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	<title>日本建築の美　Aesthetics in Nippon Architecture　</title>
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	<description>建築における「日本的なもの」　It places an architecture " The Ｎｉｐｐｏｎ one "</description>
	<lastBuildDate>Fri, 12 Feb 2010 09:41:27 +0000</lastBuildDate>
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		<title>帝都の表玄関　三菱が原に聳え立った東京中央停車場</title>
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今、東京駅丸の内駅舎は、2007年から開始された保存・復原工事の真っ最中です。大正3年（1914）12月の竣工・開業以来、永く親しまれてきた赤レンガの外装などを保存し、昭和20年5月の東京大空襲の戦禍で焼失してしまった南北のドーム屋根や3階部分を新に復原し、明治国家の建築家辰野金吾が設計した創建時の壮麗な姿に戻して、2012年春、丸の内に帰還させようと着々と工事が進捗しています。想えば、1950年代から80年代にかけて幾度も当時の国鉄から東京駅の建て替え開発計画が持ち上がり、その度に駅舎の保存・解体論争が巻き起こり揺れ動いてきた。しかし、21世紀初頭の現在、既に保存・復原に至るまでの過去が忘却され始めているように感じられてならない。ここでは、帝都の表玄関且つモニュメントとして東京駅が東京という都市と深く関わってきた歴史を俯瞰しながら、世紀を跨いで未来へ遺すべき建築であったことを確認していきたいと思う。
Ⅰ.開業前夜　「三菱が原」から「一丁倫敦」ヘ
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　丸の内略図　文久元年（1865)・明治20年（1887）・明治44年（1911）
現在の東京駅が建っている場所は、宮城ことかつての江戸城の外郭にあたり、丸の内の「丸」は城郭内部を示す言葉であったと謂われている。広壮な大名屋敷が立ち並んでいた丸の内一帯は、明治期に入ると、陸軍の兵営や練兵場、官庁舎などに転用されるようになった。明治20年（1887）頃の地図を見ると、丸の内のほとんどが陸軍の軍用地で占められ、後年、東京駅が建つことになる場所には裁判所や司法省、警視庁などが建ち並んでいる。明治21年(1888)東京府が東京市区改正計画を布告、その一環として丸の内一帯を市街地に指定し中央停車場を設けることが立案された。この計画により陸軍兵営施設は移転することになるが、財政が窮乏していた政府は移転費用を調達するため、三菱社の二代目岩崎弥之助を呼んで買収を依頼。そして明治23年(1890)、約10万坪の広大な丸の内を一括150万円で半ば強制的に三菱に払い下げた。

兵営が引き払った後、三菱はここに欧米的なビジネスセンターを建設する計画を立てたが、木造建築を禁止するなど厳しい建築条件を設けたため開発は大幅に遅れ、兵営がなくなった後しばらく荒涼とした野原が広がり、物騒な事件も起きて人影も絶えた状態が続いたため、「三菱が原」と通称されるようになったと謂う。オフィス街として三菱がモデルとしたのが、英ロンドンの金融街ロンバート・ストリートでした。三菱は街づくりにあたって、工部大学校（東京大学工学部の前身）の教官だったジョサイア・コンドル（1852~1920）を顧問に迎え、その教え子の曽禰達蔵(1853~1937)を海軍省営繕から引き抜いて、丸の内ビジネス街計画を推進する。曽禰達蔵は中央停車場を手掛けた辰野金吾とは同郷(唐津)で工部大学校の同窓あり友人であった。コンドル、曽禰の師弟設計チームで、明治27年(1893)赤煉瓦造三階建の三菱一号館(日本最初のオフィスビル)が完成したのを皮切りに、明治44年(1911)までに渡って、宮城へ向かう馬場門先通りの両側に赤煉瓦の外壁を基調としたルネサンス様式のオフィスビルが整然と並び、周辺道路は舗装され街路樹やガス灯が置かれて、「一丁倫敦」と呼ばれる英国風の均質な街並みが形作られた。一丁とは一町の略字で、長さ109mの間にロンドンの金融街が出現したような光景であったと謂う。このように三菱の尽力で丸の内の一画に壮麗なビジネス街できたものの、馬場先門通りを挟んだ「一丁倫敦」を一歩外れると、依然として荒野の三菱が原が残っていた。場末にすぎない丸の内が、帝都のビジネスセンターとしての地位を確立するには、中央停車場の開業を待たねばならなかったのである。
明治末年頃の丸の内「一丁倫敦」　馬場先門通りを挟んで右側が三菱一号館（明治27年竣工）


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		<title>建築家　今井兼次の世界Ⅲ　The World of Kenji IMAI Ⅲ</title>
		<description>ー祈りの造形ー
2009.12.2~12.23  多摩美術大学美術館
今井兼次（1895~1987)                                                ...</description>
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		<title>無鄰菴　Murin-an,The Yamagata Villa</title>
		<description>
敷地：京都市左京区南禅寺草川町
種類：別荘
竣功：明治３２年（1899）
Location:Kusakawa-cho,Nanzenji,Sakyo-ku,Kyoto Prefecture
Kind:Villa
Establishment:1899
「植治と権力者の庭　近代庭園の先駆け」
Ⅰ.造園王　七代目小川治兵衛（植治）
七代目小川治兵衛（1860~1933）
「無鄰庵」は、明治の元勲山県有朋(1838~1922)が南禅寺脇に造営した別荘であるが、「無鄰庵」という名の別荘を山県は生涯に三度造営している。最初が維新前の慶応3年（1867）、長州（山口県）の下関吉田の清水山山麓に建てた草庵で、隣家のない閑静なところであったことから名づけられたという。二度目が明治24年（1871）、京都木屋町ニ条の旧角倉邸跡を別邸としたもの。しかし、ここが「無鄰庵」という名に相応しからぬ繁華な立地であったことから、山県はより閑静な立地を求めて、もとは南禅寺境内だった現在地に謂わば第三の「無鄰庵」を造営しました。敷地の大半を占め、この別荘を風光明媚なものにならしめている庭園を山県の構想をもとに作庭したのが、江戸時代から続く植木屋の七代目小川治兵衛（1860~1933 屋号は植治、以下植治と称す）でした。植治は明治10年（1877）、1７歳で小川家の婿養子となるや二年後には当主の死去から七代目を襲名するが、３０代までは法然院などの寺の庭や茶庭、町家の坪庭などを手入れする普通の植木屋であったという。明治27年（1894）の山県との出会いが植治にとって大きな転機となる。既に東京で「椿山荘」（明治11年 1878）、大磯では「小淘庵」（明治20年 1887）を自ら指図し造営していた山県は庭への造詣深く、この時も植治へ造園を任せるにあたって次の三つの注文をしている。
①芝生の明るい空間をつくること
②今まで脇役だった樹木（樅・檜・杉）をたくさん使うこと
③琵琶湖疏水の水を引き入れて作庭すること

日本の国政を司る山県は、近代化を驀進する明治国家の精神を現わすような開放的で明るい庭園にしようと意気込んでいたようだ。このような山県の意図を理解した植治は、いずれの注文も初めての経験だったが、琵琶湖疏水の水を使って造園することに大きな遣り甲斐と喜びを感じたという。京都の近代化事業であった琵琶湖疎水施設は明治18年(1885)から5年が費やされ、明治23年(1890)に竣功している。この折、天皇・皇后をお迎えして竣功式を執り行ったのが当時の総理大臣山県有朋だった。無隣庵という私邸の庭に疎水の水を導入する試みは、山県の構想と植治の手によって実現した最初の例であり、この無隣庵の作庭で、植治はその造園スタイルの基礎を確立していく。以後、植治は平安神宮の御神苑・円山公園・清風荘・対龍山荘・碧雲荘・洛翠庭園などで琵琶湖疏水の水を使った庭をデザインし、南禅寺界隈を主舞台とした作庭活動によって、一介の植木屋から立地選択から敷地の全体計画までトータルに庭づくりに関わる造園王として名を馳せてゆくことになる。さて、植治を登用した山県有朋という人物像や庭好きぶりは、どのようなものだったのだろうか。
平安神宮中神苑　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　対龍山荘　　　　　　　　　　　　　　　 洛翠庭園

Ⅱ.権力者　山県有朋の庭道楽
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　山県有朋（1838~1922）
明治の元勲山県有朋の出自は低く、足軽以下の身分の中間の出である。平民宰相といわれた原敬（盛岡藩上士の家柄）は、元老でありながら異常なまでに権力に執着する山県のことを「あれは足軽だから」と蔑んだという。また、立原正秋著「日本の庭」（昭和52年新潮社）によると、山県が内閣総理大臣だった明治31年~34年（1898~1891）にかけて、原敬日記に汚職を暴露されていることが書かれている。「山県清廉潔白なるが如く装ふも、かくの如き秘事あり、驚くべし」と・・秘事とは山県が内閣の増税案に反対している議員を買収する費用として明治帝から出処した金（持ち株の配当金） 計98万円（現在に換算すると100億円程）の内、かなりの額を自分の財産にしてしまったという。山県を権力追及者として嫌っている著者の立原は、無隣庵などの別荘を造営する金をこうして捻出したと推測している。そう疑われても仕方がないほど、山県には金にまつわる疑惑が多い。明治初頭にも、新政府の陸軍卿として大掛かりな汚職疑惑（山城屋和助事件）に絡み、辞職を余儀なくされている。
椿山荘（明治33年1900）　　　　　　　　　　　　　　　　　小田原古希庵
生涯、権力に執心した山県だが、一方では和歌や書や茶をたしなみ、庭好きとしても知られる風雅の人でもあった。山県の普請、庭道楽は本格的で、自ら想を練り、世に名高い山県三名園　椿山荘（東京）・無鄰庵（京都）・古希庵（小田原）を造営するほどの入れ込みようであった。彼の道楽は、これらにとどまらず栃木県那須に農場をまた東京小石川には無鄰庵の如き流れと池がある新々亭という小さな別邸などをもつ。無鄰庵をつくり始めた明治27年（1894）の七月は日清戦争が勃発、陸軍大将であった山県は軍司令官として出征し陣頭指揮をふるった。緊張感たかまる時局の中、静養に訪れる京都の別荘無鄰庵には、のびのびとした環境が求められたのであろう。気分転換のための庭として、山県は京都の伝統的な侘び寂びの緊張感ある庭を拒否して、西洋的な庭、明るい開放的な空間表現を志向し、英国の自然主義的な庭園をイメージをしていたのかもしれない。想えば、山県や植治が生きた明治という時代は、内向きで抑圧的だった江戸時代とはがらりと変わり、近代国家として誕生したばかりの日本が欧米列強の世界へ漕ぎ出す開化期であり、国中にのびのびとした気分が横溢していた時代でもあった。こうした時代の空気がスケールの大きい豪壮な庭づくりに繋がったともいえる。
Ⅲ.水の流れる喜びを表現した庭園
無鄰庵庭園平面図

無鄰庵　門　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　潜り戸（ここから庭園へ）
アプローチ
平安神宮の赤い大鳥居を過ぎ、仁王門通りをさらに東へ南禅寺へ向かって行くと、右手に無鄰庵と書かれた案内がある。そこから右手の露地に入り塀沿いに歩くと左手に無鄰庵庭園と彫られた石碑が見え、さりげなく開けられた入り口から邸内へ入り正面の白い塀の小さな潜り戸を潜ると、そこには騒然とした現代から隔絶した画のような静寂境が広がっていました。足許を流れる涼しげな小川のせせらぎに誘われるように、木造二階建ての母屋の正面に廻ると、広々とした芝面を浅い小川が陽を浴びてらきらきらと輝き、優雅な曲線を描きながら流れゆく光景が眼前に映る。爽やかな風が明るい庭を吹き抜けるのを肌に感じ、しばし母屋の縁側に腰を降ろし庭をぼーっと眺め尽くして時を過ごすと、気持ちが自然と穏やかになってゆくようです。遠く東山の峰を借景とし、起伏した地面を野筋風の芝面と低く刈り込まれたサツキが彩っている。明るく西洋的でありながら、どこか雅な王朝風といった趣きがこの庭から漂ってくる。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　蹴上の琵琶湖疏水インクライン（明治40年頃）                                            ...</description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/11/30/%e7%84%a1%e9%84%b0%e8%8f%b4%e3%80%80murin-anthe-yamagata-villa/</link>
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		<title>法界寺阿弥陀堂　Amida-do of Hokai-ji Temple</title>
		<description>
敷地：京都府伏見区日野西大道町
建立：鎌倉時代前期(1226~1235)
Location:Hinonishidaido-cho,Fushimi-ku,Kyoto Prefecture
Establishment:The first half of Kamakura era(1226~1235)
「阿弥陀如来が座す四天柱と華麗な壁画が織り成す荘厳な空間」
Ⅰ.親鸞聖人生誕の地　日野薬師法界寺
日野資業像
京都の南東、伏見の醍醐寺の南側は古来より「日野」と称され、閑寂な山郷の雰囲気が残っている地域です。南を木幡山、東を山科盆地、西を御蔵山に囲まれ北に眺望が開く風光明媚な景勝の地に、一般に日野薬師と呼ばれる真言宗醍醐寺派の古刹法界寺があります。「日野」は名門藤原北家の傍流である日野家の伝領地であり、平安の頃は皇室や公家の遊猟地とされ、桓武天皇も幾度か猟に興じた記録が残っているという。法界寺は平安時代後期の永承6年（1051）出家した日野資業が関白藤原頼通から所領を譲り受け、薬師如来像を安置する薬師堂を建立し日野家の菩提寺としたのが創建とされ、最初に建てたのが現世の栄華を求める薬師堂であった故に、日野薬師と称されたという。平安時代の創建から鎌倉時代初期にかけて法界寺は、寄進などにより順次堂宇が増やし、薬師堂の他に旧阿弥陀堂、観音堂、五大堂、僧房等多くの堂宇が建ち並ぶ壮観な伽藍を誇る寺院となった。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は法界寺創建者の日野資業から四代後の日野有範を父とし、承安3年(1173)、ここ法界寺で誕生している。すなわち親鸞聖人も日野一族で、仏との初めての縁をこ結んだのが法界寺阿弥陀堂の阿弥陀如来だったという。隆盛を誇った法界寺も、鎌倉時代前期に起きた承久の乱（1221）の兵火によって阿弥陀堂など大半の堂宇が焼失してしまった。しかし不幸中の幸いか、阿弥陀如来像は焼失を免れ、これが転機となり法界寺再興の資が興されることになった。現在、見られる阿弥陀堂は正確な年代は不明だが、壁画の解説にあるように鎌倉時代前期の1226年から1235年に至る間に再建されたものと考えられている。
Ⅱ.薬師堂（現世利益）と阿弥陀堂（来世救済）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　藤原宗忠像
創建当初の法界寺の本堂は薬師如来を祀った薬師堂であり阿弥陀堂はなかった。来世に重点が置かれた阿弥陀信仰に対し、前時代的な密教的色彩の濃い薬師信仰は現世の栄華を求めるものである。創建者の日野資業が最初に薬師堂を建立したということは、彼の関心事が来世の救済よりも、日野一門の繁栄と安寧を祈るという現世利益的な密教信仰にあったことを示している。しかし、平安時代後期は、末法思想が広まり極楽浄土を憧憬する阿弥陀信仰が流行し、京都各所で阿弥陀如来を祀り極楽浄土を具象化した阿弥陀堂が建立された時代であった。藤原宗家の長者、藤原頼通が宇治平等院に鳳凰堂（1053）を建立、また浄瑠璃寺本堂（1107）、三千院極楽院(1148）などの阿弥陀堂がこの時代に建立されている。薬師堂を本堂としていた法界寺に、やがて阿弥陀堂が建立されたのも、こうした時代の趨勢に影響されたものといえる。資業の孫娘を母とする右大臣藤原宗忠の尽力によって、法界寺伽藍は整備され壮観なものとなり、12世紀前半には四棟の阿弥陀堂が立っていたという。前述したように承久の兵火による焼失から十数年のうちに再建された新阿弥陀堂は、現在までおよそ800年の風雪に耐えて静かな境内に南面して佇んでいる。一方、乱の兵火を免れた薬師堂はその後、不慮の火災から焼失し再建されるも、応仁から天正年間の戦国の兵火で再び焼き払われ、本尊薬師如来のみが救出される。そして焼失からおよそ400年間、法界寺には薬師堂が不在だったが、明治37年(1904)に奈良法隆寺の塔頭から本堂が移建され、長らく放浪していた薬師如来を納める薬師堂となる。現在、薬師堂は阿弥陀堂の東南に軒を接するように西向き立ち、本瓦葺きの重厚な姿を見せている。かつて薬師堂が不在であった時は、阿弥陀堂を本堂であったが、薬師堂移建後はこちらも本堂となり、現在の境内には二つの本堂が石畳の左右に存在している
Ⅲ.浄土教の仏堂　阿弥陀堂建築
法成寺伽藍配置図 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　平等院鳳凰堂（1053）平面図                                           ...</description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/10/31/%e6%b3%95%e7%95%8c%e5%af%ba%e9%98%bf%e5%bc%a5%e9%99%80%e5%a0%82%e3%80%80amida-do-of-hokai-ji-temple/</link>
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		<title>鹿苑寺金閣　Kinkaku,Rokuon-ji Temple</title>
		<description>
敷地：京都府北区金閣寺町
創建：応永5年(1398)
再建：昭和30年(1955)
Location:Kinkakuji-cho,Kita-ku,Kyoto Prefecture
Establishment:1397
Reconstruction:1955
「湖面に浮かぶ金色の三層楼閣・・・・国王義満の迎賓館
Ⅰ.鹿苑寺金閣の前身　西園寺公経の北山第
西園寺（藤原）公経像
今日、金閣或いは金閣寺と呼称されている建築は、臨済宗相国寺派に属する北山鹿苑寺の中心を成す舎利殿でした。金閣のある鹿苑寺は京都の西北に位置し、西に衣笠山、背後に左大文字山が聳えた古くからの景勝地であり、鎌倉時代には太政大臣西園寺（藤原）公経（1171~1244）が営んだ山荘があって北山第と呼ばれたところである。公経の北山第を訪問した歌人藤原定家が記した「明月記」によれば、碧瑠璃を湛えたような池と高さ四十五尺の瀑布、清澄な泉石があり、見るものすべてが斬新で珍しいと称賛している。現在の鹿苑寺金閣の前面に広がる鏡湖池や北の一段高い山腹に静かに水を湛える池の安民澤、そこから落ちる滝「龍門瀑」などが鎌倉時代の北山第の遺構とみられています。北山第には、天元元年（1224）に建立された本堂西園寺を始め、大海の如くと謂われた池の周囲に、いくつもの御堂と公経の住む寝殿をはじめとする御所が営まれ、その主要建築は、西園寺（阿弥陀堂）、善積院（薬師）、功徳蔵院（地蔵菩薩）、池の畔に妙音堂、瀧の下に不動尊、石橋の上に五大堂、成就院、法水院、化水院、無量光院など多数の堂舎が建ち並んだ豪奢な山荘であったと伝えられている。つまり、後に義満がここ北山を所有するはるか昔から既にこの地には、公経が贅を凝らして造営した人工の庭園と堂舎群が、鹿苑寺の前身として存在していたわけである。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　安民澤（中央にあるのは西園寺家の鎮守）
田畑を掘り返し切り崩して優麗な庭園に改造し、山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した本堂を中心に多くの堂舎を配する仏寺と別荘を兼ねた北山弟は、同じスタイルで平安中期に藤原道長が鴨川沿いに造営し豪華の極致と賛美された法成寺と比べても、山際という立地による眺望の良さに林泉の美が加わり、優るとも劣らないと評されていました。鎌倉時代に栄華を極めた西園寺家の北山弟には、歴代の上皇・天皇が何度も行幸し盛大な宴遊が催されたという。行幸記録に依ると、北山第には北第と南第があり、南北二つの地域に分けられていたらしい。公式行事を担う表向きの南第は現在の鏡池湖周辺の金閣や東側の方丈・庫裏付近で、寝殿など奥向きの北第は、安民澤とその北側一帯の杉林や不動堂付近に位置していたと推測されている。
Ⅱ.国王義満の御所北山殿
足利義満像
動乱の南北朝時代、西園寺家が衰退し荒廃の一途を辿っていた北山第を河内国の領地と交換する形で譲り受けたのが室町幕府三代将軍の足利義満（1358~1408)でした。将軍職を息子の義持に譲り、出家した義満は北山第に建つ西園寺家の堂舎群を引き継いで、応永4年(1397)1月、自らの隠居所北山殿の造営に着手します。その全体像は今の鹿苑寺とはだいぶ異なるもので、応永5年(1398) に完成した三層の舎利殿（後の金閣）を中心に、護摩堂、懺法堂、法水院などの仏教建築と寝殿、公卿間、会所天鏡閣、拱北廊、泉殿、看雪亭などの住宅建築群など十数棟の建築が綺羅星のごとくばらまかれ廻廊がめぐらされていたと謂われています。義満が、既存の西園寺家の堂舎群をどのように扱ったかは不明だが、着工から比較的早い時期に御所室町から北山殿へ移住していることから、多くは既存のままにとどめ生かして造営したのではないかと見られている。その中で、義満が最も力を注ぎ趣向を凝らして造ったのが舎利殿、後の金閣である。舎利殿は釈迦の骨を祀る建物で、義満がしばしば訪れていた西芳寺の池の西岸にあった二層の楼閣舎利殿を模して構想したともいわれている。義満が敬愛した国師夢窓疎石が作庭建築した西芳寺は、八代将軍義政（1436~90）も東山殿（慈照寺）を造営する際にたびたび訪れ、祖父義満と同じように舎利殿をモデルとして観音殿（後の銀閣）をつくったという。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　西芳寺舎利殿（瑠璃殿）復原図
明との交易で北山殿を明使の迎賓館として活用した義満は、明皇帝から「日本国王」の称号を得る。そして北山殿の庭園が完成した応永15年（1408）には、天皇を北山殿に招いて（行幸）接待し、その権力は天皇を凌ぐものとなった。絶大な権力を背景に皇位簒奪も画策していたといわれる義満だが、天皇行幸の二ヵ月後に急逝する。義満の死後、北山殿から政治・外交の舞台としての機能は消え、四代将軍義持の手によって北山殿の一部が解体される。義満の住まいだった寝殿、公卿間、懺法堂、会所天鏡閣などが南禅寺・建仁寺・等持寺に移築・寄進され、跡には金閣と法水院、護摩堂、泉殿ぐらいしか残っていなかったという。そういう状態で、応永27年（1420）頃、北山殿は義満の菩提を弔うべく、義満の法号にちなんで命名された「鹿苑寺」という禅寺となる。八代将軍義政の治世下、　室町幕府の権威が衰え応仁・文明の大乱（1467~77）が京の都で勃発する。この大乱の際、鹿苑寺には西軍の布陣したことから戦火に遭い、護摩堂など義満の頃から残っていた堂舎が舎利殿を除いて悉く焼失し、遠く鎌倉時代の公経の山荘を受け継いで築かれた義満の豪華絢爛な宮殿の面影は完全に喪われてしまった。
Ⅲ.生き残った舎利殿(金閣)
洛中洛外図屏風にみる舎利殿(金閣）
応仁・文明の乱で多くの堂舎が灰燼に帰した鹿苑寺で辛うじて焼失を免れた舎利殿は、この頃から「金閣」という美称で呼ばれるようになる。八代将軍義政をはじめ、足利歴代将軍は鹿苑寺を訪れ金閣に登り、上層から四方の山と庭園の景色を眺め、池に船を浮かべて歌を楽しんだという。戦国の桃山時代には金閣は都の名所となり、キリスト教宣教師フロイスが鹿苑寺を訪れた時の記録によると「池の真ん中に三階建ての一種の小さい塔のような建物があった。廻廊がついた上階（三層）はすべて塗金され、そこはかつて公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池を眺め、建物の中にいながら池で釣りをしていた。」とあり、金閣が現在のように陸続きでなく、池中に浮かぶように建つ釣殿のような外観で、義満が上層から庭園を眺め中にいながら釣り糸を池に垂らして釣りを楽しむ優雅な風景が目に浮かぶ。戦国時代の天文6,7年（1537,38）と江戸時代の寛永初年に、鹿苑寺の金閣・庭園の修理修築が行なわれており、この時、現在より広かった池の南部が埋め立てられ、金閣も一層の北側が壁となり義満像を安置する仏壇をつくる改造が施されている。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　広重作「京都名所」の金閣
室町時代末期に狩野永徳の筆で描かれ上杉家に伝わる「洛中洛外図屏風」には金閣に登っている人影が見え、また江戸時代に刊行された広重の浮世絵や都名所図会を見ると金閣に登って上から庭園を鑑賞している人が描かれている。故に金閣は、昔から中に登って上から見物させることが行なわれていたようである。そして明治時代のある時期には金閣に屋根付きの渡り廊下がついていたという。林泉の中、拝観者はまず方丈へ向かい、それから橋を渡って金閣の二層に入り、内部を拝観した後に鏡湖池の周辺を巡るという参拝ルートだったようです。金閣の内部に立ち入る事ができない現在となっては、何とも羨ましい拝観ですが、昭和25年（1950）に焼失する前の金閣は古写真などを見ると、現在の金色に輝く再建金閣とは違い、5世紀にわたる長い歳月を経る間に金箔が剥げ落ち黒ずんで古寺の趣きが漂い、とても金閣の名に相応しい姿ではなく見上げて鑑賞するような雰囲気には程遠かったようです。
都林泉名勝図会・金閣　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　渡り廊下のある金閣（明治時代）

Ⅳ.金閣炎上
焼失前の金閣　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　三島由紀夫
義満の北山殿創建から550年の歳月と風雪を生きてきた金閣は、惜しくも昭和25年（1950）7月2日、寺の学僧の放火によって焼失してしまう。現在、鹿苑寺の鏡湖池の畔に金色に輝いている金閣は、放火焼失から5年後の昭和30年（1955）に再建されたものである。世間に大きな衝撃を与えた金閣放火事件は、後に三島由紀夫によって小説化されている（「金閣」1956)。当時の様子を伝える「夕刊京都新聞」によると、「7月2日の午前3時過ぎ、国宝金閣が火焔に包まれているのを、20丁あまり東方の消防署望楼勤務員が発見。消防隊が駆けつけ時には、既に金閣から紅蓮の炎が猛烈に噴出して手の施しようがなく全焼した」という。義満の創建以来、550年の歴史を刻んだ金閣が焼け落ち、二層までの骨組みだけが露出した姿は無残としかいいようがない。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　金閣寺1956初版
日本中の耳目を集めたこの金閣放火事件について、三島は犯人の学僧の経歴や裁判、修業生活や人間関係などを入念に取材した。三島は、事件の枠組みや犯人の行動は取材で明らかになった事実をほぼ取り入れながら、学僧の心の葛藤や生まれつきの障害へのコンプレックス、拝金的な老師（住職）への反発、金閣の魔性的な美に魅了されながら嫉妬し、ついには金閣を破壊するまでに至る虚構的世界を精緻な文体で描写している。三島はこの作品の至るところで「金閣」の美や官能性を精細に描写し、その魔性の美に魅入られたかのように若い僧が放火という衝撃的な凶行に走り、金閣が燃え上がる有様を迫力ある筆致で表現し小説を完結させている。三島は学僧が最後の行為（放火）の直前、金閣を眺めさせその美について語らせている。「金閣の美しさは絶える時がなかった！その美は常にどこかしらで鳴り響いていた。耳鳴りの涸疾を持った人のように、至る所で私は金閣の美が鳴り響くのを聴き、それに馴れた。音にたとえるなら、この建築は五世紀半にわたって鳴り続けて来た小さな金鈴、或いは小さな琴のようなものであったろう。その音が途絶えたら・・・・」三島が微に入り細に入り描写し、一人の若い学僧を衝撃的な凶行に走らせた「金閣」の美の魔力とは何なのだろうか。
金閣炎上図　川端龍子画　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　炎上焼失直後の金閣

Ⅴ.義満の金閣と再建金閣
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　鹿苑寺境内図
再建され不死鳥の如く蘇った金閣は、その後、昭和62年（1987）に金箔を以前の5倍の厚さに張り替える修復工事を経て、現在は金色に彩られた美しい姿を鏡湖池の畔に見せてくれている。しかし、その姿は明治37年（1904）に実施された解体修理の際に作成された実測図や竣功図に基づいて復元されたものであり、義満が構想し営んだオリジナル金閣とは趣きを異にすると指摘されている。元々、北山殿に舎利殿としてあった金閣は、北の山側に立つ二層の会所「天鏡閣」と、複道「拱北廊」によって繋がっていたといわれている。複道とは二層の廊下で、この当時、金閣は釣殿のように池中に浮いていたから、水面上の廊下を往来する時、「あたかも虚空を歩むに似た」心地がしたといい、その風景はまさに極楽浄土である。

現在の鹿苑寺における金閣は池の畔に孤立した形で佇んでいるが、義満在世当時の北山殿は、今より広大な池に浮かぶ金閣と結ばれた天鏡閣をはじめとした多くの堂舎群が綺羅星の如く建ち並び絢爛華麗な絵巻を繰り広げていた。義満の金閣は、それまでに例のない三層の楼閣建築で、初層を法水院、二層を潮音洞、三層を究竟頂という。一層は西側の池に切妻屋根の漱清（釣殿）を突出させた寝殿造風の阿弥陀堂、二層は武家造りの観音堂で広縁と高欄を廻した廻廊があり、ここから池泉を俯瞰出来るように仕立てられ、最上階の三層は純然たる禅宗様の仏堂で四方を花頭窓が飾っている。屋根は杮葺き・宝形造りで頂上に金銅の鳳凰が挙げられ、全体に軽快優美な趣きが漂う庭園建築である。
橋廊下で繋がった金閣と天鏡閣
金閣創建当初、義満は大国の明との国交樹立を望んで、北山殿に明使を迎接していることから、金閣は迎賓館のような施設であったとも推測される。謂わば、広大な池中に浮かぶ金閣の上階、金箔が隈なく張りつめられた煌びやかなインテリアの中で義満は明使と引見し、池上に架橋された空中廊下を渡って天鏡閣というパーティー会場に入り、歓迎の宴遊が連日催される・・・そんな往時の豪奢なイメージが目に浮かぶ。義満は己が権威を金色に輝く楼閣で大国の明に誇示したかったのではないか。日明貿易で得られる利を優先し、明皇帝に隷属の臣下として卑屈なまでに接しながらも、天皇を超越した国王の権威を金閣に塗りこめた黄金に現わしているような気がしてならない。一体、義満の外交施設であった舎利殿（金閣）の姿は、現在の再建金閣と重なるものなのか。また金閣の美とは何なのか。

金閣の再建は法隆寺や平等院の修復も手掛けた武田五一が指導した明治37年の解体修理で残された記録を参考に復原と同じ手順を踏んで遂行されている。昭和30年の再建で指導的立場にいた建築史家村田治郎氏は再建金閣について復原的考察のひとつの結論であって決して絶対的なものではない旨を述べている。1996年、京都文化博物館で開催された「京都・激動の中世」展で建築史家の宮上茂隆氏は、再建された金閣は創建当初の姿ではないという考えから金閣復原図を提示しその相違を次のように説明している。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　金閣南側立面図（上）・西側立面図（下）
①現在、二階は内外とも金箔が張られ三階共々金色に彩られているが、昔は高欄を除いて内外とも黒漆塗りであった。つまり、二階は黒い外観で金色に輝くのは三階のみであったという。
②創建金閣の復原図における外観は、端正な左右対称ではなく、三階の中心が西側へずれており、そのため二階屋根の東部が入母屋屋根になっている。
③金閣東側に池から金閣へアクセスするための舟入の玄関が附属している。
④金閣の北側にあった二層会所の天鏡閣と複道（二層廊下）によって繋げられ、また金閣より東方、今の書院や方丈がある辺りにあったと思われる表向きの御殿の寝殿から金閣へ透渡殿が伸びている。

義満が北山殿に営んだ綺羅星の如き堂舎群が戦乱などで消滅し、唯一、現存していた金閣が昭和の放火で灰燼に帰してしまった後、再建された金閣と鏡湖池のみが、義満在世時の遺風を伝えてくれている。しかし、放火焼失以前の金閣もまた創建時から550年の歳月を経る間に何度か修復・改修の手が加えられ、宮上氏が指摘したように姿かたちが変わっているとするならば、焼失前の明治時代の姿を忠実に復原した今の金閣は伝金閣ともいうべきものであろう。三年前に逝去した鬼才の建築家篠原一男が著した「住宅論」の一章、日本伝統論（1960）は再建された金閣を語ることから始まっている。「金閣はあの金箔の輝きの中に価値があるのだ。義満がつくろうと思ったのは、暗い木立や水に映える金色の光であったはずだ。時が経ち、金色の光りに影がさし、古ぼけ、黒く沈んだ金閣は、その燃え殻であって、将軍のつくろうとした金閣ではない。」篠原は義満がつくった金閣の建築美は金色の光りにあり、焼失前の古寺のごとく金色が黒ずんだ金閣に日本の伝統的な情緒や趣きを感じたとしても、それは数百年の時間と風雪が生んだ結果に過ぎないと断じ、黄金で表現した異常な美意識を称賛している。
金閣復原図　南側立面図　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　東側立面図

Ⅵ.まとめ　ユートピアの三層楼閣
鏡湖池から望む金閣東南面　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　金閣東面と舟着き
おおどかに広がる鏡湖池の水面に美しい姿を映しながら佇む金閣、陽光に輝く金色の光は思っていたより楚々として優しい。池に北畔にある金閣をじっと眺めていると、宙に浮かんでいるような軽快さと明るさが感じられる。それは、初層と二層の池に面した南側正面の吹き放ちの広縁で、外周には一間毎に柱を入れることが原則だった当時に、柱を飛ばすという離れ業を演じ、広縁の眺望を妨げない開放性を獲得していることにも起因している。また、同大の一・二層の中心に三層が載るという左右対称性が端正で上品な佇まいを強調していることにも着目したい。全体の均衡から見ると、一層に屋根を設けず高欄付きの縁を廻し、二層から深い軒屋根を架け、トップの三層を二層より僅かに窄めた形で戴かれた対比が効果的で、金閣全体に軽快な印象を与えている。更に、初層の西に漱清というささやかな釣殿を池に張り出していることで均衡の単調さを破り、金閣の造形に変化を加えているのが面白い。金閣の前面に広がる鏡湖池は、名の通り鏡面の役割で虚構の金閣を水面に映し出し、松を植えた大小様々な中島や離れ石が点景として散りばめられ、金閣と一体の景観を成して、拝観者の目を楽しませてくれる。往時、義満は船を浮かべ、或いは金閣の上から自分が作庭した大海のような池泉を眺め愛でながら、釣り糸をたれていたのであろうか。願わくば、江戸・明治時代の拝観者のように金閣に登って、金色眩い広縁から池を囲む庭園を眺めわたして義満が描いた極楽浄土の世界を体験してみたいものです。
金閣北面(左)・金閣初層の西に突出た漱清(中)・金閣二層南面の広縁(右)

金閣は初層の法水院は平安の寝殿造り、二層の潮音洞は鎌倉期の武家造り、三層の究竟頂は中国の禅宗様という三つの異なる様式から構成されているが、これは公家の上層に武家があり、更に最上層には「究極」の人である義満が公武の上に君臨するという思想が体現されているという。三層楼閣の最古の違例であり、義満がよく訪れた西芳寺の二層楼舎利殿を手本に着想されたであろう金閣は、後の義政の慈照寺銀閣(二層　1489)や西本願寺飛雲閣(三層 1592)という楼閣建築に大きな影響を与えている。三重塔や五重塔など、多層の違例は金閣以前からあるが、それらは二層以上に利用出来きる空間がなく外観だけの楼閣にすぎない。上層に登れて人を容れる空間が用意されている金閣は、日本の住宅史や建築史を語る上で、特筆されるべき建築ではないだろうか。
金閣一層法水院(左）・二層潮音洞（中）・三層究竟頂（右）

参照文献
1)「金閣寺」/三島由紀夫著/新潮社発行/1956
2)「日本の建築 歴史と伝統」/太田博太郎著/筑摩書房発行/1968
3)「住宅論」/篠原一男著/鹿島出版会発行/1970
4)「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
5)「日本名建築の美」/西澤文隆著/講談社発行/1990
6)「日本名建築写真選集第11巻 金閣寺・銀閣寺」/宮上茂隆著/新潮社発行/1992
7)「古寺巡礼　京都21 金閣寺」/有馬頼底・梅原猛著/淡交社発行/2008
鹿苑寺金閣　Kinkaku,Rokuon-ji Temple
 </description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/09/30/%e9%b9%bf%e8%8b%91%e5%af%ba%e9%87%91%e9%96%a3%e3%80%80kinkakurokuon-ji-temple/</link>
			</item>
	<item>
		<title>建築以前・建築以後展　Before Architecture,After Architecture</title>
		<description>菊竹清訓　伊東豊雄　妹島和世　西沢立衛　妹島和世＋西沢立衛/SANAA

Kiyonori Kikutake,Toyo Ito,Kazuyo Sejima,Ryue Nishizawa,Kazuyo Sejima+Ryue Nishizawa/SANAA
清澄庭園や清澄公園を通り過ぎ更に西へ歩くと、清洲橋のたもとに大きな倉庫ビルが見えてきます。サイトからダウンロードしたMAPを見ると、この辺りに目指す小山登美夫ギャラリーがある筈ですが・・・およそギャラリーには縁遠い殺風景な倉庫やガソリンスタンド、タクシー会社などが並び、それらしい建物が見当りません。迷いつつ丸八倉庫と大書されたビルのプラットフォーム側へぐるりと廻り込むと、玄関のガラス扉にポスターが貼られいるのが見え、どうやらこの倉庫の上階にいくつかのギャラリースペースがあることがようやく判明しました。玄関内にある案内図に示されている通り、奥の如何にも物流倉庫然としたというスペースにある幅広く奥行き深い荷物用エレベーターに載って、7Fへ上がると、そこには突然別世界のような白一色のNYのソーホー街にあるような天井の高いギャラリー空間が広がっていました。
「建築以前・建築以後」と名づけられたこの展覧会は菊竹清訓・伊東豊雄・妹島和世・西沢立衛・SANAAという四人と1ユニットの建築家が過去に手掛けた又は現在進行中のプロジェクトやアンビルドなどの過程で描かれたドローイングや作られたスタディ模型などが展示されている。西沢立衛による会場構成は、大らかなレイアウトで見やすく、ゆっくり模型やドローイングを観て回ることが出来ました。

「海上都市」 菊竹清訓
海上都市1963模型俯瞰                      　　　　　　　海上都市1958コンセプトスケッチ
菊竹清訓からは1958年から60年代にかけて構想された「海上都市」のコンセプトスケッチや模型などが提示され、丹下健三の「東京計画1960」など建築家による都市計画への提案が脚光を浴びていた時代を想起させてくれます。世界で初めて計画されたと謂われる「海上都市」は、産業基地建設のための埋め立てから日本の湾岸部を守るために、産業コンビナートを造成する場所に相模湾の洋上を設定したもので、現在盛んに叫ばれている環境破壊問題を解決すべく考案された先進的な計画でもあった。菊竹は「海上都市」のアイディアを一過性に終らせず持続的に発展させ、1960年には「移動する都市」として海洋に独立する機能をもつ大規模な「海上都市1960」を提案する。産業コンビナートから住居環境を中心として産業施設を付加した計画に変わり、電気・給排水・空調・情報・交通などのインフラ設備が内包された垂直のシャフトにムーバルブハウスと名づけられた円環状の住居ユニットを組み合わせることで一つの街区を形成する仕組みになっている。こういう垂直のシャフト（都市柱）を主要構造として、何本も海上や海中で連結していくことで、独立した都市環境をつくりだそうという計画である。更に「海上都市１９６３」では、シャフト（都市柱）と海面に水平に広がるプラットフォームを組み合わせたユニットとそれらを繋ぐブリッジの三つの要素が群島のような多様な形態を成すことで、海上都市の機能を構成する提案に進化している。
沖縄国際海洋博1975 アクアポリス
このように菊竹が多年、継続的にスタデイを重ねてきた「海上都市」計画は、1975年に開催された沖縄国際海洋博のメイン会場の「アクアポリス」（未来の海上都市）として沖縄の洋上にようやく実現された。実際に海洋博でこの「アクアポリス」を目にした時は、現代のパルテノン神殿のような巨大な要塞に見えたものでした。５０年前からイメージした未来である21世紀となった現在から過去になった「海上都市」計画を俯瞰すると、そこには未来の都市へ向けての希望というメッセージが描かれていたように思う。都市のイメージや想像力こそ、現代の我々が喪ってしまっているものではないだろうか。

「ノルウェー・オスロ市ダイクマン中央図書館」　伊東豊雄
せんだいメディアテーク（２０００）以降、次々と海外のコンペやプロジェクトに挑戦し、真にワールドクラスの建築家となった伊東豊雄が今年早々に挑戦した海外コンペティション作品。結果は一位を勝ち取ることは出来なかったが、建築の常識を拡げる新しい空間を創りだそうというエネルギーに満ち溢れた案な実に刺激的でした。ここで示されているものは、伊東と担当スタッフがコンセプトの実現のためにどのような空間構成とするべきか試行錯誤を重ねていった壮絶な過程である。伊東はコンセプトの方向性となる抽象的な言葉を投げ掛け、スタッフがその言葉を源にイメージをふくらませてアイディアを搾り出していく。壁を埋め尽くすFAXやスケッチ、プリントアウト或いはスタディ模型などの変遷を眼で追っていくと、伊東を中心に丁々発止の議論を重ねながらコンペ案を練り上げていくエネルギッシュな光景が目に浮かぶようです。伊東が「ここが頑張り所だ～もっとのめりこめ！」などとスタッフを鼓舞するFAXがものづくりの生々しい現場を現わしていて面白い。ここからわかることは、伊東が自分の発想にたよることなく、チームで考えてアイディアを生み出していこうとするタイプの建築家であるということだ。伊東スクールとも呼ばれるほど、伊東豊雄の元から優れた建築家が輩出しているのは、スタッフの考えやアイディアを掬い上げて作品に結実させる環境があるからなのだろう。

「犬島アートプロジェクト」　妹島和世
岡山県南東部の瀬戸内海上に浮かぶ面積わずか０．５４平方Kmの犬島で進行中のプロジェクトの第二期にあたり、島内の集落中心部にある空き家や空き地を利用してギャラリーとして再生し、既に第一期で完成し公開されている美術館「精錬所」との相乗効果で島の活性化を図ろうというものである。目をひく巨大な 1/50の敷地模型と島の印象的な風景を切取った写真だけのシンプルな展示構成で、プロジェクトの設計過程を示すようなスタディ模型やドローイング、スケッチのたぐいは一切なく、師匠の伊東氏の展示内容と比べると物足りない感は否めませんでした。起伏に富んだ自然環境に囲まれた小さな集落のなかに、既存の木造家屋の骨組みや屋根をリノベーションした施設やアルミやアクリルといったクリアーな素材を使った施設などタイプの異なる四つのギャラリーを回遊出来るように配置して、現代アートを島のランドスケープと一体化させることで島全体を美術館化しようとする構成が新鮮でした。この犬島アートプロジェクトも近くの直島同様にベネッセコーポレーションが手掛けていて、直島～犬島という海路も抜かりなく設定されているようなので、瀬戸内海の美しい海景を眺めながら現代アート鑑賞という旅コースも近いうちに楽しめそうです。

「ガーデンアンドハウス」　「T project」 西沢立衛

都心で進行中の住宅兼オフィスプロジェクト。在りがちな賃貸ビルに囲まれた谷底のような8m×4mの狭小敷地に、透明なフロアで構成されたスタディ模型が廊下の壁際にずらりと並んだ光景は壮観でした。また都心にたつ住宅兼用オフィスという身近な内容にも心惹かれるものがありました。狭小スペースを有効利用するため、各階の室内から構造壁を排除して、ガラスの皮膜と水平な床スラブだけが積み重なっていく透明感溢れる構成は、どこかミースの「鉄とガラスのスカイスクレーパー案」(1922)のイメージを想い起こさせる。住宅的な雰囲気が皆無なシルエットだが、各階には居住性が考慮されリビング・寝室・浴室などからなる個室に専用の庭がセットで配置されているのが面白い。しかも、階毎にその個室と庭のデザインは異なっており、都心の多様な生活スタイルにフィットするように考えられているように感じた。
妹島和世が手掛ける犬島より南方の香川県寄りの瀬戸内海に浮かぶ豊島で進行中の美術館プロジェクト。ギャラリーの壁に飾られた水滴の写真が、この美術館の特異な形態のイメージを明確に表現している。豊島は、香川県高松の北、直島のすぐ東隣に位置し、起伏に富み、緑豊かで、美術館周辺には田畑が広がっているという。否でも自然環境との関係性を意識するロケーションからスタデイされたのが、大地に有機的な曲線を描く水滴を置くイメージだったようだ。美術館内部は柱や壁などの空間を仕切るものがなく壁と天井の境目もないコンクリートシエルが水平方向に拡がるワンルームの大展示空間になっている。大空間を覆う水滴・・・彫刻的なオブジェを想起させるその外観からは、建築という概念を超えようとする意志を感じる。

「スイス連邦工科大学ローザンヌ校ロレックス・ラーニング・センター」妹島和世＋西沢立衛/SANAA
妹島和世と西沢立衛の建築家ユニット「SANAA」がスイス・ローザンヌ市で手掛けているプロジェクト。図書館・多目的ホール・オフィス・レストランなど複合的機能を内包した学生センターがスイスの高級時計メーカー・ロレックスの寄付により建設される。どーんと置かれた白一色の巨大な模型の起伏ある光景にまず驚かされました。地形が大きく隆起したような表層は166.5m×121.5mの大きな一層のワンルームとして構築され、学生や学内を訪れる人々が交流する場として設定されている。自然の丘のように緩やかに起伏したスラブに、いくつものクレーターのような大きな楕円状のパティオが口を開けている。波打つスラブの下から建物にアプローチし、このパティオから空を見上げる光景はさぞかし爽快に違いない。一つの特異なフォルムで覆われたこの建築は、異なる機能をもつ諸施設がそれぞれ分離されていながら大らかに繋がり合い、また移動することで見えてくる景色が内から外へまた外から内へダイナミックに変化していくことで、全体をワンルームの中に緩やかに混じり合うように設計されているようだ。

「スカイハウス」　菊竹清訓
以上、本展に出品された四人の建築家が手掛けたアンビルド若しくは現在進行中のプロジェクトに関するドローイングや模型を一通り観ていくと、そこに世代差に依る建築へのスタンスや表現に違いはあるものの、建築に何か新しい社会性を獲得させようとする強い意志が感じられた。最後に、菊竹・伊東・SANAAの建築作品やコンセプトを映像化したDVDを鑑賞したのだが、菊竹清訓の著名な自邸「スカイハウス」（1958）を撮影した「カンガルーの家」というタイトルのドキュメンタリーフィルムが当時の建築状況を垣間見せてくれ興味をそそられた。1959年に撮影・放映されたものをDVD化したものだが、竣功当時のスカイハウスが四枚の壁柱で支えられて崖地に「舞い降りた鶴のよう」に自立している鮮烈な外観や空中に浮かぶワンルームの居住空間の開放性などがあますところなく撮られている。
 丹下健三邸1953
映像の中で、スカイハウスと同様にピロティで持ち上げられた丹下健三の自邸（19５３）も対比的に紹介されているが、RCと木造の違いこそあれ両住宅ともどこか伝統的な雰囲気を漂わせ、和風モダニズム住宅とも謂える近似性を感じる。日本の伝統論争が盛んだった５０年代、日本の近代建築を牽引する立場だった二人の建築家が互いを刺激しあっていたと想像すると面白い。 </description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/08/31/%e5%bb%ba%e7%af%89%e4%bb%a5%e5%89%8d%e3%83%bb%e5%bb%ba%e7%af%89%e4%bb%a5%e5%be%8c%e5%b1%95%e3%80%80before-architectureafter-architecture/</link>
			</item>
	<item>
		<title>「建築家　坂倉準三展」開催記念シンポジウム</title>
		<description>[caption id="attachment_1006" align="alignright" width="240" caption="国際文化会館（1955）"][/caption]
２００９年７月１２日（日）１０：３０～１７：３０　国際文化会館B1Fホール
神奈川県立近代美術館鎌倉（5月30日~9月6日)とパナソニック電工汐留ミュージアム（７月４日~９月27日）の二部構成で開催されている「建築家　坂倉準三展」を記念して去る7月12日(日)、坂倉が前川國男や吉村順三らと協同して設計した六本木の国際文化会館（1955）でシンポジウムが行なわれました。6月に鎌倉、シンポジウムの一週間前に汐留の両展覧会をじっくり時間をかけて観ており、坂倉に対する予備知識を持ってこのシンポジウムに臨むことが出来たのは幸いでした。以下にシンポの内容と印象をレポートします。
第1部(１０：３０～１２：３０)
モデレーター:鈴木博之（建築史家）　パネラー：高階秀爾（美術史家、大原美術館館長）、磯崎新（建築家）
高階氏の坂倉論
午前の部では、坂倉準三と親しく接してきた世代の美術史家の高階氏と建築家の磯崎氏がパネラーとして夫々の坂倉論を展開された。まず、高階氏が「坂倉さんの場所が忘れられているのではないか」と口火を切り、グランプリを獲得したパリ万国博日本館（１９３７）は日本の委員会の意に反した鉄骨とガラスの建築だったが、伝統的感性と現代の融合が評価されたと語る。この伝統と現代の繋がりは、鎌倉近代美術館(現神奈川県立近代美術館鎌倉　1952)や飯箸邸（1941）に見られる特徴であると言う。また他に坂倉の建築の特徴として　①周囲の環境との調和②落着いた生活感覚を挙げられ、①については都市の中に広場をつくった新宿西口広場(1966)やターミナルビルに百貨店を複合した渋谷の東急会館(1954)を例として、坂倉の都市環境への取り組みを評価した。②は師であるコルビジェが唱えた「家は住むための機械である」というスローガンの真意を坂倉は「家は住むためのものである」と解釈し、そこに人間の為の建築という思想があることを指摘しておられました。最後、坂倉準三には日本の近代建築史にもう少し大きな位置が与えられてしかるべきと強調されたことが印象的で、何故、近代建築において坂倉の評価が高くないのかという問題提起が後に託された形となった。

磯崎氏の坂倉論
そこで、磯崎氏の登場です。30年にわたり自分のアトリエが坂倉事務所の店子であったという縁を語りながら、いつも坂倉さんの居場所は不安定だったとシンポのテーマ（坂倉の位置）にすばりと切り込みます。日本でのル・コルビジェの受容を辿ると、前川國男・丹下健三の名は前面に出てくるが坂倉はあまり出てこないとこと。また、日本の近代住宅史や論に、戦後は政財界との人脈から数多くの大邸宅を手掛けたためか、坂倉の住宅が位置付けられていないことなど坂倉の位置が疎外された傾向にあることを強調します。そして坂倉のデビュー作であるパリ万国博日本館（1937）について、当時のコルビジェのアトリエがやりたかったことがそのまま実現しており、また磯崎氏の師匠丹下健三のそのまた師匠にあたる東大建築学科教授の岸田日出刀が考えていた＜日本の伝統建築を近代的視点で見直し近代の中へいかに組み込んでいくか＞というモデル（理論）を日本の外のパリでつくってしまったと高く評価します。更に戦後の近代建築において、丹下が展開した桂離宮の木造のプロポーションをＲＣ構造に取り入れ調和させた手法は坂倉の戦前のパリ万博日本館のデザインを参照していると建築家らしい推測を展開し、坂倉が日本の近代建築のスタート時から大きな役割を果たしていたことなど独自の建築史的評価を下していきます。そして、磯崎の話は政治的なものに変化し、坂倉が東京帝大建築学科卒でありながら、岸田日出刀教授が構築した日本の近代建築の言説や東大系などの国家的なラインから外れ、コルビジェそのものといったスタイルで国際的な活動をするポジションを保持したと分析し、坂倉がそのような独自のポジションを獲得した背景（人脈）について説明し締めとします。コルビジェの元で修業していた１９３０年代のパリ、そこに遊学していた多くの日本のエリート達との交遊を通じて、戦前はスメラクラブ、戦後はクラブ関東・関西というパリ時代の交遊を発展させた私的サロンの設立や設計をしながら日本の中枢（政財界・芸術界など）との人脈が形成されたこと。この人脈からの依頼で、大邸宅を多く手掛けることとなり、50年～60年代にかけて小住宅を中心とし左翼的だった日本の住宅ジャーナリズムからは、坂倉の住宅はブルジョア的あるとされ評価されなかったことを述懐し、坂倉準三という建築家の位置（居場所）や評価について非常に刺激的な講演を終えました。

高階氏・磯崎氏・鈴木氏によるディスカッション
高階、磯崎両氏が展開した坂倉論を踏まえて、司会進行役の鈴木氏を交えてのトークでは、30年代のコルビジェが描いた都市計画を側で観ていた坂倉の都市的な仕事を積極的に評価していました。例えば、都市の大量交通の結節点である新宿西口広場（1966）はあのヴォイド的な広場があるからこそ東口より機能していること、また渋谷東急文化会館(１９５６)は世界的なレベルで複合商業ビルの先駆的建築だったことなどを指摘し、現代のＪＲさいたま駅や品川駅といった駅と商業空間を複合させる「えきなか」などＪＲが駅利用の未来的ビジョンとしている萌芽が、坂倉が手掛けた渋谷や新宿西口広場の計画に宿っていたと分析され、その先進性を強調されていたことは、坂倉の建築にばかり関心を向け都市計画への介入や貢献を認識していなかった自分には、新鮮な発見であり興味深いものでした。
第2部(14:00~17:30)
基調講演：内藤廣（建築家）
モデレーター:太田泰人（神奈川県立近代美術館）　パネラー：萬代恭博（坂倉建築研究所）、山名善之（東京理科大学）、田路貴浩（京都大学）、青井哲人（明治大学）、松隈洋（京都工芸繊維大学）、北村紀史（元坂倉建築研究所）
内藤氏の坂倉論
午後の部では午前とはパネラー陣ががらっと若返り、生前の坂倉を知らない世代に依る各自の研究や問題提起が発表されていくのだが、シンポのテーマがどこか曖昧になっているようにも感じられました。
まず、建築家の内藤氏が、ディスカッションのテーマとして坂倉の建築には「切れがないが、それには訳がある」と問題提起し、切れがないと感じる訳は人間のことを考えている為であると主張した。例えば丹下健三や前川國男は戦後の新生日本を背負うような国家的建築家であったのに対し、街や民衆を背負ったのが坂倉であり、丹下や前川のように未来や過去ではなく現在と向き合った建築家であると分析する。ここで話は都市計画のことになり、建築家でありまた土木工学に造詣深い内藤氏の独壇場となる。元来、日本の都市計画をリードしてきたのは土木であり、都市の根幹を支えるのは物流と交通であると解説し、建築などはそういう土木基盤の上物に過ぎないと謂う。そして、都市の中心部に入って仕事を推し進められた建築家は坂倉のみであると渋谷のターミナルや新宿西口広場を評価する。ヨーロッパ的なプラザ（広場）は、日本では騒乱の場と危険視され抹殺されてきた歴史があり、広場は法律用語ではなく俗称であったと述べ、そんな状況の隙間を縫って実現した坂倉の渋谷のターミナルや新宿西口広場は奇跡的であるとさえ謂う。

次に6名のパネラーに依る発表が行われたので、簡単にその要所を纏めます。
①萬代恭博（坂倉建築研究所）
坂倉の建築の特徴は、既存のものに点的に新しいものを挿入し、その関係性を魅力的なものにしており、相対的なデザインであると語り、例として　パリ万国博日本館・神奈川県立近代美術館鎌倉を挙げている。
②山名善之（東京理科大学）
ル・コルビジェのもとで修業していた時代に触れ、２０年代は理念的だったコルビジェが坂倉の在籍していた30年代になると都市計画のプロジェクトを手掛けるようになり、坂倉は「アルジェ都市計画」や「輝ける農村計画」などを担当していたと語り、この時期に実際のプロジェクトを通じてコルビジェのエスプリを直に
学んだことは、坂倉にとって幸運であったと謂う。
③田路貴浩（京都大学）
戦前戦後を通じて坂倉の仕事のプロデューサーだった小島威彦（スメラクラブ創設者）は、パリ万国博日本館をインターナショナルで土着的な魅力があると評した。
④青井哲人（明治大学）
私鉄のターミナルプロジェクトにおいて、新宿西口は小田急百貨店ビルと中央広場で構成されており、
副都心事業の一環の計画であった。
⑤松隈洋（京都工芸繊維大学）
共にコルビジェに師事した坂倉の飯箸邸（1941）と前川國男の自邸(１９４２)について語り、両方とも
同じ工務店に施行させていることや、前川自邸は都市の中の建築だが飯箸邸は都市に建築をどう介入させ調和させてゆくかを考えたとその違いを明らかにした。
⑥北村紀史（元坂倉建築研究所）
コルビジェの著書「今日の装飾芸術」（1925)に触発されコルビジェの研究生となったペリアンを同僚だっつた坂倉が日本に呼んで「選択・伝統・創造」展を共催しまたカタログを共著して、家具・工業デザインへ介入していった経緯などが語られた。

内藤氏と6人のパネラーとのディスカッションが終った後、会場との対話で坂倉事務所ＯＢの方の話しが興味深かったので紹介します。
・坂倉は住宅は屋根が勝負といっており、その設計過程はスケッチは描かず所員に提案させ、それに是非の判断を下すスタイルであった。
・大阪支所の西澤が担当したコートハウスのNi(仁木)邸（1960）は、ケーススタディハウスの影響を受けているという。
・坂倉は、大阪支所のことは所長の西澤さんを信頼し任せていた。

最後にまとめとして内藤氏が、「鎌倉近代美術館を改めて観ると、その貧しく簡素な材料で何とか建築に仕上げようとした営為に感銘を受ける・・・だが、何かわかりにくく、伝わり難さを感じる。」と述懐し、午前と午後二部構成のシンポジウムは終わりを告げました。

※一日がかりのシンポジウムを拝聴し終わり、どこか消化不良な感覚が残ったのはテーマであった坂倉準三「位置」（居場所）についてのディスカッションが散漫な印象で、そのことに積極的な推論を展開したのが磯崎氏だけだったことが原因のようです。個人的に建築家坂倉準三というと真っ先に、鶴岡八幡宮境内の平家池に反射した陽光が天井を陽炎のように照らしているテラスとその前に並ぶスレンダーな鉄骨のピロティが池上の石に脚を降ろしている「鎌倉近代美術館」（1952）の軽快で美しい姿が目に浮かぶ。磯崎氏が展覧会のカタログに書いているとおり「コルビジェよりコルビジェらしい」近代建築であり、戦前のデビュー作となったパリ万国博日本館(1937)でコルビジェのモダニズムの理念に日本の伝統感覚を融合させた坂倉の美学をさらに洗練させた日本的な端正な佇まいに心惹かれてしまうのです。坂倉に終生、強い影響を及ぼし続けたコルビジェは30年代以後も時代の変化に合わせて変貌を重ねていったが、坂倉自身は３０年代に接したコルビジェの直系として、モダニズムの理念と日本的感性を持ち続けながら近代建築をつくり続けていったような気がする。 </description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/07/31/%e3%80%8c%e5%bb%ba%e7%af%89%e5%ae%b6%e3%80%80%e5%9d%82%e5%80%89%e6%ba%96%e4%b8%89%e5%b1%95%e3%80%8d%e9%96%8b%e5%82%ac%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%82%b8%e3%82%a6%e3%83%a0/</link>
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	<item>
		<title>建築家 坂倉準三展　Junzo Sakakura,Architect</title>
		<description>
モダニズムを生きる-人間・都市・空間
モダニズムを住む-住宅・家具・デザイン
日本の近代建築を先導した一人である建築家・坂倉準三(1901~1969)の回顧展が、坂倉の代表作であり戦後日本における近代建築の出発点ともなった神奈川県立近代美術館の鎌倉館と汐留ミュージアムの二つの会場に分かれて開催されている。鎌倉では戦後復興期と高度経済成長期の渦中で手掛けた美術館、市庁舎、学校施設などの公共建築から企業の本社ビル・研究施設などの大規模な民間建築、また渋谷や新宿など都市中心部の巨大ターミナル計画に到るまでの新時代を告げるような建築群が取り上げられている。一方、汐留では、「住宅は建築の本質的なものを全部持っている」と坂倉自身が語っているように、建築家として独立した最初の作品から生涯にわたって手掛けた住宅を主題とし、住空間にマッチさせるべく考案していった椅子・テーブルなどの家具、また建築の領域のみならず他領域で活動するデザイナーやクリエイター達とのコラボレーションによるプロジェクトなど多岐にわたる坂倉準三の仕事の全貌が明らかにされていました。以下に両展覧会を観た後の印象と分析を記します。

Ⅰ.国際舞台で鮮烈なデビュー
出発点としてのパリ万国博日本館
坂倉は、パリのコルビジェのアトリエに在籍していた(1931～1936)頃、開催されたパリ万国博覧会(1937)の日本館を設計し、コンクールのグラ ンプリを獲得するという栄誉に輝き、建築家として国際的に華々しいデビューを飾っている。この日本館は日本の博覧会協会が求めていた日本趣味なものという 意向に従わず、坂倉が師事していたコルビジェの近代建築思想をそのまま造形化して実現させたもので、日本の近代建築が国際舞台で脚光を浴びた最初の出来事でもあった。日本館は一見すると、ガラスと鉄骨のピロティで持上げられ外観や傾斜地を巧みに利用したスロ－プで観客を導くというコルビジェ的な構成であるが、一方で手摺やファサードに欄干や矢来を連想させるようなローカルな日本の伝統的意匠も取り入れられ、全体に軽快でしなやかな印象を漂わせている。
Ⅱ.パリから戦争直前の日本へ
「選択・伝統・創造」展
1939年にパリから帰国した坂倉は、目黒に事務所を構え日本で建築家としてのキャリアをスタートさせる。この太平洋戦争直前から敗戦に到る(1945)までは、コルビジェのアトリエで同僚だったシャルロット・ペリアン(1903~1999)を日本の工芸指導顧問として、パリから招聘(1940)し「選択・伝統・創造」と題した展覧会を東京と大阪の高島屋で開催（1941)されたことが特筆される。この展覧会ではペリアンと坂倉の審美眼で「選択」された日本の工芸品や過去の「伝統」が具えている美の法則を踏まえて「創造」された家具などが展示されている。とりわけ目を引くのは、日本の蓑を編む技術を長椅子に応用したり、竹材を駆使してスツールを作ったりするように、ペリアンが伝統の技から新鮮なデザインを生み出している点である。この展覧会は戦後の日本の工芸デザインに大きな影響を与え、展覧会を協同した坂倉自身もこの後、建築のみならずペリアンのデザインに影響されながら低座椅子など日本の住環境を考慮した家具を盛んに製作していくことになる。

戦中に実現した小住宅・・・飯箸邸・龍村邸
東京と大阪で展覧会を開催した1941年、坂倉は前年に事務所を開設してから最初の実作である「Ｉｈ（飯箸）邸」、更に太平洋戦争最中の1943年に2作目の住宅の「Ta(龍村)邸」を完成させる。戦中という最悪の環境で実現した建築はこの2軒の小規模住宅のみであるが、この2作は戦後に陸続と展開される坂倉の住宅の習作ともいえる建築であった。東京の郊外で田園風景が広がっていた戦前の世田谷、緑深い等々力渓谷に程近い「Ih(飯箸)邸」（1941)というと、昨年、東陽町の竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで催された「木造モダニズム展」で前川國男の自邸（1942）とともに「飯箸邸」が展覧されていたことを想い出しました。この二つの住宅はいずれも木造で一つの切妻屋根が全体を大らかに覆っているのが特徴的です。東西に長い平面をもつ「Ｉｈ（飯箸）邸」は当初、コルビジェばりのバタフライ屋根を計画していたが、庇との関係からうまくいかず、坂倉自身が長手方向に緩やかな切妻の大屋根を架けるように変更したと謂う。やや偏芯した棟から降ろされたシンプルな切妻屋根を戴く白い漆喰壁のファサードが南北に細長い敷地の東西に広がっている姿は威厳すら漂わせている。対して正方形平面の中心に中庭をもつ宝塚の「Ｔａ（龍村）邸」は、中庭上部がぽっかり切り取られた急勾配の切妻屋根が架けられ、空を望む小さな中庭はどこか戦後の神奈川県立近代美術館の中庭を想わせる雰囲気が漂う。これら切妻の大屋根は、戦後に連作される住宅においても繰り返し架けられていることから、戦中に実現したこの二つの小住宅は、戦後の坂倉の住宅に対する方向性を決定付けた原点ともいうべき重要な作品であると謂える。
Ⅲ.戦後の再出発、新しき創造へ
家具への取り組み
焼け野原となった東京で終戦を迎えた坂倉は、進駐軍(GHQ)関連の住宅やビルの改装などを中心に仕事を再開する。まず、焦土となった都市のため、パリ時代から交流のあるジャン・プルーヴェのアイディアを翻案して戦中から展開していた「戦争組立建築」を「復興組立建築」と役割を変え規格化住宅を製造販売して、日本の復興へ寄与する。住宅の規格化ともに戦中からペリアンに触発されて手掛けていた家具の製作も、戦後更に推し進め、1948年にはニューヨーク近代美術館(MOMA)が主催した「ローコスト家具国際設計競技」に出品した低座椅子が佳作入選を果たす。坂倉は、戦前ペリアンと協働した「選択・伝統・創造」展で着目された竹材に取り組み、籠状に編んだ竹籠パネルを椅子の背と座に利用しＺ型に切り抜かれた板のフレームで繋ぐ竹籠座低座椅子でこの設計競技に挑んだ。竹という日本の伝統素材を匠の技で構成した坂倉の作品は、ＭＯＭＡの審査員から「明快な構造。自然素材に近代的なフォルムを与えた。」と評された。
会場でオリジナルの竹籠座低座椅子を観た時、2枚の板で竹籠の座と背を支えるその構造のシンプルさに日本の伝統が持つ簡素明快さと繋がるセンスを感じ、伝統の持つ法則に従い正しく創造するという戦前の「選択・伝統・創造」展に於ける基本理念が、戦後の坂倉の家具製作のコンセプトとなり発展していったように思えた。

住宅の多様な展開・・・バタフライ屋根・切妻屋根・コートハウス
戦中に実現した二つの小住宅を出発点として、戦後の坂倉は主に規模の大きな邸宅を多彩なバリエーションで手掛けていく。それは坂倉が戦前のパリ時代に交流した人間関係を戦後、クラブハウス(クラブ関西・関東)などの設立に参画してその交流を更に発展させて、そこで築いた実業界、政界とのコネクションを活かして、次々と富裕層の邸宅の設計を依頼されたからに他ならない。存分に腕を奮う環境を得た坂倉は、戦中に用いた切妻大屋根やコルビジェ仕込のバタフライ屋根、近代的なフラットルーフなど多彩な屋根のバリエーションを展開していくことになる。
事務所の処女作である「Ih（飯箸）邸」（1941)で計画しながら断念したバタフライ屋根は、「Ｔe（寺田）邸」(1952)でようやく陽の目を見る。「Ih（飯箸）邸」同様、敷地いっぱい東西に長い平面を持ち、2階の東西で高さの違う空間に対応すべくバタフライ屋根が架けられているが、スキップフロアではなく軒高があり過ぎるためかバタフライ屋根特有の軽快さやシャープさが感じられず、ファサードが間延びしているように見える。大阪支所が担当した「Mu（村川）邸」（1956）のほうが、展示された写真で見る限り、スキップフロアによって軒高が抑えられ、バタフライ屋根のシャープさが活かされている。師のコルビジェのエラズリス邸計画案(1930)で着想されたバタフライ屋根への坂倉の執着は続き、「Fu(藤山)邸」（1957）では、池を望む広大な傾斜地に半中庭を囲んだコの字型の平面を採用し、中庭上部の谷部分を切り欠いたバタフライ屋根を架けている。このぐらいの大邸宅になるとボリュームがあり過ぎて、バタフライ屋根の存在感が希薄に感じられる。やはり、エラズリス邸やＡ・レーモンドの夏の家（1933）のように長方形平面で軒高を抑えられる規模の住宅が、バタフライ屋根を採用するのに適しているようだ。
「Ih（飯箸）邸」（1941)や「Ｔａ（龍村）邸」（1943)を大らかに覆った切妻大屋根は、戦後、規模の大きな住宅で採用され定形化していく。坂倉が手掛けた住宅で最も規模の大きな「Sh（塩野）邸」（1955）は、国立西洋美術館の敷地を視察する目的で来日した師のコルビジェを関西に案内した際、建設中のこの住宅に立ち寄ってもらったほどの自信作であった。南北に長い敷地の中央に東西に細長いプロポーションの平面をもち、南に芝庭が広がる。「Ｉｈ（飯箸）邸」と同様の敷地環境にあり、切妻大屋根を架け渡すに相応しいロケーションに位置している。「Ｉｈ（飯箸）邸」のやや偏芯した切妻屋根とは異なる左右対称の緩勾配の長大な切妻大屋根が大らかに架け渡され、その下には白い壁から水平に伸びる長い庇と庭側に面した横長の大開口など・・その構成は「Ｉｈ（飯箸）邸」と似通い、ファサード全体を心地よく引き締めている。また「Sh（塩野）邸」は完全な2階建てであるためか、高い棟位置から緩やかで長大な屋根が伸びて軒深く跳ねだしている姿は、そこに生活をする家族を育むに相応しい安定感を醸し出している。

戦後の坂倉の住宅作品で異彩を放っているのは、1952年に開設した大阪支所の所長である西澤文隆が中心となって丁寧に紡ぎ出した住宅群である。関西の風土から醸されるその洗練と優雅さは、師の坂倉を上回る腕の冴えが感じられる。60年代に連作される一連のコートハウスは、西澤が主導して生み出した庭と住まいの関係を重視したスタイルの住宅であった。コートハウスとは敷地境界を塀や壁で囲い、その内側を分割して室内と庭が緊密に絡み合い連続する空間を配置するもので、密集し条件の悪い環境の敷地にいかにして快適な住まいをつくるかというところから始まっている。その原理を端的に現わしたのが「Ｎｉ（仁木邸」（1960）で、南北に細長い敷地を東西三分割し、そのスペースに部屋と庭を市松模様に嵌め込み、全体に大きくフラットな屋根が架けられた平屋である。庭部分にはパーゴラ、室内部分にはフラット屋根が架り、どの部屋も必ずパーゴラから陽が注ぐ庭に二方向、面するよう構成されている。ここでは各室相互の視線がぶつからない配慮と、内部である住まいと外部の庭を分離せず等しく扱い、敷地全体を住まいとして一体化する演出が施され、寝殿造りのような清々しい空間が立ち現われているようだ。
西宮市の新興住宅地にある「Ｎｉ（仁木邸」とはロケーションの異なる大阪市内の街中に位置する「Mi(宮本)邸」は２階建てのコートハウス。この住宅は、オフィスの近くの街中に住まうことを選択した施主のために、出来るだけ緑の豊富な住環境にすべく設計されたという。その姿勢は、セットバッツクした2階前面の屋上も庭園化し緑で覆い尽くした光景にも現われている。南北に長い敷地の東西の境界に2枚のコンクリート壁を建てて、南北方向を開放する構造によって、敷地内に前庭・中庭・後庭の三つの庭が確保されている。これらの庭と部屋が開口部を透して北から南まで連続した透明感ある空間が清々しい。旺盛に繁茂した緑に住宅が覆われた光景の俯瞰写真を見ると、設計者の住まいと緑への深い愛情に脱帽する思いでした。
Ⅳ.建築から都市・公共空間へ
戦後、日本が復興を遂げ経済が高度成長していく50年代から60年代にかけて、坂倉に依頼される仕事も増加し大型化する。企業の研究施設、市庁舎などの公共建築、渋谷や新宿といった都心部のターミナルプロジェクトなど大規模で複合した施設を設計し、モダニズムの理念を手がかりに混沌とした都市空間へコミットしていく。戦前の事務所開設から戦後の初めまで、坂倉の仕事は住宅、百貨店など一貫して民間建築に終始していた。ＧＨＱの占領から日本が開放された50年代から、コンペによって獲得し実現した公共建築が「神奈川県立近代美術館」（1951）である。この建築は坂倉が建築家として飛躍するターニングポイントあり、また戦争でその進展を阻まれた日本の近代建築にとっても戦後の出発点とも謂える建築であった。この公共建築を皮切りに坂倉の仕事は大型化し塩野義製薬や東洋レーヨンなど企業の研究所や関連施設、岐阜の羽島や広島の呉市といった市庁舎を次々と手掛けて行く。

渋谷計画（1952～1970）
建築家として飛躍した50年代、コルビジェの元でウルバニズム（都市計画）を学んだ坂倉に都心の総合計画に関わる機会が訪れる。坂倉は東京急行電鉄会長の五島慶太から依頼を受け、国鉄・東急渋谷駅周辺の将来像を描いた「渋谷総合計画」（1952)を構想し、その一画であった東急会館を設計し完成させる(1954)。この会館は後に東横百貨店西館と呼ばれ。近年大幅にファサードが改修されて今もＪＲ渋谷駅ハチ公口を見下ろすように立っている。低層の商業ビルや木造家屋が並んでいた当時の渋谷で、周囲を睥睨するように白く輝く11階建ての高層ビルは、国鉄渋谷駅の改札口や東横百貨店新館、劇場などを含む複合ターミナルビルの先駆であった。国鉄を挟んだ東には戦前(1934)に建てられた東横百貨店（現東横百貨店東館）があり、これと国鉄を跨いで繋ぐオーバーブリッジをもつくられた。更に、渋谷駅の東を走る明治通りの向こう側で闇市街だった敷地に、大小四つの映画館と東横百貨店の雑貨売り場(のれん街）や美容室、結婚式宴会場、屋上にシンボリックなプラネタリウムを載せた東急文化会館（2003年閉館）を計画する。
この８階建ての複合ビルは、「渋谷総合計画」に則り、明治通りを上空を渡る連絡通路で増築する東急百貨店事務所棟と接続させて1956年に完成する。以後も坂倉は、京王帝都の駅ビル（京王ビル1961）、国鉄と京王帝都渋谷駅繋ぐ京王線連絡通路(1961)、渋谷駅西口ビル(1970)を完成させ、「渋谷総合計画」（1952)から18年の長きにわたり、渋谷のターミナル建設に関わることになるのだが、今、渋谷駅と東急東横百貨店ほど複雑に入り組んだターミナル空間は都内でも珍しいのではないだろうか。坂に囲まれた谷間の渋谷にＪＲ（旧国鉄）や私鉄（京王井の頭線・東急東横線）、地下鉄（銀座線・田園都市線）など複数の路線が集まり、その改札口と東横百貨店の東・西・南館が各層ごとに繋がって混じり合い迷路のごとき呈をなしてしまっている。最早、この錯綜した関係を解きほぐすことは不可能に近い。それは、交通（鉄道網）と流通（百貨店）という都市の根幹に連携がなく、それぞれが長い歳月をかけて自己増殖することを看過した結果であり、また「渋谷総合計画」を立案しタ－ミナルの建設に携ってきた坂倉の都市計画家としての限界も示しているように思える。

新宿計画（1961～1966）
東京で新興の繁華街というと、渋谷に並んで新宿が挙げられる。1960年に決定された新宿副都心建設事業は、広大な淀橋浄水場を移転し、東口に比べて未開発だった新宿駅西口周辺をビジネスセンターとして整備する計画であった。この計画の要となったのが西口の駅前広場である。61年、坂倉はまず小田急の新宿駅西口本屋ビルを設計委託されるが、小田急が西口の広場建設の事業者となったため、ビルとともに広場の設計も任されることになった。西口広場は地下2階を駐車場、地上を自動車道路及びバスターミナルとして整理し、その間の地下1階を国鉄・小田急・京王・地下鉄など新宿に集まる各路線と周辺建物を結ぶコンコースとする3層構造の建築物として計画される。このような地下2階から3層に及ぶ立体構造となったのは、当時のモータリゼーションの進展で交通量が増大し、都心が駐車場不足に陥っていた為、副都心への車のアクセスを考慮してビル建設者に広大な地下駐車場の付置義務を課されたからである。このため、新宿駅西口には巨大な地下空間が出現することになった。メインとなる地下1階では、各路線のコンコースと四周のオフィス及び商業ビルの間を回遊する群衆をいかに円滑に捌くかが課題であったが、坂倉は直径60mの巨大なヴォイドを穿ち、優美な曲線を描くランプウエイを走らせることで地下空間に都市の結節点ともいえるプラザ（広場）を生み出した。このヴォイドは、地下のコンコースを歩いて乗り換え或いは西口周辺のビルへアクセス、階段で地上へ出るなどこの空間を利用する人々に、地上の光りや風、風景または方向感覚などを感じて貰える建築的な仕掛けであった。西口広場の竣工（1966)の一年後、最初に設計委託された新宿駅西口本屋ビルが完成する。小田急百貨店をテナントとする南北400ｍの長大なファサードをもつこのビルにも、坂倉は力を注ぎ西口広場同様の公共性を与えている。小田急線の軌道上部空間を活用した人工地盤をつくり、歩行者空間として南側の甲州街道まで延長し繋げた。後に、この人工地盤はモザイク坂と呼ばれ、西口から甲州街道へ向けて歩行者の流れをつくるストリートに成長し、現在は甲州街道を越えて南口の新宿サザンテラスに連結して東南方向の高島屋百貨店まで広大な歩行者空間が形成されるに至っている。このビルの完成した2年後の1969年に坂倉は進行中だった多くのプロジュクトを抱えたまま急逝する。没後40年の歳月が流れた今、新宿駅西口に立って、楕円形の巨大なヴォイドと南北に突き出た換気塔の対比的な造形が西口広場のイコンとして輝き、都市の公共空間として生動していることを確認する時、坂倉が師であるコルビジェの提唱したウルバニスム(都市計画)を担い、都市に対して果たした仕事の大きさを想う。
Ⅴ.まとめ
今回の回顧展を観るまで、自分の中の坂倉準三のイメージは「鎌倉近代美術館（現神奈川県立近代美術館）」（1951）に尽きていた。コルビジェを彷彿とさせる白く端正な直方体の箱が歴史ある鎌倉鶴岡八幡宮の平家池の汀に軽快に浮かび、日本的な中庭を取り巻くようにコルビジェの無限発展美術館のコンセプトの如く螺旋状にギャラリーが展開する。そして、蓮の池に脚を降ろした鉄骨のピロティで支えられた空間に迫り出した半屋外テラスの天井に池の波紋が映し出される幻想的な光景が脳裏に焼きついているのです。しかし、小さなスケールの家具、住宅から大スケールの百貨店やオフィスや市庁舎等の公共建築、そして渋谷・新宿といった巨大スケールの都市計画に至るまで、その仕事は個人の建築家の枠を超えるような広い範囲に渡っていることに驚きを禁じ得ませんでした。特筆すべきは、大家となった建築家が遠ざけるきらいのある住宅の設計や家具のデザインを独立当初から晩年まで一貫して手掛け続けたことと、巨大で複雑な都市中心部のターミナル建設に長期間取り組み、現在から見ても大胆な公共空間を実現したことです。思えば坂倉がモダニスムに生きた戦後50年代～60年代までの日本は、個々の力量が求められ、また充分に発揮できた発展途上の社会でした。そんな時代なればこそ、新宿西口地下広場のような都市の公共空間が実現できたとも謂える。しかし、個人の建築家が都市の中心部を開発する計画を手掛けることすら難しく、個人の力を発揮する機会が喪われる一方の社会となった現代、坂倉が都市に遺したものの意味は以前にも増して大きくなっているのではないだろうか。そんな想いにふけながら、坂倉没後40年経って開催された回顧展を後にしました。 </description>
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	<item>
		<title>聴竹居　Chochikukyo</title>
		<description>1 「聴竹居」南側全景（1928)

敷地：京都府乙訓郡大山崎町
竣工：昭和3年
設計者：藤井厚二
Location:Ohyamasaki-cho,Otokuni district,Kyoto Prefecture
Establishment:1928
Architect:Koji Fujii
「和風の伝統から生まれたモダニズム住宅」
Ⅰ.日本の住宅建築の先駆者　藤井厚二
藤井厚二（1888~1938）
京都南郊の大山崎は、古くから京都～大阪間を結ぶ交通の要所であり、また戦国期の茶匠千利休が創建した茶室待庵(国宝）があることでも知られている。その大山崎は天王山の麓、鬱蒼とした樹木に埋もれるように一軒の古い住宅がある。「聴竹居」と呼ばれるその住宅は、昭和3年(1928)にこの地に建てられてから80年の歳月が流れた今も竣功当時の姿をとどめながら静かに佇んでいます。この住宅は、大正から昭和の戦前期にかけて活躍した建築家で京都帝国大学の教授でもあった藤井厚二の自邸である。

藤井は、大正9年(1920)にこの天王山の麓に約1万2000坪もの土地を購入して、二軒目の自邸を建てて神戸から移り住んでいる。藤井はこれを「実験住宅」と称して、設計した住宅に自らモニターとして住まい、その住み心地を検証・研究することで、近代化する日本人の生活に適応する住宅を模索していくという実験を、昭和3年(1928)までの10年足らずの間に四棟の自邸を近隣に建て続けながら繰り返していく。設計から建設、生活、研究という過程を経て次々と建て替えられていった自邸は「聴竹居」をもって五回目を数え、実験住宅の追尾を飾る集大成的な作品となった。藤井は、日本の住宅に対する理念や研究による理論を纏めた著書「日本の住宅」（昭和3年出版)の最初の章で、「個人主義、実利主義等の発達して来た今日では、住宅建築が重大なる地位を占めるに至り、何れの国でも其の国の建築を代表するものは住宅建築である」と明言し、日本の文化が欧米文化に盲従して模倣の域を出ないことや忠実な模倣による住宅は理想から程遠いことを指摘している。そして「我が国固有の環境に調和し、その生活に適応すべき真の日本文化住宅を創成せねばならない」と説き、その実践として「建築学上より実験的にまた理論的に考察し、吾々の生活に適合すべき住宅について説いてみよう」と実験住宅への決意を表明している。49年という短い生涯を住宅研究に捧げたプロフェッサーア－キテクト・藤井厚二が実践した実験住宅とはどのようなものだったのだろうか。
Ⅱ.研究者兼建築家が試みた実験住宅
2 実験住宅配置図
住宅改良運動
藤井が実験住宅を実践し住宅の近代化を模索
していた1920年代は大正期にあたり、地方から都市に豊かな生活を求めて人口が集中し始め、都市生活者の住宅不足が社会問題化した時代である。また明治末から台頭し始めた中産階級の人々は西欧文化の洗礼を受けて高い知識を持ち、新しいものに積極的だった。大正時代は、こうした教養人から生活改善の声が高まり、住宅の近代化が論じられ、住宅の改良が盛んに提唱されていった。当時の住宅改良の問題点は日本人が取り入れつつあった西洋式の生活スタイルをどうやって日本の住宅に反映させるかということであった。つまり長い慣習で営まれる伝統的な和風と洋風をいかにして折衷するかが最大の関心事であり、こうした和洋折衷住宅へのアプローチを大正期に登場した住宅作家と呼ばれる建築家たちは共通の課題として、それぞれが試行錯誤を重ねていた。藤井は、こうした時代に京都帝国大学で教えていた建築環境工学という学術的な視点から日本の住宅改良を試みるという先端的なアプローチをした建築家であった。環境工学をベースとした藤井が考える住宅とは歴史、人情、風俗、習慣、風土と密接に関係するものであり、この理想の住宅像を伝統的な和風と洋風で把握した場合、藤井は当然のように和風の空間とデイテールを選択している。この事は、日本の風土に適した伝統的な空間の中に現代的な西洋式生活スタイルを融合させることで、欧米の模倣の域を脱した日本の近代住宅を創成しようとした藤井の気概と理念を端的に現わしているようで興味深い。
 3 第一回（1917）第二回(1920)実験住宅平面図
第一回から第四回までの実験住宅
藤井の著書「日本の住宅」には、第一回から第四回までの実験住宅の変遷が平面図や竣功時の写真とともに記述されているが、このうち第一回住宅だけは神戸に建てられ、その後の第二回から第五回に至る実験住宅は全て大山崎の山中に建てられている。しかし現存しているのは第五回の「聴竹居」だけで、それまでの実験住宅がどのようなものだっかは「日本の住宅」から想像する他はない。藤井が一連の実験住宅で取り組んでいた研究内容は、彼について書かれた論文や文献の分析によると以下の三点に分類されるようだ。
①居間を核とした空間構成
②坐式(和風)と腰掛式(洋風)の生活スタイルの融合
③快適な室内環境と設備面の充実
そこで、現存しない第四回までの住宅がどのようなものだったか、また「聴竹居」に至るまでどう変遷していったのかを平面図に即して観察していきたい。
神戸に建てた第一回住宅((1917)は、まだ藤井が独身で母親と2人暮らしをしていた為か、普通の木造二階建ての和風住宅で、藤井が使用していた二階の書斎と応接間以外は、居間・茶の間など全て畳敷きの純和風の設えになっている。全体に旧態依然の間取りだが、台所やトイレ・洗面化粧・浴室などの水周りの諸室を近接配置させるという設備面での近代的な試みがなされている。
 4 第三回(192２)実験住宅平面図
第二回住宅(1920）からは、神戸から京都南郊にロケーションを移し、大山崎町の西国街道沿いの町家が並ぶ町中に南北に細長い木造平屋が建てられた。この住宅から居間を中心として、その周囲に応接間・寝室・書斎・台所が配置された平面構成になってきた。また椅子・テーブル・ベッドを用いた洋室がふえる一方、畳敷きの和室を減らしていいる。その代わりに、居間兼食堂の脇に床を一段上げた間仕切りのないオープンな畳敷きのスペースを設けて、境界に置いた食卓を椅子坐・床坐の両方から使えるように工夫されている。この居間と連続する畳敷きスペースのレベルを上げて腰掛けた側と座った側の視線を調整する手法は、後の第三回、四回、五回住宅まで使い方を変えながら一貫して採用されている。

第三回住宅（1922)は、同じ大山崎町の国鉄を挟んだ景色の好い山側に、約一万二千坪の土地を購入し、自由に計画できる広大な環境の中で建てたものである。木造二階建て、一階は居間を中心とし、東側に前回と同様に五畳の小上がりスペースを設けている。応接間は前回は居間兼食堂の一画にカーテンで間仕切られていたが、ここでは居間から独立して東に配置し、客間は来客用の食堂を兼ねて居間の西側に設けられ、ここに椅子式の視線に合わせて高さを上げた和風の床の間があり、洋風に和の要素を折衷させている様が面白い。客間の南には切妻屋根を架けた吹き放ちのベランダが付いている。書斎と二つの洋寝室と六畳の寝室がある二階は、昭和9年(1934)に発生した台風の強風で吹き飛ばされてしまったという。
5 第四回(1924)実験住宅平面図


小高い山腹にある第三回住宅から近接の北西に建てられた第四回住宅(1924)は、木造平屋建てで第二回から継続した居間を中心とした平面構成がとられ、前回と同じく居間の一画を食堂とした居間兼食堂スタイルになっている。居間と連続する畳敷きの小上がりは、三畳と縮小され、応接間には前回の客間にあった椅子に腰掛けた姿勢に合わせたレベルの高い床の間とその脇にベンチが設けられ、後の「聴竹居」への布石が打たれている。居間兼食堂と小上がりに接したベランダは吹き放ちではなく、二方をガラスで囲んだサンルームのような空間で、ここにも「聴竹居」に繋がる藤井の意図を感じられる。

以上、第一回から第四回までの実験住宅の変遷を整理すると、独身で母との二人暮らしだった神戸時代の最初の自邸は、ほとんど畳敷きの純和風スタイルであり、まだ藤井自身に明確な目的意識が芽生えていなかったように思える。結婚して家族が増えた第二回以降は、椅子・洋卓・ベッドなどを用いた洋式の生活スタイルが導入され、畳敷きの和室のスペースは減少していく。第二回から四回に至る実験住宅では、居間・食堂を中心として全体のプランニングを構成しながら、伝統的な和風と洋風の融合、床坐と椅子坐の適切な組み合わせを図っていることに大正期という時代を超えた近代性が感じられる。

藤井厚二は五回目の実験住宅「聴竹居」を建設中に著した「日本の住宅」（1928）の序文の中で、「私は所謂最近の旅行として現今第五回目の住宅を建てておりますから、其の住宅の完成した時は『聴竹居図案集』と題して、自己の住宅の建築設計案を公にする予定で、即ち之が本書の結論とも称すべきものです」と自信をもって語っている。私財を投じて自ら実践してきた実験住宅の完成形にして集大成といえる「聴竹居」とはいかなる住宅だったのだろうか。
6 第三回(1922)実験住宅南側外観　              　　　　　　　７ 第四回(1924)実験住宅南側外観

Ⅲ.実験住宅の集大成　「聴竹居」
8 「聴竹居」配置図（1928) 
奥床しいアプローチ
京都から南西に走るＪＲ東海道本線山崎駅南口を出ると、駅前の広場の左にある妙喜庵・待庵がまず目に飛び込んできます。かつて、ここを訪れ幸運にも利休遺構の茶室待庵の内部を具に見学したことを想い出し感慨深いものがありました。藤井厚二も茶を嗜み、その著書で「茶室は純粋の日本建築であり、意匠の優秀、用意周到なるは驚嘆のほかなく、奥儀を究めた利休を追慕する念が深くなっている」と語っていることから、藤井がこの大山崎を自邸の計画地とした動機に、ロケーションの好さだけでなく妙喜庵・待庵の存在が重要な意味を持っていたように思える。駅前の妙喜庵から東に伸びる線路沿いの道を進み、踏切を渡って直ぐ左の坂道を登って山中を緩やかに蛇行する道なりに歩いてゆくと、曲折する道の突き当たりに「聴竹居」と書かれた看板を置いた小さな椅子が見つかり、新緑の樹木で覆われた中に風雅な石段が奥へ誘ってくれているようでした。自然石で縁取られ緩やかな曲線を描く石段を昇ってゆくと、眼前に「聴竹居」の姿が忽然と現われ、80年の歳月を経た佇まいは、蒼然としているがどこか爽やかな印象であった。

「聴竹居」平面図

 居室（居間）を中心に展開するワンルーム空間
ボランテイアスタッフに来意を告げて、内部を案内して貰う。薄暗い玄関から上がって正面の扉を開けると、そこには今まで体験したことのない和洋が渾然とした住空間と創意の凝らされた意匠が眼前に広がっていました。第二回から四回まで一貫した洋風の居間を中心としたゾーニングであるが、この居間はがらんとした不思議な空気感が漂っている。居間らしく感じられないのは、藤井が出版した「聴竹居図案集」における平面図で居室とされていることから、第四回までの実験住宅の居間とは違う空間が指向されたからではないだろうか。居室（居間）の一画に三畳の小上がりがあるのは前回と同様だが、食事室が独立して円弧状に開いた出入り口が居室側に貫入するようにユニークに食い込み、視覚的に空間を連続させている。更に東西に客室・読書室、南に三方をガラスで囲まれた縁側などのスペースが居室(居間）を取り巻くように貫入している。
これら居室(居間）を中心に四方を囲んだスペースは引き戸や障子を開けてしまえば、そこかしこに視線が抜けて居室（居間）を含んだワンルーム空間となるわけで、伝統的な和風の空間構成を発展させようとしたのではないだろうか。居室に食い込んだ四半円の入り口から一段上った食事室に入り、明るい窓際に造りつけられたベンチに座ると、四半円を描く開口から居室（居間）を透して三畳の小上がりや縁側まで見透せる空間の連続感が印象的です。この食事室は書院や数奇屋の上段の間のようであり、四半円に切り開かれたピクチャレスクな開口はアールデコかゼセッションのようだが、むしろ茶室の華灯口の意匠を思わせ、伝統的な和の趣きを感じさせる。

居室(居間)と一体化した三畳の礼拝スペース
前回までの住宅に繰り返し設けられていた一段上がった藤井特有の三畳の小上がりスペースは、この「聴竹居」でも健在だが、ここでは食事室が独立してあるため性格が違い、居間との境は33ｃｍの段差のみで完全に居室(居間)と一体化した空間になっている。壁一杯に造りつけられた飾り棚の中段にくすんだ金色の斜め壁が目を引く。ボランティアスタッフの説明によるとそれは扉で開けてもらうと、仏壇が隠れていました。フローリングの居室(居間）から立ったまま礼拝できるように、高さと角度が設計されているようだ。また表を飾るくすんだ金色は金箔が張られた跡であるという。スタッフの話によると、藤井はこの仏壇の他にも屋根の棟部分を葺いた瓦にも金箔を張った煌びやかなデザインをしており、豪奢な趣向を好む彼の意匠心が現われているようで面白い。

風が流れるモダンな縁側（サンルーム）
居室(居間）から南東の庭に繋がる縁側は三方を囲むガラスの横連窓から射し込む光りで満たされている。縁側的空間を藤井は実験住宅において形を変えて連続して設けており、第三回では手摺を廻した吹き放ち型のベランダで次の第四回は、二方向をガラスで囲まれた屋内型ベランダに変化させている。そして「聴竹居」では縁側と名づけられ、前回の屋内型を踏襲しながら南の庭に突き出た形にし、北の居室(居間)側との境を障子で軽く間仕切り、三方をガラスで開放しながら天井を網代という伝統的な意匠でまとめている。ここから新緑の明るい庭を眺めていると、かつて今ほど周囲の樹木が鬱蒼としていなかった昭和初めは、この大山崎の高台から眺める景色が素晴らしかったことが想像されます。この景色を存分に楽しむため、豪華にも東西南の三面にわたり全長10mものガラスが連窓とされ、コーナー部はＦ・Ｌ・ライトのようにガラスを直角につなぎ透明感が確保されている。さらに欄間部分に摺りガラスが入れられ明るさにともなう眩しさを防いでいます。こうした住環境への仔細な配慮は、あらゆる面ではらわれており、景色を楽しみながら涼風が感じられるよう腰壁部分には風を導く引き違い戸が設けられ、また網代天井には喫煙に配慮した開閉式換気口がデザインされている。昭和初頭に現代にも通じるような環境を重視した設計がなされていたことに驚きました。

和風の形式をモダンな感覚でデザインした客室
居室(居間)と縁側との間を障子で間仕切られた東西の小空間が客室と読書室です。その入り口を三日月形にデザインされた欄間が飾る客室は、正方形に近い6畳程のスペースに和洋折衷の不思議な趣きが漂っています。接客が重視された大正期には、洋風の部屋に椅子と洋卓などの応接セットが置かれた「応接間」が流行したが、この聴竹居の「客室」は、洋風の椅子式に和の床の間がついた斬新なインテリアでした。6畳程の小部屋でありながら、明るい広がりを感じるのは、直線的でシンプルなデザインの肘掛け椅子と窓下に造りつけられたベンチが配された奥に室の間口一杯の幅3mという大きな床の間が天井高く造られていることに起因しているようです。このモダンテイストな床の間は椅子坐の高さに合わせて床板が30cm程の高さに上げられています。それは西欧の如く壁に空けられたニッチにも見え、奥の壁面には書画、陶器、花の他に一葉の絵画なども飾られ鑑賞されたという。藤井は床板の高い床の間と椅子、造り付けのベンチの組み合わせを第四回住宅の応接間でも試みており、その具合の好さからこの「聴竹居」で更に発展させていったものと思われます。網代に張られた天井と床の間の落としかけの境の入隅部分に装置されたシャープな三角形の照明が部屋にモダンな雰囲気を漂わすことに一役買い、またベンチの背後からモンドリアンばりにイレギュラーに格子を組んだガラス窓から自然光が射しこみ気持ち好く部屋を満たしています。

子供と一緒に過ごす読書室
子供の居場所をどうするか。現代で住宅をイメージする時に居間やキッチンなどとともに真っ先に注目される子供部屋だが、昭和初頭の「聴竹居」ではどう考えられていたのか。居室(居間)と縁側の間に設けられた四畳半程の「読書室」と名付けられた小部屋がそれに想定されしています。西壁の窓際に修学院離宮客殿の霞棚を想わせるような棚を造り付けた書斎机と縁側に向かって造り付けの本棚ととも並べられた二つの子供机が同居したこの小部屋は、藤井親子が一緒に使う洋間に仕立てられている。子供机の正面の障子を開ければ、明るい縁側を介して南の庭やその向こうに広がる山並みの眺望を楽しめる仕掛けが楽しい。この部屋を書斎兼子供室ではなく読書室と名付けたことから、親子が机を並べてともに勉強（読書）する経験が子供の成長に不可欠とみた藤井の住宅に対する思想の一端が伺えるような気がします。
Ⅳ.まとめ　「日本的デザインの住宅」に取り組み続けた生涯
藤井厚二は著書の「日本の住宅」で日本趣味について語った「趣味」という章で、「科学の進歩に応じて直ちにそれを適宜利用することの必要であるのみならず、ゆったりとした落ち着きのある高雅な気分に浸ることの出来得る趣味の深い住宅を造ることが肝要である」と説き、計五回にわたる実験住宅を通じて、環境工学による科学的なアプローチのほかに日本固有の環境に調和した和の伝統を基調とした日本的デザインを探求している。実践と検証による改善から導かれた「聴竹居」では、和と洋を並存させる意匠が平面構成から一つ一つのディテールに至るまで及んでいるが、それはあくまで和の伝統を基調とした洋との並存であった。只、和の技巧的な意匠や環境を配慮した仕掛けに傾注した故か、「聴竹居」の居室(居間）を中心に三畳や食事室などの小空間が貫入した一室空間からは近代的な感覚でいうところの空間性が欠けているのは否めない。しかし西洋の近代主義による「空間」が閉ざされた厚く重い壁によって獲得された場であるのに対し、元々そのような構造を持たなかった日本の伝統建築では「空間」という感覚は存在しない。藤井が実験住宅で試み続けたことは、日本の伝統と向き合いその好ましさを再構成することであったように思う。「聴竹居」という住宅を体験すると、日本の伝統と向き合い格闘している力強さを感じ、空間としての拙さを覆う迫力に満ちている。関係者の献身的な尽力で内部の見学ができるようになった今、必見の近代建築であろう。

京都西山の麓、秋の紅葉が素晴らしい嵯峨野の大覚寺は、藤井厚二の郷里・福山の名刹・明王院の本山です。この寺から南西への路を辿ったところの二尊院にガンで死を予感した藤井が自ら病床でデザインした墓碑がある。薄く先端で軽やかに反った屋根を冠した墓碑は直線的でシャープな印象です。藤井は墓碑の完成した姿を見ることなく、昭和13年(1938)7月、住宅研究に専心した49年の短い生涯を終える。実験住宅の集大成とした自邸「聴竹居」に住んでから僅か10年後のことであった。

参照文献
・「日本の住宅」という実験　風土をデザインした藤井厚二/小泉和子著/農文協発行/2008
・モダニストの夢　聴竹居に住む/高橋功著/日本工業新聞社発行/2004
・まぼろしのインテリア/松山巌著/作品社発行/1985
・昭和住宅物語/藤森照信著/新建築社発行/1990
・思想としての日本近代建築/八束はじめ著/岩波書店発行/2005
・大山崎の光悦 住宅と作家-藤井厚二論/小能林宏城著/新建築1976

本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・1 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・2 「日本の住宅」という実験　風土をデザインした藤井厚二/小泉和子/2008
・3 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・4 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・5 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・6 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・7 「日本の住宅」/藤井厚二/1928
・8 「聴竹居図案集」/藤井厚二/岩波書店/1928
・9 「モダニストの夢　聴竹居に住む」/高橋功/2004
・10 「モダニストの夢　聴竹居に住む」/高橋功/2004 </description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/06/30/%e8%81%b4%e7%ab%b9%e5%b1%85%e3%80%80chochikukyo/</link>
			</item>
	<item>
		<title>京都御所　Kyoto Palace</title>
		<description>１ 紫宸殿　京都御所の中心で格式高い正殿

敷地：京都府上京区御苑内
造営：安政2年(1855)
Location:Gyoen-nai,Kamigyo-ku,Kyoto Prefecture
Reconstruction:1855
「明快、簡素でありながら優雅で格調高き宮殿」
Ⅰ.京都御所の変遷
2 平安京


平安京における皇居

現在の京都御所は平安京の大内裡（皇城)のなかに設けられた内裡（皇居)の姿を復元したものである。奈良平城京から平安京に遷都（794年)されてから十余年を経て、平安京が桂川と鴨川との間に中国の帝都長安を模範として建設された。この平安京の規模は、東西約4,520ｍ　南北約5,320ｍに到る広大な矩形で、中心を成したのが天皇が居住せられる内裡と太政官をはじめとする行政諸官庁が立ち並ぶ大内裡が位置する部分で、現在の御所から2km程西で、北は一条から南は二条に及び、東は現在の大宮通りから西は北野御前通りに到る間に営まれ、四周を瓦塀で囲まれ、その外周には御溝水が流れて、現在の京都御所周辺の如き景観を成していたと謂う。この平安京における皇居は、大内裡中央から東北よりの位置にあり、広さは東西約230m、南北約300mで、現在の御所より南北が短く小規模であったようだ。

3 平安京大内裡図


中世から近世における皇居の起源

大内裡のなかに設けられた内裡（皇居）に火災が発生した時、臨時的に大内裏の外にある臣下の邸宅に移り、ここを仮の皇居と定めることが度々あり、これを里内裡と呼んだ。里内裡は宮中の公卿・大臣などの屋敷であるので、内裡のような設備もなく規模も小さかったので、天皇は内裡が復旧するまでの数ヶ月或いは一年という短期間、そこで気楽に生活されるいうことを繰り返したため、都には土御門殿・閑院殿・富小路殿など数多くの里内裡が生まれた。このように里内裡は皇城の外に設けられた皇居であるが、大内裡にある皇居に準じて、紫宸殿・清涼殿などの各殿舎を最初に造って（1117)壮麗な宮殿に造営されたのが鳥羽天皇が行幸した土御門殿であった。各所を転々とした里内裡も、南北朝の頃、北朝が土御門殿を皇居とし、南北朝合一後、名実ともに皇居と定められた。すなわち現在の京都御所は、平安京における大内裡のなかの内裡の一部を復元しているが、実際には大内裡の外部に営まれた里内裡であった土御門殿を起源として発達したものであった。

4 平安京内裡図

現在の京都御所の沿革

南北朝合一で正規の皇居となった後も、戦乱が相次ぎ火災で焼亡しては、室町幕府によって再建されていたが、平安京以来の京の町を焦土とした応仁の乱後は、皇居とは名ばかりの荒廃の一途を辿っていた。ようやく、戦国期に上洛した信長や天下人となった秀吉の手によって、大規模な修理造営が成されて、かつての美観を取り戻し、現在の御所に見られるような紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿などの各殿舎が完備されたようである。次いで慶長年間に徳川幕府は更に整備を進めて築地を築造し南門（建礼門)を設けた。その後、幾度となく火災で焼けたため、数次にわたる造営が繰り返されたが、寛政元年(1789)において幕府は抜本的な大造営計画を立て、平安京大内裡における皇居の原型を考証し、古制に則り、敷地規模も拡張して復元され、概ね京都御所の規模と配置が整然としたものになった。そして幕末の安政2年(1855)、前年の出火でまた焼失した皇居の造営が行なわれたが、国事多難の時世を考慮して節約を旨とし、寛政度造営の手法が踏襲されている。これが歴史上、最後の造営で、今日の京都御所の姿が現出されるに至っている。
Ⅱ.御所の建築
5  御所の全体配置図(斜線は戦中解体部分）


京都御所は東は寺町、西は烏丸、南は丸太町、北は今出川の通りで囲まれた御苑の北中央築地塀で区画された一郭で、東西226m,南北447mの南北に長く東北隅が欠けた矩形である。この築地塀をめぐらした矩形の中に、紫宸殿を中心として数多くの殿舎が展開している。築地には東西南北に宮門が開かれ、南に建礼門、東に建春門、西に宣秋門、清所門、皇后門の三門が北に朔平門を開く。建礼門は天皇が出入りされる正門で平常は閉じられており、宮中へ公家が出入りする西の宣秋門は公家門とも呼ばれていた。殿舎は南から紫宸殿と東西南に門がつく回廊に囲われた白砂の南庭、その庭と繋がるように清涼殿が紫宸殿の西北に東面して建ち、その前を紫宸殿の背面と北と東に走る渡り廊下に取り巻かれた白砂の東庭が広がっている。紫宸殿東北から北に走る渡廊下の下に開けられた通路を潜って、東に向かって左折すると、小御所前に出、東には中島を浮かべた大きな池が曲線を描きながら北へ延びている。小御所の北に御学問所が並び、その北は天皇の日常の御住まいだった御常御殿、雁行する廊下でさらに北方の迎春殿・御涼所・茶室聴雪へ繋がる。ここまでが御所の大半を占める皇居部分で、塀を隔てて北が皇后の御住まいだった皇后常御殿に飛香舎、西南に皇太子・皇女が住まわれていた若宮・姫宮御殿があり、御所の最北にあるこの地域は独立して塀で囲い込まれている。以上が御所に建つ建築群の概ねの配置で、これらの建築群の間隙に白砂の中庭や坪庭、池を中心とした樹木豊かな回遊式庭園が展開している。
Ⅲ.建築群と庭が織り成す集団美
6 建礼門　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　7 築地塀

8 承明門より紫宸殿を望む　　　　　　　　　　　　　　　9 紫宸殿廻廊
御所周辺

天皇皇后両陛下御結婚50年を記念して特別公開された京都御所を晩春に訪れ、その造形的雰囲気を具に拝観してきました。御苑の幅広い砂利道を歩いて御所の四周を取り巻く築地塀に開けられた南の正門、建礼門から東西に延びる築地塀の先に望見される東山の山並みを眺めているとしばし時を忘れ、白い砂利道に築地塀の影が写り、その足許の側溝を綺麗な水がさらさらと光って流れている光景は清楚で美しい。

紫宸殿　明るい南庭

南の建礼門から築地塀に沿って西に廻り、宣秋門から御所内に足を踏み入れると、斜め前に牛車で参内する大臣・高官の玄関だった御車寄が眼に飛び込んでくる。柔らかな唐破風形式の屋根を乗せた御車寄を左に見ながら南下して行くと、朱塗りの廻廊がめぐらされた紫宸殿の西側に出る。更に南の廻り、建礼門の直ぐ前の廻廊に開けられた承明門から奥に御所内の諸殿で最も格式高い正殿の紫宸殿の雄姿が垣間見える。ぐるりと西に廻り、廻廊の西に開けられた日華門から紫宸殿南庭に到る。朱塗りの円柱と本瓦葺きの切妻屋根、白亜の壁で構成された廻廊に東西南の三方を囲い込まれた白砂一色の明るい平庭が厳かな紫宸殿の前に広々と展開して心地好く、また廻廊木部の鮮やかな朱色と白砂の清新さが明らかな対照を示して美しい。
10 紫宸殿南正面全景
紫宸殿は即位礼などの式典を執り行う格式高き正殿で、御所内で最も規模が大きく、御所全体を象徴する中心的建築です。古の平安京大内裡内皇居の紫宸殿の形式を正しく継承していると謂われ、格式の高さを示すように四周を巡る高欄を付けたすの子縁は地上７尺８寸の高床である。正面柱間が九間、側面四間で南面は全て格子の蔀戸という典型的な寝殿造りで、南正面中央に雄大な18段の階段が南庭に堂々と降りている。南面以外にも東北、東南、西南、西北の四隅に9段の階段が陣の座や渡り廊下、庭に連なっているが、いずれも段は分厚い無垢の木板が使われ、そこだけ純白に塗られた小口がシャープに浮き上がり、現代建築に見られるような切れ味鋭いデイーテールに新鮮さが感じられる。桧皮葺の屋根は普通の入母屋とは違い、母屋に架けられた切妻屋根が廂部分では母屋の屋根とは縁を切って片流れ屋根となっている。南庭から見ると中途で段がつく特異な屋根だが、どこか優雅な雰囲気が漂い寝殿造り本来の趣を現わしているようだ。
11 紫宸殿西南階段　　　　　　　　　　　　　　　　　　　12 紫宸殿南庭18階段

13 紫宸殿背面より清涼殿東面を望む
清涼殿　清浄なる東庭

紫宸殿北面の高縁を西へ階段を降りて長橋を進むと、その突き当たりに清涼殿がある。清涼殿は昔、仁寿殿と呼ばれた天皇の昼の御座所であり、日常の執務が行なわれた御殿である。紫宸殿の西北に東面して建っている。紫宸殿と同じ寝殿造り、中央に母屋があり四方に廂をめぐらし、東面にはさらに孫廂に高欄を廻したすの子縁が設けられている。母屋と東廂の間には御簾がかり、母屋中央には御休息のための椅子式の帳台が置かれ、東廂中央には二枚の厚畳が敷かれた昼御座がある。天皇は昼間ここに座し、大臣以下の高官らは孫廂やすの子縁に居並び、政務が行なわれたと謂う。東すの子縁には南北に階段が東庭に降り、付近には呉竹、漢竹と呼ばれる二株の竹が透し垣の中で葉を茂らせ、平安の雅な趣を伝えています。桧皮葺の入母屋の大らかな屋根の下、白い小壁が二段にすっきり高く伸びている外観が清々しい。
14紫宸殿背面　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　15 清涼殿東面
 特筆すべきは、この御殿の東に広がる紫宸殿南庭同様の白砂一色の中庭で、東南北の三方を紫宸殿北面や渡り廊下に取り囲まれている。一人佇んで静かに御殿前に置かれた二種の竹の葉以外、一つの樹木も庭石もない広々とした白い中庭を眺めていると、清浄な気配に包まれ、静かな感銘が心にせまってきます。紫宸殿、清涼殿の大きく高い屋根が庭に濃い影を落とし、渡り廊下の柔らかな桧皮葺の屋根が低く伸び、黒い木部と白亜の壁に広々とした白砂の庭が心地好く対比した絵画のような風景が美しい。御所の建築が醸しだす類まれな雰囲気は、紫宸殿・清涼殿とそれらを繋ぐ建築群と庭が集合して織り成す構成的な美から生まれているような気がする。かつて太平洋戦争の最中、空襲による火災から紫宸殿や清涼殿、御常御殿や小御所などの貴重な建築を守るためそれらを繋ぐ通路やその他重要視されなかった建築が解体されて、戦後しばらくの間、清涼殿の中庭は東と北を囲っていた廊下の建築が失われて、紫宸殿と清涼殿の関係がまったくまとまりのない状態になっていたという。その後、壊されていた渡り廊下の建築が復元されて、清涼殿の中庭周辺は旧観に戻ったのだが、依然として戦中に壊された御学問所の西の諸役人や女官などが使っていたサービス廻りの諸建築は現在も復元されることなく、松を主体とする庭になっているがやや間延びした観は否めない。御所に並ぶ建築群が互いに密接に結びつくことで、全体として醸しだされる集団建築の美しさが部分的に損われたままであるのは残念です。
16 白砂一色の庭と渡廊下　　　　　　　　　　　　　　17 紫宸殿屋根と渡廊下

18 渡廊下に囲まれた庭　　　　　　　　　　　　　　　　19 渡廊下　黒ずんだ木部と白い壁と障子
20 小御所
小御所・御学問所　開放感溢れる東庭
清涼殿から西に進んで、春興殿を右に見ながら門を入ると、小御所と御学問所が北に並んで東面して建っている。御殿から東を眺めると、緩やかな円弧を描いて広がる池と対岸に茂る樹木などが美しい御池庭が眼に鮮やかに映りこむ。小御所は宮中の諸儀式が行なわれる御座敷であり、明治維新直前の著名な小御所会議が催された場所でもある。外観は四周に廂を廻し、東廂の外周に半蔀、外に高欄を付けたすの子縁を廻らすという紫宸殿・清涼殿同様の寝殿造りであるが、母屋は近世の住居形式を取り入れて畳を敷き詰めた上・中・下段の三室に分かれた書院造りの様式になっている。公卿たちが蹴鞠や奏楽に興じたという小庭を挟んで、北に渡り廊下で繋がった御学問所は、桧皮葺の入母屋屋根で外に高欄のあるすの子縁をつけて寝殿造りを踏襲しているようだが、最早寝殿造りでは日常の生活がし難くなったのか内部のプランは完全に書院造りに移行しており、外周も蔀の代わりに敷居のある引き違いの舞良戸に上部は欄間が用いられ、寝殿造りと書院造りを折衷させたような外観になっている。並行する二つの御殿を見比べると、御学問所は造られた年代が新しいせいで書院造り化し、住まいとして近世的であるがどこか堅い印象で、小御所のほうが上品で風格があるように感じられて仕方がない。それが平安以来の洗練を重ねた寝殿造のもつ伝統美のなせる技なのか知りたいところでした。

 21 御学問所
東に広がる御庭は緩やかな曲線を描く池を中心とした回遊式庭園です。御殿前は白砂の平庭で、池の前面は玉石敷の州浜で船着場へ向かって傾斜し飛び石が打たれて、池には三つの中島が浮かび対岸と橋で結ばれている。飛び石は豪快なテクスチャーを湛えながら玉石と旨く調和していて、かつて桂離宮の古書院から前面の池に向かって傾斜した芝生に打たれた飛び石の流麗さに感嘆したことを思い出しました。そこには一見無造作にデザインしているようで、どんな細かな部分も疎かにしない意匠精神が徹底しているように感じられるのです。この庭は回遊出来るように造られているが、御殿から大らかな池や豪快な石、島に架かる反橋、対岸に茂る樹木などを眺めて四季の趣を楽しむ庭園であり、開放的で大まかな構成であるが宮中独特な品格が漂っている。
22 南より御池庭を望む　　　　　　　　　　　　23 北より御池庭を望む　　　　　　　　　　24 池の船着場へ打たれた飛石

25 御常御殿
御常御殿と御内庭　曲折する清流を囲む濃密な庭

御学問所の東北から続く渡廊下越しに御常御殿の大きな桧皮葺の屋根が顔を覗かせている。小御所・御学問所東庭を区切る塀に開けられた長押門から中に入ると、そこから先は宮中のプライベートな領域でした。東面して建つ御常御殿は天皇の日常のお住まいらしく15の座敷からなる最大規模の御殿で、外観はやはり桧皮葺の入母屋屋根で南面だけが半蔀がつく寝殿造り風であるが、内部も含めてほとんど書院造りの建築である。南面し東西に上段・中段・下段と三つ並んだ間が晴れに用いられる場所で、上段が玉座である。床の高さが異なると伴に天井や外周の半蔀も高さも三段に変化していてる外観が面白い。
 26 御常御殿南面　上・中・下段の間
庭も寝殿造り風のこしらえで、小御所の大池から分岐した小川が塀を潜って御常御殿の東南から北奥へ平安の遣水風に蛇行しながら曲折して流れゆく光景が美しい。長押門を潜って、すぐ右手に高欄のある反橋が対岸に架かる優雅な姿が眼に飛び込んでくる。反橋の下をさらさらと小川が流れ、橋の向こうには新緑を背景にツツジ、牡丹などが爛漫と咲き誇り、屏風絵ような麗しい構図の景色が展開する様子に感銘を受けました。この御内庭の造作を指図したのが仙洞御所を作事した幕臣小堀遠州であるらしく、遠州は寛永度御造営の総奉行に任じられて新内裡の工事にあたるなかで、御常御殿前の内庭を自然風な樹木を配した野筋風の様式に設えたと謂われています。

27 御内庭　反橋　　　　　　　　　　　　　　　　28 小川に架かる石橋　　　　　　　　　　29 小川の対岸に佇む泉殿

30 植込みで隔てられた迎春殿・御涼所
御常御殿東南の反橋や東正面の重厚な石橋、東北に架かる二枚の木橋などが要所要所に架かり、蛇行して流れる小川の点景とな り、この庭に風雅な趣を添えています。木橋を渡った東岸には涼を呼ぶ泉殿が新緑の茂みの奥に見え、その周辺を笠状に枝を広げた松や爛漫と咲いたツツジが飾っている。残念ながら御常御殿から北は一般の拝観は許可されておらず、更に濃密に展開する御内庭と安政３年(１８５６)に孝明天皇の好みによって造られた迎春殿や数奇屋風な透廊で繋がる茶室・聴雪などを観ることは叶いません。わずかに迎春殿前の植え込みから奥の格調高い雰囲気を感じるのみです。
Ⅳ.まとめ
京都御所の拝観に訪れたのはこれで二度目ですが、今回は特別公開で宮内庁の案内もつかず、時間をかけてじっくり鑑賞することが出来ました。紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿など御所に建つ建築群が南から北へ寝殿造り、書院造り、数奇屋造りと様式が少しずつ変化しながら展開し、各々の殿舎を有機的に連携する廻廊や渡廊下に囲まれる中庭や坪庭、大らかな池を中心とした庭園と小川が曲折して流れる濃密な内庭などが渾然と織り交ぜられながら刻々と変化していく景色に魅せられてしまった思いです。
御所は、平安京大内裡における内裡（皇居）だった昔から度重なる戦乱や火事で炎上する都度に、再建復興されながら明治維新まで皇居として悠久の歴史を刻んできた。太平洋戦争の最中、延焼を防ぐため惜しくも一部の建物が解体されたてしまったが、数多くの貴重な古建築は戦災を免れ、今も日本的な建築美を輝かしており、その存在は国宝に等しい歴史的遺産である。現在の御所の諸建築は、19世紀中頃の安政度造営によるものだが、御所を経巡っていると独特な造形的雰囲気が漂い、平安の趣を感じられるのだ。それは焼失と再建が繰り返されながら受け継がれてきた伝統精神に負っているのではないだろうか。寝殿造りから書院造り、数奇屋造りと時代とともに進化する建築様式を受容しながら平安京の古制を守護するという新旧織り交ぜた洗練を重ねてきたため、江戸時代末という近世の造営でありながら、平安以来の王朝文化の雅な薫りが御所の建築群から醸し出されているように感じられてならない。

参照文献
・「京都御所」/岸田日出刀著/相模書房発行/1954
・「京都御所」/石川忠・村田治郎・谷口吉郎・猪熊兼繁・入江泰吉共著/淡交社発行/1962
・「西澤文隆小論集3 庭園論Ⅱ」/西澤文隆著/相模書房発行/1976
・「建築と庭　西澤文隆[実測図]集」/西澤文隆著/建築資料研究社発行/1997
・「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」/岩波書店発行/1952
・「秘蔵写真で知る京都御所入門」/渡辺誠著/東京書籍発行/2005
本記事に添付した画像は下記の文献からスキャンし転載させて戴きました。
・画像 1  「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像 5  「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像10 「秘蔵写真で知る京都御所入門」
・画像12 「京都御所」/岸田日出刀
・画像13 「岩波写真文庫62 京都御所と二条城」
・画像16,17,18 「京都御所」/岸田日出刀
・画像20,21,25 ...</description>
		<link>http://www.archi-channel.com/2009/05/31/%e4%ba%ac%e9%83%bd%e5%be%a1%e6%89%80%e3%80%80kyoto-palace/</link>
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