和初頭に現代にも通じるような環境を重視した設計がなされていたことに驚きました。
和風の形式をモダンな感覚でデザインした客室
居室(居間)と縁側との間を障子で間仕切られた東西の小空間が客室と読書室です。その入り口を三日月形にデザインされた欄間が飾る客室は、正方形に近い6畳程のスペースに和洋折衷の不思議な趣きが漂っています。接客が重視された大正期には、洋風の部屋に椅子と洋卓などの応接セットが置かれた「応接間」が流行したが、この聴竹居の「客室」は、洋風の椅子式に和の床の間がついた斬新なインテリアでした。6畳程の小部屋でありながら、明るい広がりを感じるのは、直線的でシンプルなデザインの肘掛け椅子と窓下に造りつけられたベンチが配された奥に室の間口一杯の幅3mという大きな床の間が天井高く造られていることに起因しているようです。このモダンテイストな床の間は椅子坐の高さに合わせて床板が30cm程の高さに上げられています。それは西欧の如く壁に空けられたニッチにも見え、奥の壁面には書画、陶器、花の他に一葉の絵画なども飾られ鑑賞されたという。藤井は床板の高い床の間と椅子、造り付けのベンチの組み合わせを第四回住宅の応接間でも試みており、その具合の好さからこの「聴竹居」で更に発展させていったものと思われます。網代に張られた天井と床の間の落としかけの境の入隅部分に装置されたシャープな三角形の照明が部屋にモダンな雰囲気を漂わすことに一役買い、またベンチの背後からモンドリアンばりにイレギュラーに格子を組んだガラス窓から自然光が射しこみ気持ち好く部屋を満たしています。
子供と一緒に過ごす読書室
子供の居場所をどうするか。現代で住宅をイメージする時に居間やキッチンなどとともに真っ先に注目される子供部屋だが、昭和初頭の「聴竹居」ではどう考えられていたのか。居室(居間)と縁側の間に設けられた四畳半程の「読書室」と名付けられた小部屋がそれに想定されしています。西壁の窓際に修学院離宮客殿の霞棚を想わせるような棚を造り付けた書斎机と縁側に向かって造り付けの本棚ととも並べられた二つの子供机が同居したこの小部屋は、藤井親子が一緒に使う洋間に仕立てられている。子供机の正面の障子を開ければ、明るい縁側を介して南の庭やその向こうに広がる山並みの眺望を楽しめる仕掛けが楽しい。この部屋を書斎兼子供室ではなく読書室と名付けたことから、親子が机を並べてともに勉強(読書)する経験が子供の成長に不可欠とみた藤井の住宅に対する思想の一端が伺えるような気がします。
Ⅳ.まとめ 「日本的デザインの住宅」に取り組み続けた生涯
藤井厚二は著書の「日本の住宅」で日本趣味について語った「趣味」という章で、「科学の進歩に応じて直ちにそれを適宜利用することの必要であるのみならず、ゆったりとした落ち着きのある高雅な気分に浸ることの出来得る趣味の深い住宅を造ることが肝要である」と説き、計五回にわたる実験住宅を通じて、環境工学による科学的なアプローチのほかに日本固有の環境に調和した和の伝統を基調とした日本的デザインを探求している。実践と検証による改善から導かれた「聴竹居」では、和と洋を並存させる意匠が平面構成から一つ一つのディテールに至るまで及んでいるが、それはあくまで和の伝統を基調とした洋との並存であった。只、和の技巧的な意匠や環境を配慮した仕掛けに傾注した故か、「聴竹居」の居室(居間)を中心に三畳や食事室などの小空間が貫入した一室空間からは近代的な感覚でいうところの空間性が欠けているのは否めない。しかし西洋の近代主義による「空間」が閉ざされた厚く重い壁によって獲得された場であるのに対し、元々そのような構造を持たなかった日本の伝統建築では「空間」という感覚は存在しない。藤井が実験住宅で試み続けたことは、日本の伝統と向き合いその好ましさを再構成することであったように思う。「聴竹居」という住宅を体験すると、日本の伝統と向き合い格闘している力強さを感じ、空間としての拙さを覆う迫力に満ちている。関係者の献身的な尽力で内部の見学ができるようになった今、必見の近代建築であろう。
京都西山の麓、秋の紅葉が素晴らしい嵯峨野の大覚寺は、藤井厚二の郷里・福山の名刹・明王院の本山です。この寺から南西への路を辿ったところの二尊院にガンで死を予感した藤井が自ら病床でデザインした墓碑がある。薄く先端で軽やかに反った屋根を冠した墓碑は直線的でシャープな印象です。藤井は墓碑の完成した姿を見ることなく、昭和13年(1938)7月、住宅研究に専心した49年の短い生涯を終える。実験住宅の集大成とした自邸「聴竹居」に住んでから僅か10年後のことであった。
参照文献
・「日本の住宅」という実験 風土をデザインした藤井厚二/小泉和子著/農文協発行/2008
・モダニストの夢 聴竹居に住む/高橋功著/日本工業新聞社発行/2004
・まぼろしのインテリア/松山巌著/作品社発行/1985
・昭和住宅物語/藤森照信著/新建築社発行/1990
・思想としての日本近代建築/八束はじめ著/岩波書店発行/2005
・大山崎の光悦 住宅と作家-藤井厚二論/小能林宏城著/新建築1976
本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・1 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・2 「日本の住宅」という実験 風土をデザインした藤井厚二/小泉和子/2008
・3 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・4 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・5 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・6 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・7 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・8 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・9 「モダニストの夢 聴竹居に住む」/高橋功/2004
・10 「モダニストの夢 聴竹居に住む」/高橋功/2004

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4 月 26 2009

イタリー大使館日光別邸 Iatlian Embassy Nikko Villa

敷地:栃木県日光市中宮祠2482
竣工:昭和3年(1928)
設計者:アントニン・レーモンド
Location:Chuguuji,Nikko City,Tochigi Prefecture
Establishment:1928
Architect:Antonin Raymond 
「国際避暑地、奥日光中善寺湖畔に佇む木造モダニズム」
 

Ⅰ.イタリー大使館日光別邸の歴史

明治期から国際避暑地として名高い奥日光、中禅寺湖畔の東岸にイタリー大使館日光別邸はある。周辺はブナを中心とした森林に囲まれて水量豊かな湖水と対岸の山並みの眺望が満喫出来、この地に明治の中頃から昭和にかけて各国大使館の別荘が建てられたということが頷けるような素晴らしい環境です。大正末には、湖畔沿いに英国、仏蘭西、ベルギーなど40ヶ国に及ぶ大使館の別荘があったという。そんな絶好のロケーションにイタリー大使館の別荘が建てられたのは昭和3年(1928)のことで、設計者は大正期から日本で活動していた外国人建築家のアントニン・レーモンド(1888~1976)でした。別荘は昭和3年(1928)の建設から69年の長きに渡り、歴代の大使とその家族に慈しまれて使われてきましたが、老朽化が進んだためと維持管理の費用が賄えなくなったことで平成9年(1997)にイタリア政府から栃木県に売却される。栃木県は国際避暑地、日光の歴史を伝える貴重な拠点として老朽化した別荘を復元し、平成12年(2000)から一般公開しています。
Ⅱ.日本の「近代建築」の先駆者 アントニン・レーモンド

レーモンド(後列中央)と所員達

 レーモンドは大正8年(1919)の大晦日、「帝国ホテル」建設のためにアメリカの巨匠建築家フランク・ロイド・ライトとともに設計スタッフとして来日し、帝国ホテルの設計に従事していたが、大正10年(1921)にライトの許から独立し、東京に事務所を構え日本で建築家としてのキャリアをスタートさせています。爾来、レーモンドは第二次大戦中を除き、戦前(1919~38)から戦後(1948~73)にかけて44年の歳月を日本で過し、日本の建築家として400件余りの作品を遺すことになる。日本の外国人建築家として歩み始めたレーモンドは、師であった巨匠ライトの影響から脱すことが出来ず、独立当初はライト調の建築をつくっていた。しかし自由な平面と立体的な空間構成をコンクリート打放しで表現した自邸(霊南坂の自邸1924)を契機にライトの呪縛から離れ、次第にモダニズム建築のスタイルを確立していく。レーモンドは日本に住んで神社や民家など日本の伝統建築に触れることで、そのなかに近代建築の原理を見出し、それを追求し思いのまま表現することで、日本の近代建築の創始していった。イタリー大使館日光別邸は、レーモンドがコンクリート構造のみならず日本建築から学んだ木造技術を駆使して和洋融合のモダニズムを表現した住宅・別荘建築の一つである。
 
Ⅲ.地元日光の杉皮で包まれた別荘建築
男体山や白根山など栃木の名峰に囲まれ、静かに水を湛えた美しい中善寺湖を右に見ながら、日光市道1059号線と湖畔の間に設けられた遊歩道を歩いていくと、まず英国大使館の別荘が湖畔に向かっている優雅な姿が見えてきます。カーブを描いた湖畔に桟橋が突き出た光景はここが海外にも知られた避暑地であったことを鮮やかにイメージさせてくれる。更に歩を進めると、ブナの森のが広がる中、小さな橋の向こうのに開けた公園が見え、湖畔に向かって立つ木造二階建ての旧イタリー大使館日光別邸の姿が現われました。
別荘南西側外観

階段を降りて中に到ると、真っ先に湖に反射した春の光が北側のガラス戸から射し込んでいる光景が眼に飛び込んできました。北側の湖に向かって東西に長い居間・食堂・書斎が一続きとなった一室空間は奥行き三間(5.4m)、長さ9.5間(17.1m)で、湖側に幅一間半(2.7m)の広縁(欧米風のカバートポーチ)が全面に展開し、開放感と適度な広さが心地よい。この別荘の際立った特徴は杉の皮を竹の竿縁で押さえた意匠で徹底的に統一されたインテリアで、野趣溢れる杉皮のテクスチャーは奥日光の雄大な自然環境と別荘の融和性を高め、心に響くものがある。居間の天井を見上げると、杉皮と竹の竿縁のパターンが織り成す幾何学的な亀甲模様が美しい。全体に天井・壁とも矢羽や石畳など網代に編まれた杉皮に竹の竿縁押さえという日本の草庵茶室の室内意匠が巧みに取り入れられている。こうした伝統的な意匠を用いながら幾何学的な表現をしているインテリアから、日本の伝統に通じた外国人建築家レーモンドの美学が感じられる。
食堂から居間・書斎を臨む                      広縁内観

広縁内観                                食堂内観
中禅寺湖の美しい風景を堪能すべく北面の長辺一杯に付けられた下屋の広縁に置かれた籐椅子に座って静かに眼を開く。眼前に広がる静かな湖面と遠く対岸に聳える山並み、小春日和の青い空をじっと眺めていると、自然と心が癒され気分は最高!眼下には湖畔の石浜にかつてヨットやボートが湖面を滑るように繰り出した避暑ライフを彷彿とさせるようなプラベートな桟橋が一直線に湖に伸びていて美しい。一階は居間・食堂・書斎などのパブリックなワンルーム空間に客室(現休憩室)や厨房に浴室などが附属し、居間中央の四本の柱が支える二階はプライベートな空間で大使とその家族の部屋だった四つの寝室があり、それぞれの部屋の格子ガラス窓から湖の雄大な眺望が満喫出来る。
階段室内観                         大使夫妻寝室内観

 
別荘内部の見学を終え玄関から再び森に出る。南から別荘東側に回り込みながら北側の湖畔に出ると、そこには先ほど別荘の広縁から眺めた石浜に桟橋が伸び湖面に突き出ている印象的な風景が広がっていました。桟橋の先端に立ち、北東の対岸に聳える男体山の雄姿を眺めつつ静かな漣が立つ湖面に視線を移して、ぐるりと南の高台に立つ別荘を臨むと、真っ直ぐ延びた桟橋の向こうに杉皮と色つきの柿板が模様張りされ、格子のガラス戸と鮮やかな市松模様と縞模様で構成された北面ファサードが印象的です。この市松模様のパターンは別荘の外壁に繰り返し使用されているのだが、このデザインソースは恐らく京都にある宮家の別荘、桂離宮の茶屋・松琴亭の襖や床の間に張られた加賀奉書の白と青の市松文様からきているのであろう。日本の伝統建築に精通したレーモンドが松琴亭の市松文様がその鮮やかな色彩と大柄な模様で部屋の趣を統べていることに習い、同じパターンを導入して外観の統一を図ったように思える。
北東側外観                               湖畔の桟橋

桟橋から北側外観を臨む                         西側外観
Ⅳ.まとめ レーモンドの日本建築への眼差し

アントニン・レーモンドは著書で*1「私は現代(近代)建築を創始した建築家の一人である。けれども私自身、自分が本当に現代(近代)建築の先頭を歩んでいることを知らなかった。私は、日本の建築から教えられ、啓発されたところに従って、根本原則の実現に努めてきただけのことである。私に現代(近代)建築の原則を教えてくれたのは、日本の建築であった」と語り、アメリカから師のフランク・ロイド・ライトとともにやってきた日本で、モダニズムの求めていたものを発見し、そこに表現されたものこそ近代建築の原理であると見極めた。そして日本建築の特質について*2「このうえなく単純なもの、このうえなく自然なもの、このうえなく経済的なもの、このうえなく直截なもの」と悟ったレーモンドは、ライトの許から独立した後、コンクリート構造のモダニズム建築を手がける傍ら、日本の伝統的な木造技術を学んで、単純な構造と材料で都心や日光、軽井沢などの避暑地で木造住宅を連作する。イタリー大使館日光別邸(1928)は、そういう時期につくられた建築であり、外観・インテリアに草庵茶室や桂離宮という日本の伝統建築の意匠を取り入れて、和風数奇屋風な佇まいに西欧風な住まい方を両立させた和洋融合の木造住宅に仕立てることで、日本建築の特質をモダニズム建築に昇華させている。見学が終わり別荘のある公園を後にしながら、再び湖畔の桟橋方向を眺めると、かつて避暑に訪れた各国大使たちが繰るヨットが走り帆をはためかせていた湖面は西陽に輝き、今も往時と変わらぬ静かな漣を湛えていました。
 参照文献
・「私と日本建築」/アントニン・レーモンド著 三沢浩訳/鹿島出版会発行/1967
・「自伝アントニン・レーモンド」/アントニン・レーモンド著 三沢浩訳/鹿島出版会発行/1970
・「現代日本建築家全集1アントニン・レーモンド」/栗田勇監修/三一書房発行/1971
・「アントニン・レーモンドの建築」/三沢浩著/鹿島出版会発行/1998
・「A・レーモンドの住宅物語」/三沢浩著/建築思潮研究所発行/1999
抜粋
*1 レーモンド「私と日本建築」p180
*2 「現代日本建築家全集1 アントニン・レーモンド」p36   
 

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3 月 31 2009

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall

敷地:東京都台東区上野公園
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竣工:昭和36年(1961)
設計者:前川國男
Location:Ueno-koen,Taito-ku,Tokyo
Establishment:1961
Architect:Kunio Mayekawa
感想:Impression
「上野の山で対峙する師弟の近代建築」
Ⅰ.歴史ある上野の山に聳える音楽堂
不忍池や徳川将軍家の菩提寺寛永寺など江戸時代以来、東京市民に縁の深い上野の山はまた東都きっての桜の名所でもある。その桜の老樹がゆかしき風情を漂わす上野の山が明治初頭に公園として東京市民に開放されてから明治・大正・昭和にかけて大規模な内国博覧会の開催や大学、博物館、美術館など文教・文化施設が陸続と建ち、上野公園は帝都随一の文化・遊覧の名所として発展していきました。その上野公園に戦後、それまでの東京に類例のなかった大規模なスケールの大小二つのホールを内包した本格的な音楽堂が現われます。「東京文化会館」と呼ばれる音楽堂は、昭和36年(1961)の 4月に竣工した。オープンから50年弱が経過した今も優れた音響、抜群の利用率を誇り、現役のオーディトリアムとしてフルに稼動している。近代建築の巨匠ル・コルビジェに日本人として最も早く師事した建築家の前川國男が設計した「東京文化会館」は、戦後日本の近代建築のデザインを象徴した姿で上野の森に悠然と鎮座しています。
ル・コルビジェと前川國男
戦後日本の近代建築を常に先導した建築家・前川は、帝大を卒業した日の夜から単身、帝都東京を発ち、神戸から船で満州大連に渡り奉天を経てシベリア鉄道に乗って、コルビジェのいるパリへ渡欧している。現在では考えられないような衝動的な情熱でコルビジェに師事した前川は、彼のアトリエで昭和3年~5年(1928~1930)の二年間、欧州を風靡していた最先端のモダニズム建築を学び、欧州一のメトロポリスで絶頂期にあったパリの都市文化を享受した。滞在中のエピソードとして、前川がコルビジェに従ってパリ中心部にあるルーブル広場を横切った時、コルビジェがこの広場のスペースの好ましさついて「物があるが、物を感じさせない。開かれているが、包み込まれている感じがする。」と説明したと後に前川自身の著作(「信條」)で回想している。このことが後年の前川の建築に一貫して顕われる「都市的なるもの」に影響を与えていると謂われている(「前川國男 賊軍の将」より)。二年間の留学を終え帰国すると、前川はアントニン・レーモンドの設計事務所に在籍しながら自立した建築家としてのキャリアをスタートしました。
Ⅱ.近代建築家・前川國男 コンペに挑戦し続けた戦中期
東京帝室博物館競技設計(1931)前川國男応募案
前川國男の出発点となったのが、後に「東京文化会館」の敷地となった上野公園に計画された「東京帝室博物館コンペ」(1931)であった。この競技設計では応募要綱として「日本趣味を基調とする」デザインが求められているにも関わらず、前川は敢然と落選覚悟でコルビジェの元で学んだ近代建築のスタイルを素直な形とした案を提出する。大半の提出作が日本趣味を前提とする瓦屋根を架した、当時「帝冠様式」と呼ばれた意匠だった中、前川案は正面入口のピロティ空間にフラット屋根というコルビジェ仕込みの斬新な意匠であった。予想通り、前川案は保守派が体勢を占める審査員達に一蹴され落選するが、日本趣味に迎合しないそのプロテストぶりは当時のモダニストたちの喝采を浴び、近代建築家としてその生涯を象徴するデビューを果たすことになった。以後も前川は「近代建築の何たるかを明示する」という信條で積極的に競技設計に挑戦し続ける。「パリ万国博日本館」(1937 一等当選すれど実施は坂倉準三)、「日本万国博建国記念館」(1937 落選)、「大連市公会堂」(1938 一等)、「忠霊塔」(1939 落選)、「在盤谷(バンコック)日本文化会館」(1943 二等)。大戦中に応募した「在盤谷日本文化会館」では、モダニズムを前面に押し出していた前川が初めて日本の伝統を参照した案で勝負したが、「京都御所」をモデルとした復古的な意匠で記念性を高らかに表現した丹下健三案に敗れている。この案で前川はモニュメンタルな構えを避け、空間構成という近代建築が獲得した原理をベースに日本の伝統建築に見られるような内部と外部の空間が一体となって展開してゆくという全体的に統合された空間を実現しようとした。その思考によって得られた方法論は、戦後の近代建築へと繋がってゆくことになる。1935年の独立から敗戦の1945年までの10年、戦中という国家状況もあって前川にはコンペの挑戦と住宅やアパートなどの木造建築以外、自らの理念を投影させるような本格的な近代建築を実現させる機会に恵まれることはなく、雌伏の歳月を過ごした。
在盤谷(バンコク)日本文化会館競技設計(1943)2等 前川國男案

Ⅲ.戦後の再出発 縁ある上野の山でコルビジェと向かい合う
東京文化会館原案模型
戦後の再出発から数年が経過した1950年代に入ると、国内の建設需要も回復し始め、「日本相互銀行本店」(1952)を契機に前川はようやく本格的な近代建築を次々と手掛けていく。50年代の前川は「神奈川県立図書館・音楽堂・」(1954)、「福島教育会館」(1956)、「世田谷区民会」(1959)といったオーディトリアムを容れた公共建築を連作している。そしてオーディトリアム建築の典型として結実をみたのが、ほぼ同時期に設計した「京都会館」(1960)と「東京文化会館」(1961)である。東京開都500年記念事業における芸術文化振興の一環として、音楽堂の建設を企図した都から設計の特命をうけた前川は、向かい合うことになる「国立西洋美術館」との敷地境界にとらわれず、現在の約4倍の敷地を有するL字型配置の計画を提案する。それは、敷地と敷地を画然と分断してしまう役所の硬直した敷地主義に対するプロテストであり、敷地の所有権を解体することで公園と建築が相まって、ルーブルの庭のような居心地の良い都市的なスケールのオープンスペースを上野駅に向けて「国立西洋美術館」との間につくり出すというアーバンデザイン的なアプローチであった。結局、役所の強固な仕組みは突破することはできず、現在の敷地に窮屈に詰め込まれてしまうのだが、コルビジェに学んだウルバニズムを日本に置き換えて、より良い都市環境をつくるためにはどうしたらいいかを真摯に考える姿勢は、この音楽堂の空間の隅々まで徹底されている。
Ⅳ.「都市的なるもの」への希求
東京文化会館と国立西洋美術館
JR上野駅公園口を降りると、真正面に緑深い上野公園が拡がり、中に歩を進めると園路を挟んで、大小二つのコンクリート打ち放しの近代建築が向かい合っている光景に出くわします。右手に前庭が拡がりピロティの上に浮かんだ「国立西洋美術館」、左手はコンクリートの曲面大庇とそれを支える列柱が印象的な「東京文化会館」です。この二つの建築は近代建築の巨匠ル・コルビジェと前川國男という師弟が、ほぼ同時期に上野公園という同じロケーションで設計したものであり、前川は師の美術館において実施設計と現場監理を担っていました。前川はこの音楽堂の設計にあたり、向かい立つコルビジェの美術館との調和に配慮したとされており、それは軒高を揃え、前庭の目地割りと音楽堂ホワイエのサッシ割り付けを合わせたこと、また外壁のプレキャストパネルの割付とテクスチャーなどであるという。
東京文化会館全体配置図
四方から眺めた外観は、船の舳先のように反ったコンクリートの曲面軒庇が四周をグルリと廻り、その奥に大ホールを内包した巨大な六角形の筒状マッスがパワフルに立ち上がり大屋根から突き出ている姿は、どこか日本の城郭に漂う威厳を感じさせる。屋根から突き出た石片のプレキャスト版で覆われたマッスは天守閣を、東側に張り出した広いテラスの外周を縁取る浅く水を張った溝は城を取り囲む濠を彷彿とさせる。深く迫り出した軒下とそれを支えるコンクリート打ち放しの力強い列柱の空間が音楽堂に向かう観客を或いは上野公園を散策する人達を大らかに包んでいる。この音楽堂には正対する「国立西洋美術館」との調和のみならず、随所にコルビジェのボキャブラリーが散見される。大きく曲線を描く軒庇が水平に伸びて空を切り、階段室やエレべーター、大ホールを収めたシリンダーや角錐台形、六角垂体などのシンボリックな造形が広い屋上から突出して天空を突き刺す光景は、そのままインドのシャンディガール議事堂を思い起こさせます。
南東側外観                                 東隅入り口外観
東隅に大きく開放された軒下空間からエントランス・ロビーに入ると、彫刻家の流政之氏がデザインしたレリーフが壁の上方に水平に飾られた2層吹き抜けの明るいロビーの正面にガラス張りのレストランがブリッジ状に浮かんでいる。ロビーから大ホールのホワイエ側へ進んでいくと、左手に小ホールへ繋がる幅の広いスロープが観客を誘い、右手には開口部からテラスを縁取る傾斜した石壁の底に張られた水面に置かれた彫刻を鑑賞出来る仕掛けになっている。ここで左折してスロープをゆるゆる昇りながら、右側を眺めると斜めに立ち上がる大ホールの六面体の石壁を広々とした矩形のホワイエが囲み、スレンダーなコンクリート打ち放しの柱が林立し、透明なレストランがホワイエ空間に浮かぶように迫り出す光景が印象的です。
斜路から大ホールホワイエを見る
スロープで上階へ上がると、今度は程よいスケールの小ホールホワイエが優しく迎えてくれました。対角線上に隣り合う二つのホールの石壁と南側に繋がる石畳のテラスで囲まれたホワイエは、ロイヤルブルーの天井と床に敷き詰められた三角形のモザイクタイルの淡い色彩の対比から小宇宙的世界を醸し出し、観客に音楽を聴く前の華やぎと鑑賞後の興奮をクールダウンさせる空間に仕立てあげられているようです。国際会議場として想定された小ホールは、その音響の良さからピアノなどのミニコンサートで頻繁に利用されているという。正方形平面の隅角に置かれた舞台を中心に平土間式の客席が扇型に拡がるこじんまりとした空間に、彫刻家・流政之氏が手掛けた屏風を横にしたような舞台上の反射板と側壁を飾る彫刻が圧巻でした。積み木のような角垂体のプレキャストコンクリートが壁から突起し、垂直に食い違って連なっている壁面構成は力強くインパクトがありました。照明の光りが抑えられ、コンクリート肌のくすんだ色彩で統一されたインテリアから幻想的な雰囲気を醸しだす小ホールでは、モダンジャズのクールな音が似合いそうです。
小ホール・ホワイエ                          ホワイエから南側テラスを見る

小ホール舞台と側壁                             斜路からレストランを見る
小ホールホワイエからスロープを降りて、メインの大ホールへ向かうと息を呑むような広大なホワイエの森に取り囲まれます。マッスなホール外壁を覆う砕石仕上げのプレキャスト版や半階づつのレベル差で上がってゆくテラスと2階レストラン、公園の景色を取り込むように軒下の大きな開口部から入る自然光に満たされたホワイエは、上野の森が音楽堂内部に再現されたかのような屋外的開放感を覚えさせる。この屋外的な感覚は、ホールの客席に向かう左右の大階段を降りた時、ホール外壁とスロープの間に広がる三角形状の谷間に見られるような地形的な表現から生じているように思える。これは空間からインテリア的なスケール感を排除し、土木構造的なスケールとラフな外壁の仕上げがそのまま持ち込まれて、ホワイエ・テラス・レストラン・大階段・スロープという抽象的要素だけで空間の骨格が構成されていることで生じる雰囲気ではないだろうか。2,300席を収容する大ホール内に入ると、圧倒的なボリュームのオーディトリアム空間に新鮮な衝撃を受けました。大開口の舞台の前面に六角形平面の平土間の客席が拡がり、後ろ三方向の傾斜した壁には4層に及ぶ桟敷席が折重なるように迫り出し、蟹の甲羅を思わせる反射板がオーケストラピット上部を覆っている。特筆すべきは舞台両脇の袖壁で、彫刻家の向井良吉氏がデザインしたレリーフで装飾されたこの巨大な音響壁は、木板を雲形状に刳り貫き不規則に組み合わされたもので、その特異な形から好みが分かれるものの空間に強烈なインパクトを与えているのは間違いない。そそり立つ5階の桟敷席から舞台を見下ろすと、吸い込まれそうなボリューム感を体験し、この大ホールが本場のオペラ劇場を連想させるような演劇的空間であることを実感します。
大ホール・ホワイエ                         ホワイエからテラスへの大階段

大ホール客席から舞台を見る                               大ホール上部桟敷席
大ホールから再びホワイエに出ると、シリンダー型のエレベーターに乗って是非見たいと思っていた大屋根の上に足を踏み入れました。地上から見上げると捲れ上がっていた曲面大庇は、屋上に乗る低層部や大小ホール上部のマッスを優しく包んでいるように見えます。楽屋やリハーサル室、搬入口などを地下に、大中小会議室・音楽図書館などの小部屋の集合をまとめて大屋根に乗せることで、敷地の窮屈さをカバーするとともに建築全体の軒高を向かい側の「国立西洋美術館」に合わせて低く(地上9m)抑えることに成功している。それはこの音楽堂を訪れる観客や公園内を散策する人々に心理的な威圧感を与えないように配慮した結果でもあると思われます。小部屋群の低層部や天守閣の如く突き出た大小ホール上部の巨大なマッスの群が捲れ上がった軒で四周を枠取られて、地上9mの上空に人工的庭園をなしている光景は都市的で爽快な眺めでした。
屋上を囲む軒庇                          屋上に突出した六角形マッス

屋上庭園

※「東京文化会館」は向かい側に建つ「国立西洋美術館」が、コルビジェに師事した前川・坂倉・吉阪という三人の建築家の手で実施設計が行なわれていた時期(昭和32年5月~10月)に設計がスタートしている。前川は設計当初、都が定めた敷地境界を無視して二つのホールを大きくL型に配置し向かいの「国立西洋美術館」と上野駅の間に広く開かれたオープン・スペースを確保しようと試みた。それは、師のコルビジェが「国立西洋美術館」の基本計画で、上野公園の将来像を周辺の敷地を取り入れた形で示した総合文化センター案の精神を受け継ごうとしたためではないかと思える。前述したようにコルビジェの意思を継いだ前川の計画は役所の壁の前に実現しなかったのだが、窮屈な敷地の中で完成させた「東京文化会館」のホワイエ・ロビー・スロープ・レストラン・テラスなどが構成する骨太い空間から「都市的なるもの」を感じることが出来る。コルビジェから学んだウルバリズム(都市計画)を前川は、一つ一つの建築の中に都市的なものを内包させていくことや都市に対して建築をどう構えていくかを考えていくことで担っていこうとしたのではないだろうか。
参照文献 Reference
前川國男 賊軍の将/宮内嘉久著/晶文社発行/2005
戦時下日本の建築家/井上章一著/アート・キッシュ・ジャパン発行/1995
建築ライブラリー16 近代建築を記憶する/松隈洋著/建築思潮研究所編集/建築資料研究社発行/2005
近代建築Vol.15 No.6 1961年6月号/近代建築社発行
建築文化Vol.16 No.6 1961年6月号/彰国社発行
東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part1

東京文化会館 Tokyo Metropolitan Festival Hall 動画 Part2

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3 月 16 2009

国立西洋美術館 The National Museum of Western Art

敷地:東京都台東区上野公園
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竣工:昭和34年(1959)
設計者:ル・コルビジェ
Location:Ueno-koen,Taito-ku,Tokyo
Establishment:1959
Architect:Le Corbusier
感想:Impression
「上野の森に実現したコルビジェのムンダネウム」
Ⅰ.松方コレクションの美術館をル・コルビジェへ依頼
上野公園の敷地を視察するコルビジェ
東京の北の玄関口、JR上野駅の北側に緑豊かな上野恩賜公園が拡がっています。駅の公園側改札口から前面道路を渡って園内にアプローチすると、左右に規模の異なるマッシブなコンクリートの建築が来訪者を迎えてくれます。左手の大きな庇が特徴的な建築は「東京文化会館」という音楽堂で、右手のロダンの彫刻が置かれた石の前庭に、ピロティの列柱に支えられて正方形の石の塊が浮かんでいるように見えるのが「国立西洋美術館」です。公園内にあるこの美術館は、1959年4月に開館して以来、まもなく50周年を迎えようとしています。
国立西洋美術館が創設される経緯は、戦後間もない昭和26年(1951)、時の首相吉田茂が世に言う松方コレクション(印象派などの絵画約300点、彫刻60余点)の返還をフランス政府に切り出したことから始まると謂われています。日本とフランス、二国間の折衝の末、二年後の昭和28年(1953)にフランス政府から日本に戻すことが確約されたが、その際につけられた返還条件の一つが、美術館の建設でした。「松方コレクションは返還ではなくフランス文化財として日本に寄贈するので、コレクションを保管・展示するための美術館を用意せよ。」というフランス政府の主張で、美術館の名もフランス美術館と命名されていたと謂います。「文化の国」フランスの面目躍如といったところか。そこで文部省によって組織された「フランス美術館設置準備協議会」は、新美術館の敷地を上野に定め、また設計をフランス在住の近代建築の巨匠、ル・コルビジェに委託することが決定されます。当初、コルビジェは多忙を極めていることや、遠隔地の日本ということもあって、この設計依頼には消極的だったようです。しかし、日本側(外務省)の熱意ある要請を聞いているうちに「長年、思い描いてきた美術館構想を日本で実現出来る」と乗り気になってこの依頼を受諾し、契約成立後、日本に赴くことになりました。
時に1955年11月、ル・コルビジェは外務省の招待で、美術館の敷地調査と日本の伝統・文化に触れる目的で、初めて日本の土を踏む。当時、壮大な都市計画を手掛けていたインド・チャンディガールへ向かう途上のわずか8日間の滞日でしたが、コルビジェはこの間68才の高齢とは思えぬタフさで、日本の三人の弟子達(前川國男・坂倉準三・吉阪隆正)を旅の随行者として、東京での敷地調査、前川や坂倉、吉阪が設計した近代建築を訪問、更に京都や奈良を旅して寺院など日本の伝統建築を巡っている。
随行した一人の吉阪氏の日記によると、コルビジェは案内された京都や奈良の著名な伝統建築自体にはあまり関心を示さず、桂離宮の杉苔や卍型に腰掛が配置された卍亭(四つ腰掛)、東大寺中門のヒンジ付きの扉、大仏殿の柱・梁のプロポーション、正倉院のピロティの木肌、祇園から先斗町にかけての路地空間等など専らディテールばかり着目していたという。また、当時の東京の状況について、木造低層住宅の不可を説き、車と歩行者の混在など世界中のどの都市にもある「現代の混乱」が最も酷い形で現れていると嘆いて、都市計画の必要性を訴えたという。また自分の下で学んだ日本の三人の建築家、前川・坂倉・吉阪に向かって「ウルバニズム(都市計画)を担うことを覚悟しなさい」と叱咤したともいわれている。いかにも建築と同じように生涯、都市への提案を描き続けたコルビジェらしいエピソードである。こうして、8日間の慌しい日程をこなしながら、上野公園の敷地も5回にわたって視察して、日本からインド・チャンディガールへ旅立っていった。
Ⅱ.コルビジェが上野の森に構想した総合文化センター
コルビジェによる文化センター全体計画スケッチ          美術館2階平面図(螺旋状の動線を黄色で描写)

文化センター全体平面図
日本~インドの旅からパリに戻ったコルビジェは、1929年の「ムンダネウム(世界都市)計画」における世界博物館でそのコンセプトを考案して以来、多年にわたって幾つかのプロジェクトで繰り返し提案しながら実現を果たせずにいたコンセプト「無限成長美術館」を更に追求して、上野公園の敷地にあてはめて展開させていく。この「無限成長美術館」という形式は、美術館のプロトタイプで、特定の正面を持たず、ピロティから建物の中心部へ入り、そこから外側へ向かって螺旋を描く展示回廊が延び、収蔵すべき作品が増えると、回廊がその延長線上に外側へ増築されていくことで、展示スペースを無限に拡げていくことが可能になるというものである。コルビジェが「ムンダネウム計画」以来、手掛けた美術館のプロジェクトは10を超えるといわれているが、彼の生涯で実現させることが出来た美術館は、インドの「アーメダバード美術館」(1957)・「チャンディガール美術館」(1968)・日本の「国立西洋美術館」(1959)の三つに過ぎない。その何れも「無限成長美術館」のコンセプトをベースに応用されたものである。
ムンダネウム世界博物館スケッチ
約半年をかけた基本設計が終わり、1956年の7月、コルビジェから日本へ新美術館の基本設計図書が届く。その内容は美術館のみならず、付属的に臨時の展覧会のための展示場や演劇を探求する「不思議の箱」と呼ぶ劇場などが盛り込まれた総合的な計画で、これら一群が日本政府の求める文化センターであるとコルビジェは提案した。この大胆な総合計画案は、美術館だけの設計を依頼した筈の日本政府にはまったく想定外のことであった。美術館の完成後、コルビジェの弟子である建築家の坂倉準三が雑誌に寄稿した記事に依ると、この周囲の敷地を取り込んだ総合計画は、坂倉らが将来を考慮して基本計画に入れて貰うように依頼したとされている。その意図は、将来の上野公園の計画に、コルビジェが考えた総合計画の示唆が取り入れられて、無計画になりがちな日本の公園計画に正しい方向性や理想を与えたいためであったという。しかし結局、この総合計画案は当時の厳しい予算の前に実現の可能性があろう筈もなく、それどころか美術館単体でみても、設定された総坪数(約1000坪)を遥かに超える(300坪)もので、到底実現不可能なため、美術館の両翼(図書館・小講堂・貴賓室)を削り、また仕上げの質も落として、将来増築し得る余地を配置計画の上に残して、最小ぎりぎりの美術館に縮小を余儀なくされてしまう。
文化センター平面図・展示館スケッチ
1957年3月、基本設計の変更(美術館本館のみに限定した)を了解したコルビジェから実施設計図面が届くが、ここで再び関係者の想定外なことが起きる。実施設計図とは名ばかりのもので、構造図や設備図が全く含まない基本設計に毛が生えた程度の代物であった。添えられたコルビジェの書簡からは「自分が美術館の決定的な方針を示したこれらの図面は、実行のための全ての寸法と処理を備えており、信頼する日本の建築家たちが貴国の慣例的な方法で実行することを確信しています」と記され、実施設計がコルビジェの仕事に慣れている日本の弟子達に丸投げ状態だった。コルビジェは、自分の原案の文化センターが日本側に採用されず、また美術館が縮小されたことでモチベーションを喪ってしまったのか・・・再び日本を訪れることはなく、完成した美術館を眼にすることもないまま、1965年に世を去った。結局、師の尻拭いをする形で、前川・坂倉・吉阪ら日本の建築家が分担して実施設計を仕上げることになるが、設計料の予算はコルビジェに使いきってしまい(約1000万円)、ほとんど労働奉仕であったという。このような紆余曲折の末、三人の献身的な協力で翌1958年には実施設計が完了し、3月に着工した美術館は予定通り1959年3月に竣工し、初来日から3年半を経てコルビジェが考案した美術館のプロトタイプが日本の地に実現した。そして6月13日に開館、松方コレクションの一般公開を迎える。
文化センター断面図・全体模型鳥瞰                 文化センター断面図・19世紀ホールスケッチ

Ⅲ.卍型美術館
前庭と南側外観
1959年6月の開館からまもなく50周年を迎えようとしている「国立西洋美術館」だが、現在の姿は開館時から大きく改変されている。まず目に付くのがかつて彫刻作品も置かれていたピロティの軒下空間の半分が増築のため建物内部に組み込まれて、広いピロティを縫ってメインホールにアクセスするまでの高揚感が減じられてしまったことである。また、「考える人」や「カレーの市民」などロダンの名作が展示されている前庭に囲いが設けられて、美術館建築と彫刻が調和した屋外空間の眺望や開放感が損なわれている。警備など管理面の視点から見ると致し方がない処置とも思うが、開館当初のスクエアーに拡がる抽象的な前庭が公園の緑と一体化した光景が印象的だっただけに残念です。
開館当時のピロティ
石畳の前庭から狭くなったピロティを潜って、玄関ホールに入ると直ぐ右手にコルビジェが19世紀ホールと名づけた上階の展示回廊へ繋がる導入路があります。コルビジェは、この空間に執着し、自らデザインした写真によるモンタージュを壁画として掲げる想定だった。それは、コルビジェが寄稿した建築雑誌によると「19世紀西欧の栄光を讃えたもの」であり、実際、写真壁画のスケッチも描いており、この原案をもって美術館竣工後に現場で指示するべく来日する予定であったようだ。しかし、19世紀ホールの空間に対するコルビジェの執着も、文部省側に予算不足を盾に拒否され、頓挫してしまった。中に入ると、3層吹き抜けの垂直的な空間の中央にコンクリート打ち放しのスレンダーな円柱が天を目指して立ち上がっている光景が眼に入ります。円柱は頂点で十字に架かった梁と交差して止まり、ぽっかり穿たれた三角錐のハイサイドライトから柔らかな自然光が降り注ぎ、彫刻群を仄かに照らしている。彫刻を眺めながら、奥の壁沿いに配されたコルビジェ的なランプ(スロープ)をゆるゆる昇っていくと、ホールの吹き抜け空間が変化する眺めを楽しみながら上階の展示回廊へ自然と導かれます。コルビジェが好んで多用する吹き抜けの垂直空間にスロープを貫入して演出する建築的プロムナードが、シークエンスの変化を観客に体験させ、上階への期待感を高めている。
19世紀ホール                                三角の天窓から光が漏れる

照明ギャラリー                                卍型に配置されたハイサイドライト

緩やかなスロープを昇り切ると、張り出したバルコニーから19世紀ホールを眺め降ろす視点に変化し、異なったシークエンスを観客に楽しませる仕掛けがちりばめられている。スロープで結ばれた正方形の2階は19世紀ホールの吹き抜けを中心に「無限成長美術館」のコンセプトを裏付けるように、螺旋状の展示回廊が四周に配置されており、観客は途切れることなく無限に繋がる動線を回遊しながら作品を鑑賞していきます。中央のスロープを含め内部空間をこのように螺旋に運動する構成は、コルビジェのサヴォワ邸(1931)と酷似している。「無限成長美術館」のアイディアが考案されたのが 1929年の「ムンダネウム計画」で、サヴォワ邸の設計プロセスと時代が重なっており、30年を隔てて同質な空間が実現しているのが面白い。だが「無限成長美術館」のコンセプトにある螺旋状空間を外縁に拡げてゆく増築手法については、この美術館の他インドにおいても敷地条件や実現性の面などから構想通りに実現したものはなく、コルビジェもあくまで空間構成のアイディアに留まるものと考えていたのではないだろうか。2層分の高さを持つ回廊の採光は、天井から吊られたBOX型の照明ギャラリーのハイサイドライトから自然光と補助的な蛍光灯の光りが入り、回廊に飾られた作品に光りをあてるよう設計されていた。現在はこの部分も、自然光が絵画作品の保護上問題ありという理由で改造されており、ハイサイドライトは塞がれ、BOXの中に蛍光灯がぎっしり並ぶ人工照明だけの環境になっている。綺麗に打ち放された円柱が軽やかに群立する展示回廊を回遊し、空間体験をして感じることは、この空間構成が螺旋形というよりも卍型により近いということであった。それは、展示回廊の採光や方向性を決めている照明ギャラリーが屋上から俯瞰すると、明瞭に卍型に配置されていることから理解できる。建築家の磯崎氏が著書(ル・コルビジェとはだれか)で解釈されていたように、コルビジェが日本に滞在した時に訪れスケッチをした桂離宮・卍亭の四つ腰掛のプランにインスパイアーされ、それに「無限成長美術館」のコンセプトを重ねていったのではないだろうか。展示回廊を回遊する鑑賞を終え、再び石畳の前庭へ出る。足許に視線を落とすと、美術館の内部空間やファサードを規定しているモデュロール(コルビジェが考案した寸法体系)で割りつけられた黒御影石のボーダー目地が、園内通路を挟んだ向かい側に立つ音楽堂に向かって真っ直ぐ庭を貫いている。音楽堂は、美術館の実施設計を分担した前川國男が設計したもので、師であるコルビジェの西洋美術館との関係性を考慮してつくられたという。
美術館 平面図・断面図                             展示室・照明ギャラリー断面図

Ⅳ.コルビジェが日本に遺した美術館が世界遺産へ
21世紀初頭の現在、20世紀に遺された近代建築の価値が認識され、所謂世界遺産に推薦、登録される動きが活発化している。リートフェルトのシュレーダー邸(2000)やミースのチューゲントハット邸(2001)、ルイス・バラガンの住宅(2004)等。こうした潮流に乗っかるように、昨年2月、フランス政府の肝入りで、ル・コルビジェが世界6ヶ国(ベルギー・フランス・ドイツ・スイス・アルゼンチン・日本)に遺した22の建築を一括してユネスコの世界遺産に推薦する動きがあった。近代建築思想の普遍化にミースと並んで絶大な貢献をしたコルビジェだけに、世界遺産登録は満を持してという感がある。日本に唯一あるコルビジェの作品が22件に選ばれたのは、コルビジェが繰り返し提案した「無限成長美術館」のプロトタイプが実現したということもあるのだろう。順調に審査が通れば今年の夏にはユネスコの世界遺産のリストに登録される筈だが、これを契機に国内に遺された20世紀の優れた近代建築に対する社会的認識や価値観が好転することを願わずにはいられない。
参照文献 Reference
ル・コルビジェとはだれか/磯崎新著/王国社発行/2000
芸術新潮2009年2月号 特集 開館50周年 なるか、世界遺産 国立西洋美術館のすべて/新潮社発行
ユリイカ 臨時増刊 総特集ル・コルビジェ/青土社発行/1988.12.vol.20-15
ユリイカ 特集*ル・コルビジェ/青土社発行/2007.5.vol39-4
新建築 1959年7月号/新建築社発行

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11 月 22 2008

東京カテドラル聖マリア大聖堂 St.Mary’s Cathedral,Tokyo

敷地:東京都文京区関口3-16-15
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竣工:昭和39年(1964年)
設計者:丹下健三+都市建築研究所
DOCOMOMO Japan 079
Location:3-16-15 Sekiguchi,Bunkyo-ku,Tokyo
Establishment:1964
Architect:Kenzo Tange,City Construction and Planning Research Center
感想:Impression
「形態と構造が美しく調和した宗教建築の傑作」
” Masterpiece at the religion architecture which the form and the structure harmonized with beautifully “
再建された聖堂  The reconstructed temple
この聖堂を訪れた時は、秋晴れの青空が高く広がった好日でした。JR目白駅から目白通りを西へ向かい日本女子大を過ぎると、間もなく向かい側の右手に著名な椿山荘、左手の奥に銀色に輝き、屏風を広げたような特異な形態の建築が見えてくる。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」は40余年前に竣工したとは思えない斬新な造形で、古臭さを微塵も感じさせない存在感がありました。かつてこの地には、1899年に建てられた聖母聖堂があり、それが1920年に東京カテドラルとなり、東京大司教区の活動の中心となっていたが、45年の東京大空襲で焼失してしまった。戦後しばらくは日本の経済的事情により再建されない状態が続いたが、国内カトリック信者の熱烈な要請とドイツ・ケルン大司教区の援助により、復興計画が実現の運びとなった。そして1961年に指名競技設計が行われた結果、丹下健三氏の大胆な造形案が一等当選を果たし、丹下氏の設計により64年12月に東京カテドラル聖マリア大聖堂が落成しました。
When visiting this temple, it was to do the good day being the blue sky of the clear weather of autumn was spread high where. When passing [...]

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11 月 09 2008

パレスサイド・ビル Palaceside Building

敷地:東京都千代田区一ツ橋
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竣工:昭和41年(1966年)
設計者:日建設計(林昌二)
DOCOMOMO Japan 020
Location:Hitotsubashi,Chiyoda-ku,Tokyo
Establishment:1966
Architect:Nikken Sekkei(Shoji Hayashi)
感想:Impression

「皇居の御濠端に、戦後日本の60年代を象徴する近代建築が聳える」
パレスサイド・ビルという名称が現しているように、首都東京の象徴である皇居の御濠端にこのオフィスビルは建っている。竣工は日本が高度経済成長をひた走っていた1960年代(1966)で、既に40年以上の歳月が流れているが、良好なメンテナンスや空調設備類の更新・増強に支えられて、現役のオフィスビルとして老朽化することなく機能している。東西に細長い不整形な敷地に、全長200mに及ぶ長方形の二棟のビルが雁行して並び、その両端部に白亜の円筒コアが取り付いた外観は、周囲に異彩を放っています。都心にありながら、南側の皇居の平川門や東の大手町、西の竹橋から濠越しに全景が望める素晴らしいロケーションもこのビルの魅力の一つになっている。
外観から受ける印象は長大なファサードでありながら、単調さに陥らない豊かな表情を湛えていることに感心します。60年代当時では最大サイズのガラスのカーテンウオールに日照を調節するアルミ鋳物のルーバーと外部に露出させた雨樋といった実用的な各部品が意匠的に水平、垂直のラインを構成し、ファサードの表情に味わいある陰影を作り出すことに成功している。また、東西端部に取り付く円筒コアの白いプレキャストコンクリートのクールな表情や妻側のシャフトに空高く積まれた茶褐色の煉瓦が醸し出す重厚感が対比をなして、このビルの外観に多彩な表情を与えているようです。尚、竣工から40年余年が経過しているだけに、社会環境の変化から改修を余儀なくされた部分があります。それは皇居御濠側の前面道路が拡幅され、ビルと道路間にあった幅12mの空地がなくなり、正面玄関前の車寄せ上部にあったユニークな庇が撤去されてしまったことで。竣工時の写真では、庇を上から見ると日の丸を模した白地に赤丸が塗装されています。毎日新聞社と並ぶオーナーでアメリカの著名企業であるリーダーズ・ダイジェスト社が入居するビルの庇に、日本の国旗の日の丸をデザインするという設計者の大胆不適な意匠心に感銘を受けました。現在も小さい庇はありますが、そのデザインは凡庸なものであり、環境の変化からやむを得ないとはいえ、オリジナルの魅力が損なわれてしまったのは残念です。
内部に目を向けると、1階と地下1階にまたがるコンコースには当初から相当入れ替わったようだが現在も多くのテナント賑わっている。中央の吹きぬけ空間を上下に繋ぐ階段はステンレスを大胆に使った特異なデザインから「夢の階段」と呼ばれ、60年代当時はステンレスが建築材料として先端をゆくものであったので、世界から注目を集めたという。空中に浮かんだ雲のような造形をイメージして試行錯誤を重ねた末、吊り橋の構造を参考に製作された。ステンレス線で編んだ両サイドのネット状のフレームからアルミ鋳物の段板を吊る方式でディテールが考えられている。段板に体重かけると微妙にしなるが、しなることでフレームのステンレス製ネットが引き締まり、バネのような弾力が段板を踏み心地の良いものにしているようで、繊細に表現された構造が強度を生んでいるところが面白い。中央廊下の突き当たりには外観で際立っていた東西の円筒形コアの内部、エレベーターホール・トイレ・階段などの諸機能が円弧を描いて納まっています。各階においては、長い直線の幅広い廊下の両端部に大きなガラスが入り、視線が遮られることなく外部に抜けながら、円形のエレベーターホールに吸い込まれるように接続している巧みな設計がオフィスという職場環境に住宅のような心地良さを感じさせている。心地良さという細かい配慮はコア周りのトイレや階段にも見られる。円弧という形を利用してエレベーターホールの外側にトイレ配置することで、扉をつけずに視線を遮りながら、円筒の外壁に刻まれたスリット状の開口部からトイレというプライベートスペースにも自然光を入れ気持ちよく用を足せるように考えられている。また階段も円弧に沿って僅かに角度をふって設計され、昇降していても柔らかく包まれるような雰囲気がある。外壁に面した踊り場では少しスペースがとられてトイレ同様、スリットから柔らかな自然光が降り注ぐ。機能が優先されるコア周りのトイレや階段に心地良さが配慮されている辺りに、40年以上前からオフィスビルを生活環境と考えていた設計者の先見性が感じられるのである。
見学の終点は、皇居の豊かな自然環境が一望出来る広大な屋上です。60年代当時では群を抜いた巨体を誇るこのビルの面積がそっくりそのまま地上36m上空に出現している様子は圧巻です。竣工時のインパクトはかなりなものであったと想像出来る程、セキュリティが厳しくなった現在では見られないような巨大な屋上が広場として開放されている。南側に近づけば、眼下に畏れ多くも皇居を見下ろす状態になりますが素晴らしい眺めです。都心のど真ん中に延々と広がる緑の樹海や水を湛えた濠、古びた石垣などを眺めていると、かつてここが江戸城或いは千代田城と呼ばれていた140年前の往時はいかばかりかと想像を逞しくするばかりです。屋上には、通常露出している空調設備機器が雁行した二棟間の中央廊下に相当する隙間に床レベルを下げて納められている為、視界が遮られることなく広々とした景観を楽しめます。都市的な景観を背景に屋上を歩いていると、まるで大形客船の甲板にいるような気分の良さを感じる。それは、このビルの屋上が単なる屋根ではなく人工の土地として庭園化され、ビルで働く人たちや見学者が気持ちよく憩える広場となるように設計されているからでしょう。
パレスサイド・ビルが建つ以前、この皇居の御濠端には日本がまだ連合国の占領下にあった1950年代初め(1951)、リーダーズ・ダイジェスト社の東京支社が建てられていました。建築家の*アントニン・レーモンドが設計した社屋はこの皇居を望む広い敷地に、パビリオンと見紛う明るく透明な空間をもった瀟洒な二層の建築に、イサム・ノグチがデザインした庭園や池、屋外彫刻が付属した名建築でした。その名建築をオーナーのリーダーズ・ダイジェスト社の企画とはいえ、完成後10年余りで取り壊して新しいオフィスビルを建てるということに設計者は相当なプレッシャーを感じていたという。同じ敷地に在った戦後日本の建築遺産の建て替えと向き合い、智恵と労力を注ぎ込んで自分達の時代の新しい建築をつくりだした。それから40余年の歳月が流れた今、このオフィスビルは、過去の記憶を継承した現代の建築遺産となっており、次の時代にも価値を放ち続けていくことでしょう。

*アントニン・レーモンド(1888-1976):1919年、「帝国ホテル」建設のため建築家
フランク・ロイド・ライトと伴にアメリカから来日し、そのまま日本に留まり、東京で建築家として活動するようになった。戦前(1919-1937)、戦後(1948-1973)の二つの時代の日本に多くの作品を残し、日本の近代建築の発展に大きな貢献を果た
しました。

” The modern architecture which symbolizes Japan’s the 60s after the war at the end of the moat at the imperial palace towers “.
This office building is built at the end of the moat at the imperial palace which is a symbol in metropolitan Tokyo as the name, the palace side [...]

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10 月 16 2008

神奈川県立近代美術館 Museum of Modern Art,Kamakura

敷地:神奈川県鎌倉市雪ノ下
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竣工:昭和26年(1951年)
設計者:坂倉準三
DOCOMOMO Japan 010
Location:Yukinoshita,Kamakura City,Kanagawa Prefecture
Establishment:1951
Architect:Junzo Sakakura
感想:Impression
「鎌倉、鶴岡八幡宮の森と調和した戦後日本の小さな近代建築」

鎌倉時代の遺構、鶴岡八幡宮境内にある平家池と呼ばれる池の汀に、周囲の風景とは異質な白い直方体の箱が軽快に浮かんでいます。西に廻って正門から中に 入ると神社の参道を模した一直線の石畳のアプローチが敷かれ、その正面に二層の小規模な美術館が堂々とした姿を見せている。
中庭を取り囲むロの字型の平面でスレンダーな鉄骨柱と大谷石の壁からなる基壇部がアスベストボードとアルミ金具で外装された展示の主要部分が納まる2階部分を支える構成になっています。正面の幅広い大階段を上った2階 に中庭を取り巻いて螺旋形に配置された各展示室があり、時計周りに巡って鑑賞しながら、南側のテラスに出て中庭を見下ろすと、中心にイサム・ノグチが製作 した彫刻が置かれ、眼を楽しませてくれます。地上階に繋がる階段を降りると、軒天井が大きく掛けだされ、蓮に覆われた池に迫り出す半屋外のテラスが出る。 南の眩しい陽光が水面に反射し、広い軒天井に池の揺れる波紋が映しだされる光景は幻想的で、ここに佇んで眺めていると時の流れを忘れさせてくれるほど魅力的な空間です。2階 の螺旋形の展示スペースを巡って、四角い中庭を望みながら、階段を降りると、池に面した開放的なテラスに導かれるという流れるような展開に動線の巧みさを 感じました。現代の大規模な美術館のように大空間があるのではなく小さな部屋が中庭を囲んで連続していて、全体を経巡るという感覚があります。全体構成は 設計者の坂倉準三が師事したル・コルビジェの「無限発展の美術館」というコンセプトに拠っているという。
終戦間もない頃に本館が完成してから50年以上の歳月が流れた今日では、搬送のエレベーター設備がないなど美術館としては機能的な欠陥を抱えている。しかし鶴岡八幡宮の森と白い箱の近代建築が対比的に共存し、歴史と近代が文化的に深く調和している風景は、美術館が大規模化していく傾向の昨今、地域の美術館の在り方を問う貴重な戦後日本の社会的資産であると思われます。

”The modern architecture that Japan is small after the war which was harmonized with the forest in Kamakura, Tsuruoka-hachimangu”
The heterogeneous white box of the rectangular parallelepiped occurs to the beachat the pond which is called the Heike pond which is in the [...]

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9 月 28 2008

自由学園南澤キャンパス Jiyu-Gakuen Minamisawa Campus

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敷地:東京都東久留米市学園町

竣工:昭和10年(1935年)
Location:Gakuencho,Higashikurume City,Tokyo
Establishment:1935
感想 Impression
4月20日、自由学園南澤キャンパスを見学してきました。フランク・ロイド・ライトに師事し、旧帝国ホテルの設計工事監理に従事した遠藤新氏の設計で、1929年に初等部、1934年に女子部そして1935年に男子部の順に各校舎が竣工し今も尚、現役で使用されている初等部から高等部まで一貫教育の私立学校です。以下にその印象を纏めましたので、ご一読戴ければ幸いです。
東久留米市南澤の緑豊かな敷地に広がるキャンパスの正門を入って直ぐ左側にあるクラブハウスに集合してから見学は始まりました。各校舎は分散して配置され、まず最も古い初等部の講堂及び教室棟の外観だけを見学しました。簡素な素材で意匠された端正な外観が好ましく、中庭を挟んで講堂から渡り廊下、教室が左右対称に有機的につながっている平面からは師のフランク・ロイド・ライトの影響が感じられます。
初等部の渡り廊下を通り抜けて、緩やかに北に向かって下っていくと突然、視界が開けて広々とした緑の芝生が眼に飛び込んできました。南側に広大な芝生の庭(運動場)を抱えた女子部の校舎が土堤の丘から一望に見渡せる爽快な景観です。女子部の校舎も初等部と同じように、中庭を挟むように北側奥の食堂を中心に、その両翼は池を挟んで教室を向かい合わせに並べ、食堂から伸びる廻廊でそれらを繋いでいます。南に下った地形に合わせて低く置かれた体操館によって、ぐるりと緩やかに囲まれた芝の中庭の小さな広場のようなスケール感が心地良く、美しいハーモニーを奏でるような全体構成が秀逸です。女子部の見学では、講堂と食堂の内部を見ることが出来ましたが、西側に一段高く構えられた講堂は生憎、外部が改修中でした。遠藤氏には講堂に対する独自の考えがあり、自ら魚料理になぞらえて「三枚おろし」と呼んだ構造と断面上の工夫を施して数々の講堂の設計をしていたという。魚を三枚におろすように、建物を縦に割いて中身の中央と脇身の左右両側に3分割する。中央と左右の間の魚の中骨にあたる部分に長手の組梁を入れ、これに屋根を架けることで、小屋組が小さくなり、中央部分の天井は高くなる。両側の脇身部分は葺きおろして軒高を低く抑えることで、建物全体の高さが低くなって経済的になり、断面も美しく引き締まった姿になるなどのメリットを挙げている。この女子部の講堂でもこの構造方式がとられ、三分割された中央部分の天井は高く、両サイド部分の天井は低く軒高が抑えられ、内部空間にメリハリをつけ落ち着いた雰囲気を生み出しているようです。整然とした全体構成の中、西側の高い地盤に位置する講堂の高さが抑えられ、低い地盤に建つ平屋の食堂棟や教室、体操館のボリュームと違和感なく調和している姿が好ましい。食堂棟は女子部の中心施設としての象徴性が、切妻屋根と列柱、縦長の開口で構成された相称的な立面で表現され、ライトが手掛けた自由学園明日館の意匠を踏襲しながら更に近代主義の美学で味付けをしたような印象を持ちました。
敷地の北側奥にある女子部を巡ってから、再び広い芝生のグラウンドを横切って南下すると、一番おそくに建てられた男子部校舎に辿り着きます。初等部・女子部と共通した中庭を囲んだ配置で、中央東側奥の体育館の両サイドに片流れ屋根の教室が直線的に並ぶ構成です。正面体育館の立面も女子部食堂棟と同様、列柱と縦長の開口のパターンでデザインされていますが、フラットな屋根と両翼に伸びる廻廊の大きな壁面とアーチ型開口の存在によって、全体が男性的に力強く纏められています。
見学が終わり正門を出ると、今観たキャンパスの風景が再び頭に浮かびました。70年以上の長い歳月が経過した学園の大らかで人間的な環境が良好に維持され、今も現役として生徒達をはぐくんでいることは、建築が社会資産しての使命を全うしている理想的な姿ではないでしょうか。
On April 20th, it visited Jiyu Gakuen Minamisawa campus. By the design of Arata Endou to have done a teacher thing to Frank Lloyd Wright and to have engaged in old Imperial Hotel’s design supervision of construction work, a beginning class has been completed in 1929 and and then, each schoolhouse has [...]

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